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結婚生活編 第一章 生活という現場

結婚は区切りではない。居鴨はそれを身をもって理解し始めていた。

区切りがあるとすれば書類と住所だけだ。生活は何も終わらせない。

ただ同時進行を増やす。

仕事もプロジェクトも、判断も、継続されたまま、そこに家事と時間が加わる。


朝は早い。キッチンの照明は必要最低限で、湯が沸く音だけが空間を占める。

居鴨は動線を意識し、無駄を省きながら朝食を整える。

惹子はその様子を横目で見ている。感謝も不満も口にしない。


彼女は理解している。

彼が今、仕事と同じ精度で生活を設計しようとしていることを。


「洗濯は夜に回した方が効率的です」


居鴨は独り言のように言う。提案の形式を取っているが結論は既にある。

惹子は頷く。


「私は朝がいい」


理由は添えない。生活は合理性だけで組まれていないことを彼女は知っている。

二人はそこで止まる。対立ではない。差異の確認だ。

居鴨は理解しながらも思考の奥で計算を続ける。


効率、時間、失敗率。家庭という現場でも、彼の内部では会議が開かれている。

仕事は続いている。あのエネルギープロジェクトは既に実行段階に入り、惹子と居鴨は依然として同じ案件を見ている。


だが職場での二人は冷静だ。私的な距離を持ち込まない。

判断は分ける。責任も分ける。その点では結婚は何も変えていない。


だが生活は違う。判断が即座に影響する。やり直しが利かないことも多い。

誰が正しいかより誰が続けられるかが問われる。

居鴨はそこに微かな苛立ちを覚える。


正しさが機能しない空間。その感覚はかつての居丈高を呼び起こす。

夜、二人は並んで資料を読む。会話は少ない。だが沈黙の質が会社とは違う。

惹子はふと気づく。彼の言葉が増えている。指示でも命令でもない。

最適解の共有だ。


「この進め方の方が」


居鴨は途中で止める。言い切らない。だが思考は止まっていない。

惹子は資料から目を上げる。


「仕事では、それでいい」


一拍置く。


「生活では、相談にしてください」


短い言葉だが重さがある。

居鴨は頷く。理解する。だが完全には消化できていない。

彼の中で居丈高は再定義され始めている。上に立つことではない。

先に決めてしまう癖。相手の時間を待てない性質。


結婚生活は新しいプロジェクトだ。KPIはない。成功条件も共有されていない。

だが失敗だけは確実に蓄積される。その不確実性に居鴨は少しだけ構えている。


プロジェクトは進む。家庭も進む。二つは切り離されない。彼は理解する。

これから問われるのはどちらで成果を出すかではない。

どちらでも居丈高にならずにいられるかだ。

その問いは、まだ解かれていない。


惹子は結婚によって居鴨を理解したとは思っていない。

理解とは固定だ。だが彼は固定されない。

むしろ生活という環境に入ったことで、彼の変化は観測可能になった。

職場では見えなかった微細な揺れが、日常の中では露出する。


朝の動きは正確だ。物の配置、動線、時間配分。居鴨は生活を設計する

。無意識ではない。意図的だ。彼は家庭を無秩序にしたくない。

その欲求は恐怖に近い。惹子はそれを知っている。

彼が居丈高であった理由を彼女は既に理解しているからだ。


仕事の場では彼は待てるようになった。

沈黙を使い、他者の判断を尊重し、結論を共有する。


だが生活では彼は待てない。

洗い物が溜まる、洗濯の順番が乱れる、子どもの予定が曖昧になる。

そうした小さな不確定要素に対して、彼の言葉は少しだけ早くなる。


「こうした方が」


語尾は柔らかい。だが結論は先に置かれている。


惹子はそれを咎めない。責めれば彼は引くか固くなる。彼女は観測する。

居丈高さは戻っていない。ただ先回りが戻ってきている。

それは支配ではなく、不安への対処だ。


プロジェクトの話をしているときの彼は違う。

判断を分け合い失敗を想定し、責任を共有する。

その姿勢は会社編で獲得したものだ。


だが家庭では成果が見えない。評価がない。締切も不明瞭だ。

その空間で彼は拠り所を失う。


惹子は気づく。

彼が再び居丈高になるとしたら、それは自信があるからではない。

分からなくなるからだ。どうすれば正しいかが見えないとき彼は高さを求める。


夜、二人で資料を見ていると居鴨は仕事の話では結論を急がない。

生活の話になると判断が速くなる。その速度差が彼の未整理な部分を示している。


「大丈夫ですか」


惹子は時折そう聞く。

居鴨は少し考えてから答える。


「大丈夫です」


だが、その言葉は完結していない。惹子には分かる。

彼は大丈夫であろうとしているだけだ。


惹子は居鴨を評価しない。変わったとも変わっていないとも言わない。

彼女は知っている。人は変化を終えない。場が変われば課題が変わるだけだ。


結婚後に見える居鴨は未完成だ。だが、それは欠点ではない。更新可能性だ。

彼は、もう自分の居丈高を否定できる。

だから次は、それと付き合う段階に入っただけだ。


惹子は静かに決める。彼の居丈高さが再び顔を出したとき抑えきれない。

否定もしない。ただ同じ地面に引き戻す。その役割を自分は引き受けられる。


生活は長い。プロジェクトよりもずっと。だからこそ判断を急がない。

居鴨がかつて学んだことを今度は生活が彼に教える番だ。


惹子はそれを隣で見ている。上からでも下からでもない。同じ高さで。


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