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社会人編 第一章 居鴨、負ける

翌朝のオフィスは、昨日と何一つ変わらないように見えた。

同じ照明、同じ席順、同じようなキーボードの音。居鴨はコートを脱ぎ、椅子に腰を下ろす。


机の上に置いた名刺は、今朝は鞄の中にしまわれていた。

昨夜の考え事など、なかったことにする。

そう決めて出社したはずだった。


「なあ、居鴨」


背後から、いつもの軽い声。


「昨日さ、証券会社の人が来てたの知ってる?」


居鴨はモニターから目を離さず、淡々と返す。


「さあ。用件次第だろ」


「その反応、ほんと興味なさそうだな」


長澤は笑いながら、居鴨のデスク脇に腰をもたせかけた。

「でもさ、その人、結構すごい人らしいぞ」


「“すごい”の定義が曖昧だ」


「いや、ガチのやつ。

 越野惹子って名前、聞いたことある?」


その瞬間、居鴨の指が止まった。

ほんの一瞬。

自分でも気づかないほど短い沈黙。


「……知らない」


言葉は少しだけ遅れた。

長澤は気づかず続ける。


「31歳で外資寄りの証券会社のエース。数字叩き出してるらしい。

 しかも美人。仕事もできて、性格もいいって評判」


居鴨は画面を見つめたまま、内心で舌打ちをした。

――性格もいい。


「社内でも何人か、昨日名刺交換したみたいだぞ。

 ほら、例の新規案件の絡みで」


「……そうか」


できるだけ興味のないふりをする。

長澤は一瞬、居鴨の横顔を盗み見た。


「へえ、食いつかないんだ」


「噂話に価値を感じないだけだ」


「はいはい」


長澤は両手を上げて降参のポーズを取る。


「でもさ、不思議だよな。

 ああいうタイプ、居鴨が一番苦手そうなのに」


「どういう意味だ」


「超エリートで、愛想もよくて、人当たりも完璧。

 君の“斜に構え理論”が一番通じなさそう」


その言葉に、居鴨はようやく長澤を見る。


「人当たりがいい人間ほど、計算高い」


即答だった。


「うわ、偏見」


「経験則だ」


長澤は吹き出し、肩を揺らした。


「でもさ、もし会ったらどうする?」


「どうもしない」


「ほんとに?」


居鴨は視線を戻し、キーボードを叩き始めた。


「業務上必要なら対応する。それだけだ」


長澤はしばらく何も言わず、居鴨の背中を見ていたが、やがて小さく笑った。


「……ま、そう言うと思った」


そう言い残し、長澤は自席へ戻っていった。

オフィスの音が、再び日常に戻る。

居鴨は画面を見つめながら、頭の中で一つの名前を反芻していた。


越野惹子。

昨夜、机の上に置いた名刺。

昼下がりの歩道。

そして今朝の何気ない会話。

偶然が、三度重なった。


「……くだらない」


そう呟き、居鴨は仕事に集中しようとする。

だが鞄の中にある名刺の存在を、どうしても無視できなかった。


翌週の会議室は、必要以上に静かだった。

ガラス越しに見えるオフィスのざわめきが、まるで別世界の音のように遠い。

居鴨は資料を手元に揃え、向かいの席を見た。


そこに座っているのが、越野惹子だった。

先日、歩道ですれ違った女性。

名刺の名前と、今目の前にいる人物が、ぴたりと一致する。


31歳。

証券会社。

外見は落ち着いていて、派手さはない。だが視線の置き方が妙に的確で、こちらを値踏みするような感じがしない。


「本日はお時間いただき、ありがとうございます」


惹子は穏やかに言い、軽く頭を下げた。

居鴨も形式的に会釈する。


「こちらこそ」


声はいつも通り、淡々としていた。

案件の説明が始まる。

惹子は数字を正確に把握し、無駄な言葉を使わない。居鴨は内心で、予想よりずっと理知的だと認めざるを得なかった。


――だが、会話の主導権は渡さない。

居鴨は彼女の説明が一段落したところで、口を開く。


「リスク評価が甘いですね」


直球だった。

会議室の空気がわずかに張る。


「この前提条件だと、最悪ケースを想定していない。

 数字が綺麗すぎる」


惹子はすぐには答えず、資料に目を落とした。

数秒の沈黙。

居鴨は、勝った、と思った。


だが――


「ええ、その通りです」


惹子は顔を上げ、穏やかに言った。


「最悪のケースは、あえて外しています」


居鴨は眉を動かした。


「理由は?」


「居鴨さんは、“想定外”を嫌いますよね」


唐突だった。

だが的確すぎた。


「最悪ケースを並べると、人は議論を止めてしまう。

 リスクを見る前に、思考を止めるんです」


「……それは、一般論でしょう」


「ええ。でも、居鴨さんにも当てはまる」


言い切りだった。

責める調子ではない。ただ事実を置く声。


「居鴨さんは、正しい指摘をします。

 でも、その指摘が出ると、周りは“これ以上話しても無駄だ”と思ってしまう」


胸の奥が、わずかに軋んだ。


「それは、こちらの受け取り方の問題です」


反射的に返す。

惹子は、首を横に振った。


「違います」


即答だった。


「受け取らせ方は、話す側の責任です」


その一言で、空気が変わった。


居鴨は言葉を探した。

だが、いつもの反論が浮かばない。


「正論は、使い方を間違えると、刃物になります」


惹子は静かに続ける。


「切れるけど、誰も近づけなくなる」


居鴨は、初めて視線を逸らした。

反論できない。

否定もできない。

理解できてしまう。


「……では、どうすればいい」


気づけば、質問していた。

惹子は少しだけ驚いたように目を瞬かせ、微かに笑った。


「全部を正そうとしないこと、です」


「……」


「居鴨さんは、十分に賢い。

 だからこそ、少しだけ手加減を覚えればいい」


会議室に静寂が落ちる。

居鴨は敗北を認めたくなかった。

だが、これは――

初めて言葉で負けた感覚だった。


「……参考にします」


それが精一杯だった。

惹子はそれ以上、何も言わなかった。

ただ穏やかに微笑んだ。

その表情が、居鴨の中に、長く残ることになる。


会議室を出た瞬間、越野惹子は小さく息を吐いた。

自動ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえる。


――思ったより、素直な人。

それが居鴨への第一印象だった。


商社が推進する今回の案件は、国内外の金融機関を巻き込む大規模なエネルギープロジェクトだ。

再生可能エネルギーを軸に、発電、輸送、インフラ整備までを含む。金額は数千億規模。失敗は許されない。


惹子が担当に指名されたのも、その「失敗できなさ」ゆえだった。

彼女はエレベーターに乗り、数字を眺める。

今日の会議で確認したのは、条件のすり合わせではない。人の癖だ。

居鴨は数字に強い。


リスクを見抜く目も鋭い。

だが同時に他人に期待しない癖がある。


「最悪のケースを嫌う」


あれは推測ではない。

彼女自身が、かつて同じ場所に立っていたからだ。


惹子も以前は正しさを武器にしていた。

完璧な資料、隙のないロジック。

だが海外の金融機関との交渉で一度だけ、致命的な失敗をしたことがある。

正論を並べすぎて、相手の逃げ道を塞いだ。

結果、話は壊れた。


今回のプロジェクトでは、それを繰り返せない。

欧州のファンド、中東の政府系資金、国内メガバンク。

数字よりも「顔」と「余白」を重視する相手が多い。

居鴨のような人間は必要だ。

だが彼一人に主導権を預けるのは危険でもある。


「……だから、言い過ぎたかもしれない」


エレベーターが止まり、惹子は歩き出す。

それでも、彼女は後悔していなかった。

彼は、逃げなかった。

視線を逸らし言葉に詰まり、それでも考えようとした。

それだけで十分だ。


歩道に出ると、昼の光が目に刺さる。

ふと、昨日の出来事を思い出した。

ぶつかった肩。

落とした名刺。

拾ってくれただろうか。


「……まさかね」


惹子は小さく笑う。

だが心のどこかで、

あの名刺が、まだ彼の手元にある気がしていた。


この案件は長い。

半年、いや一年以上かかる。

その間、何度も顔を合わせるだろう。

衝突もする。

妥協もする。


「居鴨高嗣」


彼女は、心の中で名前を呼ぶ。

彼が変わるかどうかは、分からない。

だが、彼が変わる“余地”を持っていることだけは、確信していた。


惹子は足を止めず、次の打ち合わせへ向かった。

大きなプロジェクトの歯車は、静かに、しかし確実に回り始めている。


会議室を出ると、廊下は思ったよりも明るかった。

ガラス越しに差し込む光が、床に長い線を描いている。居鴨は資料を胸に抱えたまま、しばらく立ち止まっていた。

言い返せなかった。

それが頭から離れない。


「正論は刃物になる」


惹子の声が、まだ耳の奥に残っている。


「……くそ」


小さく吐き捨て、歩き出そうとした瞬間だった。


「おつかれ、居鴨」


聞き慣れた声。

長澤が廊下の壁にもたれかかるように立っていた。いつからそこにいたのか分からない。


「珍しいな。会議終わりにそんな顔してるの」


居鴨は一瞥だけくれて、通り過ぎようとする。


「用件は?」


「いや、別に」


長澤は並ぶように歩き出す。


「たださ、さっきの会議、ガラス越しにちょっと見えたから」


「覗き見か」


「偶然だって」


長澤は笑ったが、すぐに真面目な声になる。


「……負けた?」


その一言で、居鴨は足を止めた。


「何の話だ」


「言葉のやつ」


短く、核心だけを突く。

居鴨は視線を前に向けたまま、数秒沈黙した。


「……議論は成立していた」


「へえ」


長澤は軽く頷く。


「でもさ、君、珍しく黙ってた」


居鴨は何も言わない。


「越野さん、強かったな」


その名前を出され、居鴨はわずかに肩を揺らした。


「強いっていうかさ」


長澤は歩調を合わせながら続ける。


「ちゃんと“君を見て”話してた」


居鴨は反論しようとして――やめた。


「……それが、何だ」


「いや」


長澤は一度立ち止まり、居鴨の背中に向かって言った。


「初めてじゃない?君が言葉で殴らなかったの」


廊下に、短い沈黙が落ちる。

居鴨はゆっくり振り返った。


「殴っていない」


「そう。でも、“殴れなかった”」


長澤は静かに言う。


「それ、悪くないと思うけどな」


居鴨は何も言えなかった。

長澤は肩をすくめ、いつもの調子に戻る。


「ま、これから大変そうだな。

 あのエネルギー案件、相当デカいだろ」


「……ああ」


「君、逃げられないぞ」


「逃げるつもりはない」


「だよな」


長澤は笑った。


「でもさ」


歩き出しながら、振り返って言う。


「負けたって認めるのも、案外、悪くないぞ」


そう言い残し、長澤はエレベーターへ向かった。

居鴨は一人、廊下に立ち尽くす。

負けた――のか。

いや。

だが、勝ったとも言えない。


胸の奥で何かが確実に変わり始めている。

それだけは、はっきりと分かった。

居鴨は静かに息を吐き、再び歩き出した。


この案件は長い。

そして、もう後戻りはできない。



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