普通に過ごし、普通を愛す
数日後の休日。
雨の中、俺は傘をさしながら買い出しに出かけていた。
実家から離れて一人暮らしをしている俺は、家賃も光熱費も比較的安い学生マンションに住んでおり、無論、家事なども自分でやらなければならないわけで、買い物も当たり前のようにする。当たり前のようにスマホのメモに書いてあった買い出しリストを確認していつも通り必要なものだけを買ってくる。無駄遣いをすれば後々生活がきつくなってくることは一年生の時に身をもって経験しているので愚行は極力起こさないように努力している。
そう。だからこの日も普通に、何をする訳でもなく、普通に買い物をして帰って来るだけだったのだが……。
「きゃっ……!」
買い物を終えたばかりの重い手提げ袋を持って歩いていると、突然俺の胸元に誰かの頭があたり、強い衝撃を感じた。
俺は大丈夫だったが、当たってきた方はバランスを崩しそのまま倒れてしまっていた。
「え、す、すみません……。 大丈夫、です、か……」
慌てて駆け寄ろうとするも、足はすぐに止まった。
なぜだろう。
普通に買い物をして、普通に帰る。
しかし俺の目の前で起きていることは、明らかに普通ではないような気がするのだが……。
心配して駆け寄ってしまったのが運の尽き。
目の前で倒れている少女に見覚えがあったし、それに、服装はこの前と柄が違うだけでTシャツにスカートとこの前と変わらず―――そう、だから何が言いたいかと言うと、前傾姿勢になっている彼女の内側から色々と見えてしまっている……。
「あ、」
「あ……」
「よ、よう……」
目が合い、俺は慌ててカルミアから目を逸らす。
しかし少女はなんのその、自分のアレが見えてしまっているのにも関わらず、同じ態勢のままじっとしていた。
ちなみに水色だ……。
「は! 黒猫は⁉」
とっさに自分の腕の中を見るカルミア。
そこには黒くて丸い、タオルに包まれた何かがあった。
「そいつは、たしか……」
俺は唖然とする。
彼女の腕の中には……頭のてっぺんからしっぽの先まで真っ黒な―――黒猫と言うのに十分な色合いをした猫がいた。
カルミアは何事も無かったように、ぺたんと道端に座ったまま猫の頭を撫でる。
子猫とも大人とも言えない猫は、気持ちよさそうに彼女の腕の中で寝ていた。
「黒猫……」
カルミアは黒猫を抱いていた。
もしかして、彼女が前々から言っていたあの黒猫だろうか。
いや黒猫なんてこの日本にも数えきれないほどいる。
だからこの黒猫が、まさか、カルミアが探していた猫とは限らないだろう……と、思ったのだが、残念なことに彼女の必死な様子にその考えは霧消した。
あんなバカげた噂が本当にあるとはどうにも考えずらかったが……。
俺もしゃがんで抱きかかえらえている黒猫に触れてみる。
モフモフ……ではなく、なぜか毛先が湿っていた。
気のせいだろうか。
黒猫は体調が悪そうにしながら小さい声で微かに泣いていた。
「体調悪そうだな」
「うん、河川敷で見つけたんだけど、弱り切っていて……助けてあげたいんだけど、どうすればいいかわからないの」
「で、お前がここまで連れてきたのか」
「そうだけど……」
梅雨に入ってから毎日のように雨が降っている。
迷子になったところを帰るところもなく、雨に濡れ続けてしまった……というところだろうか。
勝手に推測したが、俺は猫の専門家でもなければ獣医師でもない。
「ったく、貸してみろ」
とりあえず猫に手をつける。
まだ体温が残っている感じ、長時間この状態だったというわけではなさそうだが、弱っているのに変わりはない。
「この子、どうしよう」
「どう、と言われてもな……」
俺が冷静に考えていると、カルミアは目元に涙をためながら、「大丈夫、私たちがいるから。大丈夫」とずっと黒猫に訴えかけていた。
え、俺も関わっているかんじ?
それはそうか。
ここまで深く事情を聞いておいて、今頃他人のふりをするのは潔いにもほどがあるか……。
黒猫のために、そして一つの命のために必死になっている彼女のためにも、俺は考えた。
なんとか頭を動かすも、ここで俺の人望の無さが裏目に出てしまう。
普段から人付き合いの疎い俺の周りに、猫に詳しい人間なんているはずが無かった。
一樹はともかく、諏訪に頼めば何とかしてくれる可能性もゼロではないが。
そもそも諏訪が俺の言うことを聞くとは思えないし、俺もあいつにこんな大事を頼むのは気が進まなかった。
ここは動物病院に連れていくが吉か。
しかし病院に連れて行くようなお金が高校生である俺の財布に入っている筈もなく。
自分が最も苦手としている国語のテストを解いている時よりも脳をフル回転させる。
………。
「いや、一人いるな……」
頭が熱暴走しそうな中、俺は一人の教師を思い浮かべた。
あまりあの人には関わりたくないのだが……。
二人が救われるんだったらしょうがない、か……。
スマホの画面を開く―――。
現在、午後一時前。
ここから駅前まで十分ほど。
右手にぶら下がっている買い物袋が重いが、まあいい。
休日の学校にあいつがいるかいささか不安を感じるが、何もしないよりはマシだ。
「カルミア」
「……?」
涙でぐしゃぐしゃになった彼女の表情に、心臓が痛くなる。
この前もそうだった。こいつの、誰かに救いを求めるような顔をみると、昔のあいつを思い出して、こっちまで苦しくなる。
「十分後のバスに乗れるか」
心臓の痛みが顔に出ないようにきゅっ、と唇を噛み締める。
俺がそういうと彼女はこくりと頷き、俺は手を差し伸べた。
この時ばかりはラブコメっぽくなるが許してくれと天国にいるあいつに言う。
一つの命と、一人の願いを無下にできるほど俺は強い男ではなかった。
「なんで……」
「あ?」
「この前もそうだったけど、なんでそこまでして、私のこと助けてくれるの……?」
カルミアの手を握って、駅へ走る。
次を逃せばバスは二時間後だ。
「勘違いするな」
「……」
普通に過ごし、普通を愛す。
俺の心情は揺るがない。
今も、この先も。
あいつが味わった苦しみを、俺は時間をかけて味わう。
それが俺にできる唯一の罪滅ぼしだからな……。
でもあいつは、生き物の命を軽んじるほど出来ていない奴ではなかった。
だから、
「これはお前のためじゃない。その猫のためだ」
それだけ言ってカルミアの手を握り、駅に向かう。
今だけは許してほしい。
彼女の手は妙に温かった。