社会人編 第五章 居丈高の否定
プロジェクトの進捗報告とは別に、
本社監査部からの通知が、淡々と全体メールで回覧された。
――ガバナンス強化に伴う、意思決定過程の再点検。
誰もが一度は目を通し、
誰もが自分には関係ないと判断する類の文面だった。
だが、居鴨は違和を覚えた。
点検対象の項目。決裁前の非公式調整。
深夜帯の作業履歴。個別接触の有無。
それらは、制度上は中立的な語彙で構成されている。
だが、矢印の向きは、あまりに明確だった。
同時期、社内には別の流れも生じていた。
「判断が一部、属人的ではないか」
「特定の二名に裁量が集中している」
「感情的な結束が、客観性を阻害していないか」
名指しはされない。だが輪郭は過剰なほど鮮明だった。
組織は個人の関係性を嫌悪する。とりわけ、それが成果を伴う場合には。
惹子は静かに資料を読み込んでいた。
監査部の質問状。
外部コンサルの評価シート。
いずれも論理的で、礼儀正しく、冷酷だった。
そこに、人格は存在しない。あるのは構造とリスクだけだ。
居鴨は別室で同じ書類を読んでいた。
彼の内側で、かつての防御本能が疼く。
――ほら見ろ。
――関わるから、こうなる。
距離を取れば、疑われない。
沈黙していれば矢面に立たない。
居丈高という姿勢が、再び彼を呼び戻そうとする。
だが今回は違った。
惹子は監査部への回答案に、意図的に余白を残していた。
裁量の所在。判断の根拠。そして責任の帰属。
すべてを曖昧にせず、だが個人に押し付けることもしない書き方。
それは防御ではなく、提示だった。居鴨はその文面を見て理解する。
彼女は逃げる準備をしていない。切り離す準備もしていない。
むしろ照らす準備をしている。外部の論理は二人に選択を迫っていた。
関係を否定し、無関係を装うか。
関係を肯定し、説明責任を引き受けるか。
後者は危険だ。誤解は増幅され、言葉は歪曲される。
結果が出なければ、すべてが私情に回収される。
だが前者は――
過去に戻ることを意味していた。
居鴨は深く息を吸った。正しさの陰に隠れることは、もうできない。
彼は、それを知ってしまった。
二人は、同じ回答書に同じ修正を加えた。
連絡を取らず、相談もせず、ただ同じ方向へ筆を進めた。
関係性は否定しない。だが特権にもさせない。
判断は共有された。責任もまた共有された。
それは恋情でも反抗でもない。成熟した連帯だった。
数日後、監査部からの返信は短かった。
――合理性は確認された。
――プロジェクトは継続。
噂は完全には消えない。だが致命傷にもならなかった。
組織は納得ではなく、許容を選んだ。
夜、オフィスの灯りが落ちる中、
二人はそれぞれの席で、静かに作業を続けていた。
外部からの圧力は、二人を引き離すために加えられた。
だが結果として、それは二人の立ち位置を、より明確にしただけだった。
公と私の境界は再び引かれた。だが今度は、自分たちの手で。
居丈高とは姿勢の問題ではない。
それは世界との距離の取り方であり、
他者を測るために自らを高所に置くという、選択の形式である。
居鴨は夜更けのオフィスで、灯りを落とした窓に映る自分を見ていた。
影は輪郭を失い、顔と呼べるものですら曖昧だった。
彼は、これまで居丈高であることを理性だと思ってきた。
感情に溺れないための装置。
他者に巻き込まれぬための標高。
だが今は理解している。
それは理性ではなく、恐怖の配置だった。
居丈高であるということは、同じ地面に立たないことだ。
転ぶ可能性を、あらかじめ排除することだ。
それは負けない姿勢ではある。だが勝つ姿勢ではない。
彼は過去の自分を反芻する。
学生時代、議論から一歩退いた自分。職場で感情を軽蔑した自分。
常に「正しさ」を盾に、関与を回避してきた選択。
それらは賢明だったのか。
それとも臆病だったのか。
答えは、もはや二項対立ではない。
居丈高とは、世界に参加しないという選択を、
あたかも高潔であるかのように偽装する行為だった。
彼は理解する。
高みから見下ろすことで、自分が安全であると錯覚していただけだ。
実際には世界と接触していなかった。
越野惹子の存在が、その錯覚を破壊した。
彼女は賭ける。
それは無謀ではなく覚悟だった。
失敗を否定せず、責任を引き受けるという態度だった。
彼女の立つ場所は、低かった。
だが、それは地面に近いという意味であり、
現実に触れているという意味でもあった。
居鴨は思考する。
自分は正しさを持っていた。だが重さを持っていなかった。
重さとは判断の結果を引き受ける身体性であり、
関係を切らずに耐える意志の総量だ。
居丈高である限り、彼は責任から距離を取れる。
だが、それは同時に信頼からも距離を取るということだった。
彼は決断する。もう高みに立たない。
安全圏から世界を測らない。
正しさを語るなら同じ地面に立ち、同じ重力を受ける。
それは敗北を受け入れる覚悟でもある。
だが初めての参加でもある。
居丈高という在り方を、彼は否定した。
それは自分を低くすることではない。世界を等身に戻すことだった。
窓に映る影は、相変わらず曖昧だ。
だが、その曖昧さの中に初めて、立つための場所が見えた。
彼はもう一度、世界に降りる。
会議室の空気は乾いていた。
株式会社東和システム、担当責任者の佐伯は資料を机上に整えながら
居鴨の到着を待っていた。
以前の印象が脳裏をよぎる。
理屈は正しい、だが近寄りがたい。
言葉の端々に距離があり、こちらの踏み込みを拒絶する態度。
仕事としては優秀。だが共に悩む相手ではない。
それが佐伯の評価だった。
扉が開く。居鴨が入ってくる。
姿勢は以前と変わらない。だが空気の張りが違う。
「本日はお時間ありがとうございます」
声音は低いが硬さがない。佐伯はわずかに眉を動かす。
会議は静かに進む。
「仕様の確認」
「リスクの整理」
「想定外のケース」
途中、佐伯が一つの懸念を口にする。
「正直に言うと、この部分は現場として不安があります」
以前なら居鴨は数字を示し、理論で押し切っただろう。
だが今回は違った。居鴨はすぐに答えない。
資料から目を離し、佐伯を見る。
「どの点が一番引っかかっていますか」
問いは短い。評価ではなく確認だった。
佐伯は言葉を選ぶ必要がなくなったと感じる。
説明は拙く、感覚的で論理も整っていない。
それでも居鴨は遮らない。
話を聞き終え、彼は資料に一行を書き加える。
「これは、こちらの見落としです」
その言葉に会議室の時間が一瞬止まる。居鴨が責任を外に置かない。
「この前提を修正します。その上で改めてリスクを共有したい」
佐伯は言葉の意味より、その姿勢を見ていた。
居丈高ではない。上からでもない。同じ床に立っている。
会議が終わり、エレベーター前で佐伯は足を止める。
「居鴨さん」
呼び止められ居鴨は振り返る。
「以前、失礼なことを言いました」
居鴨は黙って待つ。
「近寄りがたいと、そう思っていました」
佐伯は続ける。
「今日はそうは感じませんでした」
居鴨は否定も肯定もしなかった。
ただ一つだけ答える。
「以前は距離を取ることで仕事をしていました」
短い沈黙。
「今は同じ場所に立つ方が結果が出ると考えています」
佐伯は小さく息を吐く。
「それなら、やりやすい」
それだけで十分だった。エレベーターの扉が閉まる。
居鴨は自分の内側で起きた変化を言語化しない。
ただ一つだけ確かなことがある。
世界は見下ろすものではない。
並んで、触れて、重さを共有するものだ。
その事実を彼はようやく身体で理解し始めていた。




