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リーゼロッテの後見人  作者: 秋月 菊千代
1章 幼女領主と後見人
7/19

6 くだらない因縁と悪巧み



 エッダにタオルを出してもらってナハトの涎を拭いたあと、椅子に座るように促される。

 ようやく落ち着きを取り戻した幼い領主の様子を確認した大人達は、お互いに目配せし合うと、頷き合った。その一瞬でなにかが通じ合ったらしく、すぐに動き始める。


「ヘンドリクス様はどちらにおられる?」


 ジークヴァルトが問うと、アロイスは一歩下がった位置にいたオスカーに視線を向けた。


「午前中は第一文官執務室にご在室でした。昼食後は図書室に立ち寄ってから戻られるというご予定でしたので、もしかするとまだお戻りではないかも知れません」


 フリードリヒ一行の出迎え準備などで慌ただしかったので、午後の動向は把握していない、とオスカーは答えた。ジークヴァルトも頷き返す。


「では、お戻りか確認してみましょう。通信機をお借りします」


 在室している文官達に連絡を取ることになるので、直属の上司の方が話がしやすいのだろう。アロイスが各執務室や待合室に設置されている伝声の魔術具に手を伸ばすので、リーゼロッテは「はいっ」と大きく声を上げて手を上げた。全員の視線が一斉に集まる。


「私、やってみたいです!」


 その魔術具の存在は知っていたし、ジークヴァルトが使っているところは何度も見ているが、リーゼロッテ自身が使ったことはなかった。将来的には自分の部屋となる場所の備品なのだから、一度使ってみたかった。

 期待に満ちたリーゼロッテの赤紫の瞳と、少々困惑気なアロイスの青い瞳に見つめられ、ジークヴァルトは眉間に僅かな皺を刻む。


「……まあ、いいだろう。相手はヘンドリクス様宛てだし、用件はひと言で済む。練習にはいい」


 こちらに来なさい、と許可が出たので、リーゼロッテは椅子から身軽に飛び降りて魔術具に駆け寄った。


「この魔石に手を触れ、第一文官室と相手先を念じながら魔力を通しなさい。相手側で声を受け取る準備が出来ればここが光るから、そうしたらこの上のところに向かって用件を伝えるんだ」

「はい」

「用件は、ヘンドリクス様にすぐに領主執務室に来て頂きたいこと、だ」


 簡単な呼び出しだ。リーゼロッテはこくりと頷き返し、魔石に手を載せた。


『――第一文官室、ルイスが承ります』


 応答の光が点灯すると共に相手の声が聞こえてきた。リーゼロッテは小さく息を吸う。


「リーゼロッテです。ヘンドリクス大叔父様はご在室でしょうか?」


 尋ねると、少し間が空く。応答の光も消えてしまった。

 あれ、と首を傾げて無音の通信機を見ていると、文官達も首を傾げた。


「どうしたのでしょう?」

「ご不在ならばご不在と答えるだけであろうに」


 いったいなにをやっているのだ、と応答していた文官の上司であるアロイスとマルセルが尖った声を出すのと前後して、再び点灯した。


『――ヘンドリクスだ』


 在室だったらしく、本人が出た。どうやら応対に出ていた文官と代わる為に、通話に不自然な間が空いたようだ。


「大叔父様、リーゼロッテです。大事なお話があるので、すぐにこちらに来て頂けますか?」

『了解した』


 返答と共に通信が途切れたことを確認して、リーゼロッテも手を離した。

 ヘンドリクス大叔父は、先々代である祖父の時代から領主の補佐を担ってきた人物で、領主代行の最有力候補者だった。年齢を理由に公務からは引退をしているが、今でも相談役として文官室や図書室に顔を出してくれている。

 いくらもしないうちに、その大叔父がやって来た。


「お呼び立てして申し訳ありません」


 ジークヴァルトがそう言って迎え入れる。

 頷き返したヘンドリクスは、その後ろにいたリーゼロッテに視線を向けた。


「リチェ」


 両親が呼んでいたのと同じ愛称で呼ばれ、リーゼロッテは駆け寄る。


「先程の通信、上手に出来ていた。声もはっきりとして聞き取りやすかったぞ」


 皺のある大きな手が頭を撫でてくれた。それが嬉しくて笑みを浮かべる。


「初めてだったのです。上手に出来たのならよかったです」

「そうか。初めての通信相手がわたしだったのか」


 はにかんで照れながらの告白に、ヘンドリクスも嬉しそうに目尻を下げた。

 それから咳払いひとつ、表情を引き締めると、室内にいる者達を静かに見回した。


「わざわざわたしを呼び出すぐらいだ。なにがあった?」


 相談役という立場にあるヘンドリクスが直接意見を求められることはない。報告会などを含めた主要な会議に出席するようなこともなく、前世代からの古い知識や慣習などの情報を求められたときに助言をするくらいで、他領からの賓客が在る中、首脳陣とも呼べる面子が集まっている場に呼ばれることはないのだ。


「リーゼロッテを守って頂きたい」


 硬い声音で切り出したのはジークヴァルトだ。

 ヘンドリクスは片眉を上げ、詳細を促すように軽く顎をしゃくる。


「既に引退を宣言されておられるヘンドリクス様に助力を請うなど、本来ならばやるべきことではありません。しかし今回は、成人した領主一族としての身分があり、公的な場でリーゼロッテの補佐をお任せ出来る方が必要なのです」

「それは後見人であり、代行証を所持している其方の役目であろう」


 リーゼロッテが領主になってからずっとそうしてきた筈だし、特に大きな不満や異議の声もなく、その体制で上手くいっていた筈だ。それなのに、何故今回だけはそうしないのか、と尤もな疑問を口にされる。

 それはリーゼロッテも疑問だった。わけもわからないまま家督を継いで、なにも出来ないでいる自分を支えて導いてくれたのはジークヴァルトだ。もちろん他の人々からの支えがあったこともわかっているが、ジークヴァルトが傍にいてくれた功績は大きいと思う。

 どうして、と首を傾げて見上げていると、深い溜め息が落ちてくる。その様子に思い至ることがあった。


「おじ様が、フリードリヒ王子と仲が悪いというのが理由ですか?」


 以前に聞いた話を思い出しながら尋ねると、全員が首を傾げてジークヴァルトを見た。集まってきたその視線を青灰色の瞳が嫌そうに睨み返す。


「其方は、今まで王都にいたのだったな」


 ヘンドリクスが思い出すように呟く。ええ、とジークヴァルトは頷き返した。


「王子となにがあった?」


 隠し事をせずに言え、と強い口調が執務室の中に響く。

 リーゼロッテは心配になってジークヴァルトを見上げた。いつもの仏頂面が更に不機嫌そうになっている。


「そもそも其方は何故、遠く王都に行っていた? 其方は成人後には、クラウゼヴィッツの騎士の統率を任されると思っておったのだぞ、わたしは」


 執政官である文官達と、治安維持と防衛を担う騎士達は、基本的にはすべて領主の指揮下に置かれている。しかし、人間誰しも向き不向きがあるもので、文武両方に精通している領主というのも少ない。その場合、一番近しい親族である兄や弟が、不足分を補う役目を果たすのだという。


 先々代である祖父は完全に騎士寄りの思考だった為、不得手な執務の補佐として弟のヘンドリクスは文官となった。先代のラウレンツは文武どちらも平均的にこなすが、どちらかといえば文官寄りだったので、ジークヴァルトは自然と騎士として経験を積むようになったのだという。

 だから、ジークヴァルトが成人したら騎士団の指揮官となるのだろう、と誰もが思っていた。それなのに、彼は成人と共に忽然と姿を消したのだ。


 ラウレンツは行き先を知っていたし、彼が問題ないと判断していたので黙っていたが、ヘンドリクスは納得がいっていなかった。

 双眸を眇め、言え、と強く迫ると、ジークヴァルトは観念したように溜め息をついた。


「王都に行っていたのは、クラウゼヴィッツに余計な騒乱を起こしたくなかったのが、大きな理由です」


 騒乱という言葉にリーゼロッテは首を傾げるが、大人達はみんな納得したような表情になっている。


 一人だけ置いてけぼりになってしまったような気がしていると、気づいたマリウスが説明してくれた。

 ジークヴァルトが成人する頃、リーゼロッテは三歳のお披露目すらまだ行われていない時期で、無事に育つかどうかもわからなかった。それ故に、次期領主候補にジークヴァルトを据えようとする者達と、出自が明確ではない庶子の彼の存在を疎ましく思う者達で、水面下で密かに反発し合っていたのだという。


 そんなやり取りをラウレンツは不安に思っていたが、跡継ぎを決めておかないとなにかがあったときに面倒が起こるのは事実なので、どうにも出来ずにリーゼロッテの成長を待っている状況だった。

 担ぎ出されそうになっているジークヴァルトも身動きが取れず、当時は相当困っていたらしい。成人すれば個人の裁量で移住することも可能になるのだが、まだ未成年だったし、当時の保護者であるラウレンツに請われてクラウゼヴィッツにいるしかなかった。


 リーゼロッテが元気いっぱいに三歳のお披露目を終えたあと、成人したジークヴァルトは王都の中央騎士団の選抜試験に挑んだ。もちろん無事に合格して入団し、今に至るのだという。


「ここを出るときに、リーゼロッテが成人する頃には戻るように、とラウレンツに言われていました。中央にいるのは十年ほどの期限つきだったんです」

「そうだったのか」


 納得したように頷くヘンドリクスに、ジークヴァルトも頷き返した。


「在籍が期限つきなのは中央の騎士団長にも許可は頂いていたのですが、フリードリヒ王子には納得して頂けなくて……それが確執の原因です」


 王族はそれぞれに複数人の専属護衛騎士を召し抱えている。フリードリヒにその地位を望まれたのだが、十年程しか仕えられないことを告げると断られたらしい。

 しかし、期限つきでも構わないから仕えて欲しい、と請うてくれた第二王子の護衛騎士を引き受けたことで、激昂された。自分の要請は断ったくせに、兄王子には仕えるとは酷い侮辱だ、と。

 それ以来、フリードリヒとは関係が悪化しているのだという。


 はあ、とリーゼロッテは目を丸くした。

 どういうやり取りがあったのかはわからないし、王族の事情などもわからないのでなんとも言えないが、要は条件を飲めない弟王子の話はお断りするしかなく、条件を飲んでくれた兄王子の方は引き受けることが出来ただけの話ではないか。何故それでジークヴァルトに怒りを向けてくるのかがわからない。


「そういう方なのだ、フリードリヒ王子は」


 首を傾げているリーゼロッテに、溜め息混じりの言葉が返される。


「我儘な方なのですね」


 思わず本音が出ると、誰もが苦笑するしかない。まさにそのとおりだ。


「――…そういう事情から、恐らくこちらへの滞在中、王子はずっとリーゼロッテに意地の悪いことをしてくると思われるのです」


 それくらいの悪意は笑顔で切り抜けるくらいでないと、貴族としての社交など出来ない。将来のことを考えれば、このような手助けはしてはならないのだろう。

 しかし、今回のことはリーゼロッテ本人に非があるのではなく、ジークヴァルトとの確執という外因からの嫌がらせだ。幼い被後見人は巻き添えを食らっているに過ぎない。

 原因であるジークヴァルトが庇うのが正しいのだろうが、そうするとフリードリヒが更に責めてくる可能性が強い。周囲が咎めることも出来ないような遠回しな嫌味で、ネチネチと回りくどく、小さいながらも確実に傷つけるようなことを言ってくるだろう。


 賓客に対する応対は領主が当たるのが当然であるので、その場に同席出来るような立場となれば、領主一族しかいない。今のクラウゼヴィッツで領主一族直系としての籍があるのは、当主であるリーゼロッテと先代の庶子であるジークヴァルト、先々代の弟であるヘンドリクスだけだ。他に数人いる女性達は嫁いでいて籍を離れているし、男性は数代遡らなければならない傍系ばかりになる。賓客との接待の席に領主補佐として同席するには、残念ながら身分も経験も少し不足しているのだ。

 事情を聞いたヘンドリクスは、少し考えるような様子を見せたが、すぐに「わかった」と頷いてくれた。


「主君を支えるのは臣下の務めだ。可愛いリチェの為ならば、この老体いくらでも差し出そう」


 どっしりと鷹揚な笑みを浮かべて、軽く胸を叩く。頼もしいその姿を見上げたリーゼロッテが確認するように周囲を見回すと、皆が揃って頷いてくれた。


「ありがとうございます、大叔父様。よろしくお願い致します」

「うむ、任せておけ」


 大きな手がまた頭を撫でてくれた。優しいその掌がとても温かくて、嬉しい。

 直系の祖父は生まれる前に既に亡くなっていたので、ヘンドリクスはリーゼロッテにとって祖父のような存在だった。叱ることはあまりなくて可愛がってくれるが、甘やかすだけではない。だから、彼に対しては幼い頃から両親と同じぐらいの信頼を持っていたし、その言葉に安心を感じられる。


「そうなると、まずは今夜の晩餐か……。正装を取りに戻らねばならぬな」


 登城するときは装飾が少なく仕事のしやすい執務服だ。身内であるリーゼロッテとの食事程度なら問題はないが、賓客との食事に仕事着で出席するわけにはいかない。

 一度自宅に戻って着替え、夕暮れまでに再び登城する、と言ってヘンドリクスは退室して行った。


「主な会話はヘンドリクス様が対応してくれる。お前は肩の力を抜いて、作法を間違えずに食事をしていればいい」


 嫌な気分にさせられた相手と顔を合わせるのは憂鬱だろうが、出来るだけ頑張りなさい、と言われ、リーゼロッテは慎重に頷き返す。

 感情を爆発させて泣くことで発散することが出来たし、なにをされるのかもわかったし、原因も理解したので、今度はもう少し落ち着いて対応出来る筈だ。なにもわからない状態でいきなりあんな嫌味を言われたので動揺してしまったのだ。


「巻き込んで、すまない」


 頑張るぞ、と意気込んでいるところに、小さな謝罪が降りかかる。


「おじ様が謝ることじゃないです。変なのは王子様の方でしょう?」


 リーゼロッテもジークヴァルトも悪いことはなにもしていない。我儘で感じの悪い態度をしているのはフリードリヒの方だ。いくら上位の王族といえども、あまり褒められた態度ではないのは確かなのだ。

 気にしないでください、と笑うと、少し躊躇いを見せたあと、そっと頭を撫でられた。




 晩餐まで時間もあるので、休憩を終えたら呼び出されて、またなにか嫌なことを言われるのだろうか、と警戒していたのだが、何事もなく陽は暮れた。

 王子と従者や護衛達の為に手配していた使用人や側仕え達からも、特になにをされたという報告もなく、ホッと胸を撫で下ろす。

 どうやらリーゼロッテに対する態度だけがおかしいようだ。それもどうなのかと思うが、フリードリヒがとても嫌味で我儘な人だということを認識した今では、自分が我慢すればいいのならそれでいいと思う。

 事前情報では大人しい気性の人だということだったが、何処がだ、と鼻白む思いだ。ああいうのは『我儘暴君』と呼ぶ方がいいのではないだろうか。


 いつもどおりエッダに晩餐用の正装に着替えさせてもらいながら、食事の席でも言われそうな嫌味と、それに対する回答案をいくつか教えてもらう。

 とにかく笑顔を絶やさず、おっとりと構えて受け流していれば、あとはヘンドリクスがどうにかしてくれる筈だということだ。激しく動揺したり悲しい顔など見せれば、相手は愉しくなってもっと意地悪をしてくる筈だから、どんなことを言われても微笑んでいればいいそうだ。


(負けるもんか……!)


 気合いを入れて部屋を出て、戻って来ていたヘンドリクスと合流する。

 隙なく正装を着こなしたヘンドリクスとジークヴァルトと共に食堂へと向かうと、中には同席を許された上級貴族の傍系親族が数組集まっていて、出迎えのときのやり取りを知っている何人かはこちらを気遣うような視線を向けてきた。

 彼等に「大丈夫です」と決意を込めて頷き返していると、フリードリヒも到着した。彼は変わらずにこやかな笑みを浮かべていたが、視線だけが冷たくリーゼロッテを見つめている。それに対してリーゼロッテも満面の笑みで応え、丁寧に膝を折る。


「多少なりと、お休みになられたでしょうか?」

「ええ。素晴らしいお部屋をありがとう。お茶もお茶菓子も美味しかったです」


 嬉しそうに礼を言われるが、直接あの嫌味を聞いていただけに、胡乱な心地になる。またモヤモヤとした嫌な気分がお腹の中に溜まっていく。


 気を取り直してフリードリヒを一番上席に案内し、それぞれが席に着くと、晩餐は和やかに始まった。

 料理にもなにか難癖をつけられたりするのではないか、と警戒しながら食事を進めていくが、フリードリヒは普通だ。にこにこと微笑みながら「ソースが素晴らしい」とか「好みの味つけです」などと言っているが、本当かどうかはわからない。


 会話も普通だった。あまり王都から出たことがなかったフリードリヒにとって、道中の景色は初めて見るものばかりで、なにもかもが新鮮で刺激的だったそうだ。楽しそうに他領の様子を話してくれる。

 直接話を振られない限りは、予定どおりにヘンドリクスがすべて受け答えしてくれた。リーゼロッテは隣で相槌を打ちながらにこにことしているだけだ。


「本当に、クラウゼヴィッツはよいところですね。とても気に入ってしまいました」


 なんとか食後のお茶にまで辿り着き、このまま何事もなく終われそうだと内心安堵していると、フリードリヒがそんなことを言った。


「とても嬉しいお言葉ですな。王子殿下にそのようにおっしゃって頂けて、クラウゼヴィッツの民として誇らしく思います」


 ヘンドリクスが笑みを浮かべて答えると、同席していた者達も同意して頷く。

 生まれ育った土地を称賛されるのはもちろん嬉しいことだ。特に貴族は己の所属する領地に誇りを持ってるので、皆が揃って口許を綻ばせていた。

 リーゼロッテも喜ばしくは感じたが、あの悪意ある言葉をはっきりと聞いていたので、素直に受け取ることが出来ない。


(社交って、すごく面倒臭いなぁ……)


 本心を隠して常ににこやかに鷹揚としているのが、貴族としての正しい振る舞いであると教えられている。無用な対立を生まない為だと言われているが、裏と表で分けることがそんなに正しいものだとは、幼いリーゼロッテには思えなかった。


 曖昧に笑みを浮かべながら懐疑的な気分になっていると、対面に座っているジークヴァルトの口許がいつもよりも若干強張っている。ほんの僅かな違いだったが、警戒するような目つきと相俟って、彼も素直な褒め言葉だとは思っていないのだとわかった。

 ではやはり、これも嫌味のうちなのだろうか。リーゼロッテは警戒しながらこくりとお茶を飲み、フリードリヒの様子を探る。


 王子は吊り気味の茶色の瞳を静かに伏せ、ひと口お茶を飲む。


「先頃、隣国よりの強襲を受けたことは聞いています。それを退けられたことも」


 静かに紡がれる言葉に、クラウゼヴィッツの者達は僅かに緊張する。給仕をしている者達も含め、全員がフリードリヒに注視した。


「戦闘行為があって、とても大変だったことでしょう。しかし、その痕跡は特に見当たらず、街に暮らす民も明るく平穏そのものに見えました」


 到着するまでの間に通って来た市街地で見かけた人々の様子を指折り挙げ、とても素晴らしい、と笑みを浮かべる。


「宿敵ハーゲンドルフの強襲を退ける武力も、僅かな間に傷を癒して復興させる行動力も、中央にはないものだと思います。王都はもう百年以上、戦場になるようなこともありませんでしたし、大きな被害が出るような内乱が起こるようなこともありませんから」


 フロイデンタール王国が興ってから三百年程が過ぎているが、中央と呼ばれるその王都が戦火に包まれたことは殆どない。戦禍に見舞われるのはいつも国境付近の街ばかりだ。それ故に、中央の人々は誰もが平和惚けしている、とフリードリヒは言った。


「わたしは、憂いているのです。もしも隣国の工作員が王都へと入り込み、秘密裏に罠を仕掛け、攻撃に転じるようなことがあれば――今の王都ではひとたまりもありません」


 王都の戦力といえば中央騎士団だ。彼等は各地から集って選抜試験を潜り抜けた精鋭で、決して弱いわけではない。しかし、実戦と訓練は別物だろう、とフリードリヒ言う。訓練で技量を磨くことはあっても、攻撃を受けることのない中央の騎士達は、お互いの命を奪い合うような実戦は経験したことがないのだ。


「クラウゼヴィッツの騎士達は、我がフロイデンタールの最強の楯であり、剣です。それをわたしはフロイデンタール王家の者としてとても誇らしく思います」


 つらつらと続く称賛の演説に、リーゼロッテはますます不信感を募らせていく。

 流れるように紡がれているこの言葉は、彼の本音なのだろうか。古臭い田舎者と馬鹿にしてくれてから半日と経っていないというのに、掌を返したかのようなべた褒めだ。あまりにも急すぎる態度の変化に困惑するしかない。

 心中を押し隠すようにして笑みを浮かべて同席者達の顔を見回せば、皆嬉しそうに微笑んでいる。そこまで褒めて頂けて光栄です、と口々に言っていた。


 隣に座るヘンドリクスの様子を窺うと、こちらも満面の笑みだ。しかし、目つきだけが冴え冴えとしているそれが社交用のものであることは、幼い頃から接しているので知っている。この大叔父もなにか含みを感じるところがあるのだろう。

 ジークヴァルトのことも見てみれば、今度は無表情になっている。先程見せていた強張りを含んだものでもなければ、いつもの少し不機嫌そうな仏頂面ですらない。

 リーゼロッテが信頼し、支えてくれている保護者の二人が、フリードリヒの言動に警戒している――やはりあれは褒め言葉などではなく、気を引き締めて対応しなければならないことの前触れなのだと気づくには、それだけで十分だった。


 フリードリヒは微笑みながらテーブルに着いている者達、給仕の為に控えている者達と、ゆっくりと見回し、最後にリーゼロッテへと視線を向けた。


「この素晴らしいクラウゼヴィッツのことを、もっとよく知りたくなってしまいました。しばらく滞在することを許可頂けますか、リーゼロッテ?」


 なにを企んでいるのかは知らない。

 面倒臭いのですぐにでも帰ってもらってもいいですか、と飛び出しそうになる本音をリーゼロッテは根性で飲み下したが、貼りつけていた社交用の笑顔の口許が引き攣った。




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