結婚生活編 第四章 反照としての新人
日香川金太は真面目だった。少なくとも姿勢はそう見える。
背筋は伸び返答は早く資料も整っている。
ただ指摘を受けた瞬間に彼の言葉は理屈へと跳躍する。
結論ではなく前提から語り始め、因果を過剰に装飾し自分が間違っていない可能性を最後まで保持しようとする。
「その前提ですが」
会議後のデスクサイドで日香川は言う。声は丁寧だが温度がない。
「この想定は必ずしも唯一解ではありません。確率論的には」
居鴨は黙って聞く。聞きながら自分の内側に既視感が立ち上がる。
かつての自分がそこにいる。否定される前に理論で囲い込む姿勢。
誤りを訂正するより正当性を保全する振る舞い。
「日香川」
居鴨は静かに遮る。
「間違っていると言っているわけではない」
「ですが」
「実務では」
居鴨は言葉を選ぶ。
「可能性の話より今何が止まっているかを見る」
日香川は一瞬黙る。納得していないが反抗もしていない。
その曖昧な表情が居鴨をさらに苛立たせる。
かつて上司に向けて自分が浮かべていた表情と同型だったからだ。
指導が終わり、日香川が去った後居鴨は席に残る。苛立ちは消えない。
だが原因は彼ではないと理解している。
居丈高とは、自己の論理を世界の優先事項だと錯覚する精神構造だ。
日香川はそれを無意識に発露している。
だが居鴨はそれを意識的に運用してきた。より深くより悪質に。
新人の反論は未熟さから来る。自分の反論は恐怖から来ていた。
他者に委ねた瞬間に自我が崩落する感覚。だから理屈で武装した。
斜に構え居丈高であることでしか均衡を保てなかった。
居鴨は思う。指導とは矯正ではない。
未来の自分を過去に戻さないための介入だ。日
香川の中にある居丈高は芽だ。自分のそれは既に幹だった。
彼は日香川を嫌悪しているのではない。むしろ見過ごせない。
放置すれば自分と同じ孤絶へ至ることを知っているからだ。
居鴨は席を立ち給湯室へ向かう。
自分が新人だった頃、誰もその兆候を指摘しなかった。
いや指摘されても聞かなかっただろう。ならば方法は一つしかない。
論破ではない。説伏でもない。関与だ。
彼は戻る途中で日香川を呼び止める。
「さっきの件」
日香川が身構える。
「続きは一緒に考えよう」
それだけ言う。理屈を差し出さず関係を差し出す。
かつての自分が最も拒絶したやり方だ。
居丈高は否定すべき属性ではない。方向を誤れば孤高になる。
だが制御されれば思考の鋭利さになる。その分岐点に日香川は立っている。
居鴨はその背中を見送りながら思う。自分はまだ完全には治っていない。
だが今は他者の影に自分を見て足を止めることができる。
それは進歩だ。緩慢で不格好だが確かな変化だった。
夜は静かだった。洗い物は終わり照明は落とされソファの横に間接灯だけが灯っている。惹子はクッションに背を預け資料ではなくタブレットを眺めていた。
仕事ではない。居鴨はそれを見てから口を開く。
「新人の指導で少し行き詰まっている」
惹子は視線を上げる。即座に言葉を挟まない。その沈黙が居鴨には助けになる。
「理屈で反論してくる。間違ってはいないが前に進まない」
「そんなに珍しいタイプじゃないわ」
「問題はそこではない」
居鴨は言葉を選ぶ。自分の内側に触れる話だと分かっている。
「彼の態度に自分の過去が重なる」
惹子は小さく頷く。
「居丈高」
その一語で会話が要約される。
「否定したいが完全に否定すると自分自身も否定することになる」
居鴨は続ける。
「指摘すると彼は防御に入る。放置すると固着する。その狭間で停滞している」
惹子はタブレットを置き膝を抱える。
「あなたはどうしたいの」
「正しく導きたい」
「正しく」
惹子はその言葉を反芻する。
「それ仕事の正しさ」
居鴨は答えない。答えが分からないからだ。
「ね」
惹子は穏やかに言う。
「日香川くんは勝ちたいの?」
「違うと思う」
「じゃあ負けたくない」
居鴨は息を吐く。
「かつての私だ」
「でしょうね」
惹子は即答する。
「だから論理で追い込むと壊れる」
「ではどうする」
惹子は少し考える。
「負けない場所を一緒に作る」
居鴨は眉を僅かに動かす。
「評価ではなく役割」
惹子は続ける。
「彼が理屈を出すなら理屈が役に立つ場を与える。否定せず使う」
「甘やかしにならないか」
「ならない」
惹子ははっきり言う。
「使われる理屈は責任を生む」
居鴨は理解する。家庭で自分が経験したことと同型だ。
正しさを奪われるのではなく託される。そこに人は逃げ場を失う。
「あなたは変わった」
惹子は言う。
「だから気づけた」
「完全ではない」
「完全じゃないからいい」
惹子は微笑む。
「完全な上司は新人を潰す」
その言葉は居鴨の胸に静かに沈む。彼は頷く。
「私は彼を直そうとしていた」
「違う」
惹子は首を振る。
「あなたは過去の自分を救おうとしている」
居鴨は言葉を失う。その指摘は鋭利だが痛みはない。理解が先に立つ。
「救えると思うか」
「救う必要はない」
惹子は立ち上がり彼の隣に座る。
「並べばいい」
居鴨はその距離の近さに安堵する。居丈高とは他者より高く立つことではない。横に立つ勇気を欠くことだ。
彼は初めて日香川に向ける言葉を明確に想像できた。
論理ではなく姿勢を示す言葉。
夜は深まり静けさは続く。だが停滞はない。
家庭で生まれた理解が仕事へと流れ込んでいく。
その循環の中で居鴨は少しずつ自分の影を受容していた。
午前の会議が終わり人の流れが途切れた時間帯を選び居鴨は日香川を呼んだ。
叱責でも確認でもない。形式を剥いだ場が必要だと判断した。
「少し時間いいか」
日香川は一瞬身構えたが頷いた。会議室ではなく窓際の小さな打合せスペース。対面ではなく並んで座る配置。上下を作らないための選択だった。
「最近」
居鴨は言う。
「君の説明は筋が通っている」
日香川は意外そうに目を瞬かせる。
「ただ」
居鴨は続ける。
「結論に辿り着く前に場が疲弊する」
日香川は反論しかけて止める。続きを待つ。
「理屈は武器だ」
居鴨は静かに言う。
「だが武器は振るう場所を選ぶ」
日香川は初めて視線を落とした。
「自分が否定されている気がして」
「否定していない」
「でも」
居鴨は一呼吸置く。
「否定される前に守りに入る」
日香川の肩が僅かに緩む。
見抜かれたという感覚が彼の中で恐怖ではなく安堵に変わっていく。
「君の考え方は悪くない」
居鴨は続ける。
「問題は出す順番だ」
日香川は小さく頷く。
「先に現象を止める。その後で理屈を使う」
「……分かります」
短い返答だったが逃げはなかった。
居鴨は一枚の資料を差し出す。次期案件のリスク整理表。
未完成で意図的に空白が多い。
「ここを任せたい」
日香川は目を見開く。
「私にですか」
「君の仮説構築力が必要だ」
居鴨ははっきり言う。
「ただし条件がある」
「はい」
「結論は三行以内。理由は後でいい」
日香川は一瞬戸惑いそれから小さく笑った。
「難しいですね」
「だから適性がある」
それ以降、日香川は変わった。会議ではまず要点を述べ、資料では簡潔な結論を前に出す。理屈は裏付けとして配置され議論は前に進む。
彼の分析はチームに厚みを与え停滞を解消していった。
長澤が居鴨に囁く。
「新人ハマってるね」
「居場所を与えただけだ」
「それが一番難しいんだけどな」
日香川は夜遅くまで残ることが減った。
無駄な防御が減り思考が軽くなったからだ。
自分の理屈が拒絶されないと知ると人は攻撃をやめる。
居鴨はそれを見ながら思う。指導とは上書きではない。配置だ。
才能は形を変えず場所を変えることで機能する。
日香川の中にあった居丈高は姿を変え思考の鋭度として働き始めていた。
居鴨はその変化を確認しながら自分自身にも同じことが起きていると理解する。
彼はもう高い場所に立つ必要がない。並び同じ速度で進めばいい。
理屈は人を隔てる壁にも架橋にもなる。
その選択を彼はようやく自在に扱えるようになっていた。




