結婚生活編 第六章 小さな覇権争い
居鴨優太。四歳。
朝から晩まで動き回り、じっとしている時間はほとんどない。
言葉は達者で、都合の悪いことは聞こえないふりをする。
理由を聞けば理屈は並べるが、最終的には「やだ」が結論になる。
ただし、運動神経だけは妙に良い。
公園では年上の子を追い抜き、家の中でもソファからソファへと軽々跳ぶ。
居鴨は、その背中を見ながら思う。
――自分の悪い部分だけ、やけに濃く受け継いでいないか。
朝のリビング。
優太は靴下を片方だけ履き、もう片方をソファの下に蹴り飛ばしている。
「ほら、ちゃんと履け」
居鴨の声は低く、仕事の指示に近い。
「あとで!」
「あとじゃない。今」
優太は振り返り、腕を組む。
「だって今は走る時間だから」
理屈としては成立していないが、本人は納得している顔だ。
居鴨は一瞬、言葉を失う。
「走る時間は決まってない」
「決まってる。ぼくが決めた」
居鴨の眉がわずかに動く。
その言い方。どこかで聞いたことがある。過去の会議室、若い頃の自分。
「決めるのはお父さんだ」
「ちがう!」
声が大きくなる。優太は床を蹴り、さらに靴下を遠くへ飛ばす。
「ほら見ろ、余計なことするな」
「お父さんがうるさいから!」
言い合いは、音量だけが増えていく。
優太の目は潤み始めているが、引く気配はない。
居鴨も同じだ。正しさを曲げる理由が見当たらない。
その間に、惹子が静かに二人の間へ入る。
「はい、ストップ」
声は穏やかだが、よく通る。
居鴨と優太、二人とも動きを止める。
惹子は優太の前にしゃがみ、目線を合わせる。
「走りたいんだよね」
「うん」
「でも靴下履かないと、あとで困るのも優太」
優太は唇を尖らせる。
惹子は次に居鴨を見る。
「命令じゃなくて、選ばせてあげて」
居鴨は息を吐く。
自分が“正解”を押し付けていたことに気づく。
惹子は優太に微笑む。
「靴下履いてから走る?それとも履きながらジャンプする?」
優太の目が一瞬輝く。
「ジャンプ!」
数秒後、優太は片足ずつジャンプしながら靴下を履き、勢いそのまま部屋を一周する。
居鴨はその様子を黙って見ている。
勝ち負けではない。支配でもない。
それでも、家庭の中にも小さな覇権争いは確かに存在する。
惹子が立ち上がり、居鴨の横を通りながら小声で言う。
「似てるね、二人」
居鴨は苦笑する。
否定できない。
優太は笑いながら走り去る。
居鴨は、その背中を追うように視線を送った。
――居丈高は、血よりも癖なのかもしれない。
公園の砂場は、午後の陽射しを吸って温くなっていた。
居鴨優太は、スコップを握りしめ、夢中で穴を掘っている。
目的は曖昧だが、動きだけは迷いがない。
「まず底を平らにしないと」
居鴨は自然に口を出していた。
「ここをこう掘ると、崩れにくい」
優太は手を止めず、砂を外へ放り投げる。
「いまはトンネルなんだよ」
「トンネルなら、入口と出口の位置を決めないと無駄が多い」
言いながら、居鴨は別のスコップを取り、補助線を引くように砂を整える。
崩れを防ぐために側面を締め、工程を頭の中で分解する。効率。安定。完成形。
「そこは触らないで」
優太の声が、少し尖る。
「触った方が早い」
「ちがう。ぼくがやる」
居鴨は口を開きかけて、止まった。
砂の上に映る二つの影。大人の影が、無意識に子どもの影を覆っている。
手順。合理。最短距離。
それらは仕事では武器だが、今この場所で必要なものだろうか。
居鴨はスコップを砂に立てたまま、動きを止める。
優太は構わず掘り続け、何度も崩れ、そのたびに笑う。
崩壊と再構築を、彼は遊びとして受け入れている。
失敗は過程で、完成は目的ではない。
居鴨は、ようやく腰を下ろす。
「……好きにやれ」
優太は一瞬こちらを見て、にやりと笑う。
「じゃあ、ここ見てて」
居鴨は頷くだけで、手を出さない。
砂にまみれた小さな手が、不格好なトンネルを掘り進める。
その非効率さが、なぜか眩しい。
完成は歪で、すぐに崩れた。
それでも優太は満足そうだった。
居鴨は思う。
正しさを教えることと、奪わないことは、まったく別の行為だ。
砂場に吹く風の中で、彼は静かに我に返った。
昼時のファミリーレストランは、ざわめきに包まれていた。
食器の触れ合う音、子どもの笑い声、注文を復唱する店員の声。
それらが均質に混ざり合い、時間の輪郭を曖昧にする。
居鴨は優太と向かい合って座っている。
ネクタイは外し、シャツの第一ボタンも留めていない。
休日の昼というだけで、肩に乗っていた緊張が不思議と軽くなる。
「ハンバーグ、まだ?」
優太はテーブルに顎を乗せ、メニューの写真を指でなぞる。
「もうすぐ来る」
居鴨はそう答えながら、スマートフォンを鞄にしまう。通知は見ない。
今日は見ないと決めている。
運ばれてきたハンバーグは、鉄板の上で小さく音を立てていた。
優太の目が輝く。
「すごい。あつそう」
「触るなよ」
反射的に言いかけて、居鴨は語尾を飲み込む。代わりに水を差し出す。
「まず飲め」
優太は素直にストローをくわえ、満足そうに頷いた。
ケチャップで描かれた不格好な顔を見て、居鴨は思わず笑う。
「パパ、わらった」
「……笑ったな」
それが妙に可笑しく、二人で同じタイミングでハンバーグを切る。
肉汁が溢れ、優太は歓声を上げる。
食事の途中、ドアベルが鳴った。
視線を上げると、惹子がこちらを見つけ、軽く手を振る。
「遅れてごめん」
向かいの席に腰を下ろし、メニューも開かずに水を一口飲む。
「楽しそうね」
「ハンバーグがすごいんだよ」
優太が得意げに説明する。
惹子は目を細め、二人を交互に見る。
「仕事の顔してない」
居鴨は肩をすくめる。
「今日は忘れてる」
惹子はそれ以上何も言わず、優太の口元についたソースをナプキンで拭った。
その仕草が自然で、居鴨は静かに息を吐く。
ファミリーレストランの窓から差す光は、特別でも劇的でもない。
だがその平凡さの中に、居鴨は確かな安堵を見出していた。
数字も判断も要らない昼食。
ただ同じ卓を囲み、同じ時間を食べている。それだけで、十分だった。




