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社会人編 終章 否定の深度

居鴨は自分が長く「居丈高」であった理由を正確に言語化できる地点に来ていた。それは性格でも癖でもない。生存戦略だった。


高く立つことで視界を確保し低く見られることを避ける。

その姿勢は常に先手を取れる代わりに、

触れられない位置を自ら選び続ける行為でもあった。


居丈高とは態度ではない。恐怖の配置である。

傷つく可能性を他者より下に置き、自分を常に上段へ退避させる構造。

その構造の中では間違いは許されず、迷いは弱さとして切り捨てられる。

居鴨はその秩序に適応し、成果を出し評価を得てきた。


だが同時に何一つ引き受けてこなかった。


惹子と出会い彼は初めて居丈高であることが機能しない場に立たされた。

彼女は見上げない。見下ろさない。常に同じ地平から判断する。

その姿勢は居鴨の高度を無意味にした。

高さが価値にならない空間で彼は初めて自分の輪郭を失った。


失うとは崩れることではない。不要な構造が解体されることだ。

彼は理解する。居丈高でいる限り、自分は誰とも等価になれない。

常に評価者であり被評価者ではない位置に留まる。

そこには関係が存在しない。あるのは距離だけだ。


居鴨は問い直す。何を守ってきたのか。尊厳か。自尊か。

それらは本当に高所にしか存在しなかったのか。答えは否だ。

守っていたのは恐怖だった。失敗すること、見誤ること他者に委ねること。

それらを拒絶するために高さが必要だった。


だが今彼は低い地点にいる。低さは不利ではない。情報が届く。声が聞こえる。重さを共有できる。惹子が選び続けてきた場所はそこだった。


居丈高を捨てるとは、へりくだることではない。優位を放棄することでもない。自分だけが安全な位置に立つという幻想を解体することだ。

居鴨はそれを拒絶からではなく選択として行う。


彼は決める。今後自分は高く立たない。だが低くもならない。

等しい地面に立ち判断の重さを分け合う。

その結果傷つくならそれを引き受ける。逃げないために上がらない。


居丈高という在り方は彼の人生において役目を終えた。それは誤りではない。

必要だった時期があった。ただ今では道を塞ぐ構造になっている。


否定とは排除ではない。更新である。

居鴨は自分の内部にあった高低差を平坦化する。その作業を静かに完了させる。


外では夜が深まっている。街の光は高低を持たず、均等に拡散している。

彼はその光を見て初めて安堵する。もう上から世界を測らなくていい。

世界の中に立っていればいい。



最終判断とは決断ではない。戻れなくなる地点を越えることだ。

居鴨はその事実を理解していた。議題は単純だった。

資金調達スキームを当初案で確定するかそれとも安全側へ切り替えるか。

選択肢は二つだが時間は一つしか残されていない。


会議室には緊張が均質に満ちている。誰も声を荒らげない。

資料は揃い想定問答も尽きている。残っているのは覚悟だけだった。

上層部は沈黙し、惹子は資料を閉じる。視線は合わない。合わす必要もない。


不可逆点は数字では示されない。

一度、公表し市場に提示し、海外金融機関と正式に署名すれば後退は信頼の破壊を意味する。成功すれば評価は跳ねる。失敗すれば全てが崩れる。均衡はない。


居鴨は立ち上がる。声は平坦だ。


「当初案で進めます」


理由は続けない。説明は既に終わっている。

役員の一人が問う。


「責任は」


居鴨は即答する。


「引き受けます」


惹子が続ける。


「私もです」


二人の言葉は連結されない。だが重なっている。

外部コンサルタントが最後の確認をする。


「撤回はできません」


居鴨は頷く。


「理解しています」


その瞬間、不可逆点を越えた。会議室の空気が変わる。

緊張は消えないが性質が変わる。未来が固定される音がしない形で鳴る。


手続きが進む。署名、電子承認、公表準備。作業は淡々としている。

だが誰もが理解している。今決まったのは構造ではない。姿勢だと。


惹子は窓際に立ち夜の街を見る。光は均等ではない。だが方向は一つだ。

進行方向にのみ開いている。彼女は思う。賭けは成立した。勝敗ではない。

引き受けたという事実が成立した。


居鴨は席に戻る。心は静かだ。恐怖が消えたわけではない。

だが恐怖は高さを求めていない。低い地点で足元に存在している。

踏みしめられる恐怖だ。


不可逆の決断は人を孤立させることが多い。

だが今回は違う。孤立の代わりに連結が残った。

二人は同じ地面に立ち同じ方向を向いている。それ以上の保証はない。


会議は終了する。拍手はない。達成感もない。あるのは一つの事実だけだ。

もう戻れない。そして戻らない。


居鴨は理解する。不可逆とは破壊ではない。選択が時間を固定する現象だ。

彼はその固定を恐れない。居丈高を捨てた今立つ場所はここしかないからだ。


決断の夜は祝福を伴わなかった。誰も成功を確信していない。

だが二人には戻る理由もなかった。居鴨と惹子は別々に会議室を出た。

だが帰路は自然に重なる。示し合わせたわけではない。必要もなかった。


街は静かだった。灯りは多いが騒音は少ない。

仕事が終わった後の都市は責任を脱いだ人間で満ちている。

その中で二人はまだ何かを背負っている。

だがそれを言葉にする段階は既に過ぎていた。


並んで歩く距離は近い。だが触れない。

触れないという選択が意識されなくなった地点で私的領域は始まっている。

居鴨は理解する。彼女の沈黙は拒絶ではない。確認だ。

今日の判断が感情によるものではなかったか。

その検証が彼女の中で続いている。


惹子は立ち止まる。川沿いの歩道だ。水面は光を分断しながら流れている。

彼女は言う。


「もう役割は終わりですね」


居鴨は頷く。


「はい」


それ以上の肩書きはない。プロジェクトも判断も今は背景に退いている。

惹子は続ける。


「それでも一緒にいます」


宣言ではない。確認でもない。事実の提示だった。

居鴨は答える前に考える。

居丈高であった頃の自分なら、ここで何かを付け足しただろう。

理由や条件や将来像。だが今は違う。

付け足すことは不安の表明だと理解している。


「います」


それだけ言う。


その瞬間私的領域は確定する。恋情ではない。依存でもない。

役割を剥がした後に残る関係性。

互いを評価しない状態で同じ時間を引き受けるという選択。


二人は歩き出す。行き先は決めていない。だが迷っていない。

居鴨は思う。これが対等だ。上下も主導もない。ただ並走がある。


惹子は風を受けながら理解する。賭けはここでも成立している。

成功するかどうかではない。引き返さないという一点において。


夜は深い。だが暗くはない。光は均質ではないが足元を照らすには十分だ。

二人はその光の中を進む。仕事ではない。逃避でもない。生活へ向かう移動だ。


私的領域とは秘密ではない。公開でもない。

ただ世界と同じ重さで扱われる関係のことだ。

居鴨と惹子はその定義を言葉にしない。言葉にした瞬間固定されるからだ。


二人は歩く。不可逆の決断の後に残ったもう一つの不可逆。

それは関係が始まったという事実だった。

会社という場所は人を測る装置だ。成果数字判断速度。


居鴨はその装置に適応することで生き延びてきた。

高く立ち、見下ろし先に答えを出す。その姿勢は効率的で安全で評価されやすい。


居丈高とは欠点ではなく当時の彼にとって最適解だった。

だが最適解は永続しない。環境が変われば機能は反転する。

惹子と共に不可逆の判断を引き受けた後、居鴨は理解する。

会社という場では、もう居丈高である必要がない。


正確に言えば居丈高であってはならない。

判断は一人で完結せず、重さは共有され、

間違いは引き受けられるものへと変質した。


プロジェクトは進行する。評価は定まり役割は整理される。

居鴨と惹子は特別視されない。だが排除もされない。

二人は組織の中で等しい重さを持つ判断主体として位置づけられる。

それで十分だった。


居鴨は思う。居丈高を捨てたのではない。

会社という文脈で、それが不要になっただけだ。

高さを選ばない判断を覚えたに過ぎない。彼はもう見下ろさない。

だがへりくだりもしない。等しい地面に立つことを選び続ける。


惹子もまた会社という舞台から一歩引く。賭けは終わっていない。

だが賭け続ける理由が変わった。成果のためではない。誰と判断を共有するか。その一点に集約されている。


二人は会社を出る。夜の街へではない。生活へ向かう。そこに肩書きはない。

評価も序列もない。あるのは役割ではなく関係だけだ。


だが居鴨は知っている。居丈高という性質は消滅しない。

状況が変われば顔を出す。

職場では沈黙していたものが家庭という新しい場では別の形で現れる。

正しさを早く示したくなる瞬間。効率を優先したくなる衝動。

自分のやり方が合理的だと信じたくなる癖。


それは再発ではない。別の試練だ。

それで誰が困るのか。それで何を失うのか。それでもなお選ぶ価値があるのか。


次に彼を試すのは組織ではない。生活だ。家事だ。育児だ。

成果が数値化されず、正解が共有されない領域。


そこでは居丈高は再び顔を出すだろう。より身近で、より厄介な形で。

居鴨は、それを自覚したまま先へ進む。


今度は見下ろすためではない。


同じ地面で生きるために。

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