私は蟹になりたい
「今日は転校生がくるぞ」
いつもは静かな教室が騒がしくなる。
誰ともわからぬその囁きを聞いた途端、蟹江の胸はときめいた。
「なぜだろう・・・その人のことを何も知らないのに。なんで胸が高鳴るのかしら」
いつもの通り蛍光灯に擬態していた蟹江=ロバート=よしえは、その知らせを聞いて、教室の入り口のドアの間で黒板消しに擬態している親友の田中に目配せする。
田中は父親を早くに亡くし、今でも一日に8回は親の話をする。生前父が床屋で変な髪形にされた話など、今週だけで23回聞いた。
「父さんはシベリアで死んだんだ!父さんはシベリアで死んだんだ!」
田中は亡き父の幻影を追い、ところかまわずわめく男だったのだ。その魂の慟哭は、彼に悲壮極まる雰囲気を纏わせていたのだが、正直蟹江にとってはどうでもよかった。
むしろ彼がチョークの粉代わりにばらまく父の遺髪が何よりチクチクしてうざったい。掃除用具入れの中で箒に擬態している母親も、結局はそのおばさんパーマに綿ぼこりが絡みついて手入れが面倒なのである。蛍光灯の癖に光もしない自分なんて気にもならないくらいあれはうざったい家族なのだった。
クラスの中、さらに家庭でも空気である蟹江と田中は相変わらず誰にも話しかけられず、クラスの話題は転校生に終始した。
運動神経がいいらしい、北海道から来るらしい、という噂話に天井はなく、覚せい剤をやっているらしい、ゴリラらしい、愛人を囲っているらしいという噂まで出始めた。誰も姿を見ていないにも関わらず転校生のアダ名は「三十路の子連れ」に決まりかけていた。
「いけないっ!誰も転校生君を知らないのにアダ名を決めてしまっては転校生くんが傷ついてしまうかもしれない…っ!」
蟹江は自分のその考えに打ち震えた。彼女は元来責任感が強い少女なのだ。そこで、未だに絶叫している田中を使ってクラス内の情報を誘導することにした。
正気を失って叫び続けているように見える田中だが、それでも唯一の親友であるよしえの目配せにはすかさず気づいた。
「父さんはシベリアで死んだんだ!でもみんな知ってるか!?イクラってロシア語が起源なんだ!ロシアだって父さんを抑留してるだけじゃないんだ!誰だっていいところがあるんだ!イクラおいしいよね!?イクラ!イクラ!ハーイ!バブー!」
その必死の訴えかけに、イクラアレルギーのよしえ以外のクラスの転校生への偏見は多少和らげられたようだった。
学級委員長の新発田発電朗はクラスの空気の流れを読む達人としてクラスメイトと担任の支持を一身に背負っていた。田中の全身全霊の叫びに彼は転校生アダ名論争に終止符を打つ決心を固めた。男は勝負に出る時期を間違ってはいけない。尊敬する政治家、加藤紘一に学んだことだ。しかし便意をもよおしたので、誰にも気づかれないようにトイレに向かった。
足早にトイレへ急ぐ新発田だったが、廊下にいる他クラスの生徒でさえ転校生の噂で持ちきりだった。これはいけない。早く事態を収拾せねば大変なことになる!
決心をさらに強める新発田だったが便意には勝てなかった。勢いよくトイレの扉を開け放ち飛び込んだのだが、途端にドアの裏にいた誰かと衝突してしまった。尻餅をつく新発田と誰か。
「いてて…誰だよ!いきなりドアを開けるやつは!」
「ハッ…も、もしや君は!」
そう、新発田がぶつかった男とは、誰あろう故・勝新太郎だった。いや、正確には勝新の若い頃にくりそつな、今の今まで話題の中心だった転校生その人だったのである。
出所直後にもかかわらず尊大な態度を崩さないその男は、まるで未だ肛門から途切れない大便を括約筋で引きちぎるのと同じように新発田の首をねじ切った。
股間から大麻を取り出し、中村玉緒の写真を見る。誰にも見られていないところでも男は勝新になりきっていた。もっとも、最近好きになったにわかファンなのでこれくらいで精一杯であった。
大麻をくゆらせながら転校生は新発田の屍を乗り越え、廊下へと歩み出た。
「勝新…!」
「勝新太郎だ!」
転校生を見るやいなや群がってくる生徒を意にも介さず悠然と歩み、転校生はついに自らの教室へと姿を現した。
後ろで見守っていた担任の若い男性教師は、その様を後にこう語っている。「わずかに開いたドアの上部には黒板消しの粉の代わりに父の遺髪を撒こうとしている男子生徒、そのドアに手を掛けるのはどこからどう見ても勝新、おまけに無理やり大麻を詰めたせいで出血してる肛門に塗っても入れてもかしこいボラギノールを注入してパンツをあげるのも忘れている。それはまさに地獄のようだった」と
「これが俺の教室か、なかなかのもんじゃないか」
勝新は座頭市の真似をして目が見えないフリをしようかとも思ったが、今後の生活のことを考えると面倒なのでせめてもの抵抗で声をやたら低くした。勝新はピンクチョークを黒板に思い切りぶつけ、字を書き始めた。教室のざわつきなど意に介さない。黒板には2つ大きな穴が開いたが美しい文字が刻印された。「佐藤一郎太」
「佐藤一郎太…!?」「佐藤一郎太…それが転校生の名前!」
大麻が煙っていく教室の中でクラスメート達はその名を次々と囁いていった。やがてその囁きはざわめきと化し、そして狂騒となった。そう、転校生の大麻がクラスメイト達の脳神経を侵していたのだ。断ち割れる机の天板、飛び交う筆箱の中身。そのただ中にありながら蟹江は一人正気を保っていた。
「いけない…!転校生!あの男は危険だ!」
机の下に潜りながら蟹江はそう強く確信した。一方田中はペンの串刺しだらけになっていた。
だがしかし、恐慌状態だったのは転校生本人も同じである。単に似てるから一発ギャグのつもりで勝新をしこんだのに、元々いたオランダでは合法だった大麻を軽くふかしてみただけで教室中がこんなパニック状態になるなんて完全な想定外だったのだ。
「静かにしろ!」
一郎太は一喝した。蟹江はお前が一番うるせえよ、と呟いた。一方田中は事件を知らせるため校長室に走ったが、迷子になってしまったので放送室に駆け込んだ。今ならまだ間に合う。早くこの危機を全校生徒に、いや、警察に!全クラスへの放送音量をMAXにあげる。田中は叫んだ。
「私の父が床屋に行った時、朝までは角刈りだったんです!でも、でも!帰ってきた父の姿にはそれまでの面影が全然なかった!父さんは泣いていた!泣いていたんだ!」 絶叫する田中がこもる放送室の扉の向こうには教師達が扉を叩きながら何事かをわめいてたが、田中には関係がなかった。今のこの場所こそが田中にとっての父の汚辱を注ぐ聖域であり、自身の存在を主張する舞台だったからだ。
教室では、一郎太と一対一で対峙している蟹江がそれを無情にも聞き流していた。たとえ田中の父親が散髪から帰ってきたらシベリアンハスキーになっていたとしても、それはソフトバンクの孫某の陰謀以外の何者でもなかったからだ。それ全然関係ねえじゃん、という面持ちで、蟹江は一郎太の動きをじっと観察していた。
あれから10年経つ。あの出会いから10年、蟹江は立派な女性に成長していた。誰もが振り返る美人、Fカップの巨乳、ニート。
「蟹江…出てこいよ。何度も言うけど…、お母さん心配してるぞ…。」
田中の声は扉に跳ね返され、そして消えた。その後ろに立つ、すっかり板前の貫禄が身についた一郎太も声なくうつむいた。彼らは三年前から部屋にこもりきりになった蟹江をことあるごとに訪ねていたのだが、高校以来蟹江の声を聞くことは一度もなかった。
だが蟹江には確信があった。この自慢のFカップの中身が、あの時受精した大量の小蟹でぎっしりなのだとばれたら、みんな自分の下から離れて行くだろうという確信が。それはたまに誰にも内緒で出ているエロ雑誌に、必ず「磯の香りのする女」というキャッチコピーが当てられるくらいわかりやすいものだった。
ああ…。私は、蟹になりたい。