プロローグ
「おやめください!」
途切れ途切れの意識の端で、女性の金切り声が聞こえた。
よく聞き知ったその声の主は、恐らく乳母のエッダだろう。けれど、今までに聞いたことがないくらいに怒っていて、それでいてとても焦っているような声だと思った。
「時間がない。下がれ」
そのエッダを叱りつけるような男の声が続く。こちらはまったく記憶にない声だ。
「姫様はお目覚めになられたばかりです! お目覚めになったとはいっても、意識もまだはっきりとはしておられません。せめて明日までお待ちください」
「時間がないと言った」
厳しく切って捨てる男の声に容赦はない。
まだ若そうな印象の声だというのに、口調は随分と硬質だ。朦朧としているリーゼロッテでも竦み上がってしまうような、とても恐い声だと思った。
「ですが、姫様は……」
「下がれ」
尚も言い募るエッダを払い除けたのか、冷たい声音のあとに「あっ」と小さく悲鳴が上がり、倒れ込むような音が続いた。エッダ様、と呼ぶ侍女達の声も聞こえる。
「リーゼロッテ」
重たい瞼を必死に押し上げて、いったいなにが起こっているのか確認しようとしていると、早歩きの靴音が近づいて来て、先程の聞き覚えのない若い男の声に名前を呼ばれた。
「リーゼロッテ・フラウリーゼ」
もう一度呼ばれたので、さすがに返事をしなければ、と口を動かしたが、声が出ない。音にならない呼吸で喉がひゅうと鳴るだけだ。
「声はまだ出せないようだな。目も焦点が上手く合っていない……。首は動かせるか?」
問われ、動かしてみようと力を入れる。ゆっくりと小さくだが、なんとか動かせた。痛みも特にはない。
「わたしの言葉は聞こえているか? 理解出来ているか?」
矢継ぎ早にされる質問に小さく頷き返した。
彼が誰だかは知らないが、耳がうわんうわんと変な音を拾っていてもその声はなんとか聞こえているし、言っている内容も理解出来ていると思う。でも、意識はまだぼんやりしているので、難しいことを言われたら答えられないかも知れない。
「では、今からわたしの言うことに、了承する意味で頷くんだ。いいな?」
彼の言い方だと、これから告げられることに関して、どうやらリーゼロッテに拒否権はないらしい。
すごく無体なことを強要されたらどうしよう、と朦朧とする幼い頭で考えながら、それでも小さく頷くしかなかった。
「ここに国王陛下からの攻撃許可証がある。しかし、クラウゼヴィッツの要塞を動かす為にはクラウゼヴィッツ辺境伯の承認が必要だ。わたしを領主代行に任じたうえで、その要請を承認しなさい」
ぼんやりとした視界に何枚かの紙を差し出される様子が、まるで影絵を見るかのように映し出される。それでもリーゼロッテには意味がわからなかった。
クラウゼヴィッツ辺境伯を名乗っているのは父だ。リーゼロッテはその一人娘であるが、まだ十歳にもならないし、公務に関わることは一切していない。
そのような書類ならば父のところに持って行ってくれればいいのに、と思って首を傾げると、周囲から僅かに息を飲むような気配が漂った。
「ラウレンツは――お前の父は、十日前に亡くなった」
静かに零された言葉の意味がわからなかった。
「襲撃を受けたんだ。近くにいたお前に癒しの術を施して、亡くなった」
男の声が淡々と説明してくれるが、リーゼロッテには理解が出来ない。彼はいったいなにを言っているのだろうか。
「混乱するのはわかる。だが、今は一瞬でも時間が惜しい。お前が昏睡状態だった所為で既に十日の時を無駄にしている。これ以上はこちらの兵力が保たない」
領主の承認が下りなかった為に要塞を稼働出来なかった、ということを手短に説明される。反撃に転じることが叶わないまま、防御に徹しながらなんとか十日を切り抜けたということだ。
このような事態を想定されて、辺境伯の代行許可証というものが存在していることは知っている。領主がその職務の遂行が困難な状態になったとしても、代理の者がその権を行使出来るように設定されているものだ。
しかし、その書類が有効なのは、新しい領主が立つまでの間のことだ。新しい領主が立った時点で、先代の発行した許可証は失効することになっていた。
「今はお前がクラウゼヴィッツ辺境伯なんだ、リーゼロッテ。泣いている暇はない」
強い口調で言われ、自分が涙を零していたことに気づく。
「お前の命令に、数百の騎士や兵、四十万のフロイデンタール国民の命が懸っているんだ」
その強い口調には同時に焦燥のようなものが滲んでいて、彼の言葉が危急を訴えていることだけははっきりと伝わってくる。
隣国ハーゲンドルフと接するクラウゼヴィッツは、三百年以上昔から国家防衛の要衝だ。いくつもの武勲を立て、国王の信任を得てこの地を与えられたリーゼロッテの祖先達が、野蛮な隣国からの侵略を長年退けてきた。それは大きな誇りである。
そのハーゲンドルフも先代の頃からかなり国力が弱ってきているようで、ここ二十年程は大規模な侵攻もなく、戦況はかなり落ち着いていたのだ。
だからといって、決して油断していたわけではない。それでも、十日前に突如として隣国からの強襲を受け、何人かの騎士や有力貴族を巻き添えに領主は亡くなり、辛くも家督を継承した一人娘は昏睡状態に陥っていた。
「署名は無理だろうから、血判でいい。領主の指輪が嵌まった左手でしてくれ」
国王からの攻撃許可証を拝命した証と、この男を領主代行として要塞を稼働させる許可を与えることに対して、計二つの書状に対して署名が必要なのだという。
血判を捺すだけなら簡単だ。指先を少し傷つけて押しつければいいだけなのだから。
しかし、この聞き覚えのない声の持ち主は、信用に足る人物なのだろうか。
今は混乱が大きくて状況がいまひとつ飲み込めていない状態であるが、領主代行という地位がどれだけ重要なものであるか、それぐらいは幼い自分でもわかる。
意見を聞きたくて、乳母のエッダを呼ぼうと首を動かした。けれど、声は出ないし、目もまだよく見えていないし、それは叶わなかった。
そんなリーゼロッテの様子に気がついたのか、男がエッダを呼んでくれた。
「姫様!」
すぐに駆け寄って来たエッダが寝台の傍に跪き、手を握ってくれる。温かな掌の感触にホッとした。
「ジークヴァルト様は姫様とはごく近しい血縁の方でございます。中央の騎士団に籍を置いていらして、まだお若くていらっしゃいますが、幼い頃よりラウレンツ様の信任はとても厚いお方です。この度は姫様のお祝いの宴にご参列下さっていて、襲撃者の捕縛にも、それに続いた攻撃に対する防衛でも指揮を執ってくださっております」
なにも言わずとも、少し唇を動かしただけで意図を察してくれたらしく、エッダはそう説明してくれた。ジークヴァルトというのが話しかけてきていた男の名なのだろう。
小さく頷き、男の姿を捜す。
すぐ傍に控えてくれていたらしい男は、手早く書類を用意し、差し出したリーゼロッテの指先にナイフを当てた。
僅かな痛みのあとに火傷をしたときのような熱さが続き、ジンジンと痛むそこを書面に押しつけられる。接したところが僅かに熱を帯びた。
魔術に因る契約が交わされた証に、中指に嵌められていた指輪が淡く光る。父の指あったものと同じ指輪だ。
領主の証であるその指輪があるということは、本当に自分が家督を継いだのだ、とリーゼロッテは思い知らされた。再び涙が溢れてくる。
その涙を見ないようにしたのか、ただ単に急いでいただけだったのか、寝台の端に軽く腰掛けていたジークヴァルトはすぐに立ち上がり、リーゼロッテの額に軽く掌を載せた。ひんやりと冷たいけれど、優しさを感じる掌だ。
「お前はもう少し寝ていなさい。その間にすべてを終わらせて来る」
リーゼロッテは微かに頷き返した。
「ラウレンツが守ろうとしたものは、すべて残らずわたしが守る。案ずるな」
そう宣言する声が、父のようにとても頼もしく感じる。また涙が溢れた。
お願い致します――そう言った筈の声は彼には届いていなかったかも知れないが、額に載せられていた掌が撫でるように僅かに動き、それが彼の返事のように感じられた。