縮まる距離
甘い花の香りが鼻に残っていた。ユリの花の香りだとわかったのは、ずっとあとになってからだった。
リビングでソファーに腰掛け、観もしないテレビを付けて雑音に身を任せていると、さっきまで一緒にいた彼女から連絡が来た。僕は返事を返さなかった。
夕食後にもう一度連絡が来た。
こんなにも罪悪感に苛まれるのならば、アプリそのものを消してしまおうか真剣に考えたけれど、仲のいい友人のことを思い浮かべ、なんとか思いとどまった。
寝る前にはとうとう電話がかかってきた。それに出ることなく、僕は明かりを消した。
翌朝、玄関を出たところで、足を止めた。
彼女は、小ぶりな胸の少し前に左の手のひらを突き出し、指を軽く折り曲げた。
無意識のうちに、僕もそれに習って彼女に手のひらを向けていた。
礼儀として、僕は昨日連絡を返さなかったことを詫びた。
「家ではスマホを見ない習慣があるんだ」
などとデタラメを言った。
「じゃあしょうがないね」
と彼女は健気に微笑んだ。
桜の並木道を通り過ぎ、僕らは校門をくぐった。
幸か不幸か、僕らは同じクラスだった。一緒に登校した僕らのことを、クラスメイトは奇異な目で見た。わざとらしくしんと静まり返った教室というものは、いつだって居心地が悪いものだ。
仲のいい友人の一人が、僕のもとにやって来た。どちらかといえば、僕を心配している顔だった。
どうでもいい雑談のあと、予鈴のチャイムを待っていたかのように、彼は会話を中断し、声をひそめて言った。
「本気なのか」
「たぶんね」
彼は僕の肩にポンと手をおいて、自分の席に戻っていった。彼は、僕“ら”のことを知悉していた。
昼休みになると、僕らのことは学年中に知れ渡っていた。噂されるのは好きではなかったけれど、歯を食いしばって耐えた。
僕はいつものように弁当箱の包みを開いた。けれど、仲のいい友人たちが僕のもとに来ることはなかった。
不思議に思った僕が視線を向けると、彼らはあさっての方向を指差した。その先には、案の定というべきか彼女がいた。
仕方なく、開きかけた包みを元に戻し、僕は彼女に声をかけた。彼女は嬉しそうに顔をほころばせ、僕のあとに付いて教室を出た。
最初は僕の後ろを歩いていた彼女だったが、中庭に出る頃には僕の隣を歩いていた。手が触れ合いそうになったが、幸いにもそれは起こらなかった。
日陰を選び、二人並んで座った。彼女の弁当箱は僕のより二回りも小さくて、思わず二度見してしまった。幼稚園児のほうがよっぽど食べるだろう。一時間どころか三十分も持ちそうにない。
「それで足りるの?」
と尋ねると、彼女は曖昧に微笑んだ。どうやら本当は全然足りないけれど、僕の前だから我慢してるらしい。
彼女の前でパクパクご飯を食べることは申し訳ないと思ったけれど、お腹は正直だった。僕のお腹がぐーっと鳴り、彼女はくすくすと笑った。
「私のことは気にしないで」
「そう言われても……」
「大丈夫。こんな無理をするのはあなたの前だけだから」
答えあぐねいて、僕は彼女との押し問答をやめた。
ご飯を食べ終えたあとも、僕らは教室に戻らず、チャイムが鳴るまでくだらない話で盛り上がった。
話せない期間が長かったためか、お互いの中で未消化の話題がたくさん溜まっていた。
中でも、数学の教師がカツラの手入れをしていたところを見かけてしまったという僕の話が、彼女の中で最大のヒットだったようだ。彼女と話していると、まるで自分が話し上手になったような気になれた。
放課後になり、僕らは校舎を出た。話したいことはまだまだたくさんあった。何を話しても話し足りなかった。離れていた時間の分も埋めたくて仕方がなかった。
彼女を家まで送った後、明日から迎えに来なくていいと言い忘れたことに気がついた。気恥ずかしいということもあったけれど、それ以上に彼女の身を案じてもいた。
家に帰った後、彼女から連絡があった。昨日のように放置しようか考えて、とてもそうできそうもない自分の気持ちに気づいた。
自分でわかるくらい、僕は揺らいでいた。
明滅する緑のランプに掻き立てられるように、僕はスマホを手にとった。