地底の大蟹
ボス戦前半。
石造りのガラゴロンは警戒していた。
地面や壁面の僅かな揺れをも見逃すまいと、両腕を壁に当てて離さず、這うようにゆっくりと歩を進める。
視覚に頼らない石造りにとって、暗闇は苦にならない。
それでも、先行した謎の存在をいち早く見つけ出し、この光なき洞窟から逃げ出したいとの思いは、時が経つほどに強くなる。
まだまだ、道は先に続くようだった。
地底に隠された湖にて、ひとまずの腹拵えを終えた男は、そのまま身体を休めていた。
思い返せばここまでの道程、幾度かの危機はあったものの、怪我の一つもなく目当ての場所まで来れたし、危惧された食糧難も解決した。
今は人生のドン底にあるものとばかり思っていたが、案外、そうでもないらしい。
心に余裕のできた男は、そんな風に考えていた。
ーーー夜明けに吹く風を受けて
ーーーこの大地を離れ空へ
ーーー肌を刺す冷たささえも
ーーー新世界からの福音さ
適当な岩に腰掛け、即興のバラードを奏でる。
親への反抗と社会への反発がきっかけで始めたデスメタルは、日を追うごとに苛烈な方向へ進化を遂げたが、己を音で表現するという点において、異なる音楽性との間に優劣はなかった。
ーーー羽なき姿を嗤う者
ーーー高く飛ぶことこそ全てと
ーーー在りもしない摂理を説いて
ーーーやがて力尽き堕ちてゆく
自分の事を表すような、そうでもないような。
確かなイメージやメッセージなどなく、ただ歌いたいから歌う、子供のような気持ちが男の胸裡を埋める。
ーーー語る言葉も
ーーー聞かぬ心も
ーーー自由と呼ぶならば
ーーー答えはない
ーーー意味などない
ーーー夢見るままにどこまでも、どこまでも
サビの部分に差し掛かり、この世界をどのような形で閉じるか思いつかないまま、ライブ感で乗り切ろうとする。
しかし、曲はこのまま未完に終わる。
一瞬のタメを作るべく音を払った際、ドス、ドス、と硬いものを突き刺すような音が正面から聞こえて来たのだ。
男は即座に立ち上がり、ギターを構える。
新手か、それとも先程の石造りが追いかけて来たのか。
「へっ……いいぜ、来いよ。
今度は準備万端じゃねーの。
またバラバラの屑石に変えてやるよ」
装備品の発光は至近距離しか照らせないため、未だ正体を掴みかねる相手だが、男に不安は無かった。
いかなる障害も超えて必ず王冠持ちを見つけ出し、黄金を持ち帰るという決意を固めた夢漁りの前に、その姿が露わになる。
「……カニ、だよな。
なんだこいつ、馬鹿デカいカニ?
さっき食ったやつの親か?」
男の言う通り、それは奇妙な形をしたカニだった。
体色は茶色で、恐らくは甲殻の色。
正面には肋骨のような紋様があり、また光沢があった。
体を支える4対8本の脚は下腹部に集中しており、甲殻の隙間から伸びているようで付け根は見えない。
また、見かけの細さに反してかなりの力があるらしく、体高は2mを超え、横幅はそれ以上と見える巨体を直立させて壁の如く見せている。
より特徴的なのは両の鋏で、体の側面を完全に覆い隠す大きさながら、腕の部分が無いのか、その場で開閉を繰り返している。
「見れば見るほど、変なヤツ…。
とりあえず、追っ払うか」
男はその姿に特段の脅威を感じることもなく、森の獣と同じように大声で退けることを選択した。
ーーーWOW!!
ーーーWOWOW!!
ーーーWOW YAY YEA!!
鋭いシャウトが広間の中で反響し、湖面が激しく波立つ。
ビリビリと肌を叩く音波は十分に迫力あるサウンドで、男は体力の回復を実感しニヤリと笑う。
しかし、対峙する大蟹は鋏の開閉を止めただけで、それ以上の反応を見せなかった。
その様子に機嫌を損ねた男は、更に強烈なビートを叩き込もうと、思い切り息を吸う。
頭頂部から伸びた両目を睨みつけるよう視線を上げて、その視界の端に、右の鋏が剥がれるように外れるのが見えた。
男は咄嗟にギターを振り回し、ボディ部分で右の側頭部をカバーする。
次の瞬間、肩に砲弾でも受けたかと思うほどの衝撃が襲いかかり、背後の壁まで吹き飛ばされた。
「ぐお、ぉ…?!
な、何が……ああっ、ギターが砕けて……こっちも…」
腕や頭に擦り傷、切り傷を作り血を流す男。
状況が掴めない中で、圧し折られたギターと陥没したスピーカーだけが事実を示していた。
「殴られたのか、あの鋏で…。
訳分かんねぇ、伸び縮みすんのかよ…」
痛みと混乱で、呆然と座ったまま動けない男。
その眼前の暗がりからは、ギチチチと聞いたこともない音がする。
淡い発光を目印として、今まさに二撃目が放たれようとしていた。
痛くなければ覚えませぬ。