社会人編 第七章 圧力の来歴
圧力は予告なく訪れるものではない。必ず正当性という衣を纏って現れる。
今回もそうだった。プロジェクトの進捗が公表される直前、
上層部からの呼び出しが入る。名目はリスク管理実態は統制だった。
会議室に集められたのは居鴨と惹子そして本社役員二名と外部コンサルタント。
資料は整然としている。だが結論は既に書かれていた。
資金調達スキームの一部を変更する。
惹子が主導してきた構造を外しより保守的な国内主導型へ寄せる案だった。
「この判断は合理的だと思います」
役員の声は穏やかだ。だが異論を許容する余地はない。
「海外金融機関との関係性も維持できますし責任の所在も明確になります」
惹子は理解する。この案は安全だ。数字上は正しい。失敗しにくい。
そして誰も傷つかない。少なくとも表面上は。
「ただ」
惹子は一拍置く。
「この変更でプロジェクトの初期目的は後退します」
室内の空気がわずかに硬化する。
「目的とは」
問われる前に居鴨が口を開く。
「長期的なエネルギー安定供給です」
淡々とした声だった。
「短期的なリスク回避を優先すれば価格と供給の柔軟性は失われます」
外部コンサルタントが資料をめくる。
「それは理想論です」
居鴨は否定しない。
「理想です。ですが計画の出発点でもあります」
沈黙が落ちる。役員は視線を惹子に移す。
「越野さん、あなたの判断を聞かせてください」
それは選別だった。個人として従うか切り離されるか。惹子は理解する。
この場で居鴨と距離を取れば自分は安全に残れる。評価も地位も失わない。
惹子は居鴨を見ない。見れば揺らぐと分かっているからだ。
「この変更案には同意できません」
室内の温度が一段下がる。
「理由は先ほど二人で述べた通りです」
二人で。その言葉に意味があった。
役員は静かに言う。
「この判断はあなたのキャリアに影響します」
惹子は即答しない。だが迷いもない。
「承知しています」
その瞬間居鴨は理解する。これは仕事の選択ではない。存在の選択だと。
会議は結論を保留にして終わる。廊下に出ると惹子は初めて居鴨を見る。
「巻き込みましたね」
居鴨は首を振る。
「選んだだけです」
「後悔は?」
「していません」
それだけで十分だった。外部の圧力は二人を引き離すために存在する。
だが今は逆に作用している。同じ重さが同時に肩に乗ったからだ。
居鴨は思う。居丈高であればここで一人だけ助かる道を選んでいただろう。
だが今は違う。低い位置にいるからこそ同じ圧力を感じられる。
試練は終わっていない。むしろ始まったばかりだ。
それでも二人は同じ地面に立っている。
その事実だけが揺るぎない支点として残っていた。
断絶は対立の形を取らなかった。怒声も拒絶もなかった。
ただ判断の向きがわずかに異なるだけだった。その僅差こそが決定的だった。
外部圧力の会議から数日後、プロジェクトは宙に浮いたまま停滞していた。
上層部は結論を急がない。急がせないことで当事者が折れるのを待っている。
その構図を居鴨は理解していた。惹子も同じはずだった。
だが二人の沈黙の質が変わり始めていることに彼は気づく。
惹子は合理性を取り戻そうとしていた。
危険を正確に測り失うものの総量を算出する。彼女にとってそれは逃避ではない。責任の取り方だ。一方、居鴨は初期目的から目を離せなくなっていた。
後退は可能だと理解しながらも、
それを選べば自分が再び居丈高な位置へ戻る気がしていた。
二人は同じ資料を見ている。だが見ている地点が違う。
「一度、引く選択もあります」
惹子の言葉は静かだった。提案だった。
「完全撤退ではありません」
居鴨は即答しない。沈黙が続く。
「今なら主導権は残せます」
彼女は数字を示さない。感覚で話している。
居鴨は理解する。彼女は彼を守ろうとしている。
プロジェクトではなく人として。だがその配慮が彼には重く感じられる。
「それは」
言葉を選びながら居鴨は続ける。
「正しい判断です」
惹子は一瞬だけ表情を緩める。
「ですが」
その続きで空気が変わる。
「今引けば二度と戻れません」
惹子は視線を落とす。
「それでも生き残る道はあります」
居鴨は首を振る。
「残るだけなら」
その先を言わない。言えば決定的になるからだ。
惹子は理解する。彼はもう安全圏を選ばない。
以前なら迷いなく選んだはずの道を今は拒んでいる。
それは成長でもあり危うさでもあった。
「居鴨さん」
惹子は彼の名を呼ぶ。
「私は賭けます」
短い言葉。
「でも無謀は選びません」
居鴨は初めて彼女から距離を感じる。選択の方向が同じでも歩幅が違う。
その差異が二人を引き離す。
「少し時間をください」
居鴨はそう言う。
「今は同じ判断ができません」
それは拒絶ではない。だが肯定でもなかった。
惹子は頷く。
「分かりました」
それだけ言い、彼女は席を立つ。
背中は迷っていない。だが確信もしていない。
中間の地点にいる背中だった。
居鴨は一人残る。自分が選び続けてきたものを考える。勝つこと。立つこと。
だが今、問われているのは耐えることだった。共に耐えられるかどうか。
その問いに彼はまだ答えを出せていない。
断絶は起きていない。だが連続性は失われた。二人の間に沈黙が置かれる。
その沈黙が橋になるのか、断崖になるのかはまだ決まっていなかった。
距離を置くという判断は逃避ではなかった。
惹子にとってそれは整えるための時間だった。
感情を冷却し判断の輪郭を取り戻すための作業。
彼女は私的な連絡を絶ち、会議でも必要最低限の発言に留める。
居鴨の存在を意識から排除しようとしたわけではない。
ただ一度、分離する必要があった。
夜のオフィスで一人で資料を読み返す。数字は嘘をつかない。
だが全てを語るわけでもない。リスクを最小化する案は依然として合理的だ。
上層部の圧力も現実的。ここで折れれば自分は守られる。
だが守られた先にあるものを、惹子は既に知っていた。
学生時代の記憶がよみがえる。
勝率の高い選択を積み上げ評価を失わない生き方。
その結果、得たものは安定で、失ったものは実感だった。
賭けない選択は常に正しかった。
だが正しさは彼女をどこにも連れて行かなかった。
居鴨の顔が浮かぶ。
彼は合理性を理解しながら、それを選ばない瞬間を持ち始めている。
無謀ではない。逃げないという選択。その姿勢は危うく見る者を不安にさせる。
だが同時に惹子の中に眠っていた感覚を呼び起こしていた。
彼女は自分に問い直す。何に賭けてきたのか。
数字か、地位か、それとも判断そのものか。
答えは明確だった。惹子は常に判断に賭けてきた。
結果ではない。引き受ける覚悟に。
翌日、彼女は決断する。
距離を置くことで得たのは冷静さではない。基準だった。
会議室で再び居鴨と向き合う。彼女は先に口を開く。
「考え直しました」
声は落ち着いている。
「引く案も正しいです」
一拍置く。
「でも私は引かない判断をします」
居鴨は何も言わない。表情も変えない。
「守られる選択より、引き受ける選択を取ります」
惹子は続ける。
「それが今の私の基準です」
彼女は居鴨を見る。確認ではない。宣言だった。
「一緒でなくても進みます」
だが、その先を言わずに留める。
居鴨は静かに答える。
「同じです。」
それだけだった。余分な言葉はない。
惹子は理解する。距離を置いたことで関係が壊れたのではない。
選択が研ぎ澄まされたのだ。今二人は再び同じ地点に立っている。
以前よりも低いけど確かに。
彼女は確信する。賭けは成立している。
相手が居鴨である必要性はもはや感情ではない。判断の等価性だった。




