4 母との別れ
今回は人の死にまつわる話です。
特に笑いもありません。
苦手な方はブラウザバックをお勧めします。
1/17に母が他界しました。
前回のエッセイで「平和ボケなら平和ボケなまま、平和な世界でのんびり暮らしていてほしいものです」という文で結んだのに、そこから1週間も立たないうちに旅立ってしまうなんて。
すぐにエッセイを書いたことを後悔し、全部削除しようかとさえ思いました。
けれど生前の母は私が文章を書くことを感心し喜んでもいたので、一旦検索除外と感想を受け付けない設定にのみ変更して、放置しました。
2週間が経ち、やっと母の死を少しずつ受け入れている自分がいると自覚できたので、今回検索除外を外し、このエッセイを公開することにしました。
(まだもう少し、感想欄は閉じたままにしております。)
私は母とはベッタリな親子ではありませんでした。
母が世話の焼ける弟二人にかまけていて、私の事は一人で何でもできるよう、放置気味に育った子だったので。
お陰で小学4年の頃には、2キロ離れたスイミングスクールには一人で歩いて通い、電子系統が好きでもないのに家のテレビの配線は私が繋ぎ、たまに6人家族のカレーを一人で作るという、随分としっかりしすぎた子供になっていました。
そんなでしたから、母に恨みや嫌悪が全くなかったわけではないし、母と私の親子関係はわりとドライでサバサバしたものである、というのが自他共の認識でしたが……まさか私が母の死にこんなにもショックを受け、毎日泣くことになるとは思いもよりませんでした。
今となっては嫌な思い出よりも、楽しい思い出しか浮かばないのですから不思議なものです。
母の死因ですが、急性心不全でした。
最初は状況的に事故死にしか見えない状況で発見されましたので、警察に遺体が運ばれました。私も活動報告で「事故死」と書いてしまったのですが、後日警察の司法解剖にて、事故ではなく心臓麻痺による病死だと判明しました。
今までほかの病気の懸念はあっても心臓麻痺については病院で特に指摘されていなかったので、全く予想できなかった急死でした。亡くなる当日の朝まで、元気そうだったとのことです。
突然の死、そして日本人女性の平均寿命を考えると14年ほど早い死であったので、最初は受け入れられず「何故こんなことに」と嘆いてばかりいました。
暇を持て余すとその事ばかり考えて涙が出てしまうので、実家でひたすら皿洗いや掃除をしていました。
冷蔵庫の中を片付けようとしたら、またも賞味期限が三週間過ぎた開封済みのヨーグルトが出てきました。
もしも母が生きていたなら、私は激怒しただろうに「ああ、この悪い癖は最後まで治らなかったのか」とこの時は泣き笑いしかできませんでした。
無駄な明細やメモ書きが大量に出てきたので、それらを選り分けて捨てていましたら、私宛の手紙の下書きが出てきました。
読んでみたら私の作品へのダメ出しが書いてありました。私への手紙にはそんな事書いていなかったのに。
辛口の母なりに、少しは配慮していたんだなぁ……と、また泣けてきました。
母の友人知人に連絡しましたら、皆悲しんで泣いてくださいました。
クセのある人でしたが、仲のよい人には皆愛されていたようです。
心臓麻痺であっという間に逝ってしまったので、死に顔はとても安らかで、ピンピンコロリを地で行く最期でした。
皆に惜しまれ、元気なうちに苦しまずに死ぬなんて理想の死に方なのだろうなぁと思います。
でも、やっぱり。あと最低でも5年、できれば10年は生きてほしかったと思うのは、残された者のエゴなんでしょうね。
それまで私はあまり命に執着がなくて。それこそ明日にでも死んでも構わないと思っていました。ピンピンコロリが羨ましいとも。
「ママは突然死なないでね。長生きしてね。ちゃんと病気で弱って、死ぬ時はお別れを言わせてね」
私と一緒に大泣きしていた子供に、真面目な顔でそう言われてハッとしました。
こんなに辛い思いを、自分の子供に背負わせるわけにはいかないと気付かされたのです。
私はかなり太っているのですが、本気でダイエットをしなくては。
そしてできるだけ健康で長生きをしなければ。
これは母が私に残してくれた宿題ですね。
【追記】
まあ、そういいながらこんなものを食べてるわけですが。
これは、母が生前好きだった、江の島にある紅茶屋さんのアップルシナモンミルクティーとラムレーズンワッフルです。
母のお棺にここの紅茶を入れてあげたくて、茶葉を買いに行ったのですが、それだけもなんなので、と飲食もしてきました。
とても美味しかったです。& この日はちゃんと運動をしましたよ。
暗い話をお読み頂き、ありがとうございました。
次の話からは、いつものノリに戻ろうと思います。




