結婚生活編 第三章 宣言と接近
夜の玄関は静かだった。靴が二足並びきらずに置かれている。
完全に揃えれば整う。だが居鴨は、あえて触れなかった。
揃えないという選択が彼にとっては小さな宣言だった。
リビングには惹子がいた。ソファに腰を下ろし、書類に目を通している。
仕事と生活の境界が溶けきらない姿勢。
その背中に居鴨は一瞬ためらい、しかし歩みを止めなかった。
「決めたことがある」
声は低くても逃げなかった。
惹子は顔を上げる。
「これからは勝手に引き取らない」
それだけ言った。理由も背景も、添えなかった。
弁明は宣言を薄める。そう判断した。
惹子は、すぐには答えない。視線を落とし、しばらく沈黙が流れる。
その沈黙は以前ほど重くなかった。
「一緒に決める」
居鴨は続ける。
「遅くなっても混乱しても、それを含める」
惹子は小さく息を吐き、書類を閉じた。
「……それなら」
短い言葉だけが返る。だが拒絶ではない。
二人はキッチンに立つ。洗い物が少し残っている。
居鴨は手を伸ばしかけ一度止める。惹子を見る。彼女が頷く。
それから二人同時に動く。
水音が重なる。手が触れ、すぐ離れる。だが次は離れない。
指先が互いの存在を確かめるように重なる。
居鴨は思う。距離とは縮めるものではない。許可されるものだ。
彼は、その許可を初めて正面から受け取っている。
作業が終わる。完全ではない。だが十分だ。
惹子が居鴨の袖を軽く引く。言葉はない。その代わり、肩に額が触れる。
居鴨は動かない。動かないという選択が今度は正しい。
居丈高であることを手放したわけではない。
だが、それを掲げる必要はもうない。彼は同じ高さで夜を迎えていた。
家庭が整うということは生活が円滑になるという以上の意味を持つ。
判断が独占されず感情が滞留しない。その状態は仕事にも静かに波及していった。居鴨と惹子は互いの領域を侵さず、しかし分断もしない距離感を獲得していた。
商社が推進する今回の案件は、関係者は多く利害は錯綜し時間は常に不足していた。
だが二人の間に摩耗は生じなかった。
居鴨は全体のリスク評価と事業性の精査を担い、数字の背後に潜む破綻の兆しを一つずつ洗い出した。以前の彼なら、危険を強調し、計画を抑制する方向へ傾いただろう。だが今は違う。惹子の描く資金調達スキームを前提に、どこまでなら許容できるかを考える。否定ではなく接続のための分析だった。
惹子は国内外の金融機関との調整を淡々と進めた。
複雑な条件交渉も感情を挟まず、だが人を切り捨てない。
居鴨の示す懸念点は彼女の説明に厚みを与え、金融機関側の信頼を積み上げていった。
二人は会議室で多くを語らない。視線と資料の動きで意図が伝わる。
家庭で学んだ待つという姿勢が、仕事の場でも生きていた。
長澤は、その様子を一歩引いた位置から見ていた。
進行管理と社内調整。板挟み役として配置されたはずの彼は、気づけば衝突を未然に防ぐ必要がほとんどなくなっていることに気づく。
衝突がないのではない。衝突が処理されているのだ。しかも表に出る前に。
最終局面。全ての金融機関から正式なコミットメントが揃う。契約書が並び署名が進む。数字は確定しリスクは織り込まれ計画は現実へと移行する。
会議室に静かな達成感が満ちる。
居鴨はペンを置き、ふと惹子を見る。彼女も同じ瞬間に顔を上げる。言葉はない。だが二人の間には明確な共有があった。
これは個人の勝利ではない。関係の成果だ。
居鴨は思う。かつての自分なら、この規模の案件を単独で制御しようとしただろう。だが今回、成功を完了へと導いたのは二人で進んだことそのものだった。
家庭で学んだ不完全さの受容が、仕事では柔軟性として機能する。生活と業務が互いを侵食するのではなく補完し合う。円環のように回り続ける。
プロジェクトは無事完了した。
だが居鴨は知っている。これは終着点ではない。
次の案件も次の生活も、また同じ問いを投げかけてくるだろう。
居丈高であるか否か。その都度、選び直す必要がある。
彼はそれを恐れていなかった。今はもう一人ではないのだから。
店は少し照明を落としていた。成功を祝う場に相応しい過剰さはない。
だが空気は軽く、声は自然に重なっていく。
プロジェクトが完了したという事実が、それぞれの肩から重さを外していた。
最初に隣に来たのは惹子だった。グラスを片手に肩の力を抜いた表情をしている。
「終わったわね」
短い言葉だったが含まれる時間は長い。
「無事に」
居鴨はそう答える。惹子は少しだけ笑う。
「最初に組むって聞いたとき正直、不安もあった」
「近寄りがたい商社マンだったからか」
「ええ」
否定しない。だが続ける。
「でも今は」
言葉を切りグラスを軽く掲げる。
「一番信用できるパートナーよ」
居鴨はそれ以上の言葉を返さなかった。ただ静かに頷く。
その沈黙が以前よりも自然になっていることを、互いに理解していた。
少し離れたところから長澤が割って入る。
「いやあ、居鴨が乾杯で一言も理屈言わなかったの初めて見たわ」
「控えただけだ」
「成長したなあ」
長澤は肩を叩く。
「昔なら成功要因三点くらい語ってたろ」
「必要ない」
「それを言えるようになったのが一番の成果じゃね」
長澤は笑いながらグラスを合わせる。
「お前、だいぶ人間になったよ」
上司の声が背後から重なる。
「人間になったとは失礼だな」
少し鼻にかかった声。越谷千成だった。ネクタイは緩めているが結び目は崩れていない。
「居鴨くん」
越谷はグラスを持ったまま言う。
「今回はよくまとめた。越野さんとの連携も評価している」
「ありがとうございます」
「単独で突出するよりチームで成果を出す。管理職としてはそこを一番見る」
越谷は満足そうに頷く。
「君もそろそろ次の段階を考える時期だ」
含みのある言葉だったが居鴨は深追いしない。ただ受け取る。
そこへ丁寧な声が入る。
「居鴨さん」
東和システムの佐伯だった。以前の距離感はない。視線も声の高さもまっすぐだ。
「今回の案件、本当に助かりました」
「こちらこそ」
「正直に言いますと」
佐伯は一瞬言葉を選ぶ。
「最初は少し構えていました」
「そうでしょうね」
「ですが、今は違います」
佐伯ははっきり言う。
「何かあれば、まず相談したい相手です」
居鴨は、その言葉を正面から受け取る。かつてなら照れ隠しに皮肉を返していた。だが今は、ただ礼を述べる。
最後に青山が隣に立った。グラスの中身は控えめだ。
「いい顔してるな」
「そう見えますか」
「見える」
青山は即答する。
「仕事の成功じゃない。関係を回せている顔だ」
居鴨は少し考えてから言う。
「まだ試行錯誤の途中です」
「それでいい」
青山は笑う。
「完成した人間なんて面白くない」
店内に笑い声が広がる。立場も、年齢も、役割も異なる人間たちが同じ成果を共有している。
居鴨はグラスを置き周囲を見渡す。
かつては、この場を競技場のように感じていた。だが今は違う。
これは緩衝地帯だ。互いを削らず次へ進むための。




