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江戸下町便利屋ー勘太郎伝  作者: 光闇居士-Twilight Master


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006:怪談・橋の下の女

幽霊より怖いのは、生きている人間だ。

橋の下に座る女の影は、夜の水面に二度映る。ひとつは嘘を映し、ひとつは本当を映す。


橋の下はいつも湿っている。石の継ぎ目から湧く冷気が、夜の空気に混じって小さな白い息を作る。勘太郎は欄干にもたれ、指先で煤を払った。煤の粒は爪の間に残り、手のひらにざらついた感触を残す。遠くで水車が軋む音、屋台の鍋が鳴る音、そして時折、橋の下から上がる低いすすり泣きのような声。町は眠らない。眠らないからこそ、夜は嘘を育てる。


「また出たってさ、橋の下の女」――八兵衛が小声で言った。彼の声はいつもより慎重で、噂を口にすることをためらっている。勘太郎は黙って頷き、欄干を伝って橋の下へ降りた。石段は湿り、足の裏に冷たさが伝わる。橋の下は闇が深く、提灯の光も届かない。だが、闇の中に一つだけ白いものが浮かんで見えた。白い着物の裾が水面に触れ、月光を受けて淡く光る。


女は座っていた。長い黒髪が濡れて額に張り付き、顔は青白く、目は閉じているように見えた。だが、息遣いは確かにある。幽霊の噂は、たいていは人の想像が作る。だが、ここにいる女は生きている。生きているからこそ、より恐ろしく見える。勘太郎は女に近づき、声をかけた。「起きろ。ここは危ない」


女はゆっくりと目を開けた。瞳は濁っているが、そこに怯えだけではない何かが宿っている。彼女は小さな声で言った。「助けて……」その声は風に消えそうで、だが確かに届く。勘太郎は袖で彼女の頬を拭い、冷えた手を握った。手は震え、爪の間に泥が詰まっている。彼女の着物の裾には血のような赤い染みが点々と付いていた。


「名は」――勘太郎は淡々と訊ねる。女は唇を噛み、やがて小さく答えた。「お紺。橋の向こうの長屋に住んでた」お紺。町の名は、長屋の名と結びつく。勘太郎はお紺の顔を見て、どこかで見覚えがある気がしたが、夜の影がそれを曖昧にしている。彼はお紺を抱え上げ、近くの茶屋へ連れて行った。茶屋の湯気が二人を包み、女将が驚いた顔で湯を差し出す。


「どうしたんだ」――女将が訊く。お紺は震えながら言った。「橋の下で、誰かに押されて……気がついたらここにいた。誰も助けてくれなかった」女将は顔を曇らせ、周囲の客たちも視線を落とす。噂は人を守らない。噂は人を遠ざける。


勘太郎はお紺の話を聞きながら、橋の下の足跡を思い出していた。石の隙間に残る足跡は小さく、女性のものか子供のもののように見えたが、ところどころに大きな跡が混じっていた。大きな跡は男のものだ。だが、男の足取りは不規則で、甲冑を脱いだ者のようなぎこちなさがある。落ち武者の佐之助の影が、ふと勘太郎の脳裏をよぎる。佐之助は橋の下で夜を過ごすことがある。だが、彼が人を襲うとは考えにくい。佐之助は自分の影と戦っている男だ。影は人を襲わせることもあるが、必ずしも意図的ではない。


「お紺、誰かに恨まれるようなことはしてないか」――勘太郎は訊ねる。お紺は首を振り、目を伏せた。「私はただ、長屋で働いてただけ。誰かと揉めたこともない。だが、最近、夜になると橋の下で誰かが呼ぶ声がして……それで行ったら、押された」声。呼び声。夜の橋は声を増幅する。誰かが呼べば、遠くの人間も反応する。


勘太郎はお紺を茶屋に残し、橋の下へ戻った。夜風が冷たく、川面には小さな波紋が広がる。彼は欄干に手をかけ、下を覗き込む。水面に映るのは月と、橋の影と、時折揺れる白い布の残像だ。勘太郎は耳を澄ませ、橋の下の音を聞いた。水の流れ、木の軋み、遠くの犬の吠え声。だが、そこに人の声はない。声は人の心の中にあることもある。人は自分の記憶に呼ばれて動くことがある。


翌日、勘太郎は佐之助の姿を探した。佐之助は橋の下の近くで、掃除をしていた。彼の手は荒れ、指先には古い傷が残る。勘太郎は彼に近づき、静かに訊ねた。「昨夜、橋の下で誰か見なかったか」佐之助は顔を上げ、目を伏せた。「見た。女が座ってた。だが、俺は近づけなかった。俺の影が動くと、人が怯える。俺はそれを恐れてる」彼の声は低く、震えている。佐之助は自分の影を恐れているのだ。


「お紺が襲われたと聞いた」――勘太郎は続ける。佐之助は黙り、やがて小さく言った。「俺じゃない。だが、俺の夢に、あの夜のことが出てくる。戦場で、仲間が裏切られた。俺は刀を振った。だが、仲間は倒れ、俺は逃げた。逃げる途中で、女の声がした。『戻れ』と。俺は戻れなかった。だから、影だけが残った」影だけが残る。影は人の行為をなぞり、時に他者を傷つける。


勘太郎は佐之助の手の傷を見て、静かに言った。「影はお前のものだが、影が人を傷つけるなら、影と向き合う術を探さねばならん。お紺は被害者だ。お前が何かできるなら、やれ」佐之助は目を伏せ、やがて小さく頷いた。彼は自分の影と向き合うことを、少しずつ学び始めている。


その夜、勘太郎は橋の下で見張りをすることにした。月は薄く、雲が流れる。橋の下には誰もいない。だが、夜半を過ぎた頃、遠くで女のすすり泣きのような声が聞こえた。勘太郎は息を殺し、声のする方へ歩いた。声は橋の向こうから聞こえ、やがて近づいてくる。だが、声の主は人間のものではない。声は風が作る音のようで、誰かが口を動かしているようには聞こえない。勘太郎はその不自然さに眉を寄せた。


声のする方へ行くと、橋の下の石垣に小さな祠があり、そこに古い人形が置かれていた。人形は濡れており、目は取れている。人形の口元には小さな紙が挟まれており、そこには「返せ」とだけ書かれていた。返せ。返すべきもの。勘太郎は紙を取り、字を確かめる。字は乱暴で、怒りが滲む。人形は誰かの代わりに置かれ、誰かの怨念を引き受けている。


「人形を置いたのは誰だ」――勘太郎は問いかける。声は風に消え、答えはない。だが、彼は人形の周囲を調べ、足跡を見つけた。足跡は小さく、女性のもののようだ。だが、足跡の先には大きな足跡が交じっている。大きな足跡は、甲冑を脱いだ者のものかもしれない。勘太郎は足跡を辿り、橋の向こうの長屋へ向かった。


長屋では、お紺の隣人が小さな声で話していた。「あの人形は、昔、橋の下で死んだ女の子のものだって言う。誰かが返せって言ってるらしい」伝承は真実の皮を被ることがある。だが、伝承の裏には人の罪が隠れていることが多い。勘太郎は長屋の古老に会い、昔話を聞いた。古老は低く言った。「昔、この橋の下で、若い女が溺れた。誰も助けず、誰も弔わなかった。人は忘れるが、忘れられたものは怒る」


忘れられたもの。怨念は忘れられた記憶の化身だ。だが、怨念が人を襲うとき、そこには必ず生きた人間の罪が絡む。勘太郎はその線を追い、町の過去を掘り起こした。すると、ある夜、橋の下で若い女が倒れていたという記録が見つかった。女は遊女ではなく、長屋の娘で、ある有力者の息子に関わったという噂があった。噂は口を閉ざされ、事件は闇に葬られた。だが、忘れられた女の人形は、誰かの良心を刺激していたのかもしれない。


勘太郎はお紺と佐之助を連れて、橋の下の祠で小さな供養を行うことにした。供養は形式ではなく、言葉と行為だ。お紺は自分の手で人形の汚れを拭い、佐之助は小さな花を供えた。勘太郎は静かに言葉を紡いだ。「忘れられた者に名を与え、祈りを捧げる。人はそれで少しだけ楽になる。だが、楽になるのは一時だ。大事なのは、生きている我々がどう生きるかだ」


供養の後、夜は静かになった。風は少し和らぎ、橋の下の水面は穏やかに光る。お紺は涙を拭い、佐之助は肩を落としたが、どこか軽くなったように見えた。勘太郎は二人の背中を見送り、欄干に戻った。夜の町はまた別の噂を孕んでいる。だが、今夜は一つの嘘が剥がれ、人の罪が少しだけ露わになった。


勘太郎は立ち上がり、夜の路地へと歩き出す。彼の足音は静かだが確かだ。幽霊より怖いのは、生きている人間だ。だが、生きている人間が自分の罪を見つめ、償いを始めるなら、夜は少しだけ明るくなる。橋の下の女は、もう二度と白い影として人を脅かさないだろうか。それは分からない。だが、今は誰かが祈りを捧げ、誰かが手を差し伸べた。勘太郎はその事実を胸に、次の夜へと歩を進めるのだった。

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