Scene1「依頼の手紙」
午後の雨は、まるで記憶を洗うかのように静かに降り続いていた。
窓硝子に滲む水の線が、探偵事務所の空気を一層重たくさせている。
探偵は机に肘をつき、冷めかけたコーヒーを口にした。
味も温度も期待していなかった。
背後で鳴るのは旧型の壁時計の音と、ファンの微かな回転音。
いつもと変わらない、停滞した時間の流れ。
——カタン。
機械音ではない。
封筒が投函される、ごく軽い音。
探偵はゆっくりと椅子から立ち上がり、郵便受けへ向かう。
差し出されたのは、一通の封筒。
どこにも差出人の記載はなく、宛名にはただ「探偵殿」のみ。
封はきっちりと機械的に糊付けされている。
けれど、紙の質は妙に新しく、印刷された文字には筆跡の“癖”が一切ない。
まるで、完璧に均されたフォントが機械的に並べられているようだった。
「……」
封を切る手に、わずかな違和感が残る。
その理由はすぐに明らかになる。
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《ご依頼》
当校において、最近「幽霊騒動」が報告されております。
監視カメラに不審な影、ログイン記録に整合性の取れないデータ、
AI支援による記録と現実の間に齟齬が見られます。
ついては、本件の調査を依頼したく、臨時講師という身分をご用意いたしました。
調査範囲については制限を設けておりません。
記録への信頼と、あなたの観察眼を信じています。
報酬については、成果に応じて充分にお支払いいたします。
——依頼人
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探偵は無言のまま手紙を見つめていた。
その視線は文字を追うというより、文面の“背後”を見ているかのようだった。
「ん? なに読んでんの、ラブレター?」
不意に空気が振動するように、ホログラムが投影される。
エコー。探偵の相棒であり、情報支援用のAIだ。
いつも通り、テンション高く、音もなくふわりと浮かび上がる。
「ってか紙!? この時代に? もしかして、アナログ回帰ってやつ?」
探偵は答えず、ただ封筒を指で弾いた。
「……デジタルにはログが残る。それを避けるための手段だろう。
だとすれば、これを書いたのは、記録に残したくない“誰か”だ」
「ふぅん。てことは怪しいやつってことだな。犯人か?」
「犯人じゃない。依頼人の話だ」
探偵は封筒を再び見やる。
文面に個性はない。完璧に均質で、誰が書いたのかを逆に分からなくさせている。
「この依頼、間違いなく学校関係者だ。
生徒ではない。講師の派遣権限がある。
そして、自分の立場を隠す必要があるほど、内部事情に関わっている」
エコーが、ふわふわと回転する。
「えーっと、つまり“匿名で探偵に調査させたいぐらいにはやばい案件”ってことか?」
探偵は小さく頷いた。
「加えて……この文面、クセがなさすぎる」
「クセがないのがクセってやつか」
「機械が打ったものと考えるべきかもな。……人間ではなく、AIの可能性すらある」
その言葉に、エコーが一瞬ぴたりと動きを止める。
だがすぐに浮かれた声色に戻った。
「へぇ。AIが探偵に調査を依頼って? なんか面白いことになってきたじゃん」
「……だろ?」
探偵は封筒をそっと机に戻した。
雨は止む気配を見せない。けれど、その静けさの中に、
新しい事件の気配が確かに、忍び込んでいた。