結婚生活編 第二章 自己弁護と揺らぎ
居鴨は自分が変わったと思っていた。
少なくとも変わろうとし続けている自覚はある。
だが結婚という制度は自己評価を容易に裏切る。
正しさが成果に変換されない。沈黙が評価されない。
むしろ生活では言わないことが不安を増幅させる。
昼休みオフィスの給湯室で居鴨は長澤に缶コーヒーを差し出した。
「なあ居鴨さ」
長澤は椅子に浅く座り、足を組んだ。
「それってさ、もう答え出てんじゃね」
「まだ整理できていない」
「いや整理しすぎなんだって」
居鴨は眉を僅かに動かす。
「俺は判断を急いでいるわけでは」
「出た、自己弁護」
長澤は笑う。
「仕事ならそれでいいんだよ。でも家庭でそれやるとさ、相手は議事録求めてないわけ」
「感情論で決めるべきだとは思わない」
「誰も言ってねえって」
長澤は少し真顔になる。
「正しいかどうかより、一緒に迷ってるかどうかなんじゃね」
居鴨は黙る。彼は迷いを見せることに慣れていない。
迷いは無責任に近い感覚がある。
「俺さ」
長澤は続ける。
「お前、昔より全然マシだと思うよ。居丈高オーラが消えてるし」
「……そうか」
「でもな、消えたと思って油断してる感じはある」
その言葉は居鴨の内側に引っかかった。消えたのではない。
抑え込んでいるだけなのではないか。彼自身が、そう感じ始めている。
そのやり取りを近くで聞いていたのが青山翔だった。
四十歳。部署を横断して信頼されている先輩だ。
「居鴨」
青山は静かに声をかける。
「君は今、二つの役割を混同している」
「役割ですか」
「判断者と当事者だ」
青山はコーヒーを一口飲む。
「仕事では君は判断者でいい。だが家庭では君は当事者だ。判断は共有物になる」
「共有すると速度が落ちます」
「落ちるよ」
青山は即答する。
「だがな、その遅さが関係を壊さない」
居鴨は言葉を探す。
「私は正しさを放棄することに不安があります」
青山は少し笑った。
「放棄じゃない。順番を後ろに回すだけだ」
「順番」
「そう。まず一緒に困る。その後で考える」
長澤が横から口を挟む。
「青山さん、それ超めんどくさいやつじゃないすか」
「めんどくさい」
青山は頷く。
「だから続く」
居鴨は理解しかけている自分を感じる。
同時に、それを受け入れきれない自分もいる。
彼はまだ自分の居丈高を完全には手放せていない。
それは誇りであり障壁でもある。
「君は、もう否定できている」
青山は静かに言う。
「次は許容だ」
長澤は笑いながら言う。
「つまりさ、完璧な旦那やめろってこと」
居鴨は小さく息を吐いた。
「不完全であることを計画に組み込めと」
「そうそう」
長澤が親指を立てる。
「それ仕事なら得意だろ」
居鴨は初めて、その言葉に反論しなかった。
揺らぎは失敗ではない。調整点だ。
その事実を彼はようやく自分の言葉として受け取り始めていた。
居丈高を否定した先に残るもの。それは空白ではない。関係が入り込む余地だ。その余地を彼はまだ怖がっている。だがもう目を逸らしてはいない。
彼は缶コーヒーを飲み干した。
「……試してみます」
長澤は笑い、青山は頷いた。
変化は決断よりも遅く、日常よりも静かに進む。
居鴨は、その速度に初めて自分を合わせようとしていた。
夜の部屋は整然としていた。整っているが完全ではない。
洗い終えた食器が乾燥台に残り、洗濯物は畳まれぬままソファの端に寄せられている。生活が呼吸している証拠のような乱れだった。
居鴨はそれを見て何も言わなかった。言わなかったが思考は動いた。
仕事の癖は私生活でも自然に起動する。
誰に命じられたわけでもないのに彼の中で最適解が組み上がる。
惹子はキッチンに立ちフライパンを洗っていた。
水音は一定で感情の揺れを隠すように淡々としている。
「今日は私が洗濯までやる」
居鴨は静かに言った。提案の形を取った宣言だった。
惹子の手が一瞬止まる。
「昨日もそう言ってた」
「昨日は君の帰りが遅かった」
「今日は?」
「今日も遅かった」
水音が再開する。だが少しだけ強くなる。
「それで全部引き取るつもり?」
「合理的だろう」
居鴨は悪意なく答えた。分担は能力と時間に応じて変動する。
彼の中では明確な理屈だった。
惹子は振り返らない。
「合理的ね」
その言葉は肯定でも否定でもない。ただ距離を測る音だった。
「私が何もしていないみたいに聞こえる」
居鴨は眉を僅かに動かす。意図と受け取りの乖離。その構図には覚えがある。
だが家庭では、それを是正する議事は存在しない。
「そうは言っていない」
「言ってない。でも決めている」
惹子は水を止めタオルで手を拭く。ようやくこちらを見る。
その視線は鋭くない。だが逃げ場がない。
「分担ってね、効率の話じゃない」
「では何だ」
「関与よ」
居鴨は言葉を探す。関与。曖昧で非定量的で彼の苦手な概念だ。
「私は、できないから任せたいわけじゃない」
惹子は続ける。
「一緒にやりたいだけ」
沈黙が落ちる。居鴨は初めて自分が奪っていたものに気づく。
手間ではない。参加の権利だ。
「私は」
彼は口を開きすぐに閉じる。自己弁護が喉まで上がり、しかし言葉にならない。青山の言葉が遅れて浮かぶ。まず一緒に困る。
「決めすぎていた」
それだけ言った。謝罪ではない。認識の修正だ。
惹子は小さく息を吐く。
「仕事みたいに正解を出さなくていい」
彼は頷く。完全ではないが受け取った。
二人は洗濯物の前に並んで立つ。畳み方は揃わない。速度も違う。
だが同じ空間、同じ時間、同じ作業。その不揃いが不思議と衝突を鎮めていく。
居鴨は思う。居丈高とは、他者を見下す態度だけではない。
先回りして他者の手を奪うことも、また居丈高なのだと。
彼はその手を引き戻す練習を始めていた。
正午前の店内はまだ混雑の兆しを見せていなかった。
ビジネス街の路地にある定食屋は過度に主張せず、しかし確実に胃袋を掴む。
青山はいつも通り焼き魚定食を選び、居鴨は日替わりを頼んだ。
選択に迷いがないのは青山だけだった。
「それで」
箸を割りながら青山が言う。
「生活の話だな」
居鴨は頷く。
「家事分担で軽い摩擦が生じました」
「軽い摩擦」
青山はその言葉を反芻する。
「君がそう言うときは、だいたい重い」
居鴨は否定しなかった。
「合理性を優先しました。結果として彼女の関与を奪った」
青山は魚を一口食べてから、ゆっくり言う。
「気づけたのは進歩だ」
「しかし、再発の可能性は高いです」
「当然だ」
青山は即答する。
「君の思考は二十年以上かけて形成されている。一週間で変わると思うな」
居鴨は苦笑に近い表情を浮かべる。
「では、どう対処すべきでしょうか」
「対処」
青山は箸を置く。
「そこだ」
「何がです」
「君は問題を発生源から消そうとする」
「それが最適解です」
「家庭では最適解が人を傷つける」
青山の声は低いが強い。
「家事分担は仕事配分じゃない。感情の往復運動だ」
居鴨は眉を寄せる。
「往復」
「今日は俺がやる、明日は君がやる、それだけじゃない。やりたかったや、ってほしかった、そのやり取りも含む」
居鴨は静かに聞いている。
「衝突したとき」
青山は続ける。
「君は正解を提示したくなる。だがまず言うべきは、それを奪った自覚だ」
「謝罪ですか」
「謝罪でもいい。宣言でもいい」
青山は笑う。
「俺は昔、こう言った」
青山は少し間を置く。
「俺が決めすぎた。次は一緒に決めさせてくれ」
居鴨は、その言葉を反芻する。理屈がない。だが誠実さがある。
「効率は落ちます」
「落ちる」
青山はまた頷く。
「だが信頼は積み上がる」
店内が少しずつ賑わい始める。昼の時間が流れ込んでくる。
「居鴨」
青山は箸を再び持つ。
「君は、もう居丈高じゃない」
居鴨は首を振る。
「まだ残っています」
「残っていていい」
青山は穏やかに言う。
「大事なのは自覚しているかどうかだ」
居鴨は日替わり定食を口に運ぶ。噛みながら思う。居丈高は癖のようなものだ。消すのではない。制御する。あるいは誰かに委ねる。
「今夜話してみます」
居鴨はそう言った。
青山は短く笑った。
「議事録は作るなよ」
その一言で居鴨はようやく、この昼餉が会議ではなかったことを理解した。




