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結婚生活編 第七章 静謐なる介入

保育園の教室は、低い天井と色褪せた掲示物に囲まれていた。

小さな椅子に座る大人たちの姿はどこか滑稽で、居鴨は膝の位置を持て余しながら壁際に身を寄せる。参観日という名の行事は、子どもを見るためのものだが、同時に親が試される場でもあるらしい。


優太は輪の中にいた。

床に広げられた積み木を前に、何かを作ろうとしている。

だが工程は曖昧で、完成形も見えない。


――順番が違う。

居丈高な鴨居が、心の奥で囁く。

土台を作らずに積むから崩れる。全体像を考えずに手を動かすから無駄が生じる。


優太の積み木は、案の定倒れた。

彼は一瞬だけ口を尖らせ、すぐに別の積み木を拾う。


――だから言っただろう。

指摘すればいい。正しさを教えればいい。

周囲の子どもよりも、もう少し考えさせれば伸びる。


居鴨の背筋が僅かに伸びる。

その瞬間、もう一人の鴨居が立ち上がった。


――違う。

ここは成果を競う場所ではない。

優太は評価されに来ているのではなく、見られに来ている。


保育士の声が穏やかに響く。

「自分で考えて、やってみましょう」


優太は笑いながら、積み木を並べ替える。

隣の子どもと何かを話し、二人で同じ形を作り始めた。


――共同作業か。

居丈高な鴨居が、不満げに沈黙する。

だが抑える鴨居は、視線を逸らさない。


失敗も寄り道も、この時間の本質だ。

効率は奪えばいいものではない。芽吹くまで待つものだ。


居鴨は拳を膝の上で緩める。

指摘の言葉は、喉元で形を失った。


参観が終わり、優太がこちらを振り返る。

少し誇らしげな顔で、小さく手を振る。


居鴨は頷くだけで応えた。

勝敗はついていない。だが今日は、抑える側の鴨居が、静かに勝った。



保育園の門を出ると、午後の空気はまだ昼の名残を含んでいた。

舗道に落ちる影は短く、親子の距離も自然と近い。


優太は居鴨の少し前を歩き、ときおり振り返る。

手には参観で作った折り紙が握られている。


「さっきの、みた?」


「ああ」


それだけで十分だったらしく、優太は満足そうに歩幅を広げる。

途中、白線の上だけを踏もうとして失敗し、笑いながら戻る。


居鴨は何も言わない。

歩調を合わせ、ただ隣にいる。


信号待ちの間、優太が折り紙を差し出す。


「これね、いっしょにつくった」


「そうか」


誰と、とは聞かない。

共有された事実だけを受け取る。


青に変わると、優太は自然に居鴨の手を握った。

その小さな重みが、参観日のざわめきを静かに遠ざける。


居鴨は思う。

教室では抑え続けた言葉が、今は不要だと分かる。

並んで帰るだけで、今日の意味は完結している。


家までの道は、特別な会話もなく、特別に穏やかだった。



夕刻のリビングは、玩具の残骸と夕食前の匂いが混在していた。

優太は床に座り込み、腕を組んだまま動かない。惹子は流し台の前で手を止め、視線だけを向けている。


「もうやらないって言ったでしょ」


声は抑えられているが、芯が硬い。

優太は唇を尖らせ、首を振る。


「だって、まだ途中だった」


「時間は決めてた」


互いの言葉は正しい。

だからこそ噛み合わない。


居鴨は少し離れた場所で、状況を俯瞰する。

感情ではなく、構造を見る癖が自然と働く。


争点は玩具でも時間でもない。

優太は中断された行為への不全感を抱え、惹子は約束という枠組みを守ろうとしている。目的が異なるまま、同じ言葉を使っている。


――ここで感情に寄れば、収束は遅れる。

――だが論破すれば、どちらかが黙るだけだ。


居丈高な目線が、珍しく役に立つ。

冷却。分解。再配置。


居鴨は膝をつき、優太の高さまで視線を下げる。


「終わらせたかったんだな」


優太は一瞬だけ目を上げ、頷く。


次に惹子へ向き直る。


「時間を守らせたかった」


惹子も小さく息を吐き、頷いた。


二つの正しさを、並べて置く。

どちらも否定しない。


「じゃあ、五分だけ続けて、そのあと片付ける。

 明日は続きやろう」


提案は簡潔で、感情を含まない。

それでいて逃げ道がある。


優太は考え、惹子を見る。

惹子は一拍置いて、首肯する。


「五分ね」


争いは、それ以上膨らまなかった。

優太は床に戻り、惹子は流しに向き直る。


居鴨は立ち上がりながら思う。

居丈高さとは、本来他者を抑え込むための姿勢ではない。

距離を取り、構造を見るための仮の場所だ。


今日はそれが、家族の均衡を保つ役割を果たした。


浴室に湯気が満ち、白い曇りが天井に溜まっている。

湯船の縁に腰掛けた居鴨の前で、優太は肩まで湯に浸かり、小さく息を吐いた。


昼間の尖りはもう残っていない。

湯の温度と時間が、感情をゆっくりと均していったようだった。


「さっきのこと」


居鴨は桶で湯をすくい、静かに言葉を選ぶ。


「ちゃんと我慢できたな」


優太は一瞬だけ目を泳がせる。


「……うん」


「嫌だったのに、暴れなかった」


それは事実だった。

泣きも叫びもしなかった。納得しきれずとも、感情を抑え、時間を待った。


居鴨は、優太の頭にそっと手を置く。


「それは簡単じゃない」


褒め言葉は多くない。

だが評価は明確だ。


優太の肩から力が抜ける。

湯の中で身体がふわりと浮き、安心したように笑う。


「パパ、みて」


居鴨は頷き、特別な感想は添えない。

今は分析も教訓も不要だった。


湯気の向こうで、親と子は同じ温度に浸かっている。

その均質さが、今日一日の角を静かに溶かしていった。


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