本気かどうかわからない
彼女と付き合い始めてから、見知らぬ男子に何度か声をかけられたことはあったが、脅されたり、暴力を振るわれたりということは一度もなかった。それどころか、どちらかといえば、僕のことを応援してくれる男子のほうが多いような気がした。
彼女もまた、話したこともない男子から告白されることがなくなって喜んでいた。彼女の姉は全国区のアイドルだった。妹というだけで、何度かマスコミに囲まれたり、熱心なファンに追いかけ回されたことがあったらしい。過度に目立たないように振る舞っていたのはそういう事情があったからと知り、僕は一人得心していた。
「あなたは、私を特別視しない。だから、好き」
彼女は照れたようにはにかみ、僕の手をにぎった。
僕は、彼女の手を握り返した。
彼女は僕に週末の予定を尋ねた。特に用事がないことを伝えると、デートの提案を受けた。
「観たい映画があるの」
と彼女は目を輝かせて言った。
「お姉ちゃんが初主役を演じる映画が、今度の日曜日に封切りされるの。密室に閉じ込められた男女四人の脱出劇を描いたサスペンスで、特別にチケットを貰ってあるんだ」
その映画のことは僕もよく知っていた。
当然断る理由はなくて、そのままデートの日の段取りは決まっていった。
付き合い始めて、もう二週間が経とうとしていた。あまりに何事もなく穏やかな日々で、かえって僕は恐ろしささえ感じ始めていた。
夕飯を食べているときだった。
息を切らして帰ってきた姉は、ただいまも言わず、僕をリビングから連れ出すと、壁を背後に凄んだ。
「付き合ってるの」
「なんのこと?」
「とぼけないで」
「――そうだよ」
余裕のない姉の表情には鬼気迫るものがあった。姉はじっと僕の瞳を覗きこんで、なにか言いたげに口を開いた。その口はそのまま閉じられ、代わりにそれで僕の口を塞いだ。
「彰は私のものだよ。ほかの誰にも渡さない」
姉はそれだけ言って、リビングに戻っていった。
今日の昼に茜に口づけられた唇が、熱く熱を帯びて湿っていた。
その夜、ベッドに入ってからしばらくして、ノックもなくドアが静かに開いた。
僕は驚いて飛び上がった。姉は唇に人差し指をあて、後ろ手にドアを閉めた。
「夜這いに来たの」
「冗談でしょ」
僕は笑って言った。姉も笑っていた。けれど、姉の目は妖しい光を灯していた。
姉はにじり寄るようにして僕との距離を詰めた。
「どこまでしたの?」
「姉さんにそんなことを教える必要はないよね」
姉さん、を特に強調して言った。
血は繋がっていなくても、僕らは姉弟だ。姉弟でなくてはならない。
「不純異性交遊ってことで、学校に告白しちゃうよ?」
「――まだ、手は出してないよ。これで満足? 生徒会長さん」
「彰は私のものだよ」
さっきと同じことを言うと、姉は僕の手をつかんで、また自分の唇を僕に押し当てた。
僕は、姉を突き飛ばした。
姉は、妖艶に口元を歪めた。
姉が最後の一線を超えていようとしていることがわかったから、僕は必死に姉の肩を押し返した。
姉は不満気に口をへの字に曲げ、乱れた寝間着を整えた。
僕は、はだけた寝間着を直す余裕もなく、睨むように姉をみるだけで精一杯だった。
「もうやめようよ。僕は変わりたいんだよ」
「大丈夫。変わらなくていいよ。私がいるから。何も心配しなくていいんだから」
「姉さんに依存したままじゃダメなんだよ。そのことは、僕が一番よくわかってるんだ」
「変わることってそんなにいいものでもないわよ」
「変わらないことだって、そんなにいいものじゃないよ」
禅問答のようなやり取りだった。
姉のペースに巻き込まれたら最後だ。僕は全力で気を強く持った。
「普通に戻ろうよ。今からでも遅くないよ」
「私のことが、嫌い?」
「嫌いなわけがないよ」
「じゃあ、いいじゃん。本当は高校を卒業するまで我慢しようと思ってたけど、カノジョができちゃったなら、そんなことも言ってられないし。私はいつでも彰を受け入れる準備はできてるよ。彰との子どもがすっごく欲しいし、彰以外とそういうことをするつもりもない」
「僕たちは姉弟だよ」
「血はつながってないから」
「でも、姉弟だ。それに、僕には恋人がいる」
「東雲さんね。前に、私と一緒にいるときに、しつこくナンパされてる彼女を助けてたよね。私、彰がすごく勇気ある子に育ってくれて、誇らしかったよ。……あれ? もしかして、あの一件がきっかけで、仲良くなったの?」
僕は答える代わりに、電灯のひもに手を伸ばした。
姉は漆黒の長髪をかきあげ、品行方正な生徒会長の仮面をかぶり、姿勢を正して言った。
「別れるって言えば、楽になれるのに」
「楽になったら、僕はもう二度と後には引けないよ」
「彰は素直じゃないなあ。そういうところも可愛いんだけど」
「姉さんの言う可愛いは軽く戦慄するからやめてほしいな」
「やだ。やめてあげない」
姉は子どものように拗ねて言った。
「一応言っておくけど」
僕は言葉を切って、真正面から姉を見据えた。
「東雲にちょっかいをかけたら、僕は絶対に姉さんを許さないよ」
と強い口調で言った。
姉は口元に薄く笑みを浮かべた。
「ちょっかい、ってたとえば?」
「中学の時みたいなことって意味だよ」
「――わかってるわ。私もバカじゃないからね。彰に本気で嫌われたら元も子もないことくらいわかってる。ちょっとイジめるだけでかんべんしてあげる」
「イジめるのもダメ」
「えー」
と姉は子どものように抗議の声をあげた。
「わかったわ。そこのところは譲歩してあげる。でも忘れないでね。彰は私のものだよ」
「わからないよ。何もかも」
姉はおやすみ、と言って部屋を出て行った。
ふう、と僕は息を吐いた。
あの人がどこまで本気なのか、僕は今もわからない。




