結婚生活編 第五章 卓を囲む癖
牌の音が小気味よく重なる。仕事では交わらない沈黙がここでは心地よい。
居鴨は配牌を眺め指先で牌を揃えながら無意識に効率を測っている自分に気づき小さく息を吐いた。
「出た出た」
長澤がすぐに突っ込む。
「配牌整理からもう顔が仕事モードなんだけど」
「無駄を減らしているだけだ」
「ほらそういうとこ」
長澤は笑いながら打牌する。
青山は静かだった。牌を引き目線を落とし一拍置いてから切る。
焦りがない。家庭でも仕事でも同じ速度で生きている男の手つきだった。
「青山さんそれ完全に待ち読んでますよね」
日香川が身を乗り出す。
「統計的にこの局面では」
「まあまあ」
青山は穏やかに遮る。
「理屈は後でいい」
日香川は一瞬言葉に詰まりそれから頷く。
「……はい」
居鴨はその様子を横目で見ながら牌を切る。
安全牌。無難。勝ちに行くより崩れない選択。自分の癖だと理解している。
「居鴨さん」
日香川が言う。
「今のはリスク低いですけど期待値も低いですよ」
「知っている」
「なら」
「今は攻めない」
居鴨は短く答える。
長澤が吹き出す。
「仕事かよ」
「麻雀でも性格出るよなあ」
青山が笑う。
「居鴨は守備型」
「青山さんは様子見型」
「長澤は」
「雑音型だろ」
居鴨が言うと長澤は即座に抗議する。
「ひどいな。俺は場を和ませる潤滑油だろ」
「放銃率高い潤滑油ですね」
日香川が真面目に言い長澤が固まる。
「新人容赦ねえな」
場に笑いが広がる。日香川も少し遅れて笑った。理屈を置いた笑い方だった。
終盤。居鴨が静かに聴牌する。だがリーチはかけない。
「出た」
長澤が指をさす。
「居鴨の黙り」
「待ちが悪い」
「いや性格だろ」
その直後、青山がツモる。
「すみません」
「ほら」
長澤が天を仰ぐ。
「人生そのまんまじゃん」
居鴨は苦笑する。否定はしない。
日香川は牌を片付けながら言う。
「麻雀って合理性だけじゃ勝てないですね」
「だから面白い」
青山が答える。
居鴨は卓を見渡す。皮肉も理屈も沈黙も、ここでは衝突しない。
それぞれの癖が削られずに並んでいる。
居丈高でいる必要はない。卓は同じ高さだ。牌の重みは全員に等しい。
「次どうする」
長澤が言う。
「もう一局」
居鴨はそう答えた。
勝ち負けよりもこの時間を続ける選択。
それが自然にできていることに彼は少しだけ満足していた。
店は深夜に近かった。麻雀の後に寄るには少し重たいがそれがいいと長澤は言った。カウンターだけの小さなラーメン屋。湯気と脂の匂いが思考を単純にする。
二人は並んで座る。言葉より先に麺が運ばれる。
「結局さ」
長澤がレンゲを沈める。
「うまくいってんだろ」
居鴨は一拍置いてから頷く。
「波はある」
「出た」
長澤は笑う。
「模範解答」
「事実だ」
居鴨は麺を持ち上げる。
「ただ」
少し間を置く。
「以前よりも話す」
「惹子さんと?」
「そうだ」
長澤は大きく頷く。
「それが一番すげえよ」
「そうか」
「だってさ」
長澤は箸を止める。
「最初の頃のお前考えたらさ」
居鴨は黙る。思い出さないわけではない。
「最初の会議」
長澤は続ける。
「惹子さんが前に出た瞬間の、お前の顔」
「どんな顔だ」
「負けたって顔」
居鴨は苦笑する。
「自覚はある」
「あの頃のお前さ」
長澤は麺をすすりながら言う。
「誰かと組む前提じゃなかった」
「単独で完結させたかった」
「そう」
長澤は指を立てる。
「でも途中から変わった」
「いつだ」
「家事分担で揉めた頃だろ」
居鴨は一瞬むせる。
「なぜ分かる」
「雰囲気だよ」
長澤は軽く言う。
「仕事の打ち合わせで変な角が取れた」
居鴨はスープを飲む。
「惹子は」
彼はゆっくり言う。
「対等であろうとする」
「それがお前には効いた」
「逃げ場がない」
「でも楽だろ」
居鴨は考える。
「楽ではない」
「でも孤独じゃない」
その言葉に居鴨は何も返さない。否定できないからだ。
「プロジェクト初期」
居鴨はぽつりと言う。
「彼女が前に出るたび自分の居丈高が削られる感覚があった」
「削られてよかったな」
「痛みはあった」
「そりゃそうだ」
長澤は笑う。
「でもさ」
少し声を落とす。
「今のお前の方がずっと面白い」
居鴨は箸を止める。
「面白さを評価軸にした覚えはない」
「人生は強制的にそうなる」
長澤はスープを飲み干す。
「居鴨さ」
「何だ」
「居丈高が消えたわけじゃないだろ」
「残っている」
「でも今はさ」
長澤はニヤリとする。
「誰かと一緒に下りてこれる」
居鴨は黙って丼を見る。湯気の向こうにこれまでの場面が重なる。
「ラーメン伸びるぞ」
「もう十分だ」
二人は立ち上がる。夜風が少し冷たい。
「帰ったら惹子さんによろしく言っとけ」
「自分で言う」
「そういうとこだよ」
長澤は笑った。
居鴨は歩きながら思う。プロジェクトは終わった。だが始まりは今も続いている。湯気のように形を変えながら確かに残るものとして。
玄関の鍵を静かに回す。夜はもう深く、部屋の明かりは落とされているが、リビングの間接照明だけが淡く点いていた。空気は洗剤と少し甘い香りが混じっている。惹子が先に帰っていたのだと分かる。
スーツを脱ぎ、ネクタイを外す。
肩の奥に残っていた一日の重さが、少しずつ抜けていく。
ソファの端に惹子が座っていた。
ノートパソコンは閉じられ、膝の上で手を重ねている。
「おかえり」
声は低く、眠気を含んでいる。
「遅くなった」
居鴨はそう言い、キッチンで水を飲む。グラスの中で氷が小さく鳴る。
その音だけが一瞬部屋を支配する。
麻雀の牌を切る指先の感触が、まだ微かに残っていた。
長澤の軽口、青山の安定した打ち筋、日香川の理屈っぽい安全策。
卓を囲んでいる間、仕事の肩書きは薄まり、人間の癖だけが露わになっていた。
居鴨はソファに腰を下ろす。
「麻雀」
それだけ言う。
惹子は小さく頷いた。続きを急かさない。
「皆、そのままだった」
牌の並びや、笑い声が脳裏をよぎる。
「長澤は」
少し間を置いて続ける。
「相変わらずだった」
惹子の口元がわずかに緩む。
その後のラーメン屋。湯気。狭いカウンター。長澤の言葉。プロジェクトの初期、互いに角をぶつけていた頃の自分。惹子の存在がその角度を変えていったこと。
居鴨は天井を見る。
「昔の話をした」
「どんな」
問いは短い。
「俺が硬かった頃の」
惹子は何も言わない。ただ聞く。
その沈黙が、責めでも評価でもないことを居鴨は知っている。
「今は」
言葉を選ぶ。
「少しマシらしい」
惹子は静かに息を吐く。それが笑いなのか、安堵なのかは分からない。
窓の外で遠くの車の音が途切れ、夜がまた一段深くなる。
居鴨は惹子の方を向く。
「君の話も出た」
惹子は視線だけ寄越す。
「よく言われた」
それ以上は言わない。言葉にすると形が変わってしまいそうだった。
惹子は立ち上がり、キッチンへ向かう。カップに湯を注ぐ音がする。戻ってきて、一つを居鴨の前に置く。
湯気が立ち上る。ラーメン屋のそれとは違う、穏やかな温度。
居鴨はカップを包む。
「ありがとう」
惹子はソファに戻り、肩が触れる距離に座る。
二人はしばらく黙って湯気を眺める。言葉は少ないが、今日の出来事はすでに共有されている。仕事仲間の癖も、長澤の軽さも、そして居鴨自身の変化も。
夜は静かに更けていく。




