3 おじ様の不思議
「おじ様、私も騎獣が欲しいです」
核に魔力を送り込む為に、数日置きに要塞へ通い始めていくらかした頃、リーゼロッテは思い切ってジークヴァルトに訴えた。
「……何故だ?」
まわりにいた要塞の駐留騎士達も共に不可思議そうな目を向けられるので、意気込んでぐっと拳を握る。
「私に必要だからです」
数日間悩んだ末になされたその決意発表は、しかしながら言葉足らずだった。
ジークヴァルトは眉間に皺を寄せたあと、軽く握った右手をそこへ当てる。苛ついていたり考えごとをしているときの彼の癖が出たことに、リーゼロッテは俄かに緊張した。
「前後の事情を話しなさい。まず、そう考えた理由はなんだ?」
「馬車より速いからです」
「何故、馬車より速い必要がある?」
「時間がかかるからです」
「では、騎馬でよいではないか」
「……馬よりも騎獣の方が速いのでしょう?」
なんでそんな当たり前のことを訊くのだろう、と思いながら答えていると、ジークヴァルトは大きく溜め息をついた。
「お前は、馬に一人で乗れるのか?」
リーゼロッテを含め、貴族女性の移動手段はだいたいが馬車になる。お披露目をする七歳までは基本的に人前に出ないので、そもそも外出自体をあまりしたことがない。
「乗ったことがないです」
なんの疑問も持たずに素直にはっきりと答えると、ジークヴァルトは頭が痛そうな顔をして、騎士達は揃って苦笑いになった。
「リーゼロッテ様、よろしいですか?」
いつも案内係として付き添ってくれる下級騎士のディードが声をかけてきた。ジークヴァルトの言い方では少し言葉が足りないと思ったのだろう。
「お一人で馬にも乗れないようでは、騎獣を乗りこなすことは出来ません。危険すぎます」
「何故ですか?」
「騎獣は基本的に空を駆けます。つまり、落ちれば死んでしまう可能性が高いのです」
何度かジークヴァルトの騎獣に乗せてもらったが、確かに空高くをあっという間に駆けて行く。あの高さから落ちたら、痛いを通り越して死に至るのは明白だ。
さっと青褪めたリーゼロッテに、ジークヴァルトは大きく溜め息を吐いた。
「そもそも女性は、騎士でもなければ騎獣など使わない。脚を開いて跨るという姿勢がみっともないからな」
「椅子に座るようには乗れないのですか?」
「横乗りは安定感が悪く、とても危ないのですよ。騎獣を使うならば、女性でも例外なく跨ります」
近年のクラウゼヴィッツには女性騎士がいないので見たことがないだろうが、と言われ、そういえば武装した女性は見たことがないな、と頷き返した。
リーゼロッテは基本的に横乗り姿勢だが、それは同乗しているジークヴァルトが支えてくれているから可能なのだ。本来ならリーゼロッテにも跨って欲しい、と軽く肩を竦めながら言われた。
「それに、お前は体格が小さすぎる。跨ったとしても、脚が開きすぎて安定がよくないのは変わらないだろう」
指摘されて自分の足許を見下ろし、ジークヴァルトやディードを見上げた。体格の好い彼等の腰のあたりに自分の頭があるのを確認して、思わず溜め息を零す。脚の長さと身長が同じぐらいというのはどういうことだ。
「今のお前が騎獣を持てない理由はわかったか?」
「……はい。馬に乗れるようになって、背ももう少し大きくなってからがいいということですね」
「わかったのならばよろしい。では、城に戻るぞ」
満足気な頷きを返したジークヴァルトは、足許に向かって「ナハト」と呼びかけた。一瞬影が揺らいだと思ったら、白銀の体毛に包まれた大きな狼がするりと現れる。
これがジークヴァルトの騎獣だ。何度か目にして、もうすっかりと見慣れてきた光景だったが、初めてのときはとても驚いたものだ。
大きな狼の背によじ登ることは無理なので、ひょいっと抱え上げてもらう。いつもはこのまま横座りをしているが、今日はちゃんと跨ってみようと思い、もぞもぞと向きを変えて座り直した。
「よしなさい。はしたない」
後ろに乗ろうとしたジークヴァルトは、リーゼロッテの姿勢を見て顔を顰める。
「でも、跨る方がいいって」
「確かに言ったが、スカートでするものではない。下着が見えるぞ」
「じゃあ、どうすればいいですか?」
「……取り敢えず、ラウレンツの子供の頃の服でも出してもらいなさい。乗馬の練習をするときも、それを着ればいい」
祖父の代から仕えている者なら保管場所も知っているだろう、と言われ、リーゼロッテは仕方なく脚を閉じて座り直した。
そんなやり取りをしていると、グッグッという低い音と共にお尻の下が小刻みに揺れる。
「笑うな、ナハト」
振動に驚いていると、嫌そうにジークヴァルトが呟く。どうやら騎獣が笑いを堪えて、身体を揺らしていたらしい。まわりの騎士達も表情を綻ばせていた。
「おじ様とナハトはお話が出来るのですか?」
要塞の騎士達に別れを告げて空に駆け上がり、リーゼロッテは首を傾げる。
ナハトというのがこの騎獣の名前らしいというのは知っている。時折なにか会話しているような話し方をするので、意思の疎通を図る方法があるのかと思う。
そうだな、とジークヴァルトは頷いた。
「魔獣を従えるには、自分の魔力で縛る必要があるから――あぁ、あとでにしよう。今日の講義は騎獣について教えてやる」
もう直に城に着くことに気づいたジークヴァルトは、話を途中で切り上げてそう言った。説明するにはもう時間がないし、毎日同じような授業内容よりも、少し違うことの方が気分転換にもいいと思ったのだ。
それが嬉しくて、リーゼロッテは目を輝かせながら「はい!」と元気よく返事をする。
ナハトがまた少し笑ったようで、グッグッと小さな音がお尻の下で響いた。
城に戻ると、まずは少し休憩だ、と言われた。
魔力を動かして疲れているだろうし、お茶の時間も近い。少し早いが、お茶にするといい、と自室へと送り出された。
部屋に戻ってすぐに外出着から着替えさせてもらい、ついでに父の幼い頃の服が保管してあるか尋ねてみる。
「ございますよ。男性の服は女性と違ってあまり流行が変わるわけでもございませんから、お子様達でも着られるように置いてあるのです」
布は貴重だ。傷むまで着て雑巾にするか、多少綺麗なうちに古着屋に持ち込むのが普通だ。貴族は季節によって何着も作るので傷むまで着ることはないが、身分や家の格などに合わせていることが多いので、古着屋に渡すということもない。特に領主一族のものともなれば、従者などに下げ渡しても着られるわけもない。結果として保管されることが多くなるのだ。
「では、丈夫な布地の、汚してもいいような服を出して欲しいです」
「姫様のお望みであればご用意しますけれど……お母様の服ではなく、お父様のものなのですか?」
エッダは怪訝そうに首を傾げる。
「馬に乗る練習をするのです。スカートでは駄目なのですって」
ひらひらと膝が隠れる程度の裾を振って見せると、納得したような頷きを返される。
「女性用の乗馬服も普通はスカートですけれどね。男性物の方が脚や下着が見えなくてよいでしょう」
貴族だろうが平民だろうが、女性はあまり脚を出さないものだ。十歳ぐらいまでは膝あたりまでの丈で子供らしく動きやすさを重視するのは共通で、平民の場合は職業などに合わせて成人してもそれぐらいの短いものを好んだり、長くても足首が出るぐらいの丈でいることが多いが、貴族女性の十五歳以降は靴先が見える程度の長さにしなければならない。上級貴族であるリーゼロッテなら、床にすれすれ程の丈になる。
「けれど、姫様。乗馬の練習など始めて大丈夫なのですか? ジークヴァルト様はお許しになられているのですか?」
「はい、大丈夫です」
「本当ですか?」
念を押すように重ねて尋ねられる。リーゼロッテは首を傾げた。
「大丈夫の筈です。父様の服を着るように教えてくださったのはおじ様ですもの。……なにかよくないことでもあるのですか?」
尋ねると、物凄く心配そうな目を向けられる。
「朝から晩までお勉強漬けの日々ではございませんか。それなのに、乗馬の練習などという予定まで入れられるおつもりなのですか? お身体が持ちませんよ」
ただでさえ、毒を受けて死にかけていたのだ。ひと月以上も寝込んでいてようやく回復したところなのに、身体を酷使し過ぎではないか、とエッダは案じてくれているらしい。
その心配は尤もだし、気遣いが嬉しい。リーゼロッテは微笑んだ。
「無理なときは無理と言いなさい、とおじ様は言ってくれています。本当にそのとおり、私が無理だと思えば丁寧に説明してくれたり、時間を取ってくれたりしています。休憩時間もくださいます。おじ様がしてくださることに、不安はありません」
まったく不安がないわけではないけれど、今は言わなくていいことだ。
そもそも乗馬の練習も、リーゼロッテが騎獣を欲しがったから提案してくれたことだ。自分で言い出したことなのだから、多少の無理はしてでもやりたいと思う。
エッダはまだ少し気にかかるような表情を向けたが、リーゼロッテの意思を尊重してくれることにしたのか、退出の許可を申し出た。服を捜しに行ってくれるらしい。
安心してテーブルに向かうと、ドロテアが既にお茶の仕度をしてくれていた。
今日のお茶請けは干果入りのクーヘンだった。みっちりと目が詰まっている様子から、腹持ちの好さそうなものに見える。要塞の核に魔力を注ぎ込んで来るとお腹が空くので、これは嬉しい。
お茶を飲んでクーヘンを口に入れると、たっぷりと使われた牛酪の香りが口から鼻腔へと抜けていく。甘さも程よくて大満足だ。
「ジークヴァルト様のことは、あまり信用なさらない方がよろしいですよ」
お茶のお替わりを淹れてくれながら、ドロテアが囁いた。
言われた意味がわからず、瞬いて見つめ返す。
「あの方のお立場を考えれば、信用などしない方がよろしいのです」
まわりを気にするように声を低めてドロテアは更に囁く。リーゼロッテはますます不可解な気分になって、ドロテアの顔をまじまじと見つめ返した。
「どういうことですか?」
「……ご存知ないのですか?」
訝しむリーゼロッテに、ドロテアは驚いたように瞬く。頷き返すしかない。
更に何事か告げようと口を開きかけたとき、エッダが戻って来た。ドロテアはすぐに姿勢を正し、何事もなかったかのように仕事に戻る。
「姫様、よさそうな服を何着かお持ちしました。寸法を合わせましょう」
「あ、はい。これを飲んだら着てみます」
信用してはならないジークヴァルトの立場とは、いったいなんなのだろう――エッダが戻って来て黙ってしまったということは、人に聞かれてはいけないことなのか。それとも、エッダに聞かれてはいけないことなのか。
ジークヴァルトがそんな危険な人物だとは思えない。ひそひそと小声で交わされる噂を聞き齧った程度だが、文官達はその仕事ぶりに感嘆の声を漏らしているし、騎士達もハーゲンドルフの侵攻を退けた指揮能力を褒めていた。口数が少なく、ピリピリとした緊張感を常に纏っている恐い雰囲気の人だが、有能であるのは確かなのだろう。
いつもちょっと不機嫌そうな無表情が恐いし、とても厳しい人であるという印象はある。けれど、リーゼロッテのことを蔑ろにするようなことは一度もないし、的確な指導と補佐をしてくれていることぐらいは、まだ幼い自分でも十分にわかる。不機嫌そうな無表情も、あれが通常なのだと納得出来るようになってきた。
そんな彼が危険だなんて、リーゼロッテには決して思えない。思う筈がない。
ドロテアの勘違いではないのだろうか、と使い終わった茶器を手早く片付けている横顔を見つめてみるが、その視線を無視するように立ち去られてしまった。どうやら先程の話をするつもりはないらしい。
なんだか少し嫌な気分だ。中途半端に不安を煽られて、お腹のあたりがモヤモヤする。
エッダもドロテアも、リーゼロッテが物心ついたときにはもう仕えてくれていた。他の側仕え達もそうだ。配置換えがあったことも特にはない。
そんな者達が、リーゼロッテの不利益なるような情報を与えるとは思えない。彼女達が運んで来るものはすべて有益になるものばかりだった。
今までの経験則に倣うならば、ジークヴァルトのことを警戒した方がいいということだろうが、リーゼロッテはどうしても納得出来ない。
そもそも、いったいなにを警戒しろというのだろう。想像がつかない。
確かに突然現れた親戚だ。しかも、信頼するエッダが「ごく近しい血縁」と言っていたので信じてしまったが、正確にはどういう血縁関係なのかもよくわからない。なんとなく『おじ様』と呼んでいてジークヴァルトもそのことに関してはなにも言わないが、実は年の離れた『お兄様』なのかも知れない。――いや、それなら初めから兄だと教えてくれるだろうし、ジークヴァルト自身が兄と名乗ればいいだけのことだ。
そこまでつらつらと考えて、リーゼロッテはハッとした。
もう三桁にも手が届く日々を共に過ごしていたのに、リーゼロッテはジークヴァルトについてなにも知らないのだ。
わかっていることといえば、以前は中央の騎士団に所属していて、とても物知りで仕事が出来る優秀な人で、無駄なものを嫌い、亡くなった父をとても慕ってくれている、ということぐらいだ。他はよく知らない。食べ物の好みや好きな本すらも知らない。趣味と呼べるようなものがあるのかすらも知らない。
「私、おじ様のこと、なにも知らない……」
茫然としたまま思わず呟いてしまったが、言葉にしたことで一層実感が増し、心臓がぎゅっと締めつけられるような気がした。
その呟きを拾ったエッダが、怪訝そうに顔を上げる。
「姫様? どうかなさったのですか?」
「い、いいえ。なんでもありません」
慌てて首を振るが、はっきりと言葉にしてしまっているのだから誤魔化しようがない。
「えっと、その……今日のお茶菓子が美味しくて。……それで、おじ様もお好きかしらと思ったのです。でも、おじ様がどんなお菓子を召し上がるのか知らないなって思って」
なんとか言い繕ってみる。
エッダはまだ少し訝しむような目つきで見てきたが、小さく頷いた。
「ジークヴァルト様は昔から甘いお菓子はお好みではないですね。今日のクーヘンだと、お好みよりも少し甘みが強いかも知れません」
「そうなのですか」
会話が繋がったことにホッとしつつ、エッダの口振りに首を傾げた。
「エッダはおじ様の小さい頃のことを知っているのですか?」
「ええ、存じ上げておりますよ」
頷きながら着替えさせた服の具合を見るように、立ち上がって少し離れて行く。リーゼロッテは軽く腕を上げ下げし、上衣の裾を抓んでみた。
「……これは随分と詰めなければならないようですね。ラウレンツ様が大柄でいらしたのか、姫様がお小さいのか」
同じ年頃のときのものを持って来たのに、とエッダが苦笑する。どうやら幼い頃の父とリーゼロッテは、男女の違い以上に体格も随分と違っていたらしい。
「どうしておじ様の小さい頃のことを知っているのですか?」
別のものに着替えさせてもらいながら、先程の話に戻る。エッダは意外そうな顔をした。
「私の叔母がお仕えさせて頂いておりましたから」
エッダの叔母というと、女性の使用人達のまとめ役だった人だ。確か昨年引退したのだと記憶している。優しげなおばあちゃまだった。
「では、おじ様はここで暮らしていらしたのですか?」
驚いて尋ねると、エッダも驚いたようにこちらを見上げてきた。
「もちろんでございますよ。成人されるまでこちらにいらっしゃいましたとも」
成人する年齢は男女共に十五歳だ。危急の政略結婚などの場合は十二歳以上であれば認められることもあるらしいが、そうでもなければ十五歳であると決められている。七歳で社会の一員と認められることと同様に、貴族も平民も共通の定めだ。
「こちらの方があまり詰めなくてもよさそうですね。こちらでよろしいですか?」
着替え終えた二着目の様子を見て、エッダは微笑む。袖は少し長いようだが、先程よりずっと身体に合う感じだ。
「はい。色もこちらの方が好きです」
先程の明るい色の布地よりもこちらの方が汚しても目立たなさそうだし、と焦げ茶色の上衣を眺める。飾りや刺繍なんかもほとんどなくて地味だけれど、乗馬の練習着に華やかさなど必要ないだろう。
エッダは笑って頷き、詰める長さを測って印をつけた。
「このあとはまたお勉強でよろしいのですか?」
夕食の時間まではまだある。いつもならジークヴァルトの執務室で勉強の時間だ。頷き返し、筆記用具の用意をしてもらった。
移動のときのお供はいつもエッダだ。けれど、先程のドロテアの言葉が気になっていたので目を向けてみるが、彼女は視線を合わせようとはせず、試着した服を片付けていた。
今は訊いてはいけないことなのだろう、と納得し、声はかけないでおく。
執務室に辿り着けば、ジークヴァルトは書類の山に目を通している最中だった。
「参考書を出しておいたから、内容がわからずとも少し読んでおきなさい」
指示されたように自分の机に向かい、用意されていた参考書を開く。今までとまったく違う内容だということは、開いてすぐの解説兼挨拶文でわかった。
おお、と少し感嘆の心を抱きながら読み進めてみるが、やっぱりよくわからない。今まで習ってきた魔力の扱い方と魔術の発動原理に関するものとはまた違ったものだ、ということだけはわかった。
パラパラ捲っていくと、動物の絵が描かれている頁に差し掛かった。着色はされていなかったが、小さく細かい文字で特徴などがびっしり書かれている。
その中に、ナハトによく似た魔獣の絵があった。
「……雪天犬?」
「ナハトはその上位種の嵐雪狼だ」
訂正の言葉にハッと顔を上げれば、ジークヴァルトが傍らに立っていた。
「お仕事はいいのですか?」
「ああ」
頷きながら椅子を引き寄せる。リーゼロッテは参考書をジークヴァルトに渡した。
「内容はわかったか?」
「……よくわからなかったです」
「だろうな。今までとはまた違う分野だ」
今までの授業内容は、魔術の基礎中の基礎である魔力の使用方法と、正しく発動させる為の魔術式と魔法陣についてのものだった。騎獣はまた違う学域だという。
「まず、騎獣を従えるには、大きく分けて二つの方法がある」
一つ目は、魔獣を弱らせて自分の魔力で縛り、名を与えて従える方法。これは自力で行わなければならない。助力を得て屈服させることが出来たとしても、根本的な魔力の釣り合いが取れず、そのあとに従えるのが難しくなるということだ。
二つ目は、魔術具を変形させる方法。これは質のいい素材を揃えて自分の魔力で満たし、魔術式を刻み込むことで作成出来るものなので、魔力を持っているなら子供でも簡単に扱える。但し、乗っている間は自分の魔力を流して動かすことになるので、なかなかに疲れるらしい。
「騎士は戦闘にも魔力を使うから、魔獣を従える方が圧倒的に多い。動かす為に魔力を使うのは無駄だからな」
魔力量が多かったり、直接戦闘に関わらずに補助などを主とした後方支援の騎士や、自力で魔獣を狩れない成人前の見習いならば魔石の騎獣に乗っている者もいるが、一人前の騎士ともなれば魔獣を従えている方が圧倒的だ。
「お前の場合は騎士見習いでもないし、魔力量は多い方なので、移動手段とするだけなら魔術具の騎獣で十分だと思う」
開いて見せられた頁には、魔術式の解説と、それを組み込まれた魔法陣が描かれていた。
「魔力量以外の難点は、魔術具を持ち歩かなければならないというところだな」
縛られた魔獣なら隠遁させて連れ歩けるので、自分の魔力が自由に出来る状況ならば場所を問わずに呼び出せるのだが、魔術具の騎獣の場合は、魔術具がなければどうにもならない。
完成すると掌に乗る程度の大きさなので、持ち歩くのが億劫になるほど重いものでもないが、常に身に着けておかなければならないので少し煩わしく感じるかも知れない、とジークヴァルトは言った。
「基本的な違いはそんなところだな。……どうする?」
「魔術具の騎獣でいいです」
「そうか。では、核となる魔石や必要な素材はわたしが用意しておこう」
魔石などはどう準備すればいいのかわからなかったので、助かった。けれど、これでは本末転倒だな、と思った。
リーゼロッテが騎獣を欲しいと思った大きな理由は、要塞に向かうのに毎回ジークヴァルトが連れて行ってくれることを心苦しく感じたからだ。
書類や報告はいくらでも溜まっていく。少し減ったと思えば次の書類が届けられ、合間を縫うように報告や確認に文官や騎士達が出入りする。その間にリーゼロッテの勉強を見てくれているような彼はあまりにも忙しすぎる。
ジークヴァルトの負担を少しでも減らしたくて、要塞への往復ぐらいなら一人で出来るようになりたかったのだ。それなのに、騎獣を手に入れる為には、準備のすべてを結局ジークヴァルトに頼らなければならなかった。
「揃えるまでに数日かかるだろうから、この術式の内容を理解して、魔法陣を正確に描けるように練習しておきなさい」
内心しょんぼりしているリーゼロッテに、ジークヴァルトは参考書を開いて見せる。
「魔術式はすべての指示を込めなければならない故に、そこに組み込む情報を正確に理解していなければならない。それを刻み込む魔法陣は歪んだり文字が乱れたりすれば、魔力の通りが悪くなるし、失敗する可能性も出てくる。それらを念頭に入れて、指示の内容を把握し、綺麗に、正確に描けるように」
失敗することは滅多にないらしいが、不安要因は取り除くに限る。
強く念押しされたので、リーゼロッテは緊張の面持ちで頷いた。
「お前はどんな騎獣にするのだ? やはり仔馬かな」
四足歩行の動物や魔獣が乗りやすいらしい。ついでに、変化させる目的の魔獣や動物の素材を合成させると、使用時の魔力の節約にもなるらしい。
大きさからしても仔馬が向いているだろう、と言われるが、リーゼロッテは首を振った。
「ナハトみたいな騎獣がいいです」
リーゼロッテが初めて見たのも触れたのも、ジークヴァルトの騎獣であるナハトだ。騎獣と言われて想像出来るのが、あの白銀の体毛の大きな狼なのだ。
ジークヴァルトはちょっと驚いたように目を瞬いたが、僅かに目許を細めて「そうか」と頷いた。
(――…笑った?)
表情はあまり変わらなかったが、いつもより微かに柔らかい印象を感じられる。
その柔らかい表情が、まるで微笑んだかのように見えて、リーゼロッテは胸の奥がほわっと温かくなるのを感じた。
(おじ様が、笑った!)
いつもとほとんど変わらない仏頂面の無表情の中に感じられた小さな変化に、なんだかとても嬉しくなった。笑った表情など初めて見たのだ。
「私、頑張ります! 綺麗な魔法陣を描けるようにいっぱい練習して、ナハトみたいな騎獣を手に入れたいです」
そう力いっぱい宣言したときには、もっとジークヴァルトの笑った顔を見てみたいという気持ちが強くなり、ドロテアの不穏な発言から植えつけられていた懸念は、小さくなって心の端の端の方へと追いやられていた。