結婚生活編 第九章 辣腕家のグルメ評価
昼休みの雑踏は、会社の外へ溢れ出していた。
居鴨と日香川は、ビルの谷間を歩きながら、どこで食べるかを決めかねている。
「定食でもいいですし、早いのがいいですよね」
日香川はスマートフォンを見ながら言う。
「混雑率を考えると、回転が早い店が無難だ」
「それ、もう仕事の目線ですよ」
軽く笑いながらも、日香川は歩調を合わせる。
結局、看板に赤い文字が躍る中華料理屋に入った。
油の匂いが強く、床は少し滑る。昼時特有の騒がしさ。
居鴨は席に着くと、無意識に周囲を観察する。
客層、提供速度、厨房の導線。頭の中で点数が動く。
「提供まで三分。回転は悪くないが、清掃が甘い」
ぽつりと漏れた言葉に、日香川が箸を止めた。
「それ、採点してます?」
「癖だ」
「でも、それって」
日香川は少し身を乗り出す。
「店は評価されるためにやってるわけじゃないですよね」
居鴨は一瞬、言葉を探す。
「効率の話だ」
「効率だけなら、コンビニでいいじゃないですか」
理屈は直線的で、逃げ場がない。
「ここは、昼飯の場です。プロジェクトじゃない」
日香川の声は強くないが、芯がある。
居鴨は黙り、料理を一口運ぶ。
味は、悪くない。
「……そうだな」
珍しく、素直に認める。
日香川は少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに笑った。
「味の感想なら、歓迎します」
二人はそれ以上、点数の話をしなかった。
湯気の向こうで、昼休みは本来の姿を取り戻していた。
昼休みの終わりを告げるように、ビル街の空気が少しだけ張り詰める。
居鴨と日香川は、紙ナプキンの感触をまだ指に残したまま、オフィスへ戻る道を歩いていた。
「さっきの、どうでした?」
日香川が軽く聞く。
居鴨は顎に手を当て、思考を一段落とす。
「油の輪郭は明瞭だった。
過剰な獣脂ではなく、菜種油の軽やかさが主体。
火入れは迅速で、素材の繊維を壊し切らない寸前で止めている」
日香川は歩きながら、首を傾げる。
「……うまいか、うまくないかで言うと?」
「旨味は饒舌だが、主張は控えめ。
咀嚼の後半で塩味が遅行し、舌に残滓を残す」
「ちょっと待ってください」
日香川が笑いを堪えきれずに言う。
「昼飯ですよね」
「昼飯にも品格はある」
「いや、ありますけど」
日香川は肩をすくめる。
「それ、レビューじゃなくて講義です」
居鴨は一瞬、歩調を緩める。
「言語化は、理解を深める」
「でも、聞いてる側は腹減るだけです」
その指摘に、居鴨は短く息を吐いた。
「……確かに」
「で、結論は?」
「再訪は可。だが感動は単発」
「それで十分です」
二人は並んでエントランスをくぐる。
難解な言葉も、素朴な突っ込みも、昼休みの余韻として悪くなかった。




