表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/15

社会人編 第二章 プロジェクトチーム

翌週の月曜、会議室には珍しく人が揃っていた。

壁一面のホワイトボードには、太い字でこう書かれている。


――エネルギー統合プロジェクト(仮)


居鴨は席に着きながらその文字を眺めた。

「仮」と付いているが、誰も仮だとは思っていない。金額も規模も、もはや後戻りできない段階に入っている。

越谷が、いつもより張りのある声で口を開いた。


「今回のプロジェクトは、我が社としても過去最大級だ。

 国内外の金融機関からの資金調達、エネルギーインフラの整備、リスク管理――どれ一つ欠けても成立しない」


居鴨は資料に目を落としながら、名前の一覧を追った。

自社メンバー。

法務。

技術。

そして――外部協力先。


「証券会社側のメイン窓口は、越野さんです」


その瞬間、視線が集まる。

惹子は静かに立ち上がり、簡潔に頭を下げた。


「越野惹子です。

 本件では、国内外の金融機関との調整および、資金調達スキーム全体の設計を担当します」


淡々としているが、揺るぎがない。

居鴨は、彼女が“前に出る人間”だと、改めて実感した。


「居鴨くん」


越谷の声が、居鴨を呼ぶ。


「君には、全体のリスク評価と事業性の精査を任せる。

 越野さんとは、二人三脚になるだろう」


二人三脚。

その言葉に、居鴨は小さく眉を動かした。


「……了解しました」


周囲の視線が、微妙に変わる。

居鴨はこれまで、単独で動くことが多かった。だが今回は違う。誰かと“組む”前提で配置されている。


「長澤」


越谷は次に名を呼ぶ。


「君は社内調整と進行管理だ。

 居鴨と越野さんの間に立って、衝突を未然に防げ」


長澤は軽く手を挙げる。


「板挟み役ですね。お任せください」


冗談めかしているが、その目は真剣だった。

会議が進むにつれ、役割が次々と決まっていく。

個々の“得意”と“欠点”が、無遠慮に配置されていく感覚。


居鴨は、逃げ道が塞がれていくのを感じていた。

会議終盤、惹子が口を開いた。


「一点だけ、確認させてください」


全員の視線が向く。


「このプロジェクトでは、

 “正しさの優先順位”を最初に決めておきたい」


居鴨は、思わず彼女を見た。


「数字、スピード、関係性。

 どれを最優先にするかで、判断が変わります」


短い沈黙。

越谷が答える。


「最優先は――成立だ」


惹子は頷いた。


「了解しました。

 では、必要に応じて、数字も、感情も使います」


その言葉は、居鴨に向けられたものだと彼は分かっていた。

会議が終わり、人が立ち上がる。

資料をまとめながら惹子が居鴨に視線を向けた。


「居鴨さん」


「……何でしょう」


「これから、長くなります」


「承知しています」


惹子は微かに笑った。


「逃げないでくださいね」


冗談とも本気ともつかない声。

居鴨は一瞬だけ言葉に詰まった後、静かに答えた。


「……逃げるつもりはありません」


それは自分自身への宣言でもあった。

プロジェクトチームは、こうして動き出した。

それぞれの思惑と癖を抱えたまま、同じ方向を向くことを強いられながら。


居鴨は、初めて気づく。

この仕事は数字だけでは終わらない。

そして、この人間関係からは、もう降りられない。


トラブルは準備が整った矢先に起きた。

海外の金融機関向けに送付する一次資料。

その草案が、チーム内で回覧された翌朝だった。


居鴨は自席で資料を読み終え、即座に赤を入れた。

数字の前提条件。為替リスクの扱い。政治的リスクの注記。

どれも、彼の基準では甘い。


「……削りすぎだ」


低く呟き、修正版を共有フォルダに上げる。

注釈は増え、ページ数は一気に膨らんだ。


数十分後、チャットが鳴った。


――越野:この修正、確認しました。

――越野:少し話せますか?


会議室。

二人きり。

居鴨は資料を机に置き、率直に切り出した。


「海外ファンド相手なら、最悪のケースを隠すべきじゃない。

 最初から全部出すべきです」


惹子は腕を組まず、ただ聞く姿勢を取る。


「全部、というのは?」


「想定し得るリスクすべてです。

 為替、政変、規制変更、技術遅延――」


「それを、最初の一手で?」


「ええ」


惹子は一拍置いた。


「それをやると、交渉は始まりません」


即答だった。


「彼らは投資家です。

 “怖い話”を聞くために来るわけじゃない」


居鴨は眉をひそめる。


「リスクを理解しない投資は、投機です」


「理解させる順番の話です」


惹子の声は冷静だ。


「最初に見せるのは、“参加する理由”。リスクは信頼関係ができてから共有する」


「それは誤解を誘う」


「いいえ」


惹子は、はっきり言った。


「それは相手の思考プロセスに合わせる、ということです」


居鴨は机に手を置く。


「合わせる必要はない。こちらは事実を出す。それで判断するのが彼らの仕事だ」


「……居鴨さん」


惹子は初めて声を少しだけ強めた。


「あなたは、“正しい情報”と“正しい伝え方”を混同している」


空気が張り詰める。


「海外ファンドの意思決定は、数字だけじゃない。

 背景、ストーリー、信頼――それを無視したら、この案件は潰れる」


「感情論です」


居鴨は言い切った。


「現実論です」


惹子も譲らない。しばらく沈黙。

その場にいたら、長澤が止めていただろう。

だが今は、二人だけだ。


「……分かりました」


先に折れたのは、居鴨だった。

だが、それは納得ではない。


「では、あなたの案で行きましょう。

 ただし、後で問題が出ても私は責任を取りません」


惹子は、彼を真っ直ぐ見た。


「その時は、一緒に取ります」


居鴨は言葉を失った。


「これは、あなた一人の案件じゃない。私も、同じだけ賭けています」


その一言で何かが変わった。

居鴨は初めて気づく。

彼女は“正しさ”を捨てているのではない。

“守る対象”が違うだけだ。


「……分かりました」


今度の声は少しだけ低かった。


「ただし、第二フェーズでは必ず私の案を入れてください」


惹子は、わずかに笑った。


「約束します」


こうして最初の衝突は収束した。

完全な和解ではない。だが破綻もしなかった。


会議室を出るとき、居鴨は思った。

この人と組むのは、厄介だ。

だが――

逃げたくない。


初交渉は、穏やかに終わった。

オンライン会議の画面には、欧州系ファンドの投資責任者たちが並び、誰一人として声を荒げることはなかった。


質問は端的で、反応は概ね良好。

終了時には「前向きに検討したい」という言葉も引き出せた。

会議が切れた瞬間、チームの空気が一気に緩む。


「……行けそうですね」


誰かが言い、数人が頷いた。長澤が居鴨の肩を軽く叩く。


「初回としては上出来だろ」


居鴨は曖昧に頷いた。確かに失敗ではない。

だが成功とも言い切れなかった。会議中、彼は何度か口を開きかけた。

為替ヘッジの条件。政権交代時のリスク分岐。長期契約に潜む“不確実性”。

だが、そのたびに惹子が先に話し、柔らかく、しかし巧妙に論点をずらした。


――今はそこではない。

そう言われている気がした。会議後、惹子は冷静に総括する。


「第一関門はクリアです。次回、詳細をデューデリで詰めましょう」


誰も異論を挟まなかった。居鴨だけが、資料を閉じる手を止めていた。


「……一つだけ」


彼は言った。


「こちらから提示したリスク、向こうは軽く受け取りすぎていませんか?」


惹子は即答しない。


「軽く、ではありません」


「そうは見えなかった」


「見せ方の問題です」


彼女は落ち着いて続けた。


「“問題ない”と錯覚させる必要がある段階でした」


居鴨は眉を寄せる。


「錯覚、ですか」


「誤解しないでください」


惹子は言葉を選ぶ。


「錯覚は、後で必ず現実に戻します。そのための準備も、もう始めています」


居鴨は、それ以上追及しなかった。

会議室を出ると、長澤が小声で言う。


「お前、珍しく大人しかったな」


「……そうか?」


「いつもなら、三回は噛みついてる」


居鴨は苦笑した。


「噛みつく必要がなかっただけだ」


だが、それは半分しか本心ではない。

自席に戻り、会議メモを見返す。

ファンド側の反応。好意的な表情。前向きな言葉。

――なのに、胸の奥に、針のような違和感が残っている。


正しいことを言わなかった。いや、言えなかった。

それが、居鴨にとっての“負け”だった。

同時に、認めざるを得ない事実もあった。

彼女のやり方は通用した。自分の正しさより結果が先に出た。


「……くそ」


誰にも聞こえない声で呟く。

斜に構え、距離を取ることで自分を守ってきた男は、

初めて“結果を出す他人”の背中を見ていた。

そして、その背中が少しだけ――

悔しいほど、まっすぐに見えた。


その連絡は、日付が変わる少し前に来た。

欧州ファンドからの追加要請。想定以上に踏み込んだシナリオ分析。

期限は明朝。


「……今から、やりますか」


惹子の声は電話越しでも疲れていた。


「当然です」


居鴨は即答した。会社に戻るか、近くでやるか。

迷った末、二人はビル近くの、深夜まで開いている小さなコワーキングスペースに入った。


蛍光灯は白く、音はキーボードだけ。

向かい合って座り、言葉はほとんど交わさない。

居鴨は、いつもの倍の速度で手を動かしていた。


為替感応度。最悪ケースのキャッシュフロー。

彼の得意分野だ。

一方、惹子は全体構成を整え、数字に物語を与えていく。

二時間が過ぎた頃だった。


「……ここ」


惹子が画面を指す。


「この前提、少し保守的すぎませんか?」


居鴨は即座に反論しようとした。だが言葉が喉で止まった。

保守的。それは彼が最もよく使う、安全側の逃げ道だ。


「……リスクは見積もるものです」


「恐れるものではない」


惹子は穏やかに言った。

沈黙。

居鴨は、キーボードから手を離した。


「……正直に言います」


自分でも驚くほど、声が低かった。


「私は失敗するのが怖い」


惹子は何も言わない。ただ視線を逸らさず待った。


「だから最初から最悪を出す。そうすれば裏切られない。期待されなければ、傷つかない」


言葉が止まらなくなる。


「人も同じです。期待しなければ、失望しない。近づかなければ、負けない」


惹子は初めて少し息を吐いた。


「……それで、楽でしたか?」


居鴨は答えられなかった。楽だったか。確かに安全だった。

だが満たされてはいなかった。


「私は」


惹子が、ゆっくり口を開く。


「失敗する前提で動きます」


「え?」


「うまくいかない可能性を最初から受け入れる。だからこそ、人にも案件にも賭けられる」


居鴨は彼女を見る。


「怖くないんですか」


「怖いです」


即答だった。


「でも、怖いからって距離を取ったら、何も始まらない」


また、沈黙。

居鴨は、画面に目を落としたまま言った。


「……ずるいですね」


「何が?」


「あなたは、正しさも、怖さも、両方引き受けている」


惹子は少しだけ笑った。


「それ、大人ってことかもしれません」


居鴨は初めて自嘲ではなく、弱さを込めて笑った。


「……私は、ずっと子供でした」


その言葉は軽くも重くもなかった。ただ事実だった。

時計を見ると、もう午前二時を回っている。


「この前提」


居鴨は修正案を開いた。


「少しだけ、攻めます。あなたのやり方で」


惹子は頷いた。


「その代わり」


「はい」


「危なくなったら、止めてください」


居鴨は、はっきり言った。惹子は静かに答えた。


「一緒に止めます」


その夜、提出した資料は、彼にとって初めて「守りだけで作らなかった」ものだった。

居鴨は初めて自分の弱さを言葉にし、それでも立っていられることを知った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ