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リーゼロッテの後見人  作者: 秋月 菊千代
1章 幼女領主と後見人
6/19

5 王子の来訪



 リーゼロッテがなんとか騎獣を動かすことに慣れてきた頃。予定どおりの時間に王子が到着するようだ、と隣の領地との境に在る門からの先行連絡が届いた。


 城内で迎え入れる為の準備をきっちりと整て、城門の中広場にリーゼロッテとジークヴァルト、上級文官達が並んで王子の到着を待ち構えていた。騎士達は、害意がないことを示す為に剣だけを携行し、間合いのかなり外に並んでいる。


「では、姫様。私共は一度下がります」


 付き添いをして一緒に出て来てくれていたエッダだったが、胸許の飾りや背中のリボンなどを軽く整えたあと、そう言って下がってしまった。


 王族に面会するのに相応しい正装は持っていなかったので、母の幼い頃のものを大急ぎで手直ししてもらっている。夏の気配が近づいてきたこの時期に似合いの淡い青の布地は、亡き母の優しい瞳を思い起こさせる色合いだ。

 けれど、慣れない服装と緊張の為か、どうにも落ち着かない。頼りにしているエッダがいなくなってしまったことも不安にさせる。そわそわとスカートの上を撫で、袖口を弄り、襟と肌の触れているところに指を添わせた。


「落ち着きなさい、リーゼロッテ」


 呆れたような声が投げかけられ、慌てて手を引っ込めた。


「なにも恐れることはない。初対面の挨拶も、所作も覚えたのだろう?」


 問いかけに小さく頷き返す。エッダと一緒にたくさん練習したのだし、問題はないと思われる。


「ならばいい。お前は口上を間違えずに述べ、礼儀正しくしながら微笑んでいればいい。女の子が可愛らしく笑っていれば、大きな面倒は起こらないものだ」


 小さな失敗なら大目に見てもらえる、と嘘か本当かわからない助言をくれるジークヴァルトは、いつもと寸分違わぬ仏頂面にも見える無表情だ。


(……私ではなく、おじ様にこそ笑顔が必要なのだと思うけれど?)


 むむっと頭を悩ませたところで、こちらに向かって来る騎兵と馬車の一行が見えた。


「騎士は騎獣に乗るものではないのですか?」


 馬車のまわりを囲んでいるのが騎馬だったので首を傾げる。護衛をするにしても、地上を走るしか出来ない馬より、空も飛べる騎獣の方が速いし便利だと思うのだが。


「王子殿下が騎獣をお持ちではないのでしょう」


 ぽつんと零れた疑問に対して耳打ちしてくれたのは、補佐官としてすぐ傍につき従ってくれているマリウスだ。馬車と騎獣では速度を合わせるのが難しい、と教えてくれる。


「騎獣の方が移動に時間もかからないのに、お持ちにはならないのですね」

「確かにそうですが、騎士でもなければ人によりましょう」


 移動することが多い立場でもなければ、馬車や騎馬で十分なのだ。ちょっとした移動手段の為だけに危険な魔獣狩りに出るのも面倒だし、わざわざ材料を集めて作るのも手間だと考える人が多い。

 騎士でもなく、外出が多いわけでもない立場で、しかも女性であるのに欲しがるようなリーゼロッテがかなり稀少で珍しいのだ、とマリウスは苦笑した。


 そういうものなのか、と曖昧に頷いているうちに、王子の乗る馬車がゆっくりと広場へと入って来た。出迎えの為に揃っていた者達は全員その場に跪く。

 この十日間で教えられた来訪する王子に関する情報は、現国王の四男で、名前はフリードリヒ。年齢は今年の春に成人を迎えた十五歳であり、とても大人しい気性の人だということだ。

 そんな人とジークヴァルトは仲がよくないという話だが、どうしてなのだろう、と考えているうちに、馬車は所定の位置に停止した。護衛の騎士達はすぐに馬から降りると、馬車とリーゼロッテ達との間に警戒するように並び、安全確認をしたうえで従者に合図を送った。


 ゆったりとした動作で降りて来たのは、燃えるような赤い髪が印象的な少年だった。

 フリードリヒは周囲を軽く見回すと、正面に跪いていたリーゼロッテとジークヴァルトの許へと歩いて来る。その動作に合わせて、リーゼロッテは慌てて頭を下げ、緊張からひとつ息を飲み込んだ。


「斯様な地への遠路遥々のご来訪、誠に痛み入ります。心よりお待ち申し上げておりました、フリードリヒ王子殿下」


 代表して領主であるリーゼロッテが練習したとおりの口上を述べる。つっかえることも間違えることもなく言えた。

 しかし、フリードリヒからはなんの返答もない。

 顔を上げろとも言われないので、リーゼロッテは頭を下げたまま、僅かに見える彼の爪先だけを見つめていた。


「――…本当に、王都からは随分と遠いので、とても疲れました」


 どうすればいいのだろう、と少し不安になり始めていると、おっとりとした口調でそんなことを呟かれる。リーゼロッテはドキリとしたし、周囲に並ぶ家臣達にも僅かな緊張が走る気配が伝わってきた。けれど、動けない。身分が上位の者と対面するときは、下位の者は跪いて頭を下げたまま挨拶を交わし、許しがなければ顔を上げることも立ち上がることも出来ないのだ。


 こくりと唾を飲み込みながら、リーゼロッテは跪いて頭を下げたまま、その場を微動だに出来ずに固まっていた。

 こういうときはどうすればいいのか、ジークヴァルトに尋ねたい。しかし、王子が目の前にいる状況でそのようなことが出来る筈もなく、どうしようもないのだけれど、このまま黙って跪いていることも出来ない。


(領主は私なのだもの……!)


 今この場における代表者は自分だ。自分がどうにかしなければならない、とリーゼロッテは意を決して、少し上擦る声で「では」と切り出した。


「少しお身体を休められては如何でしょうか。客間と、お茶をご用意してあります」


 疲れたと言っているのだから、休息を提案してみる。

 これでどうだ、とドキドキしながらフリードリヒの返答を待っていると、ふふっと小さな笑い声が零れる。


「ありがとう、助かります。――どうぞ顔を上げてください。部屋へ案内をお願いします」


 その言葉と共にするりと頭を撫でられ、その手が頬に触れて顎へと下りてくる。あまりにも冷たい掌に思わず身震いしてしまったが、そのまま顔を上げさせられた。


「案内をあなたにお願いします、クラウゼヴィッツ辺境伯令嬢」


 少し吊り気味の茶色の瞳が威圧的に見つめてくる。有無を言わせぬ様子に、リーゼロッテは素直に頷き返した。

 失礼致します、と断りを入れて立ち上がると、フリードリヒは唇の端を少し持ち上げて見降ろしていた。

 その視線を受けて、リーゼロッテはにこりと微笑む。


「では、すぐにご案内させて頂きます。荷物を運ばれるのにお手伝いは必要ですか?」


 荷物を弄られることを警戒して、身内以外の手はあまり使わないのが普通だということは知っているが、後続の荷馬車に積まれた大量の木箱を見て尋ねると、従者達は素早く頷き返してきた。それに応じて文官の一人に人手を手配するように指示を出す。


 リーゼロッテが動いて指示を出したことで、跪いたままにされていた皆も立ち上がり、各々の役目を果たす為に動き出す。揃って何処かホッとしたような表情をしていた。

 ジークヴァルトも立ち上がり、すぐにマリウスに目配せした。その視線を受けるよりも早く、マリウスはごく自然な動作でリーゼロッテを補佐する位置へと移動する。


「こちらへどうぞ」


 小さな手で進行方向を示しながら、案内の為に先に立って歩き始める。そのあとをフリードリヒも素直について来た。

 まだ身体が小さくて歩幅が狭いので、リーゼロッテの歩みはどうしても遅い。それに上位の客人を合わせさせるのは失礼に当たるので、優雅さを失わないように気をつけながら、なるべく速く足を動かす。


 廊下を進む間、背後からじろじろと眺め回されている視線を感じていた。リーゼロッテは気づかれないように唇を尖らせる。

 短いやり取りの中で、フリードリヒがこちらに好意的でない様子は確かに感じ取った。どんなにまだ幼く社会経験が乏しくとも、ここまでまっすぐに向けられる負の感情には気づける。

 子供相手だからとわざとわかりやすくしているのか、抑えていてこれなのかは知らないが、リーゼロッテにねちねちとした陰湿な感情を抱いているらしいことはよくわかった。嫌われているのかは知らないが、気に入らないのだろうということは十分に伝わってくる。


 背中に感じるチクチクとした視線を無視しながら、用意された客間へと辿り着く。マリウスが素早く進み出て、扉を開いた。


「こちらのお部屋をご用意させて頂きました。すぐにお茶を運ばせますので、どうぞ寛いでお待ちください」


 さすがに従僕がするような、こういった案内の為の口上は練習していなかったので、エッダが普段言っているような言い回しを思い出しながら告げ、部屋の中へと促した。

 フリードリヒは付き従って来た従者を連れて室内へ入り、ぐるりと見回す。


「小ぢんまりしていて、趣のある素敵な部屋ですね。調度にも味があって、クラウゼヴィッツの歴史を感じさせるではないですか」


 笑みを浮かべて弾んだ声を向けられるが、彼の言葉が褒め言葉ではないことは辛うじてわかる。リーゼロッテはにこりと微笑んだ。


「すぐにお荷物も運ばれることでしょう。――失礼致します」


 膝を折って丁寧にお辞儀をして見せ、そっと扉を閉めさせてもらう。

 控えていたマリウスを促し、バタバタと足音が立たないようにしつつも小走りで立ち去り、客間が集められた離れを抜けて本館に戻ると、大きく溜め息を吐き出した。


「一応、練習どおりに出来ていたと思うのですけれど……」


 確かめるように見上げると、マリウスは頷き返してくれる。


「とてもよく出来ていたと思いますよ、リーゼロッテ様。不測の事態にもよく対応されましたね」


 及第点以上だ、と笑顔で言われ、ホッと胸を撫で下ろす。ジークヴァルトにも同じように褒めてもらえると嬉しいのだけれど、とひっそりと願いながら、執務室へと向かった。


「…………あの、マリウス」

「はい?」


 執務室に入る手前で、リーゼロッテは眉を寄せながら自分の補佐官を振り返る。


「あれは……フリードリヒ殿下の態度は、私を――というか、このクラウゼヴィッツを馬鹿にしていましたよね?」


 王族である彼は国内で最上位の地位にある。彼が膝を折るような相手は両親である国王夫妻と年長である兄姉達だけで、他の者は全員自分に跪かせる存在なのだ。それがわかるから、見下されることも、尊大な態度で接されることも理解出来る。けれど、馬鹿にされるのだけはさすがに矜持が許さない。リーゼロッテにだってそこまでされる謂われはない。


「あの方は私をクラウゼヴィッツ辺境伯令嬢と呼びました。辺境伯は私です」


 父が生きていた頃ならばその呼称で合っていた。しかし今はリーゼロッテが当主であるのだから、そのような呼称は当主だと認めていないと言われているようなもので、侮辱だとしか思えない。

 政務のほとんどをジークヴァルトに任せていて、求められたものに許可を出すだけのことしかしていない自分が、当主として未熟なことはわかっている。それを家臣達に指摘されるのならば甘んじて受けることも出来るが、いくら上位者とはいえ、よそから突然やって来た客人に言われるようなことではない。


 マリウスは言葉を探すように僅かに視線を逸らせたが、諦めたように頷いた。


「わたしもそのように感じました。いくら王子殿下といえども、初代国王よりこの地の領主として任じられたバウムガルテン家の当主に対して、あまりにも無礼です。見目幼くとも、リーゼロッテ様が正式に辺境伯です」


 はっきりと答えてもらえたことで、自分の考えが間違っていなかったのだとわかり、少しホッとする。

 執務室の扉を開けると、中にはジークヴァルトだけではなくエッダや文官達の姿もあり、今日の警備配置責任者である騎士団長の姿まであった。


「ジークヴァルト様やエッダ様はともかく、アロイス様にマルセル様、オスカー、それにウーヴェ殿まで……どうなさったのですか?」


 並んだ面々にマリウスも驚いたようで、それぞれの名前を呼んで目を丸くしている。


「どうしたもなにも、あのような状況を見ていれば、リーゼロッテ様がご無事かと気を揉むに決まっているだろう」


 筆頭文官であるアロイスが青い双眸を眇め、溜め息混じりに言う。

 フリードリヒの態度は、やはりかなり奇異なものとして見えたらしい。ご無事でよかった、と微笑みを向けられるので、リーゼロッテも頷き返した。


「殿下へのお茶出しの手配は出来ていますよね?」


 エッダに尋ねると、もちろんだ、と頼もしい表情で頷いてくれる。先触れが来た時点で用意は既に始めていたし、城内に入って来たときにはいつでも厨房から向かえる状態になっていた。リーゼロッテの退出と入れ違うようにしてお茶を出せている筈だ。

 そう、と頷きながら、リーゼロッテはジークヴァルトを見上げる。彼はいつもどおりの無表情でこちらを見下ろしていた。


「おじ様、お願いがあります」

「今、報告よりも先にするべきことか?」


 情報の共有は最優先だ。それよりも重要なことか、と問われ、リーゼロッテは頷く。


「ナハトを、貸してくださいませ」


 頷いたと同時に、両目に涙が盛り上がってきた。我慢していたけれどもう限界だった。


「ナハトのお胸でもふもふしたら、元気になりますから……そうしたら、ちゃんとお話し出来ますから……貸してくださいませ」


 涙を堪える震え声に全員が息を飲み、気遣わしげな表情になる。

 ジークヴァルトは静かに「ナハト」と影に呼びかけてやった。


 いつもより人数が多い室内に大きな魔獣の出現は少し圧迫感があったが、リーゼロッテは気にせずにナハトに突進し、その真っ白な毛並みに抱き着いて顔を埋めた。

 家臣達のいる場所で、このように感情を乱している様を見せるのはよくないとわかっている。けれど、この執務室に入ってジークヴァルトやエッダの顔を見たら、もうどうにも止められなかった。


 ナハトは赤い瞳をジークヴァルトに一瞬向けるが、それだけでなにかを理解したのか、その場にごろりと横になり、太い前脚でリーゼロッテを抱え込むようにしてくれる。小さく背中を丸めたリーゼロッテは、その器用な抱擁に身を任せて鼻を啜った。


「……なにがあったのです?」


 ぐしゅぐしゅと小さく鼻を啜る音を聞きながら、出迎えの場から別行動をとっていて事情がわからないエッダが不安そうに、補佐官であるマリウスに尋ねる。

 マリウスは小さく丸まった主の背中を見つめて唇を噛み締め、不快感も顕わに「酷い侮辱を」と答えた。


「出迎えのご挨拶もとてもよく出来ていらっしゃいました。お披露目を済ませたばかりの七歳だとは思えないほどに、流暢で素晴らしいものだったと思います。なにも不敬はなかったと思いますが、王子殿下はなにか含まれるところがあったご様子です」


 その様子はジークヴァルトやアロイス達も見ていた。

 普通は、挨拶を受けたらすぐに顔を上げることを許し、お互いの目を見ながら更に言葉を交わすべきなのだ。それなのに王子は、リーゼロッテの挨拶には応えずに「遠かったので疲れた」と独り言のように呟いた。その声音には、言外に「こんな田舎にわざわざ足を運んでやった」というものを匂わせているようだった。

 そちらから一方的に訪問を予告してきておいて、そういう態度なのだ。出迎えに並んでいた全員が少々ムッとしたのは仕方がないことだろう。礼儀としてそんな態度は一切表に出しはしないが。


 リーゼロッテに客間への案内を命じたのも、家臣達にとっては許しがたいことだ。

 客間への案内など、本来ならば従僕の役目だ。それは何処の領地の何処の家でも同じことだろう。当主もしくは女主人自らが客人の案内に立つなど、任せられる使用人が他にいない庶民の家でしかあり得ないことではなかろうか。

 王族の命だからリーゼロッテも素直に受けたが、軽んじられているのだと十分に理解出来る出来事だった。しかも「辺境伯令嬢」と呼んでいた。

 その呼称について聞いたエッダは、双眸を見開き、次いで眉を吊り上げて頬を染め、握り締めた拳を震わせた。


「令嬢――と、呼ばれたと? 姫様を……いいえ、当代のクラウゼヴィッツ辺境伯リーゼロッテ様を、爵位ではなく?」


 公式の場で呼びかけるのならば、爵位などの地位を示すものをつけるべきだ。

 先程の挨拶は、親しい内輪の集まりなどではなく、初対面の出迎えの場なのだから、お互いに公的な態度でなければならない。たとえ非常に親しい間柄であっても、家臣を従えての公式の場であるならば、跪いて行う初めの挨拶だけでも公的な態度を取るのが常識だ。


 幼い頃と変わらずに姫様と呼ぶエッダだって、まだ子ども扱いが抜けていないという意味では人のことは言えない。けれど、その呼び方に敬意や愛情があることはリーゼロッテだけでなく周囲にもわかっていることであるし、突然両親を失って不安定な幼女に対して、親のような愛情を注いでくれる彼女の存在は大切だった。

 そのエッダと、フリードリヒの呼び方は、同じように領主の娘に対するものであったとしても、完全に意味合いが違っていた。

 酷い侮辱だ、とエッダは憤慨する。アロイス達も眉根を寄せ、一様に不快感を示した。

 彼等の怒りに同意しながら、マリウスは報告を続ける。


「用意させて頂いた部屋をご覧になった王子殿下は、趣のある部屋ですね、とおっしゃいました。小ぢんまりとしていて調度にも味があって、クラウゼヴィッツの歴史を感じさせる素敵な部屋だ、と」


 フリードリヒの発したその言葉が、本当の意味で褒め言葉であろう筈がないことは、貴族社会に身を置いている立場として即座に理解した。

 彼は「狭苦しくて古臭くて、この程度の部屋しか用意出来ないとは、さすがは辺境の田舎だ」と評したのだ。


「――…いくら王子殿下といえども、それは、あまりにも……っ」


 家内のことを取り仕切る側仕え頭と共に、エッダも王子の迎え入れの為の準備を手伝っていた。

 突然来訪することになった王子の為に用意された客間は、最も格式が高く、日当たりがよくて広い部屋だ。調度品も領主の部屋よりもいいものを使っているくらいで、最上位の賓客の滞在を想定して用意されている。

 それなのに、こき下ろされたわけだ。


 こんなにもあからさまにわかりやすく言われているのだから、賢いリーゼロッテが理解出来ない筈がない。

 全員で揃って小さな背中を見つめる。もう鼻を啜る音は聞こえなくなっていたが、落ち着くまでにはまだ少し時間が必要そうだ。

 いつも人前では取り乱したりしないように一生懸命振る舞っている姿を知っているだけに、今日は自室まで我慢が出来なかった小さな領主を、貴族らしくないと叱るような真似は出来なかった。マリウスから聞かされたのはそれほどに酷い侮辱だった。


「リーゼロッテ」


 なんと言って慰めてあげればいいだろうか、と考え込んで訪れた僅かな沈黙をジークヴァルトの平坦な声が打ち破る。

 そろりと顔を上げたリーゼロッテの涙はまだ止まっていなかったが、それを一生懸命に両手で擦って拭い取り、立ち上がってジークヴァルトの前に出た。

 いつもの無表情が検分するように、泣き腫らした顔を見下ろしている。

 彼がいったいなにを言い出すつもりなのか、と付き合いの長いエッダとマリウスはハラハラとした。言動が厳しいことを知っているので、傷ついている小さな主を更に追い詰めやしないかと心配なのだ。


 リーゼロッテは次の言葉を待ち、黙って青灰色の瞳を見上げていたが、じっとしていたら再び涙が浮き上がってくる。零れないように、唇を噛み締めて顔の筋肉に力を入れた。


「涙の意味を訊きたい」


 ぐっと我慢している幼い顔を見下ろしながら、ジークヴァルトが静かに問いかける。


「どうして泣いていた?」


 その声と表情には、貴族らしくない態度に怒っているような様子も、泣いていたことに対して心配している様子も感じられない。ただ単に、確認をしているだけだ。

 リーゼロッテはひとつ息をつく。


「……馬鹿にされて、とても悔しかったのと、すごく、腹が立ったからです」


 口を動かしたら、堪えていた涙が零れ落ちた。それをぐっと掌で擦り、まっすぐにジークヴァルトを見上げる。


「私が子供だから、馬鹿にされるのも仕方ないです。領主になったといっても、お仕事もおじ様に全部任せっぱなしで、まだなにも出来ていません。でも、みんなを――お父様や私を、いっぱい助けてくれているみんなが頑張ってくれていることを馬鹿にされるのは、すごくすごく嫌です。とっても腹が立ちました!」


 フリードリヒから向けられた態度に対する怒りがまた込み上げてきて、涙がボロボロと落ちてくる。止めなければ今度こそ叱られるかも、と思っても、感情の揺れが激しすぎて止められない。

 仕方なく、涙を零しながら続けることにした。


「失礼なこと言わないでって言いたかったんです。でも、フリードリヒ王子は王族だから、そういう口答えはしちゃいけないって、わかってます。だから我慢しました」

「そうか」


 一生懸命に伝えられた気持ちに、ジークヴァルトは表情を変えずに頷き返す。


「王子に馬鹿にされたのがすごく腹が立って悔しくて、けれど、ここまで泣かないように我慢して戻って来たのだな?」


 確かめるように尋ねられることへ、リーゼロッテは首を振る。


「本当は、自分のお部屋まで、我慢しようとしたんです。……でも、む、無理、で……ご、ごめっ、な……さぃっ」


 最後の方はしゃくり上げるので言葉にならなかった。

 唇を噛んで声を出すのだけは必死に我慢していると、ジークヴァルトが目の前に膝をついて視線を合わせてくれる。

 そうして、抱き締めてくれた。


「お前はよくやった。領主として立派に振る舞った。わたしはお前の後見人として、とても誇らしく思う」


 突然の抱擁と褒め言葉にびっくりする。

 あまりの驚きに涙がすんと引っ込み、たった今聞いた言葉は現実のものだったのかどうか、確かめるようにジークヴァルトを見つめ返した。

 こちらを見つめる彼は相変わらずの無表情だ。にこりともしていない。


「自室まで戻れなかったと言うが、ここは領主の執務室で、本来はお前の部屋だ。公的な部屋ではあるが、今は乳母のエッダもいて、後見人のわたしもいる。アロイスもマルセルもウーヴェもラウレンツと親しい者だ。私室と捉えても問題はない」


 筆頭文官であるアロイスはラウレンツの家庭教師も務めた人で、マルセルとウーヴェは年の近い友人だった。三人ともリーゼロッテが物心つく前から私的に交流があって、よく遊んでくれていた人達だ。リーゼロッテが年相応の子供らしさを出したとしても、見ない振りをしたり受け止めたりしてくれる。

 寧ろ、領主らしくなろうとする最近の必死な姿に、無理をしているのではないか、とかなり心配していたのだ。子供らしさを見れる方が安心である、と三人は表情を緩めた。もちろんエッダもだ。


 そんな優しい視線に囲まれる中、つん、と髪を引っ張られるような気配がした。

 振り返って見ると予想どおりにナハトがいて、なにか用かと首を傾げた瞬間、顔をべろりと舐められた。


「ぅぶっ」


 これは予想していなかった。思わず呻き声を上げると、ナハトはいつものように小さくグッグッと笑い、そのままするりとジークヴァルトの影に沈んで消えた。


(……慰めてくれたの?)


 少し生臭い唾液でべっとりした顔に触れながら、いつも意地の悪い笑みらしきものを向ける大きな赤い目を思い浮かべ、思わず笑みが零れる。

 リーゼロッテにほんの微かにでも笑顔が戻ったことに、大人達は揃ってホッとした。




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