社会人編 第四章 交差点
翌日の会議室、その資料は偶然にも同時に二人の目に留まった。
エネルギープロジェクトに付随する、過去の事例調査。
十数年前に中断された、海外支援型インフラ案件の記録。
国内の大学と現地機関が連携した、実験的な取り組みだった。
惹子は、ページをめくる手を止めた。
指先が、ある注記に触れる。
――調査チーム内の意見不一致により、現地調整が難航。
――結果、プロジェクトは凍結。
「……」
その概要は、彼女の記憶と重なった。
同じ頃、別の階で、居鴨もその資料を読んでいた。
数字の前提条件。曖昧な責任分界。当事者不在の議論。
彼は、苦い既視感を覚える。
大学時代。参加を見送った、あの案件。
熱意ばかりが先行し、現実を直視しない空気に、彼は距離を取った。
――失敗する。
そう判断し、関与しなかった。
翌日、二人は会議室に集められた。
「この事例、今回の案件に関係がある」
越谷が言う。
「当時の反省を踏まえて、我々は慎重に進める必要がある」
資料が回る。
惹子は、意を決して口を開いた。
「……この案件、私、学生時代に関わっていました」
一瞬、空気が止まる。
居鴨の視線が、彼女に向く。
「中心メンバーではありませんが、企画と現地調整を担当していました」
彼女は、続けた。
「結果的に、失敗しました。準備不足でした。現地を理解した“つもり”で進めてしまった」
沈黙。
居鴨は、喉の奥がひりつくのを感じた。
「……私は」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「その案件に、参加を見送りました」
全員の視線が、今度は彼に集まる。
「資料を見て、失敗すると判断した。だから距離を取った」
それ以上、言葉は続かなかった。
惹子は彼を見た。責めるでも、驚くでもない。
ただ理解したような目だった。
会議後、二人は無言で廊下を歩いた。
やがて惹子が立ち止まる。
「……あの時」
振り返らずに言う。
「あなたが正しかった部分も、あります」
居鴨は足を止めた。
「でも」
惹子は続ける。
「あなたが関わっていたら、失敗の形は、違ったかもしれない」
居鴨は言葉を失う。
「私は、関わって失敗した」
彼女は、ゆっくり振り返る。
「あなたは、関わらずに失敗を“見送った”」
視線が交わる。それは優劣ではなかった。
二つの選択が同じ地点で交差していた。
「……逃げた、と思っていました」
居鴨は初めて過去を語る。
「だから正しさにしがみついた」
惹子は首を振った。
「逃げたんじゃない。止まっただけです」
「違いは?」
「今から動けるかどうか」
その言葉は、静かだったが重かった。
二人は同じ失敗に触れ、別々の道を歩き、今、同じ案件の前に立っている。
過去は交差した。次は現在だ。
決断は声高に宣言されるものではなかった。
むしろ、それは沈黙のうちに共有され自然に形を取った。
プロジェクトの進行表は表面上、順調だった。
だが、その下層では過去と酷似した兆候が静かに芽吹いていた。
現地側の説明と数字の齟齬。楽観的に積み上げられた前提。
「今回は違う」という、根拠なき確信。
それは、かつて失敗した案件が辿った軌跡と驚くほど近かった。
居鴨は、深夜のオフィスで資料を読み返していた。
失敗の記録ではなく、成功の要因を探るためでもない。
彼が見ていたのは、「見過ごされた沈黙」だった。
誰も異議を唱えなかった箇所。
誰も責任を引き受けなかった前提。
そこに、最も大きな危険が潜んでいる。
一方、惹子は別の階で現地との通信記録を整理していた。
言葉の裏に滲む逡巡。数字に表れない躊躇。
彼女は、それを“違和”として受け取っていた。
過去の失敗は、二人に異なる教訓を与えた。
居鴨には「踏み出さぬことの安全」。
惹子には「踏み出すことの責任」。
だが今、その二つは同じ結論へと収束しつつあった。
――止める。
撤退でも回避でもない。一度立ち止まる。
賭ける前に賭け直す。居鴨はリスク評価表に新たな列を加えた。
「未確定事項」ではなく「誰が引き受けるか」。
惹子は、交渉スケジュールに一行を書き足した。
次回会合の前に現地訪問。机上の議論を一度、現実に沈める。
二人は、互いに確認を取らなかった。
だが、同じ夜、同じ修正が同じ場所に反映された。
翌朝、資料を開いたチームは違和感を覚えた。
どちらが提案したのか、判別できない変更。
だが、その違和感は不思議と安心に近かった。
「……これは」
誰かが呟いた。
越谷が、ページをめくりながら頷く。
「勇気のある判断だな」
勇気。
それは前に出ることだけを指す言葉ではない。
立ち止まり、引き受け、修正することにも同じだけ要る。
居鴨と惹子は、視線を交わさなかった。
必要がなかった。
二人は過去に囚われていなかった。
だが過去を否定もしなかった。
同じ失敗を別々に引き受け、同じ現在で、同じ選択をした。
それは勝利でも和解でもない。ただ成熟だった。
この瞬間、二人は初めて同じ地平に立った。
その夜、二人は同じ時間に同じ建物を出た。
示し合わせたわけではない。
だが、決断を共有した後の空気は偶然を必然に変えるだけの密度を帯びていた。
雨上がりの歩道は、街灯を歪に反射していた。
濡れた舗道に映る光は輪郭を持たず、触れようとすれば崩れる。
二人の距離も、ちょうどそのようだった。
並んで歩いている。
それだけの事実が以前より重く感じられる。
公的な議論の場では、言葉が二人を結びつけていた。
論理、責任、決断。
だが今は言葉がない。
沈黙は、不在ではなく充満だった。
居鴨は、歩調を僅かに落とした。
無意識の動作だったが、惹子は自然にそれに合わせる。
互いに気づき、互いに触れない。
交差点で信号が変わる。
群衆が一斉に動き出し、二人は流れの中に溶ける。
それでも並列の軌道は崩れなかった。
居鴨は思う。
人と並んで歩くことが、これほど静かな緊張を孕むとは。
彼は距離を保つことに慣れていた。
だが今、その距離は意味を失い始めている。
守るための間隔が、隔絶ではなく未踏の領域への境界線になっていた。
惹子もまた、同じことを感じていた。
彼女は、常に前に出ることで関係を築いてきた。
だが今は違う。
踏み出さず並ぶ。
その選択が、これほど不安定で同時に誠実だとは思わなかった。
駅の入口が見える。ここで別れる。
それは、既定の動線だ。だが居鴨は足を止めなかった。
惹子も同じだった。ホームに降りる階段。
夜気を含んだ風。電車を待つ人影は疎らで、時間が引き伸ばされる。
ベンチに腰掛けることもなく、二人は立ったまま、同じ方向を見ていた。
この沈黙に、名前はない。
だが無名であることが、むしろ真実に近い。
居鴨は胸中に浮かぶ衝動を言葉にしなかった。
惹子も同じだった。
互いに踏み込みすぎないことが、今は最も深い接近だった。
電車が到着する。扉が開き、人が流れ込む。
二人は別々の車両に乗る必要はなかった。
だが、同じ車両に乗る理由もまだなかった。
それでも同じ方向に揺られる。発車の振動が関係を現実へ引き戻す。
その夜、二人は何も約束しなかった。だが何かが確実に始まっていた。
公と私の境界は、破壊されることなく、静かに滲み出していた。
それは後戻りできない変化だった。




