1 幼い領主と仏頂面の後見人
カリカリと紙の上をペン先が走る音が響いている。
たまに紙を捲る音もして、またしばらくカリカリとペンの音が続く。
室内には文官達も時折出入りするが、彼等は用を済ませればすぐに退出して自分達の執務室に行ってしまうので、この部屋の息苦しさが和らぐことはない。
「リーゼロッテ」
室内に満たされる沈黙と重苦しい緊張感に縮こまっていると、名前を呼ばれた。
「なにをしている。終わったのか?」
小さく震え上がったリーゼロッテに、ジークヴァルトは視線を向けないままに尋ねてくる。彼の目線は未だに手許の書類の上に在って、ペンを握る手も忙しなく動いていた。
「課題が終わったのなら、声をかけなさい。わからないところがあるのなら、遠慮などせずに尋ねなさい。無為な時間は無駄の極致だ」
強張った表情でその言葉を聞くが、それでもまだジークヴァルトは書き物を続けている。
「わからないということは恥ずべきことではない。恥ずべきは、己の無知を隠し、それ故に周囲に迷惑をかけることだ」
「…………でも……」
震える声で反論のように小さく呟くと、書類を見つめていた目がようやくリーゼロッテの方へ向く。おどおどと彷徨うリーゼロッテの赤味がかった紫の瞳と、ジークヴァルトの青灰色の瞳が合わさった。
「そうだな。我々貴族階級に於いて、己の無知無能ぶりを他者へ晒すのは、最も恥ずべきことだ。特に上に立つ者である領主一族であるわたしとお前の判断は、この地に暮らす民すべてに関わることだからな」
溜め息のように細く息を吐き出しながら、ずっと走り続けていたペンに休息が与えられた。インク壺の隣にあるペン立ての中にそっと戻される。
両親や乳母や教師など、自分を教え導いてくれる以外の存在に、自分の不出来な部分を晒すのはあってはならないことだと教えられている。それが上位者というものだと物心ついた頃から教え込まれていたし、教師達もリーゼロッテの理解度に合わせて、決して間違いが起こらないように着実に授業を進めていた。
ジークヴァルトは教師役を買って出てくれてはいるが、正確には後見人だ。幼いリーゼロッテでは不慣れな領主としての公務を代行してくれている。そんな人に自分の駄目な部分を晒すことはしてはならないことだと思っていた。
「だが、お前はまだ子供だ。十年も生きていないのだから、知らぬことの方が多い。わからなければ訊きなさい。わたしも出来る限り応じる」
ジークヴァルトは無表情でそう言った。
彼のこのほとんど動きのない表情筋の所為で、リーゼロッテは常にびくびくとしていた。これが怒っているわけではないとわかっているのだが、元々厳しい空気を纏っている人である為、まだ慣れないリーゼロッテにはとても息苦しくて恐い。
怒られているわけではない。指導してくれているだけだ、と自分に言い聞かせながら、言われたことへの返答として小さく頷いた。
「わかったのならば、課題を持って来なさい。先程から手が止まっているのだから、もう出来ているのだろう?」
リーゼロッテは小さく深呼吸してから覚悟を決め、答案用紙を持って自席を立った。
無造作に差し出された手にそれを渡すと、ジークヴァルトの青灰色の瞳が険しく書面上を走る。その様子にリーゼロッテは胃の奥がきりきりと痛むのを感じた。
「リーゼロッテ」
俯きかけた顔を上げさせるように、ジークヴァルトの険を帯びた声が響く。ハッとして顔を上げた。
「まったく出来ていない」
溜め息と共に返された答案用紙を受け取ると、それを見届けたジークヴァルトは軽く握った拳を額に当てた。その仕種が苛ついていたり考えごとをしているときの彼の癖だということは、このふた月ほどの間で薄っすらとわかってきた。
「基礎中の基礎だ。与えた教科書を読めばわかる範囲だろう?」
この程度のことが何故わからぬのだ、と呆れたような口調で言われる。
リーゼロッテは静かに唇を噛んだ。
「黙っていてはわからぬ。答えなさい、リーゼロッテ」
そういう態度は時間の無駄だ、と厳しく言われ、ぐっと涙を堪えて顔を上げた。
「……教科書が、読めません」
意を決して告白すると、ジークヴァルトにはその発言の意味が上手く伝わらなかったのか、彼にしては珍しく、無言のまま双眸を瞠った。
しばらくの沈黙――これも彼にしては珍しい。無駄なことを嫌うジークヴァルトは、無為な時間を過ごすことを最も嫌う。
「……どういうことだ?」
ややして零されたのは、心底困惑しているような声だった。
眉間に刻まれた皺も、確認するように揺れる瞳も、彼に珍しい混乱が訪れていることを如実に物語っている。
リーゼロッテはへにゃりと眉尻を下げながら、答案用紙を握る手に力を込めた。
「書かれている言葉が、私にはまだ難しいのです。全部は読めません」
ジークヴァルトが用意してくれた教科書は『魔術学の基礎』の名のとおり、魔術を使う上での基本的な知識が記されているものだった。
けれど、魔術を学ぶのは、体内の魔力が安定する十歳を過ぎてからになる。平均してみればだいたいが十二歳頃からで、まだ七歳のリーゼロッテには幾分早すぎるのだ。
基礎と銘打っているだけあって、教科書の内容はとてもわかりやすいものだと思う。大まかに基礎知識と基礎技術の二つに区分されていて、もっとも簡単で一般的な術式とその仕組みの解説に、いくつかの応用が示されている。この教科書を最後まで読めば、魔術というものがどうやって自分の意のままに操れるようになるのか、そういう知識と技術が身に着くものだと思われる。
リーゼロッテは自分の書いた答案用紙に目を落とす。
回答欄をなんとか半分は埋めてあるが、そのどれもが正しくはなかったらしい。まったく出来ていない、とはっきりと言われてしまった。
ジークヴァルトは執務机から立ち上がり、リーゼロッテの座っていた席に向かう。
「――…子供は、この程度も読めないものなのか」
置いてあった教科書をパラパラと捲って、小さく呟く。唖然としたような響きを含んだその声に、リーゼロッテは自分が情けなくなって身を縮めた。
読めることは読める。けれど、言い回しが難しいところもあるし、リーゼロッテ自身の日常的に使う以外の単語の語彙がまだ少なく、専門的な言葉と相俟って非常に難解な文面になっているのだ。意味を理解して話すことが出来ても、文章として読むことが出来ない単語も多い。
「申し訳ございません……」
叱られることよりも、がっかりされることの方がどうにもつらい。忙しい公務の合間をぬって教えてくれているというのに、期待に応えられない自分の不甲斐なさがとても心苦しくて、泣き出したい気持ちになった。
けれど、ここでめそめそと泣くわけにはいかない。自分を憐れむような涙は流さないと決めたのだから。
「いや。わたしにも理解と配慮が足りなかったようだ。苦しませて悪かった」
ぐっと涙を堪えていると、ジークヴァルトが僅かに溜め息を混ぜながら呟いた。
謝られるようなことではないが、彼がリーゼロッテのことを考えてくれているのだということが伝わって、それだけでも嬉しかった。
「いいえ。私もすぐにお伝えすればよかったのだと思います。読んでいればそのうち理解出来るのだろうと、気楽に考えておりました」
わからないことがあれば訊けばいい、と課題に取りかかる前にも言ってくれていた。それに頷きつつも、仕事の邪魔をしてはいけない、と変に気を遣って黙っていたのがよくないのだろう。ジークヴァルトの口癖である『無駄な時間』を過ごしたのだから。
はっきりとそう答えると、ふう、と溜め息が零される。
「それはそのとおりだろうが、わたしに配慮が足りていなかったことも事実だ。これからはもう少し意見のすり合わせをするべきか」
考え込むような表情で呟きながら教科書を閉じ、リーゼロッテに差し出す。
「夕食のあとに少し時間を作ろう。今はもう自室へ下がってよいから、時間までにこれとこれを読んでおきなさい。さわりの部分だけでも構わない。多少は参考になるだろう」
すぐ傍の本棚から二冊引き抜き、手渡される。表紙に刻まれた題名は『魔術学用語辞典』だ。下側になっている方は見えないが、きっと参考書の類だろう。
わかりました、と頷いている間に、ジークヴァルトは机の端に置かれたベルを振り、それからあまり待つこともなくエッダが入室して来る。渡された本と教科書をエッダに預け、領主の執務室をあとにした。
「お疲れになられましたか、姫様?」
歩き出して少しすると、気遣うように声をかけられる。
「なにかひどく落ち込まれているご様子ですし、溜め息も……」
知らずうちに溜め息を零していたらしい。苦笑して首を振る。
「大丈夫です。自分の不出来さを情けなく感じていただけなのです」
「不出来だなんて……! 姫様はとても出来たお子様です。お披露目を終えたばかりで家督を継がれ、家名に伴う重責を担われ、こんなにも努力なさっておいでではないですか」
自分の抱えていた本を示し、エッダは悲しげに首を振る。
「あの厳しいジークヴァルト様に師事し、姫様のお歳ではまだ習わないようなこともよく学び、ご領主としてのお役目も立派に果たされて……それで不出来だとおっしゃられては、世の中に出来のよいお子様などいなくなってしまわれますよ」
それはさすがに言い過ぎではないだろうか。リーゼロッテは苦く笑って肩を竦める。
確かにジークヴァルトは厳しい物言いと態度で、師事したいとはあまり思えないような人物であり、その彼から出される課題も到底優しくはない。それでも早急に学ばなければいけないことなので、リーゼロッテは疲れて泣きたくても歯を食い縛って必死にしがみついている状況だ。自分の義務を果たしているだけのことなのに、そんなに褒められると逆に情けなくなってくる。
領主としての役目というのも、自力で果たせているとはまったく思えない。すべての政務は長年仕えてくれている優秀な文官達が取り仕切り、それをジークヴァルトが捌いていっている。リーゼロッテがしていることといえば、領主の承認印が必要な書類に署名や捺印をしているだけだ。
今の自分が出来ることは、本来やらなければいけないことに比べれば圧倒的に足りていない。どういう経緯でジークヴァルトが後見人であり、領主の代行になってくれたのかは知らないが、いつまでも甘えているわけにはいかないだろう。
そんなことをつらつらと考えているうちに辿り着いた自室へと入った。
「お戻りなさいませ、姫様。すぐにお茶をご用意致しますね」
留守居をしてくれていた側仕えのドロテアがすぐに動き出す。
「今日のお茶請けは、姫様のお好きな蜜がけの焼き菓子なのですよ」
「そうですか。楽しみです」
楽しげな声に礼を言って休息の為の長椅子に移動したところで、思わずギクリとした。
使うとき以外は覆いがされている筈の鏡台が、珍しくそのままになっている。そこに映り込んだ自分の姿に心臓が変な鼓動を打った。
磨かれた鏡面に映っているのは、白髪の自分だ。
もうふた月も毎日見ている姿だというのに、未だに慣れない。そこに映るのがどうしても違う人のような気がして、自分の姿が何処かに映る度にいつもギクリとしてしまうのだ。
以前は濃い栗色の髪をしていたというのに、ハーゲンドルフの強襲を受けたときの恐怖からなのか、すっかりと白髪になってしまっている。生え際に色がつく様子もないので、当分はこの白髪のままなのだろう。
銀髪といえば聞こえはいいが、それに比べれば艶も少なく、草臥れた白だ。その髪が縁取るのがまだ幼児とも呼べるような幼い顔で、どうにもちぐはぐな印象を与える。それはすぐ傍で長年仕えてくれている側仕え達も感じているようで、たまに一瞬、奇妙な表情を覗かせることがある。エッダだけは何事もなかったかのように、以前とまったく変わらない態度で接してくれるのが救いだ。
ひとつ息を吐き、強張った身体から力を抜いた。
お茶が運ばれて来るまでのほんの僅かな時間、教科書を開いてみる。自分で読む限りではやはりよくわからない。
きちんと説明を聞けばわかるようになるのだろうか、と溜め息を零したところで、茶器を携えたドロテアが戻って来た。
以前は勉強といえば、文字の練習と簡単な算術ぐらいで、あとは子供向けの物語などを読んで文章を理解することが中心だった。七歳前後の子供にとっては一般的な授業内容だったと思う。
しかし、父の死と共に領主となってしまったことで、立場が一変してしまった。
ジークヴァルトがほぼすべての公務を代行してくれているとはいっても、正式なクラウゼヴィッツ辺境伯はリーゼロッテだ。いつまでも彼に甘えているわけにはいかない。一日でも早く、領主としての仕事を果たせるようにならなければならないのだ。
決意して自分で言い出したことではあるのだが、急に授業内容がかなりの高難度になってしまって、リーゼロッテはまったくついていけていなかった。ジークヴァルトに無理を言って勉強を見てもらっている手前、それが情けなくて申し訳なくて堪らない。
お茶を受け取りながら溜め息を零してしまい、その様子にドロテアがなにか言いかけて、躊躇うように口を閉じた様子が見えた。
夕食もいつもどおりだった。
広々とした食堂で大勢の側仕えや使用人達に囲まれながらたった二人だけで、会話もなく食事を進めていく。文官達から急ぎの報告をジークヴァルトが受けているのもいつもどおりだ。
食事の風景は、以前はもう少し賑やかだったと思う。
父が文官や騎士達から報告を受け、なにかを指示したりしているのは今も同じだが、その合間にリーゼロッテは一日なにをしていたかと報告したり、褒められたり、ちょっと叱られたりもしていた。今はそんなささやかな触れ合いもない。
勉強を教えてもらっている為にジークヴァルトとは一日中ほぼ一緒にいるので、そういう報告などが必要ないということもあるのだろうが、とにかく会話がない。カトラリーが皿を擦る音と、給仕係が盛りつける量の確認をする声だけが時折静かに響く。
料理人が腕によりをかけて作ってくれただろう料理が、重苦しい沈黙の満ちた中で食べるので、ちっとも味を感じられない。美味しいとも不味いとも思えない。それが少し申し訳ない気持ちになりながらも、盛りつけられた分はなんとか残さずに食べきった。
食後のお茶は勉強しながら執務室で、と言われ、リーゼロッテは指示されたように領主の執務室へと移動する。
「――…さて」
茶器の用意が済んで側仕え達が下がると同時に、ジークヴァルトが切り出した。リーゼロッテは教科書をぐっと握り締めて身構える。
「教科書をただ読み聞かせるだけなら造作もない。お前にはそれより前段階の情報が足りていないと認識したうえで、初歩の初歩から説明することが望ましいだろうと判断した」
その言葉に、リーゼロッテは僅かに瞬いた。
「大抵の子供は、七歳の披露目のあとから十歳になるまでに多少は予習をしているものだ、ということだ。お前にはその期間がなかったことに今更ながらに気づいた」
そこで一度言葉を区切り、なにか考えるような表情になる。
何度かリーゼロッテの方に視線を向けては唇を僅かに開け閉めする様子から、わかりやすく説明する為の言葉を探しているのだろうか、と予測してみる。教科書が読めないと言ったことを気にかけてくれているのだろう。
その予想はだいたい当たっていたようで、ようやくジークヴァルトから向けられた言葉は、普段の彼のものに比べれば随分と平易な言い回しだった。
「魔術というものは、貴族に生まれついた者には必須の知識であるが、本来ならば十歳を超えた頃から習い始めるものとなる。それは何故だか、わかるか?」
「十歳から十二歳ぐらいで、魔力が安定するのだと聞いたことがあります」
リーゼロッテの答えにジークヴァルトは頷いた。
「個人差はあれど、だいたい十歳になる頃に魔力を思いどおりに扱えるようになる。それまでは加減や調節が上手くいかないといえばわかりやすいか。燭台に灯す程度の火を熾そうとして、暖炉を炎上させるようなことになったりもする」
そもそも生まれ持った魔力というものも強弱に個人差がある。平民なら生活に必要な魔石や魔術具を動かす程度の微弱な量を持つ程度だが、貴族となれば国を支えることが出来る程にもっと強大だ。その魔力を正しく使えるようになる為に魔術学が必要となる。
そして、貴族には誕生してから成人までの間に、二度のお披露目の機会がある。
一度目は三歳になったときだ。生まれたばかりの子供は虚弱な者が多く、すぐに死んでしまうこともあるので、誕生したこと自体を親兄弟以外にわざわざ報せることはない。三歳を無事に迎えれば近しい親族にその誕生を伝えることになっている。
次は七歳だ。七歳まで育てば多少の病気で死ぬようなこともなくなり、生まれ持った魔力量もおおよその見当がつくので、友人知人や上司や家臣などにも周知することでようやく貴族社会の一員として認識されるようになる。この年に貴族として生きていくうえで必要な魔力量に満たないと、隠匿されて育つことになる場合もあるという。
因みに、平民の子供達も三歳になると外へ出るようになり、五歳になる頃から家の手伝いで森や川で食材採集をしたり、七歳になると街中で盛大に祝い、市民権を得て見習い仕事などを始めるらしい。七歳にならないと社会の一員として正式に認められないという点では、平民も貴族もまったく同じだ。
魔力を持つ貴族の子供と認められたあと、その能力がどれだけのものか判断がつくようになるには、更に数年かかるらしい。その目安とされているのが十歳から十二歳ぐらいなのだという。
そういう基準からの年齢制限だったのか、とリーゼロッテは納得し、ジークヴァルトの説明に頷いた。
「本来ならば、七歳の披露目を終えたばかりのお前にはまだ早い。だが、ラウレンツからその指輪を継承したことで、お前は既にクラウゼヴィッツの領主となってしまっている。それ故に、早急に魔力の扱いを習得してもらわなければならない」
顎先で左手の指輪を示され、リーゼロッテは緊張を含んで頷いた。
領主となってしまっていると言われても、執務はすべて有能な文官達が行ってくれているし、決裁が必要なものもジークヴァルトが処理してくれているので、まったくその実感が湧かない。けれど、証の指輪が自分の手に嵌まっているのだから、確かに領主に就任しているのだ。
「要塞を稼働させる為には領主の魔力が必要だ。先達ての襲撃のようなことがまたあると困るというのが、急ぐべき最大の理由でもある」
その説明にギクリとした。
先達ての襲撃――それはリーゼロッテのお披露目式での強襲であり、父や母の命を奪った事件のことだ。
たったふた月前のことであるが、そのときのことはあまりよく覚えていない。襲撃を受けて父が庇ってくれたらしいのだが、防ぎきれずに生死の境を彷徨うことになり、それ以降のひと月近くを寝台の上で過ごしていた。その間に代行許可証を得たジークヴァルトが指揮し、ハーゲンドルフの侵攻を食い止めてくれた為、リーゼロッテは事件の詳細をほとんど知ることなく終えている。
「でも、おじ様が代行を……」
そこまで言いかけて、それが失言ではないかと思って慌てて口を噤む。
やはりあまり口にしてはいけなかったことらしく、不機嫌そうに睨まれた。
「領主代行は、領主からの許可証があればもちろん務められる。だが、当代のクラウゼヴィッツ辺境伯は誰がなんと言おうともお前だ、リーゼロッテ。生死の境を彷徨っていたあの頃は別として、いつまでも他人任せにしているわけにもいくまい」
「……はい」
頷きながら項垂れる。頼りすぎているのはわかっていたことだけれど、はっきり言われると自分が情けなくなる。
しょんぼりと俯いてしまったリーゼロッテに向かい、ジークヴァルトは苦々しい表情を浮かべた。
「要塞の稼働っていうのは、正当な主である領主本人でなければ、かなり魔力を食うんだ」
嫌そうに吐き出された言葉に、顔を上げる。
「ただの建物だろうと思っているかも知れんが、要塞というのは基本的に存在自体が巨大な魔術具だ。正式に登録された領主の魔力を注ぎ込んで動かすことになっている」
使用者を限定した魔術具だといろいろな制約が課されることになる。要塞の場合は魔力の消費量だろう、とジークヴァルトは言った。
「戦闘中に使用出来なくなるという最悪の事態を回避する為に、領主以外の魔力でも動くようにはなっているようだが、あれはかなり疲れる。緊急事態でもなければ遠慮させてもらいたいものだ」
領主以外が魔力供給させるのならば、数人がかりで運用するのが本来のものなのだろう、と溜め息混じりに言われる。
元々中央の騎士団に所属していて部下を何人も抱えているし、用兵にも自信はあったのだが、今回はしばらく離れていた為に馴染みの薄いクラウゼヴィッツの騎士団を指揮することとなり、今はどういう人員がいるのかもわからず、勝手が随分と違った。それ故に、魔力供給を手伝わせることを躊躇ったのだという。
普段はあまり表情を変えないジークヴァルトの目に、はっきりと嫌そうな雰囲気が滲んでいる。口調も突き放すような感じで、厭わしいという感情がありありと感じられた。
説明された内容の意味はよくわからなかったが、よほど大変だったのだろうということはさすがにわかり、リーゼロッテは溜め息をついた。
あの襲撃事件は僅かにふた月前のことではあるが、ジークヴァルト自身が特になにも言わないし、城の者達も気を遣っているのか口にしないので、どういう状況だったのかあまり多くのことをリーゼロッテは知らないでいる。本当は知っておくべきことだとはわかっているのだが、まだ恐くて、多くを聞きたいとは思えなかった。
僅かに青褪めた表情からその心中を察したのか、ジークヴァルトは話題を変えるかのように、教科書を開いた。
「そういった事情だから、お前には少しでも早く魔術を覚えてもらいたいと思っている。最低限、魔力の正確な使い方だけでも、な」
「はい」
「故に、少々急ぎ足になると思う。わかりやすく説明するようには心がけるが、それでもわかりにくければ躊躇わずに質問をしたり、更に詳しい説明を求めたりしなさい」
急ぎ足という言葉に内心げんなりしつつ、今忌避しようともいずれ通らねばならない道なのだ、と己を奮起させ、リーゼロッテは緊張した面持ちで頷いてペンを取った。