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優太お受験編 一章 最適解の不在

六年生になった優太の机は、いつの間にか小さくなっていた。

正確には、机が縮んだのではない。

積み上がる問題集、赤青二色のペン、模試の成績表、付箋の群れが、空間を侵食しているのだ。


夜九時。

ダイニングの照明は、家庭用としては過剰なほど白く、明るい。


「ここ、条件整理してみよう」


居鴨は、いつもの調子で言った。

ホワイトボード代わりに用意したメモ用紙に、集合記号と矢印を書き込む。


「この設問はね、前提が三つある。一、距離。二、時間。三、制約条件――」


「パパ、もうわかんない」


優太は、鉛筆を転がした。

惹子は、少し離れた位置から、問題文を読み直している。

証券会社で幾度となく複雑な資金調達スキームを組み立ててきた女の目は、静かだが鋭い。


「優太、まず数字を感覚で捉えよう。この場合、割合は――」


「それもわかんない」


空気が、僅かに重くなる。居鴨は、内心でリスク評価を始めていた。

集中力の低下。疲労による処理速度の減衰。感情的反発の兆候。


――ここで詰めるのは悪手だ。

分かっている。

分かっている、はずなのに。


「でもな、これは中学受験では頻出だ」


「だからって……」


優太の声が、かすれる。

惹子が、ペンを置いた。


「一回、休憩しよ」


「いや、ここは――」


「ねえ」


名前を呼ばれ、彼は言葉を止めた。


「あなたのプロジェクトだったら、この局面で無理に前倒ししないでしょう」


居鴨は、黙った。確かにそうだ。

スケジュールにはバッファを設ける。

人員の疲弊は、最終成果に直結する。

だが、目の前にいるのは、数字でも、案件でもない。

自分の息子だ。

優太は、机に突っ伏している。


「……みんな、こんなの解けるの?」


その一言に、居鴨は胸を突かれた。

比較。競争。序列。

彼自身が、人生を通じて浴びてきた概念が、

今、優太の口から零れ落ちた。惹子が、優太の背中に手を置く。


「解けない日があってもいいの」


「でも……」


「大丈夫。あなたは、ちゃんと考えてる」


居鴨は、その様子を見ながら、自分たちの異常さを、薄々理解していた。

商社でリスクを切り分け、証券で資本の流れを設計する、臈長けた二人。

最適化、効率化、再現性。それらは、仕事では武器だ。


だが、受験という不確実性の塊を前にすると、

その武器は、時に鈍器に変わる。


――子どもの学びには、明確な最適解など存在しない。


その事実を、二人はまだ、完全には受け入れられていなかった。

時計の秒針が、静かに進む。

白い光の下で、エリート二人と、六年生の少年は、

同じ問題の前で立ち尽くしていた。

それぞれが、「正しいはずのやり方」に囚われたまま。


机の上の空気が、少しだけ変わったのは、

算数のページをめくった瞬間だった。


「次、これやってみようか」


惹子が差し出したのは、

旅人算と書かれた問題集のページだった。

優太は、ちらりと見て、肩をすくめる。


「それ、さっきのより簡単そう」


居鴨は眉をわずかに動かした。

国語の長文では言葉の海に溺れ、

数論では抽象的な規則性に足を取られていた優太が、珍しく前向きだ。


「AさんとBさんが、向かい合って歩き始めます――」


「これさ」


優太は、問題文の途中で口を挟んだ。


「結局、速さでしょ?」


その一言に、惹子が微笑む。


「そう。時間と距離の話」


優太は鉛筆を持ち直し、図を描き始めた。

直線、矢印、小さな人のマーク。


「ここから、ここまでが全部で――」


居鴨は、口を挟みかけて、やめた。

優太は、自分の言葉で整理している。

しかも、早い。


「じゃあ、通過算は?」


「電車のやつでしょ」


優太は、迷いなく答える。


「長さを足して、速さで割る」


さらさらと計算が進む。途中式も、過不足がない。

流水算に至っては、優太は少し得意げに言った。


「上りは遅くなる。下りは速くなる。だから、同じ距離でも時間が違う」


「じゃあ、和差算は?」


惹子が試すように問う。

優太は、一瞬考えてから、紙の端に二本の線を引いた。



「足して、引く。全体と差が分かれば、それぞれ半分ずつ」


言い終えたあと、ちらりと居鴨を見る。


「ね、これならわかる」


居鴨は、静かに息を吐いた。

速さ、距離、時間。具体。可視。

関係性が一方向で閉じている。


数論のように、抽象を積み上げる世界ではなく、

国語のように文脈を漂う必要もない。


ここには、条件があり、構造があり、解が一つに収束する。


――プロジェクトに似ている。


居鴨は、ふと気づく。

優太は、「動いているもの」を扱う問題が好きなのだ。

変化が見える。前に進む。結果が、線として現れる。


「すごいじゃないか」


思わず、声が漏れた。

優太は、少し照れながら、胸を張る。


「だって、これ、考えたらちゃんと答え出るもん」


惹子は、二人を交互に見て、穏やかに言った。


「向いてる分野があるだけ。それを見つけるのが、勉強だから」


机の上には、解かれた問題に、丸が増えていく。

先ほどまで漂っていた閉塞感は、いつの間にか消えていた。

居鴨は、赤ペンを置きながら思う。

最適解は、一つではない。

優太は、自分の速度で、自分の流れに乗り始めていた。



ぼくは最近、勉強ができている。

少なくとも、点数というものは上がっている。

旅人算も流水算も、問題を見た瞬間に頭の中で線が引ける。


速さが重なって、距離が縮んで、答えが一つに落ちてくる。

先生も塾の人も、家の大人たちも「順調だね」と言う。


でも。

胸の奥に、小さな石みたいなものが残っている。

放課後の校庭。

鉄棒の影が少し長くなっている時間帯。

ぼくはベンチに座って、上履きのつま先で砂をこすっていた。


「なあ」


隣に座ってきたのは、大曾根雅彦だ。


背はぼくより少し高くて、いつもノートの字がやたら丁寧なやつ。


「また考えごとか?」


「まあね」


ぼくは答えをぼかす。

本当は、ずっと同じことを考えている。


「受験勉強ってさ」


口に出した瞬間、自分でも驚いた。

こんなこと、誰かに言うつもりはなかった。


「意味あると思う?」


雅彦は、少し目を丸くしたあと、空を見た。


「急だな」


「だってさ」


ぼくは続ける。


「問題解けるようにはなってるよ。

でも、なんでこんなにやってるのか、よく分かんない」


雅彦は、少し考えてから言った。


「いい学校行くためじゃないの?」


「その先は?」


「……その先?」


その一瞬の間に、ぼくは確信した。

みんな、そこから先をちゃんと考えてない。


「勉強ってさ、解けるかどうかじゃなくて、

やる意味が分からないと、なんか変じゃない?」


自分の声が、思ったより大人びて聞こえて、少しだけ誇らしくなる。


――たぶん、これだ。


お父さんの声が、頭の中で重なる。

いつも冷静で、少し偉そうで、「合理性」とか「最適解」とか言う人。

勉強も、仕事も、意味がなければやらない。


理由がなければ動かない。

ぼくは、その考え方を、知らないうちに受け取っていた。

雅彦は、困ったように頭をかいた。


「でもさ、意味って、後から分かることもあるんじゃない?」


「それって、今は分からなくてもやれってこと?」


「まあ……そうなるかな」


ぼくは、少し笑った。


「それ、あんまり納得できない」


砂を踏みしめながら、続ける。


「だって、理由も分からずにやるって、リスク高くない?」


雅彦は吹き出した。


「お前、誰に似たんだよ、それ」


「さあね」


分かっている。

間違いなく、お父さんだ。家で問題を解いているとき、

お父さんは口を出さない。でも、たまに言う。


「これは、何を測っている問題だと思う?」


答えよりも、構造。点数よりも、意味。

ぼくは、勉強が嫌いなわけじゃない。

できないわけでもない。


ただ、「やれ」と言われるだけの状態が気持ち悪いのだ。


「じゃあさ」


雅彦が言った。


「意味があったら、やるのか?」


その問いに、ぼくは即答できなかった。

少し考えてから、言う。


「たぶんね。自分で納得できたら」


それは、子どもらしくない答えだったかもしれない。

でも、嘘じゃない。チャイムが鳴る。

校舎の方から、先生の声が聞こえる。

立ち上がりながら、ぼくは思う。

勉強は、うまくいっている。


でも、

この先も続けるなら、理由が必要だ。

それを見つけるのは、先生でも、塾でも、ましてや点数でもない。


――たぶん、自分だ。


砂のついた手を払いながら、

ぼくは校舎に向かって歩き出した。

答えは、まだ出ていない。

でも、問いを持ったまま進むことは、

悪くない気がしていた。

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