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リーゼロッテの後見人  作者: 秋月 菊千代
1章 幼女領主と後見人
14/19

13 リーゼロッテの抵抗



 擦りむいた掌や、ぶつけた膝が痛い。でも、そんなことで泣いている暇なんてない。

 リーゼロッテはぐっと唇を噛み締めて痛みを堪え、懸命に走る。

 真っ暗な、よく知らない建物の中を走り回るのは不安で恐くて仕方がないが、捕まるわけにはいかないのだから仕方がない。


「リーゼロッテ様。この暗い中、追いかけっこですか? 危ないですよ」


 追い駆けて来る足音は走ってはいない。少し早歩きでついて来る。リーゼロッテの短い手足の進む距離など、歩いてでも簡単に追いつけるということだ。

 騎獣に乗ればもう少し早く逃げられるだろうが、この要塞はどの窓も狭い。外部からの攻撃を防ぎつつこちらの射手による反撃と明かり取りが前提であるらしく、横幅がとても狭くて縦に細長いのだ。小さなリーゼロッテ一人でさえ通り抜けるのがやっとという寸法に設計されている。


「うぅ……っ」


 魔術具をいつでも投げられるように右手で握り締めながら、左手には騎獣の魔石を握り締める。

 とにかく外に。広い場所に出てしまわなければ、逃げ場のない室内故に自分も巻き添えを食ってしまう可能性がある為、持たされている魔術具での反撃も出来ない。

 一応、階下に向かっている筈なのだが、今何処にいるのかよくわからない。要塞がこんなに複雑な構造をしているとは知らなかった。ジークヴァルトやマリウスにもっと案内しておいてもらえばよかった、と後悔が湧き上がるが、今となっては遅すぎる。


 ようやく見つけた次の階段に辿り着き、駆け下りようと向きを変えたところを、また攻撃された。

 今度も上衣に縫いつけられた防御の魔法陣が防いでくれたが、衝撃はやはり少しだけある。そして、三枚縫いつけられていた魔法陣を二回使ってしまったので、あと一度しか防げない。

 転がったところをすぐに飛び起き、握り込んでいた魔術具を投げつけてから階段を駆け下りる。ボンッと音が聞こえ、恐らく攪乱用の煙が広がったことだろう。

 しかし、どうせ一本道だ。一瞬の足止めにはなっても、そのまままっすぐ向かってくればいいのだから、たいした時間稼ぎにはなるまい。

 次は雷撃が飛び出すという魔法陣の描かれた紙を握り締めながら、何度か通ったことのある一階の廊下に出たことに気づき、騎獣に飛び乗って出入り口を目指す。ここなら階上よりも少し広いから速度を最優先に出来る。


 出入り口付近に近づいて来たとき、外の方が明るいことに気づいた。夜間に灯される篝火ではない。もっとたくさんの灯りだ。

 なにかがおかしい。なにかこれは危険な感じがする――けれど、逃げる為には外へ出なければどうしようもないので、警戒しつつも飛び出した。


 そこにいたのは、鎧を纏った兵士の軍団だった。


 リーゼロッテが飛び出したと同時に、その集団の何人かもリーゼロッテの姿に気づいたようだ。まわりに注意を促すように叫んでさっと弓を構え、一斉に射かけてくるのを寸でのところで躱して上空へ駆け上がる。

 敵だ、と瞬時に気づいて握っていた魔紙を振るう。閃光と共にバリバリッと激しい音が鳴り響き、効果範囲にいた兵達の金属製の鎧を目がけて雷撃が降りかかった。

 攻撃を受けた兵達から悲鳴が上がり、その騒ぎに、リーゼロッテの出現に気づいていなかった他の者達も振り返った。


「魔獣だ!」

雪天犬(シュネーフント)だぞ!」


 わっと声が上がり、一斉に弓矢が構えられるし、長槍も突き上げられた。リーゼロッテはそれを慌てて躱しながら、次の魔術具を投げようと隠しに手を突っ込む。


「――わっ!?」


 攻撃を躱すことと魔術具を探すことに意識を向けてしまっていた為、騎獣の操縦が疎かになっていた。自らの意思で動くことのない魔術具の騎獣であることの弱点だ。

 高度を上げきる前に取り網をかけられる。ぶわっと進行方向から投げられたそれに、為す術もなく突っ込んで絡め取られてしまった。


 網目に絡まって藻掻いた瞬間、魔力が激しく動くのを感じた。あれ、と不思議に思う間もなく跨っていた騎獣が消え、浮いていた身体は下に向かって真っ逆様に落ちていく。

 地面に叩きつけられる衝撃は、最後の魔法陣が防いでくれた。あまり痛くはない程度になりはしたが、寝台から床に落ちたときと同じぐらいの痛さはある。


「……うぅ……っ」

「なっ!? 子供だぞ!?」

「女の子だ!」


 とどめを刺そうと駆け寄って来た兵士達が驚いたように声を上げ、一旦剣を退く。

 なんで騎獣が消えてしまったのだろう、と疑問を感じながらまわりを素早く見回してみる。取り囲む兵士達の鎧の形状はクラウゼヴィッツのものではない。胸や肩に刻まれた所属を表す紋も違う。


「手を出すな」


 やはりこれは敵兵だ、と確信を持つと同時に、聞き慣れた声が響いた。

 リーゼロッテは奥歯を噛み締めるようにして力を込めて起き上がり、ゆっくりと余裕を持って近づいて来る声の主を睨みつける。


「……ディード」


 傍まで来て足を止めたディードは、にっこりと、見慣れた朗らかな笑みを浮かべた。


「暗い中を走り回っては危ないと申し上げたではないですか、リーゼロッテ様。お怪我はありませんか?」


 心配しているようなことを白々しく口にして、助け起こす為に手を差し出してくる。リーゼロッテはその手を睨みつけたまま、網から出ようと身動いだ。


「あぁ、あまり動かない方がいいですよ。その網は魔力を吸い取る性質がありますから」


 魔力が枯渇してくれた方が扱いやすいが、と恐ろしいことを口にされたので、ぴたっと動きを止める。

 それが本当かどうかは知らないが、絡め取られたときに魔力が激しく動くのを確かに感じたし、その所為で騎獣が消えたのだというのなら説明がつく。


 これ以上魔力が吸い取られるのはまずい。どうするのが正しいのかなんて知らないが、とにかく外に流れ出さないように、箱に詰め込んで蓋をして、まわりを布でぐるぐる巻きにする様子を思い浮かべながら魔力を体内に閉じ込めてみる。

 すると、左手の指輪と右手首のヴィレゼーレには僅かに魔力が流れるのは感じるが、他からは漏れないようになった。この二つはリーゼロッテの魔力と密接に結びついているので、魔力が流れるのを止めようがないのだろう。しかし、これで最小限に抑えられた筈だ。

 魔術具を使うのに必要だから、と魔力の扱い方を習っていてよかった。外に流れるのを止めようと思ったら、今までと逆のことをすればいいのだから。


 安堵しつつ、ディードを見上げる。領主らしく毅然とした表情で。


「ディード、あなたが裏切者だったのですね」


 言われたディードは、ちょっとだけ口の端を上げて肩を竦めた。

 ジークヴァルトとマリウスが言っていたのだ。先達ての襲撃は手際がよすぎたので、領内に内通者がいるかも知れない、と。

 それがまさか、こんな身近の人間だとは思わなかった。

 悔しさと腹立ちに唇を噛み締めていると、身軽く近づいたディードが軽々とリーゼロッテを抱え上げる。


「なっ、なにをするのですか!?」


 未だに網に絡まったままでは逃げることも出来ず、なんとか足をばたつかせるが、成人男性の騎士であるディードの腕はびくともしない。


「会って頂きたい方がいるだけです。言うとおりにしていてくだされば恐いことは致しませんから、お静かに」


 穏やかな口調でそう言って、リーゼロッテの小さな身体を丁寧に抱え直す。


「屋内にはまだ薬が効いている。今しばらくここで待機だ」


 まわりの兵士達に指示を出すと、訓練場を通り越して塀の方へと歩いて行く。

 薬という言葉に納得だ。マリウス達が倒れていたのはその所為なのだろう。全員の様子を確認したわけではないが、恐らく要塞の駐屯騎士達は全員マリウスと同じように倒れている筈だ。


 それにしても、ディードはいったい何処へ向かおうというのか。進行方向には固く閉ざされた門があるだけで、他にはなにもない筈だ。

 しかし、その閉ざされていた筈の門が開いていた。


 何故、と疑問に思う間にも、ディードはどんどん歩みを進めて行く。まっすぐに大きな門を通り抜け、すっかりと降ろされている吊り橋を渡って行くのだ。


「ディード……」


 どういうことですか、と問おうとして、それは愚問だとすぐに気づく。ディードか、彼の仲間が開けたに違いない。だから、要塞の前広場にクラウゼヴィッツの者ではない兵士達があんなにもたくさん揃っていたのだ。

 いくら頑丈に閉ざしていて、外からは開けられないようになっていたのだとしても、こうして内側からなら簡単に開けられてしまう。

 もちろん要塞自体には守護の魔術がかけてある。けれど、クラウゼヴィッツの民として暮らしていたディードは、敵ではなく、身内だと判定されてしまって意味を為さないのだ。


(……あれ?)


 そこで違和感を抱いた。

 先程リーゼロッテを取り囲んだ兵士達は、要塞の中にいた。領民以外は弾く守護の結界が張ってある筈なのに、すっかりと侵入していたのだ。

 どうにもおかしい。結界の効力が打ち消されてでもいるのだろうか。それとも、なにか別の抜け道のようなものがあるのだろうか――わからない。


 初めて目にする要塞の外の景色に緊張しながら、リーゼロッテは慎重に距離を目測する。

 マリウスの異変を察してニコラウスに助けを求めに行くときに、額飾りは身に着けて出て来た。だから、ここからでも要塞を稼働させることは出来る筈だが、敷地から出てしまっていても届くものなのだろうか。今は魔力の流れを極力押さえ込んでいる状態なので、そういったことも感じられなくなってしまっている。


 とにかく、この網をどうにかしなければ身動きが取れない。

 こうしている間にも敵兵達が領内に送り込まれて行っているのかと思うと、気持ちだけが焦る。


「しかし、何故、リーゼロッテ様には効かなかったのでしょうね」


 どうすればいいのかと必死に考えを巡らせていると、ディードが不思議そうに呟いた。

 すっかり馴染んだいつもの口調だったので、リーゼロッテはあまり警戒せずに瞬く。


「今回は被害を最小に、手っ取り早く要塞を奪うのが目的だったので、結構強めの痺れ薬を散布したんですよ」


 薬によって騎士達の無力化を図り、素早く占拠する手筈だったのだ、と言う。

 騎士達を始末するにしても、自由を奪ってあるから占拠後にゆっくりとすることも出来る。そのまま生かしておいても人質として使うことが出来るし、捕虜として連れ帰って労働力とすることも出来る、と人手の使い道を呟いた。


 リーゼロッテが薬の効果が届かないと思われる部屋にいることはわかっていたので、まずは護衛を兼ねているマリウスの自由を奪い、改めて薬の充満した場所へ誘き出せばいいと思っていたらしい。それなのに、外に出て来たリーゼロッテは追いかけっこをしてもピンピンしている。お陰で余計な時間を使ってしまった、と溜め息をつかれた。

 そんなことを言われてもわかるわけがない。体質かなにかではないだろうか。


「……では、毒ではないのですね?」


 慎重に尋ねると、ええ、と軽い頷きが返された。


「強いといっても永続するわけでもない。明日の陽が昇りきる頃には多少動けるようになりますよ」


 それが本当かどうかはわからないが、取り敢えず信じておくことにする。命に別条がないのならいいのだ。

 そうこうしているうちに橋を渡り切り、黒々と茂る森へと足を踏み入れて行った。

 この森の少し先が、ハーゲンドルフとの国境だ。緊張からごくりと喉が鳴る。


「バルタザール卿」


 ディードが声をかけると、まわりからさっと人が集まって来た。


「――直接顔を合わせるのは初めてか。ドミニクの息子、だな?」


 集まって来た中の一人が面頬(バイザー)を上げて尋ねるのへ、ディードは頷き返して敬礼した。その様子にバルタザールという男はにやりと笑う。


「その抱えているのが……?」

「はい。クラウゼヴィッツ辺境伯ご本人でいらっしゃいます」


 答えたディードはようやくリーゼロッテを下ろしてくれたが、網は外してくれない。ぐるぐると絡まったままバルタザールと対峙することになった。


「お初にお目にかかります、クラウゼヴィッツ辺境伯。わたくしはブロン子爵バルタザールと申します。わざわざご足労頂き、恐縮に存じます」


 大仰な仕種で、わざとらしいほど丁寧に慇懃無礼な挨拶を寄越してきた。

 リーゼロッテは一度唇を引き結んでから、キッと顔を上げる。


「別に、望んで来たわけでも、ご招待を受けたから来たわけでもありません。恐縮しなくてもいいです」


 その答え方にバルタザールは片眉を上げる。


「あぁ、そうでしょうな。言葉選びを間違えたようだ。どうぞお気を悪くなさらず」


 指揮官らしいバルタザールは笑みを含んだような口調で軽く応じたが、周囲の者達は僅かに警戒するように気配を鋭くした。だが、小さく顎を引くような仕種をしただけで指示を理解したらしく、剣を向けて踏み込んで来ることはない。


「お小さくていらっしゃるのに、なかなかしっかりした姫君でおられる。今、おいくつだったかな?」

「……そんなお話をする為に、私を連れて来たのですか?」


 しっかり統率の取れているらしいここの者達は、要塞にいた兵士達と雰囲気が随分と違う。あちらは烏合の衆のような印象を受けたが、こちらは規律正しい感じだ。

 ハーゲンドルフもフロイデンタールの組織図と同じようなものと想定するならば、どうやらこちらが貴族階級の騎士達を主力にした正規軍人で、侵入していたのは徴兵で集められた平民の兵士達のようだ。

 周囲を探って状況を把握しようと思考を巡らせていると、その様子に気づいたのか、バルタザールは可笑しそうに笑う。


「いやいや。世間話をする為に呼んだわけではないとも。貴殿に頼みがあるのだ、クラウゼヴィッツ辺境伯」


 ガシャリと鎧を鳴らして一歩前に出ると、すぐ手の届くところまでやって来て見下ろす。


「我々をクラウゼヴィッツに入れて欲しい」


 木立ちの合い間から降りかかる月光に照らされ、バルタザールがにやりと笑みを浮かべるのがはっきりと見えた。薄い青の瞳が楽しげに見つめている。

 馬鹿なことを、とリーゼロッテは眉を寄せた。


「勝手に入ればよいではないですか。その為に攻めて来たのでしょう?」


 跳ね橋は降りていて、既に何十人もの兵士達が入り込んでいた。手引きしていたディードだっていたのだし、守護の要である領主はここに捕らえられている。こんなところで屯していないで進撃すればいいだけだ。

 そもそも、防衛する立場の領主に許可を求めたところで否と答えるのがわかっているだろうに、わざわざ連れ出して対面してまで言う必要があることではないだろう。

 そんなリーゼロッテの言葉に、バルタザールは「いやいや」と溜め息混じりに首を振る。


「跡目を継がれたばかりでご存知ではないのかな? あの要塞には、他国の魔力持ちは侵入出来ぬのだよ」


 そういう造りなのだ、と言う。

 他国の者でも、平民のように生活に必要な魔術具を使える程度の魔力量なら入れるが、貴族に籍を持つ程の魔力量になると入れない。守護の結界にはそのような振り分け機能が付与されていたらしい。

 だから侵入して来ていたのは平民の兵士達が主で、リーゼロッテに向かって攻撃を仕掛けてきても魔術による攻撃はなく、弓矢や槍などの物理的な攻撃ばかりだったのだ。魔力がほとんどない平民は戦闘に武器を使うのが基本だ。


 先程抱いた違和感の答えはこれで片づいた。納得しつつ、初めから知っていたような顔で「そうでしたね」と頷き返すと、バルタザールはニッと笑みを深める。


「だから、貴殿の客として、我々を城内に招き入れて欲しいのだ」


 許可証を書いてくれればいい、と言いながら軽く手を振ると、従者らしい簡易鎧の青年が筆記用具の乗った盆を持って近づいて来た。


「貴殿が一筆くれれば、我々は無駄な戦闘を行わずに入城出来る。戦闘がなければクラウゼヴィッツの兵力にも損害はない。双方に益となる提案だと思うが?」


 益となる提案――その言い回しに、リーゼロッテは嫌な記憶を突かれた。

 頭の端をちらついた赤毛の少年の幻影を振り払って眉根を寄せ、バルタザールを探るように見上げる。


「入城を許したあと、あなた方が私達に酷いことをしないという保証がありません。取り引きには応じられないです」

「ほほぉ! これはまた……。本当に驚くほどに落ち着いていて賢いな」


 心から感嘆したような口振りで褒める。その様子にリーゼロッテは目を眇めた。


「その賢い辺境伯なら、これを断れば自分がどうなるか、わかっているのだろう?」


 意地の悪い口調で言われるが、そんなことが予想出来ないほどに知識が足りない筈がない。左手の指輪をそっと撫でてから頷いた。


「ならば、大人しく許可証を書け。わたしもさすがに、自分の孫よりも幼い娘を手にかけるのは気が引ける」

「嫌です」

「辺境伯……」


 きっぱりとした答えにバルタザールは悲しげに溜め息を吐いた。


「先程、斥候が来た。すぐにそちらの軍がやって来るだろうし、そうなると酷い戦闘になる。もう時間がないのだ」


 さあ、と示された従者の青年がぐっと詰めて来た。


(どうしよう……どうすればいいの? おじ様、どうすれば……っ)


 目の前のバルタザールと、その横合いから筆記具を差し出してきている青年と、背後に控えているディードの気配へと意識を巡らせる。

 この状況を切り抜けるにはどうすればいいのか。斥候が状況を確認して戻ったのなら、もう少し待っていればジークヴァルトかウーヴェが騎士達を率いて来てくれる筈だ。

 だが、それを待っている時間は恐らくない。

 今すぐに決断しなければ、バルタザールはリーゼロッテを殺すだろう。主を失えば、要塞に施された防御の魔術は効力を失うし、指輪を奪われて領主の権限が移動してしまえば、ジークヴァルトの持つ代行証も失効して要塞の核に触れられなくなる。


 悩みに悩み、バルタザールの気配に苛立ちが混じり始めた頃、リーゼロッテは「わかりました」と静かに答えた。


「許可証を書きます」

「いい子だ」


 バルタザールの頷きに、従者の青年がペンをインクに浸して差し出してきた。


「……この網を解いてください。書けませんし、署名の為の魔力も使えません」


 書類を正式なものとする為には、魔力を付与した印影か署名が必要だ。そのどちらかがないとただの個人的な口約束のようなもので、効力を一切持たない。


「そうだな。解いてやれ」


 命じられたディードが手早く網を外してくれる。中から藻掻いても取れなかったのに、外側からは案外簡単に解けてしまうものだ。

 ようやく自由になったことに安堵し、指輪を撫でてから、肩から斜めにかけていた鞄をそっと撫でる。布地越しにまるっとしたその感触を確かめて勇気をもらった。


「さあ、こちらだ」


 騎獣の魔石は手許にない。ディードが拾っているか、落下したところに落ちたままになっているだろう。つまり、今のリーゼロッテには、逃走手段はないということだ。

 けれど、魔力を奪う網を外してもらえたので、魔力を使うことは出来るようになった。


(攻撃……っ、私がいるところに向かって、攻撃すれば!)


 要塞を動かせるのは領主だけだということだが、その使い方はまだ習っていない。夢の中の父にも教えてもらえなかった。

 だが、今は核にたっぷりと魔力が貯蔵されている。多少の無茶も利く筈だ。

 要塞とは巨大な魔術具なのだという。つまり、魔術式は既に組み込まれていて、魔力を与えて起動させればいいだけの筈だ。


 思い出せ。初めて魔力を供給した日、ここからでは外の様子が見えない、と考えた瞬間、窓ひとつない部屋の中でも外の景色が見えるようになり、しかも思い浮かべた場所を映し出せたことを。

 はっきりと思い浮かべて命じれば、要塞は必ず応えてくれる。明確な指示を出せばいいだけの筈だ。


 自分がいる場所に向かって攻撃するのだ――そう考えた瞬間、いくつもの魔術式が頭の中に浮かんだ。

 魔術を使う為には、命令を組み込んだ魔法陣を用意するか、呪文を詠唱して発動させるのが条件だということは知っている。魔術具は魔術の使い方を知らず、魔力も微量な者でも使えるように、用途を限定して魔術式を組み込んだ道具だ。


 要塞に組み込まれていた魔術式は、大きく分けて攻撃と防御。それぞれに強弱何種類かのものが用意されているようだ。どうりで動かす為に大量の魔力を必要とするわけだ。

 そのうちのひとつ、近距離に広範囲で攻撃を仕掛けられる術式を選んだ。


「辺境伯、早くしろ」


 なかなかペンを手にしないリーゼロッテに、バルタザールが苛立った声を向けた。その瞬間、指輪と額飾りに向かって魔力を一気に流し込む。


「――!? 小娘……っ!」


 リーゼロッテが魔力を動かしたことを察知して、バルタザールがさっと顔色を変えた。

 押さえ込もうと大きな手が伸びてくるが、その手に捕まる前に、頭の中に浮かんだ呪文を口にした。


雷鳴の矢(ブリッツシュラーゲン)!」


 瞬間、要塞の上にいくつもの魔法陣が発動し、直後に幾筋もの雷撃が降り注ぐ。

 雨霰と降り注ぐ雷撃は、森の中に潜んでいたハーゲンドルフの騎士達に襲いかかる。リーゼロッテの異変に気づいていたバルタザールは咄嗟に防御の魔術を発動させたようだが、他の者達は間に合わず、あちらこちらから悲鳴が上がった。


 目標地点を自分の周囲として攻撃魔術を発動させたので、リーゼロッテにも攻撃は掠っていた。クラウゼヴィッツの民のことは避けるとか出来るのかと思っていたが、そこまで便利なものではなかったらしい。


「……っ、小娘ぇえええぇぇぇっ!!」


 怒りに満ちたバルタザールの声が聞こえたときには、起き上がろうとして上げかけた頭を掴まれ、地面に叩きつけられるように押さえつけられていた。

 力任せにガツンとぶつかった側頭部は物凄く痛かったし、首のあたりもグキリと変な音がした。身体の下に巻き込んだ右腕と肩も痛い。その何処も折れていないことを祈る。


「こちらが温情をかけてやれば、生意気なことを……っ」


 荒い息を吐きながら、バルタザールが明らかに憤怒を感じさせる声で言う。

 多少なりとも紳士的に優しく振る舞ってくれていた敵将を、当たり前のことながら完全に怒らせたようだ。さすがに命の危険を感じて、リーゼロッテは僅かに息を飲んだ。

 それでも、屈するわけにはいかない。


「――…私は、クラウゼヴィッツの領主です」


 痛みを堪えながらの涙目でも毅然と睨みつけると、バルタザールの口許が微かに歪む。


「たとえ自分の命を失おうとも、民を護るのが、領主です!」


 そのリーゼロッテの言葉に気圧されたかのように、押さえつけているバルタザールの手が僅かに緩んだ。


「私の領地を攻めて来ている侵略者に屈するつもりなどありません!」

「……そうか。ならば死ね」


 先程までの怒気を消した声で呟くと、バルタザールは腰の剣を抜いた。


「いや、殺すのは早いか……。この腕を奪い、お前は生かしたまま、お前の魔力を使わせてもらおう」


 初めからこうした方が簡単だったのだ、と小さな呟きが零れる。領主を生かしたまま証を奪い、それを持って要塞に乗り込めばいいだけだ。そうすれば弾かれることもない。

 言うが早いか、ぐったりとしていたリーゼロッテの左手を掴み、剣を振り上げる。


 襲いかかるだろう痛みを想像し、リーゼロッテはきつく目を閉じた。




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