敗戦国の首席宰相
「この国でもコルンブルーメの花は咲くのだな」
王国の首席宰相たるエッカルトは馬車の車窓から紫色の花を見つけ、そうつぶやいた。
敗戦国の首席宰相であるエッカルトの表情は決して明るいものではない。
ましてつい数年前までは敵国であった共和国にあって、自らを護衛する役割を負っているとはいえ、周りをその共和国の兵士に囲まれているのだ。
「閣下」
エッカルト首席宰相に付く補佐役であるクルトは、普段は傲岸不遜を絵に描いたような男がふと見せた、どこか物悲しげな表情に思わずそう声をかける。
しかし、クルト自身の方がよっぽどひどい表情をしていたか、
「クルト、そんな顔をするな。我々は己の為すべきことを為した。そして俺は今後も為すべきことを為す。それだけの話だ」
と、逆にたしなめられてしまった。
王国が共和国との戦いに大敗してからおよそ六年。
ようやく関係国との調整がつき、講和条約が、今日、成ったのだ。
そのために、エッカルト首席宰相を全権としてクルト達は共和国にやってきたし、そしてつい先程その調印を済ませた。
「これでようやく我が国も独立の一歩を踏み出せる。ようやく……ようやくだ……」
車窓より遠くに視線を飛ばすエッカルト首席宰相の瞳に映っているのは何だったのだろうか。
戦争に敗れ、共和国に事実上占領されてからの六年間。ときに屈辱に塗れながらも、占領軍司令官と渡り合い王国を守ろうとしてきた男だ。その道のりは決して平坦なものではなかったのは容易に想像できる。
不意に遠くを見ていたはずのエッカルト首席宰相の視線は戻り、正面のクルトを捉え直す。
「クルト、敗戦も悪いばかりではなかった。お前もそう思わないか?」
そんなエッカルト首席宰相の顔にあったのは、普段の傲岸不遜な表情だった。
「なにせ邪魔な老人どもが共和国の奴らによって一斉に退場させられたんだ。おかげで俺もこうして首席宰相なんて分不相応な地位につけた」
エッカルト首席宰相の口には笑みもある。
国内では共和国の犬との声もあるエッカルト首席宰相ではあったが、この男がただの従順な犬ではないことをクルトは知っていた。
なにせ占領軍の一部からこの男を首席宰相の地位から引きずり降ろすべきだとの声が上がった際、単身占領軍司令部に乗り込んでは占領軍司令官に、
「閣下の部下はどうもこの俺を辞めさせたいらしい。それも結構なことです。なかなかに占領下の首席宰相という地位は大変なもので、俺も疲れていたところですからな。
ただし――。
閣下の本国での評判はどうなるでしょうなぁ?
なにせ占領下の首席宰相を解任するんだ。占領が上手く行っていないと言われないかと。
ただただそれを心配するばかりですな」
と、たんかを切ったのがエッカルト首席宰相だったのだから。
それを聞いた占領軍司令官の動きは早く、直ちに部下を呼びつけ、以降は今日に至るまでエッカルトを首席宰相から降ろすという意見を一切出させなかった。
そんなエッカルト首席宰相の顔に再び陰が指す。
「俺もそろそろ退場の時期が来た」
思わぬ声に、クルトはまじまじとエッカルト首席宰相の顔を見てしまう。
「何を言われますか閣下! 王国にはまだ閣下の」
そう言いかけたクルトを声には出さず両手だけでエッカルト首席宰相は制した。
「これからの王国は共和国のように議会運営が主体になっていくだろう。そうなれば俺もお役御免だ。俺に議会運営は無理だ」
確かにエッカルト首席宰相は議会政治的な根回しと言った類いが得意ではない。だからこそ一時は占領軍からも解任を求める声が上がったのだし、何より国内にも敵が多かった。
「どうやら俺もオールドタイプのようだ。一対一なら相手にできても、多数は無理だ。何より俺は我慢できんたちだからな。議会政治なんていうまどろっこしいのは御免蒙りたい」
そこまで言うとエッカルト首席宰相はクルトに真剣な表情を向けた。
そして、
「だがお前は俺とは違う。これからはお前のような男が王国には必要になる。だから――」
さながらそれは雷鳴のようであり、
「おい! 共和国の御者よ! 今すぐ馬車を止めろ!」
エッカルトはそう言うと、御者が慌てて馬車を止めると同時に、まるでこじ開けると言った感じで馬車の扉を強引に開き、
「クルト! お前はここで降りろ! 講和条約を結んだのだ、お前の役目の役目はもう終わった! ここから先にはついてくるな!」
と言い切った。
驚いたのはクルトである。
「な、なにをおっしゃいます閣下! 自分は閣下に――」
しかしエッカルト首席宰相はクルトに続きを言わせようとはしなかった。
「お前もわかっているはずだ。今から共和国と結ぶ条約は王国にとって嫌になるほど屈辱的なものになる。
そんなものにお前の名前を残すことはできん。
お前はまだ若い。だからここで降りろ」
そう言いながらエッカルト首席宰相は力強い手で、強引にクルトを馬車から追い出す。
「クルト、王国を頼む」
そう言ったエッカルト首席宰相の声は、強引で力強い手とは真反対の優しさにあふれていた。
王立第二大学を卒業してから十年。
官僚や政治家になりたければ第一大学を出ろと言われる王国にあって、なんとか官僚となったは良いが、地方のドサ周りを続けるしかなかった第二大学出身のクルトを引き上げてくれたのがエッカルト首席宰相であった。
そんなクルトにとって、自らを引き上げ、こうして講和条約の代表になるまで育ててくれたエッカルト首席宰相はまさに第二の父と言ってもいい存在である。
だからこそクルトは、共和国から「講和条約の後にもう一つ条約を結びたい」と打診があったと聞いたときも、迷わずエッカルト首席宰相について行くことを決めた。
あれ程の敗戦をしたのだ。条約の中身こそ不透明ではあったが、おそらくは王国にとって大幅に不利なもの。講和条約という形だけの独立は認めるが、占領は事実上続けるという内容の条約であろうことはクルトにも容易に想像がついた。
しかし、エッカルト首席宰相だけを歴史の悪人にするわけにはいかない。自分ではエッカルト首席宰相の代わりにはなれないが、それならばせめて自分もエッカルト首席宰相とともにその悪名を歴史に刻もう。
クルトはそういう思いを抱き、ここまでついてきたのだ。
それがここに来て――。
「ところでクルト」
強引に馬車から降ろされ、呆然としていたクルトに車上から声がかかる。
「お前、相手はいるのか?」
クルトは車上のエッカルト首席宰相を見上げる。
「これだよ、これ」
そう言ってエッカルト首席宰相は右手の小指をたて、
「なんだ、その顔ではまだいないようだな。
クルト、早く結婚しろよ。
これからの政治は議会政治だ。粘り腰が大事になってくるぞ。
そんなときに支えてくれる嫁を見つけておけ」
と言って、豪快に笑った。
そして馬車の扉が閉まる。
エッカルト首席宰相は窓から顔を出し、
「そうそう、言い忘れていたが、これは首席宰相命令だぞ」
とにこやかに言って、今度は窓も完全に閉まった。
走り出すエッカルト首席宰相のみを乗せた馬車。
クルトはその馬車に深く礼をしながら見送る。
自らの不甲斐なさ。そしてエッカルト首席宰相の深い思いがクルトの胸にじんわりと広がった。
それから月日は数年流れる。
あれからすぐに首席宰相の職を辞し、同時に政界も引退したエッカルト元首席宰相は自宅で妻を相手にぼやいていた。
「やはり礼服は性に合わん」
「何をおっしゃいますかあなた。今日はクルトさんの結婚式ですよ。ちゃんと着て下さいな。ましてあなたは仲人なんですから」
さすがは気難しいエッカルト元首席宰相に長年連れ添った妻か。夫の扱いは手慣れたもので、顔に白粉を塗りながら、そう言って夫に着替えの続きを促す。
「それにしても――」
妻に促されたからか、再びタイをしめるために手を動かし始めたエッカルト元首席宰相は鏡を見てタイの位置を調整しながら、
「クルトはもっと器用なやつだと思っていたんだがな」
と言うと、タイをしめ終えた手を止め、鏡の前を離れた。
クルトも今や首席宰相たる身。まして議会政治も始まって久しく、日々その運営に苦労していると聞く。
なればこそ、自分のような政界を引退した者ではなく、党の重鎮を仲人に指名すればいいのだ。
それにクルトはかなり若い首席宰相であり、ましてエッカルト元首席宰相は政界にも敵が多かった。
それならば党の重鎮を仲人にでもしてやって少しは花を持たせてやれば、ほんのわずかでも議会運営がしやすくなるだろう。
エッカルト元首席宰相はそう思ったからこそボヤいたのだが、彼の妻からすれば、夫の顔を見ずとも、夫の顔が嬉しさからニヤけているであろうことは容易に想像できた。
だからこそ、
「はいはい。ところであなた、準備は終わりましたか? そろそろ時間ですが」
とだけ言った。
そして自らも支度ができたことを鏡で最終確認を行うと、夫の方を振り返る。
「まぁまぁ」
妻はエッカルト元首席宰相の、ニヤけるのを止めるためにした苦虫を噛み潰したようで噛み潰せていない奇妙な表情を目にする。
「おい、なんだ? 俺に何か言いたいことでもあるのか?」
「いいえ、なんにも」
そう言って妻は首を横に振った。
そこはエッカルト元首席宰相も長年連れ添った夫婦の片割れか。藪蛇になる可能性を考え、これ以上の追求は押し止める。
「まぁいい。さっさと行くことにするか」
そう言うとエッカルト元首席宰相は堂々とした足取りで停めてある馬車へと向かう。
「あらあら、張り切っちゃって」
妻は足取りまで嬉しそうなエッカルト元首席宰相を見て、そう言うと少しだけ動作を早めてその後を追った。
「おい、何か言ったか?」
聞こえていただろうに、そう言って振り返ったエッカルト元首席宰相を交わしながら妻も軽やかな足取りで馬車へと向かう。
「いえいえ、それよりも早く向かいましょう」
ところで、クルトがまだ三十代も半ばだというのに首席宰相の座につけたのは、この結婚が多分に関係している。
実はあのあと、エッカルト首席宰相に馬車を追い出されたクルトはレストランに向かっていたのだ。
そこで出会ったのが今回結婚することになる妻だった。
クルトはレストランに入り、メニューを決め、注文するために給仕係を呼んだ。
「ご注文はお決まりですか?」
最初は全く違和感がなかった。
「ああ、こちらのコースを」
そこまで言って、クルトははたと気づいた。
今、自分は共和国にいるのではなかったか。
ならばなぜ共和国語ではなく王国語が聞こえてきたのか。
「君は……?」
「お客様が王国の方だと思ったので王国語でお話させてもらいました。私も王国出身で」
そう可愛らしく微笑んだ給仕係の年の頃は二十代の半ばといったところか。
「そうでしたか。君はこっちに来て長いのですか?」
「はい、五年になります」
「そうですか」
最初は本当にそれだけの会話だった。
あとは注文をしておしまい。
そこで終わるはずだった。
しかしクルトはあろうことか、スープの湯気で曇るのを嫌い、眼鏡をテーブルに置いたまま忘れて出てきてしまったのだった。
眼鏡は発明されたばかりの高級品であり、ましてそれはエッカルト首席宰相から「お前、さては目が悪いな? これを貸してやるから俺の為にもっと働け。お前の働き次第ではくれてやる」と言って預けられたもの。
その数週間前にエッカルト首席宰相自ら穴の空いた丸の切れ目の方向をクルトに当てさせるという奇妙な検査を行って作った眼鏡に貸すもなにもないとは思うが、少なくとも生真面目なクルトにとっては貸与されたものという認識であった。
だからこそ気づいてすぐにレストランへと戻ったわけであるが、そこで話がはずんだ。
その中で給仕係の娘がそろそろ母国に帰るつもりであることを聞いたクルトは、共和国語を教えてもらう約束を取り付けたのだ。
先程の“首席宰相命令”がまだ頭に残っていたこともある。
だが、なんにせよ、これが二人の馴れ初めである。
そして先の戦争で敗戦するまで共和国を下に見ていた王国に共和国語を話せる政治家があまりに少なかったことが、娘から共和国語を習ったことで堪能となったクルトを若くして首席宰相の地位へと押し上げた要因の一つでもあった。
そんなクルトからすれば、この結婚式の仲人役はエッカルト元首席宰相以外に考えられなかったのであるが、当のエッカルト元首席宰相は場合によってはこの結婚式をぶち壊す気満々でもあった。
なにせエッカルト元首席宰相が首席宰相の地位を失う原因になったのは、議会演説中の野次に対し大声で「この阿呆どもがっ!」と怒鳴り散らしたもの。
そんなエッカルト元首席宰相からすれば、結婚式の一つや二つぶち壊すのは大したことではない。
だからどうするかを決めるため、エッカルト元首席宰相の仲人としてのスピーチは結婚式にはおよそ相応しくない一言。
「我が国は先の戦争で見事に破れた」
という、結婚式では大凡耳にすることのない“破れた”という一言から始まった。
そして、やれ“飽きる”だ“切れる”だ“別れる”だ、忌み言葉をスピーチの中で連発し、会場をざわつかせながらも、新婦の反応をじっと観察していた。
政治家の妻たるもの、結婚すれば否が応でも夫の悪口というのは聞こえてくる。
世間の声は多く、そして大きいのだ。
エッカルト元首席宰相が特別そういう質であったというのもあるが、エッカルト元首席宰相の妻もエッカルト元首席宰相自身の悪口を数多く聞いてきたことであろう。
しかし家では決してその話をして、自身の行動に口を挟むことはしなかった。
ましてあの講和条約の後に結んだ屈辱的としか言えようもない条約のことを公表したあとには、声だけでなく、家の窓が割られ、庭もめちゃめちゃに荒らされただけでなく、ちょっとしたボヤ騒ぎにまであっていた。
しかしそれでも、エッカルト元首席宰相の妻は自身には何も言ってくることはなかった。
政治家は時としてしたくもない、絶対に恨まれるとわかっていてもしなくてはならない判断をするときがある。
エッカルト元首席宰相にとっては講和条約後のそれがそうであったし、今でも敗戦国である王国にはそれ以外に道はなかったと思っている。
しかしそうエッカルト元首席宰相が思えるように至ったのは、家では妻が一切なにも言わず、黙って自分を信じてくれたからだという思いが胸のうちにずっとあった。
だから今回、仲人のスピーチをする際に、自分の愛弟子でもありずっと可愛がって来たクルトの結婚相手はどうか確認しようと思ったのだ。
そして、エッカルト元首席宰相の無礼千万とも言えるスピーチをころころと鈴がなるように笑い、本当に楽しそうに聞き、
「さすがわ元首席宰相閣下ですね。とっても面白いスピーチです」
と、クルトにこっそり耳打ちする新婦の姿を見届けたエッカルト元首席宰相は合格を出した。
そしてエッカルト元首席宰相のスピーチは静かに終える。
「まさか俺が講和条約のあと。世間様からいろいろいわれるあの条約を結んでいる間に、クルトがこんなに可愛らしい女性を口説いているとは思わなかったぞ。
だがまぁ、今までの仕事の中では一番のできなのではないかな?
よくやったと言っておこう。
末永く幸せに」
これは、未だあの条約にクルト現首席宰相も関わっていたのではないかという世間に流れる噂を打ち消すための、エッカルト元首席宰相なりの不器用な援護射撃でもあった。
「あらあら」
と、エッカルト元首席宰相の妻は微笑みながら。
そしてクルト現首席宰相の妻は微笑みながらもエッカルト元首席宰相に目礼を送りながら。
二人の結婚式は盛大に幕を閉じるのであった。
※エッカルト元首席宰相のモデルはあの人ですが、歴史的・政治的意図は全くありませんので、そこはどうかフィクションとして楽しんでいただけましたら幸いです。