表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/14

社会人編 第三章 社内に流れるもの

翌朝のオフィスは、いつもと同じようで少しだけ違った。

居鴨がエレベーターを降りると、視線を感じた。

一瞬。

だが確かに、何人かの目がこちらを追っている。


「……気のせいか」


自席に向かう途中、声がかかる。


「おはようございます、居鴨さん」


経理の若手だ。いつもより、妙に明るい。


「おはよう」


短く返すと、彼女は一拍置いてから言った。


「昨日、お疲れさまでした」


「?」


「……深夜まで」


言い方に含みがあった。

居鴨は何も言わずに席に着く。

PCを立ち上げると、社内チャットの未読がやけに多い。

内容は案件の確認。

だが、その合間に挟まる、どうでもいいスタンプや雑談。


――昨日の修羅場、すごかったらしいですね

――越野さん、朝から余裕あった


誰も名指しはしない。

だが線は引かれている。

そこへ、長澤がコーヒー片手にやって来た。


「なあ」


低い声。


「お前、惹子さんと二人で夜までやってたんだって?」


「仕事だ」


即答。


「知ってる」


長澤は笑う。


「だから噂になる」


居鴨は顔を上げる。


「何の噂だ」


「さあな」


肩をすくめる。


「優秀な男女が、同じ案件で、深夜まで。社内は暇だからな」


居鴨は、鼻で笑った。


「くだらない」


「そう思うなら、気にするな」


「気にしてない」


長澤は、じっと彼を見る。


「……お前、変わったな」


その言葉に居鴨は一瞬、言葉を失う。


「どこが」


「斜に構える角度が、浅くなった」


「なんだそれ」


「前は誰がどう思おうと関係ない顔してた。今は、ちょっとだけ周りを見てる」


居鴨は返す言葉を探し、見つからなかった。

その頃、惹子の席にも同じ空気が流れていた。


「越野さん、昨日遅かったですよね?」


「はい」


「大変でした?」


「ええ、少し」


それ以上、彼女は話さない。

だが、その淡々とした態度が逆に想像を煽る。


会議前の廊下で、二人はすれ違った。


「おはようございます」


惹子が言う。


「おはよう」


それだけ。だが、その一瞬の間に視線が交わる。

長澤が少し離れた場所で、それを見ていた。


「……なるほど」


彼は小さく呟く。昼前、越谷が居鴨を呼び止めた。


「居鴨」


「はい」


「仕事は順調か」


「問題ありません」


「そうか」


越谷は少し間を置いて言った。


「最近、周りがよく見えているな」


褒め言葉なのか、小言なのか。判断がつかない。


「……ありがとうございます」


越谷は何も言わずに去った。

昼休み。

居鴨は一人、屋上で弁当を食べていた。

そこへ、惹子が現れる。


「ここ、いいですか」


「どうぞ」


二人並んで、無言で食べる。


「……社内、うるさいですね」


惹子が、ぽつりと言った。


「ええ」


「気にします?」


「……前なら、しなかった」


惹子は少し驚いた顔をした。


「今は?」


居鴨は少し考えてから答えた。


「あなたに、迷惑がかかるのは嫌です」


惹子は何も言わなかった。だが、その沈黙は不快ではなかった。

社内には噂が流れている。

だが二人の間には、まだ名前のない距離がある。

それは誰かに決められるものではなかった。


夜の車内は、均質な疲労で満ちていた。

蛍光灯の白光は感情を削ぎ落とし、乗客の輪郭を平板にする。

居鴨は吊革に掴まりながら、窓に映る自分の像をぼんやりと眺めていた。


痩せた顔。無表情。どこか、世界から一歩引いた眼差し。

昔から、こうだったわけではない。

少なくとも、本人はそう信じている。


学生時代。

教室の隅で、彼はいつも書物を読んでいた。

議論よりも観察を好み、熱狂よりも冷笑を選んだ。

他者が声を荒げるたびに内心で距離を測り、優劣を秤にかける癖が、いつの間にか身についていた。


――愚直は、損をする。


それが彼の結論だった。

正論を叫ぶ者は疎まれ、善意を振りかざす者は利用される。

だから彼は感情を切り離し、常に斜に構えた。


一段高い場所から見下ろせば、踏み外すことはないと信じていた。

居丈高。

その態度は、いつしか彼の防壁となり、同時に檻ともなった。


車内が揺れる。

次の駅で数人が降り、数人が乗る。

人の入れ替わりは、人生の断面を無慈悲に切り取る。


大学三年の冬。

ゼミでの討論。

誰よりも論理的に話し、誰よりも正しかったはずの自分が、

最後に選ばれなかったあの日。


理由は明確には語られなかった。

「協調性」

「熱意」

「一緒にやりたいと思えるか」

曖昧で測定不能な尺度。


彼は、その日から理解を拒んだ。理解できないものは価値がない。

価値がないものに心を預ける必要はない。そうやって切り捨ててきた。

だが最近、その論理が軋み始めている。


越野惹子。


彼女は彼が軽蔑してきた要素を、すべて内包していた。

感情。

信頼。

賭け。


それでいて、結果を出す。

窓に映る自分の顔が一瞬歪んだ。電車の振動のせいか、内面の揺らぎか。

自分は逃げてきただけではなかったのか。

負けないために、最初から勝負を避けていただけではなかったのか。

居丈高に振る舞うことで、他者より上に立っているつもりで、

実際には、同じ地平に降りることすら拒んでいた。

それは、臆病と何が違うのか。


「……」


言葉にならない疑念が、胸中に澱のように溜まる。電車は最寄り駅に近づいていた。


アナウンスが機械的に駅名を告げる。居鴨は吊革から手を離した。

この問いに、今すぐ答えは出ない。だが無視することも、もうできない。

居丈高であることは強さではない。それは傷つかぬための姿勢に過ぎない。

そう気づいてしまった夜の帰路は、いつもより、ほんの少しだけ長く感じられた。


終電一つ前の車両は、昼間の喧騒を嘘のように孕んでいなかった。

越野は窓際の席に身を沈め、鞄を膝に置いたまま街の流れを眺めていた。

夜の都市は、昼とは逆に真実を隠さない。

疲労も、諦念も、欲望も、照明に照らされて等価になる。

彼女は、そういう時間帯を好んだ。


学生時代。

彼女は常に、前列に座る人間だった。

手を挙げ、問いを発し、時に異議を唱える。

それは自己顕示ではなく理解への渇望だった。


――分からないまま進むのは、怖い。


その恐怖を、彼女は直視していた。

だが大学二年のある日、その姿勢は脆くも崩れた。

ゼミの共同研究。海外の開発支援をテーマにした案件。

彼女は中心となって企画をまとめ、関係者との折衝も担った。


結果は、失敗だった。

現地の事情を、知ったつもりになっていた。

数字の裏にある生活を、理解したつもりになっていた。


善意は、準備不足という名の傲慢だった。

プロジェクトは中断され、教授から告げられた言葉が、今も残っている。


――「君は正しい。だが軽い」


重さとは、何か。その問いに彼女は答えられなかった。

数週間後、彼女は一人で現地に向かった。

誰に勧められたわけでもない。評価に繋がる保証もない。

ただ自分の過ちを、自分の目で引き受けたかった。


現地で見たのは、理不尽と不条理の連続だった。

数字では割り切れない事情。理屈では救えない選択。

そこで彼女は初めて理解した。

賭けるとは、希望を置くことではない。


結果が裏切る可能性を、最初から抱え込むことだ。

失敗しても、責任から逃げない。

他者の人生に関与するとは、そういうことだ。


それ以来、彼女は安全圏に立たなくなった。

常に当事者として前に出る。批判も、失敗も、引き受ける覚悟で。


電車が減速する。駅の灯りが、車内を照らす。最近、思い出す顔がある。


居鴨高嗣。


彼は、彼女とは逆の方向で防御を築いた人間だ。

恐れているのに、恐れていないふりをする。

傷つくことを避けながら、正しさに縋る。


それが彼女には痛いほど分かる。


「……似ているのかもしれない」


小さく、独り言のように思う。

賭けないことで守る人と、賭けることで進む人。


電車は、彼女の降りる駅に着いた。

扉が開き、夜風が入り込む。惹子は立ち上がり、歩き出す。

もし彼が、一歩踏み出すなら。その時は自分も、もう一度賭けよう。

誰かと組むことに。


そう思える自分が、まだいることを、

彼女は少しだけ、誇らしく感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ