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江戸下町便利屋ー勘太郎伝  作者: 光闇居士-Twilight Master


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14/14

014:長屋の怪音

「音は心の叫びだ。」

闇に響く音は、

人が隠したものを暴く。


**


一 夜の長屋に響く音

江戸の長屋は、昼と夜でまるで別の顔を見せる。

昼は子供の声、女たちの洗濯の音、

男たちの仕事帰りの笑い声が混じり合い、

狭い路地は生き物のように賑わう。


だが夜になると、

その賑わいは一気に静まり返る。

長屋は薄暗い灯りの中で息を潜め、

人々の寝息が壁越しに微かに聞こえるだけになる。


その静けさの中で――

奇妙な音が響いた。


「……カラ……カラ……」


乾いた木が擦れるような音。

あるいは、何かが転がるような音。


長屋の者たちはその音を「怪音」と呼び、

夜になると怯えたように戸を閉めた。


「まただよ……昨夜も聞こえたんだ」


「誰の部屋からだ?」


「分からない。壁を伝って響くんだよ」


「幽霊じゃないのか……?」


噂は瞬く間に広がり、

長屋の空気は重くなった。


勘太郎は煙草の火を確かめながら、

その音を聞いていた。


音は規則的ではない。

だが、偶然でもない。

何かの意思があるような、

そんな響き方だった。


**


二 長屋の空気と貧困の影

長屋は江戸の貧困層が暮らす場所だ。

一部屋は狭く、壁は薄く、

隣の生活音がすべて聞こえる。


湿った畳の匂い。

煮物の残り香。

古い木の軋む音。


それらが混じり合い、

長屋独特の空気を作っている。


勘太郎は長屋の路地を歩きながら、

住人たちの顔を観察した。


皆、疲れている。

日銭を稼ぐために働き、

夜は静かに眠るだけの生活。


だが、その生活の中に、

怪音は不安を落とし込んでいた。


「勘太郎さん、見てくれよ……」


魚屋の女房が怯えた声で言った。


「夜中にね、壁が鳴るんだよ。

誰かが叩いてるみたいに……」


「叩く音じゃない。

転がる音だ」


勘太郎は淡々と答えた。


「転がる?」


「そうだ。

何かが床を転がっている音だ」


女房は青ざめた。


「そんな……誰がそんなことを……」


勘太郎は煙草の火を消し、

長屋の奥へ歩き出した。


**


三 怪音の出どころ

怪音は長屋の一番奥の部屋から聞こえるようだった。

その部屋には、

一人の老人が住んでいた。


名は お弥市やいち

七十を過ぎた男で、

長屋でも最も古くから住んでいる。


お弥市は昼間はほとんど姿を見せず、

夜になると部屋に閉じこもる。


その部屋から――

怪音が響く。


勘太郎は戸口に立ち、

静かに声をかけた。


「お弥市。いるか」


返事はない。


だが、

「……カラ……カラ……」

という音だけが、

薄い壁越しに響いた。


勘太郎は戸を開けた。


部屋の中は暗く、

湿った匂いが漂っていた。


畳は古く、

壁には染みがある。


その中央で――

お弥市が座っていた。


痩せた体。

深い皺。

だが、目だけは鋭かった。


お弥市の前には、

小さな木の玉が転がっていた。


「それが……音の正体か」


勘太郎が淡々と言うと、

お弥市はゆっくりと木の玉を拾った。


「これは……息子の形見だ」


声は震えていた。


**


四 老人の孤独と木の玉

お弥市には、

かつて一人息子がいた。


名は 新太しんた

若く、働き者で、

長屋の者たちからも好かれていた。


だが、新太は三年前に病で死んだ。


お弥市はその日から、

木の玉を転がす癖がついた。


木の玉は新太が子供の頃に遊んでいたものだ。

お弥市はその玉を転がし、

音を聞くことで、

息子の存在を感じようとしていた。


「新太は……この音が好きだった。

夜になると、玉を転がして遊んでいた。

その音が……わしには、息子の声に聞こえるんだ」


お弥市は玉を握りしめた。


「だから……夜になると、玉を転がす。

息子が帰ってきたような気がしてな……」


勘太郎は静かに言った。


「その音が、長屋の者を怯えさせている」


お弥市は目を伏せた。


「分かっている……

だが、やめられんのだ……

息子がいなくなってから、

わしには……この音しか残っておらん」


**


五 怪音の裏にあるもの

勘太郎は部屋を見渡した。


壁には新太の古い草履が掛けられ、

棚には彼が使っていた筆が置かれている。


部屋全体が、

新太の記憶で満たされていた。


お弥市はその記憶にすがり、

孤独を紛らわせていた。


だが、

その孤独が怪音となり、

長屋全体を不安にしていた。


勘太郎は静かに言った。


「お弥市。

玉を転がすのは構わない。

だが、夜中にやるな」


お弥市は震える声で言った。


「夜しか……息子の声が聞こえんのだ……」


勘太郎は煙草を取り出し、

火をつけた。


煙が部屋に広がり、

薄い光が揺れた。


「息子の声は、玉の音じゃない。

あんたの心の中にある」


お弥市は涙を流した。


**


六 魅惑狐の姉の再登場

そのとき、

戸口から声がした。


「いいこと言うね、勘太郎殿」


魅惑狐の姉が立っていた。

白い着物を纏い、

黒い瞳が静かに光っている。


「老人の孤独は、

狐火よりも深い闇を生むよ」


勘太郎は淡々と言った。


「勝手に入るな」


「ふふ。

あんたの仕事は面白いからね。

手を貸しに来たんだよ」


白太も後ろに立っていた。


「姉上は気まぐれだ。

だが、老人の心を見るのは得意だ」


魅惑狐の姉はお弥市の前に座り、

優しく言った。


「お弥市。

息子さんは、あんたの心の中にいる。

玉を転がさなくても、

あんたが息子を思えば、

息子はそこにいるんだよ」


お弥市は涙を流しながら、

玉を握りしめた。


「わしは……息子に会いたい……」


魅惑狐の姉は静かに言った。


「会えるよ。

心の中でね。

その代わり、夜中に玉を転がすのはやめな。

長屋の者たちが怯えてしまう」


お弥市はゆっくり頷いた。


**


七 怪音の消えた夜

その夜、

長屋は静かだった。


怪音は響かなかった。


長屋の者たちは安堵し、

子供たちは眠り、

女たちは布団を整え、

男たちは酒を飲んで静かに眠った。


勘太郎は長屋の路地に立ち、

煙草の火を確かめた。


魅惑狐の姉が隣に立った。


「勘太郎殿。

あんたは人の心の闇を見るのが上手いね」


「勝手に言え」


「ふふ。

あんたの周りは、面白い匂いがする。

これからも手を貸すよ」


白太が呆れたように言った。


「姉上は本気だ。

あんたに興味を持っている」


勘太郎は煙草の火を消し、

夜空を見上げた。


長屋は静かで、

怪音は消えた。


だが――

音は心の叫びだ。


お弥市の心の叫びは、

玉の音ではなく、

静かな涙となって夜に溶けていった。


勘太郎はその静けさを胸に刻み、

次の夜へと歩き出した。

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