④
「ああ、早川さんにとっては『ヨシアキ先生』という名ァの方が馴染み深いかもしれませんね」
「ヨ、ヨシアキ先生をご存知なんですか!」
思わず怒鳴るようにそう問うと、結木は驚いたのかちょっと身体を引いたが、再び柔らかな笑みの気配を目許にたたえた。
「ええ。ボクはおそらく、彼の最後の教え子のひとり……になると思います。実はあの方がおらんようになる直前、預かったものがあるんです」
そう言うと彼は、足元に置いている丈夫そうな黒いキャンバス地の鞄から、大きめの手帳ほどの白いボール箱を取り出した。
「今後もし小波に、宮大工の早川尊さんが仕事で来はったら、ぜひこれを渡してほしい、そう託りました。その頃にはきっと、私がもう預かる必要ないやろうから……、そう聞いてます」
ある予感を持ちながら受け取り、尊はボール箱を開けた。
まず目に飛び込んで来たのは、色の褪めた紳士物のハンカチ。
それをそっと除けると、香りすらほとんど飛んだ紙巻が数本ずつ入った、つぶれた古い、タバコの箱がふたつ。
そして古くて安物くさい、ふたつの使い捨てライター。
(……ああ)
『わかった。そういうことやったら、預からせてもらう』
『だけど、君の言うた言葉に一ヶ所、事実と違うことがあると私は思たで』
『君は決して弱くはないで。自分の悪いところ・弱いところと向き合うのは、大人でも難しいことなんや。でも君は、そうやってちゃんと自分と向き合えてる。……弱い人には出来へんことや』
『君はこうやって自分で考え、自分でより良いと思う行動を、自分の責任で取る子ォやった、初めて会った六歳の頃から。遊びひとつでもそうや、君は私の指導を待つんやなく、自分から色々と提案して進めてゆく子ォやった。私の目ェから見て、君は、光り輝く才能の塊やった』
『これは、君たちのケジメの象徴として私が預からせてもらう。だから君は後顧の憂いなく、新しい道を歩んで下さい。……いつかはウチの神社の改修をお願いしたいと思てますから、エエ職人さんになるよう、頑張ってね』
(ヨシアキ先生……)
あの日の彼の言葉が、尊の中で鮮やかによみがえった。
(やっと小波神社の改修をやらせてもらえるようになりました、ヨシアキ先生。……遅くなってしまいましたけど)
「あの方は言うてはりました」
結木の声が静かに耳朶を打つ。
「色々な人……子供から大人まで、数多く指導してきたけど。早川尊くんほど印象的な教え子はいてへんかったって。彼はまるで、冬の空に輝く明けの明星か宵の明星みたいな、鮮烈な子ォやったって」
あまりにもすごい褒め言葉に、尊は絶句した。
「アオイさーん!」
爽やかな呼び声が境内の空気を切る。
思わずそちらを見ると、車輪の大きな三輪のベビーバギーに赤子を乗せた、つばの広い帽子をあみだにかぶった小柄な女性がいた。
手製らしい布マスクがなかなか洒落ている。
「アオイさん、ソッチの仕事が終わったら一度野崎さんの方へ……あ」
尊に気付き、彼女は会釈する。
「……妻と娘です」
今までとちょっと違う、どこかはにかむような感じに目許をゆるめ、結木は荷物を持ち上げた。
「ほんなら。また後でお会いすると思いますけど、その時はよろしくお願いします」
一礼すると、彼は早足で妻子の元へ向かった。
ウチの息子よりちょっと小さいかな、と、遠目にバギーの中の赤子を見て尊は思った。
夜泣きが大変な頃かもしれないな、とも。
風が一陣。
大樹はうなるような葉ずれの音を響かせた。
尊は『義昭の楠』を見上げた。
はらはらと、新葉と入れ変わる古い葉が舞い落ちてくる。
(……尊くん)
葉ずれの音が、何故かヨシアキ先生の声のような気がした。
(尊くん、輝く星になれましたか?)
「なれた、とは、とても言えませんけど」
つぶやき、尊はマスクの下で微苦笑を浮かべる。
「なりたい、と……今でもずっと、そう思ってます、ヨシアキ先生」
葉ずれの音と共に、木洩れ日がきらきら輝く。
ヨシアキ先生がそこで、ゆったり座って笑っているような気がした。
【おわり】