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婚約破棄されたので、辺境で第二の人生を始めます

 「侯爵令嬢クラリス・エヴァンジェリン。ここに、公の場で婚約を破棄する!」


 きらめくシャンデリアが天蓋のように輝く大広間に、王太子エドワード殿下の声が高く跳ねた。管弦は止まり、ワルツの円はほどけ、香の煙が緞帳の陰でひどく薄く見えた。視線という視線がこちらへ吸い寄せられてくる。扇が閉じる音、宝石が鎖骨の上で微かに触れ合う音、誰かの嘲笑と、誰かの安堵が空気にひびのように走った。


 「罪状は多い。嫉妬、嫌がらせ、他令嬢への中傷。証言者も複数いる」


 殿下の右隣、淡いラヴェンダー色のドレスに身を包んだ伯爵令嬢リリアンが、慎ましげに目を伏せる。伏せたまつ毛の先で、笑みがきらりと切れ込んだ。彼女こそ、この茶番の首謀者だと、クラリスは数か月前から知っている。知っていたからこそ、反論するための証拠はすでに手元にある――が、それをここで開くつもりはなかった。


 こういう“物語”には、ふさわしい舞台がある。観客が多すぎる場所では、脚本が台無しになることもあるのだ。


 「承知いたしました」


 クラリスは一礼して、静かにそう言った。涙を期待していた顔、狼狽を期待していた顔、嗤いを期待していた顔が一瞬にして凍りつき、次いでざわめきが薄い波のように広がった。殿下の瞳に、わずかな戸惑いが過ぎる。


 「……承知、だと?」

 「はい。殿下の御意思であれば。婚約指輪と、王家から下賜された飾章は後ほど文官へお返しします。どうぞご安心を」


 凛としている。それがクラリスの長所だと、彼女自身は思っていない。そうする以外の術を幼い頃から教わらなかっただけだ。礼儀は盾であり、微笑はこの国で女に許された最後の鎧である。クラリスは背筋を伸ばし、礼の角度を正確に取り、裾さばきを淀みなく収めて、くるりと踵を返した。


 扉を出る前に、ただ一度だけ振り返る。殿下は、彼女の不在によって自分の居場所がわずかにぐらつく音に気づいていない。リリアンは勝利の笑みで自分の足元に穴が開いているのに気づかないまま、扇を開くように殿下の袖に触れている。そのすべてが、愛おしいほど愚かで、だからこそ滑稽だ。クラリスは微笑んだ。自分に向けて。そして、これから始まる“片づけ”に向けて。


      ◇


 御者台に座った執事のオスカーが、手綱を軽く鳴らす。夜風が肌を撫で、街灯が馬車の側板を四角く切り取っていく。隣には侍女のマリーがいる。膝の上で、彼女の小さな手がぎゅっと丸まっていた。


 「お嬢様……本当に、よろしいのですか?」

 「ええ。今晩中に王宮を去り、明朝には出立します。予定通りよ」


 予定通り――そう、これは急な出来事ではない。クラリスは半年以上前から、王都の空気に密やかな腐臭を嗅ぎとっていた。王家の会計からは微細な数字の齟齬が漏れ、殿下の取り巻く伯爵家には不自然な贈答の流れが増え、宰相の袖口には新しい金糸の刺繍がやたらと増えた。王家の女学校で学んだのは、舞踏や作法だけではない。帳簿の付け方、土地の見方、川の流れの読み方、そして――人の嘘の嗅ぎ方。


 クラリスは先に動いた。南方の商会と連絡を取り、余剰の黒麦と硬質チーズの大口契約を結ぶ。東の鉱山町からは優秀な鍛冶見習いを三人スカウトし、西の修道院からは衛生学に明るい修女を紹介してもらい、北の砦からは退役騎士に連絡して夜警の訓練教範を入手した。すべては――辺境行きに備えて。


 「お嬢様、泣かないのですか?」

 「泣くのは、もったいないわ」


 もったいない。涙は、ほんとうに欲しい時に使うべき贅沢だ。クラリスは窓を少し開け、夜気を深く吸い込んだ。王都の匂いは甘い。甘いということは、腐りやすいということでもある。彼女の第二の人生は、腐りにくい土地で始めるに限る。


      ◇


 辺境領アルデン。王都から西へ十日、さらに未舗装路を三日。湿った風が丘を走り、長い影が草の背を撫でていく。クラリスの新しい居場所は、そこで待っていた。石積みの城は外見に対して内側が驚くほど空っぽで、井戸は浅く、溝は詰まり、倉は鼠に喜ばれていた。


 「歓迎する、クラリス様。辺境代官のヴィゴです」


 太い指の間で印章をいじる男がにやりと笑う。腹は豊作で、眼差しは乾いている。背後では領民たちが、遠巻きに新しい領主を見ている。顔は痩せ、肩は細い。砂塵の匂い、薄い煙の匂い、遠くから嗅ぎ慣れぬ金属の匂い――あるいは、血。


 「ようこそ、と言いたいところですが、今年は干ばつでしてな。王都からの補助も遅れがちで……何かと“お心づけ”をいただければ、早めに手配も可能かと」


 “お心づけ”。出迎えの言葉にしては露骨だ。クラリスは微笑み、扇の骨で静かに掌を叩いた。


 「まずは井戸を見せてくださいな、ヴィゴ殿。お心づけの前に、水の心配が先のようですから」


 男の笑みがいっとき固まった。クラリスはマリーとオスカーを連れ、城下のすべての井戸を見て回った。浅い。しかも、内壁の石が緩み、苔が増え、桶の縄は摩耗して今にも切れそうだ。水は濁り、底は泥で光を呑む。


 「井戸を四尺掘り下げ、内壁を焼き石に換える。桶は新品を十。縄は麻から亜麻に。作業は村ごとに予防注射と手洗いを徹底して」


 クラリスの横で、修道院から来た修女セラが頷く。「疫痢が出ています。水と手、そして食器の扱いを変えれば、一月で沈静化します」


 「費用は?」とヴィゴ。


 「王都の商会〈海鳴り亭〉からの前金があります。あなたの机の右から三番目の引き出しにある未開封の王都補助金封筒、あれは後で私の前で開きましょう。――その指で印章を持っているうちは、封筒の表面に白粉が付く癖があるようですわ」


 代官の顔から血の色が引いていく。クラリスはゆっくり瞬きをし、代官の肩にそっと軽く触れた。


 「辺境は、足りないもので溢れていて、だからこそ、誤魔化しはすぐに目立ちます。あなたの腕が要るのです、ヴィゴ殿。ここを一緒に“片づけ”ましょう」


 その晩、代官の机の上で封は切られ、銀貨の束は公的な帳簿へと乗り換えられた。クラリスは領主館の玄関に大きな黒板を下げ、日々の出納と施策をそこに記すことにした。誰にでも見える場所に、誰でも読める字で、誰もが批評できるように。「嘘を嫌う仕立屋の鏡」と呼ばれるやり方だ。透明は、風通しを呼び込む。


      ◇


 一週間目。用水路の泥は抜かれ、堤の欠けは土嚢で支えられ、夜警は巡回の楕円を描き始めた。二週間目。市場の一角に織物工房が開かれ、戦で伴侶を失った女たちに前払いで糸が渡された。糸は歌になり、歌は仕事になり、仕事は食卓の皿の枚数に変わる。三週間目。蜂箱が丘に並び、修道女たちが手洗い歌に合わせて子どもたちの手を擦る。蜂は花を覚える。子は歌を覚える。覚えることは、未来の基礎になる。


 「クラリス様、北の森から灰狼が出没。今夜、群れで村の外れを嗅ぎ回ったとのこと」


 報告に来たのは、辺境騎士隊長レオンハルトだ。黒髪を短く刈り、古い鎧は磨かれすぎてへこんだところが光る。眼差しはまっすぐで、言葉は飾らない。こういう男は、嘘をつくのが苦手なタイプで、クラリスは好ましかった。


 「柵は?」

 「修繕中。男手は井戸掘りと畑おこしに取られていて……」

 「ならば罠。溝をつくり、松脂を敷いて。焚き火を二重に。子どもと老人は領主館の広間へ集めましょう。――それと、代官殿」


 クラリスはヴィゴに目を向ける。「あなたの従弟が“山道を荒らす者たち”と賭場で親しくしている、という噂があるわね。明朝、従弟殿には私の前で“友人の名”をすべて書き出してもらえますか」


 レオンハルトが微かに目を見開き、ヴィゴは脂汗を浮かべる。クラリスは微笑んだだけだった。


 「辺境には、外の敵と内の敵がいるの。どちらも同時に片づけるべき敵よ」


      ◇


 襲撃は、三日後の夜だった。灰狼の群れに混じって、黒い外套の男たちが門へ迫った。狼の遠吠えの背中で、金属の触れ合う音が人間のものだと気づくのに、時間はかからなかった。レオンハルトの吶喊。松脂の溝に火が走り、狼が呻き、男の一人が門扉の金具へ何かを挟もうとして倒れた。


 「門を開けようとしていたのは、領内の男です。代官の屋敷の使用人。内通だ」


 レオンハルトの声は低く、しかし揺れない。ヴィゴは蒼白になり、椅子に沈んだ。クラリスはその肩に、またそっと手を置く。


 「ヴィゴ殿。今なら、まだ取り返せます。あなたが自分の屋敷を、最初に正すのです。使いを出し、従弟とその周囲をすべて拘束し、明朝、広場で自分の言葉で“謝る”のです。あなたが口火を切れば、民はあなたを見直す。――片づけは、まず自分の机から」


 ヴィゴはしばらく震え、やがてゆっくり頷いた。翌朝、広場に人が集まった。代官は膝をつき、「私が目を逸らしたから、鼠が増えた」と言い、従弟は縄で縛られ、名を吐いた。名前の連なりは、盗賊団に繋がり、そして意外なところで、王都の伯爵家へ繋がっていた。


 ――リリアンの父、イーストン伯。


 クラリスは黒板に名前を書き、線を引き、最後に一本、王都へ向けて太い線を引いた。風が吹き、粉が光った。


      ◇


 季節が一つ回るまでに、アルデンは目に見えて変わった。井戸の水は澄み、蜂蜜酒は甘く、塩羊乳のチーズは旅商の籠で一番最初に売り切れる。子どもの頬に色が戻り、織物工房は昼の歌を二番まで覚え、夜警は笛の合図で交差点を受け渡す。クラリスは朝に黒板の数字に目を通し、昼に畑を歩き、夕に相談を受け、夜に手紙を書く。


 手紙の宛先は多岐に渡る。王都の若い文官ノエル・アッシュベル。王立会計局の隅で、彼は真面目すぎる目を持ち、数に嘘がつけない手を持っていた。クラリスは彼に、王都から辺境へ流れてこないはずの“補助金の影”について丁寧に質問を送った。影の輪郭、影の出入り口、影を支える人の足音。


 返ってきた手紙は、最初は震えていた。恐れているからではない。真実を見つける喜びに、手が震えていたのだ。やがて彼は、裏付けの写しをいくつも添え始めた。伯爵家の賭場の帳簿、王太子の取り巻きが出入りする商会の出納、宰相の甥が新しく建てた別邸の請負人――。名前と数字が網の目を描く。クラリスは黒板の隅に別の小さな板を掛け、その網を丹念に写し取った。


 「証拠は、どこで出すのが一番美しいでしょう」と、ある晩クラリスはレオンハルトに問うた。


 「美しい?」

 「人が嘘を信じるときは、舞台装置が立派すぎるから。真実は、舞台装置を一つずつ片づけてから、よく見える場所に置くのが美しいの」


 レオンハルトは首をひねり、やがて笑った。「辺境では聞かない戦術だが、陣形の組み方として覚えておく」


      ◇


 冬の入口、王都から突然の召喚が届いた。王妃殿下の名で、クラリスは王宮の公開評議へ呼ばれる。名目は「辺境改革の意見聴取」。差出人の文面は礼儀正しく、封蝋は真新しい白。裏面に、ノエルが気づかれぬように刻んだ小さな点が一つ――事前に交わした合図だった。準備は整った、という合図。


 「お嬢様、行かれるのですか」とマリー。

 「ええ。舞台に立ちましょう。観客が揃ったのだから」


 王都へ向かう馬車の中、クラリスは証拠の写しと、黒板の縮刷版を膝に置いた。レオンハルトは護衛として随行する。彼は王都が嫌いだ。嫌いな場所に足を踏み入れる彼の横顔は、辺境の空よりも少し固かった。クラリスは彼の手の甲に視線を落とす。戦で刻まれた古い傷が、うっすらと白い。ああ、この人は本当に、嘘がつけない手をしている。


 「怖くないのか」とレオンハルト。

「怖いもの。だから面白いの」


      ◇


 公開評議の間。かつて婚約破棄を言い渡されたのと同じ、過剰な光の下。今回は王妃殿下が主催で、王太子も列席していた。イーストン伯は涼しい顔で席に着き、宰相は義礼の笑みを張り付けている。殿下はクラリスを見る目をほんの少しだけ逸らした。リリアンは、殿下のさらに後ろで扇を握っている。扇の骨の間に、黄色く小さな嫉妬が挟まっている――ようにクラリスには見えた。


 「侯爵令嬢クラリス・エヴァンジェリン。辺境での取り組みについて、王国へ進言があるとか」


 王妃の声は穏やかで、しかし甘くはない。クラリスは深く一礼して口を開いた。


 「はい、殿下。まずは辺境アルデンの現状について。井戸の深度、疫痢の収束状況、蜂蜜と塩羊乳チーズの生産量、織物工房の雇用数、夜警の巡回回数。――それらはすべて、王国の“底”を支える数字です」


 黒板の縮刷版を卓上に置く。参列者の視線が集まる。クラリスは一つずつ指し示す。数字は踊らない。数字は整然と並び、人の仕事の積み重ねを無言で示し続ける。やがて、彼女は黒板の右下を指先で叩いた。


 「さて、ここからが“片づけ”の本題です。王都から辺境へ届かないはずのものが、届いていました。届くべきものが、届いていませんでした。――補助金です」


 宰相の指がぴくりと動いた。イーストン伯の扇が一瞬止まった。王太子の喉仏が上下した。クラリスは、ノエルから受け取った出納の写し、賭場の帳簿の写し、商会の納品記録の写しを一枚ずつ卓へ出す。写しには、控えめな字で細かな注釈が添えられている。ノエルの字だ。彼の手は震えていない。


 「王太子殿下の側近の数名が補助金に不自然な介入を行い、イーストン伯爵家がそれを担保に賭場へ資金を回していた疑いがあります。具体的な名と額はこちらに。――なお、これらは会計局の若き文官ノエル・アッシュベル殿によって、正規の手続きを踏んで照合されたものです」


 ノエルの名を出すことで、彼を危険に晒すことはないか。クラリスはそこを最後まで迷った。だからこそ、王妃主催の“公開”評議にした。王妃は法廷ではないが、王宮において王妃の名の下に公に出された真実は、簡単には揉み消せない。誰かの目に映ったものは――証人になる。


 「反論は?」と王妃。


 宰相は汗を拭い、イーストン伯は扇を広げ、王太子は唇を結んだ。反論の言葉は、用意されていなかった。用意できない種類の真実だった。王妃はゆっくりと頷いた。


 「王太子。あなたの監督責任は重い。――婚約破棄の件についても、再検討の余地があると私は考えます」


 王妃の視線がクラリスへ戻る。場内が、かすかに揺れた。脚本は、ここで“ざまぁ”の台詞を求めるかもしれない。勝利の高笑い、涙の謝罪、地に伏す誰か。けれど、クラリスはそれを選ばない。彼女が選ぶのは、片づいた部屋で静かに窓を開けるようなやり方だ。


 「王妃殿下、感謝いたします。けれど、婚約の再考は不要にございます。私は辺境で、居場所を得ました。必要とされる場所で、必要とされる仕事をする幸せを知りました。王都での肩書は、今は重すぎます」


 王妃の瞳が柔らかく細められた。「そうか。――あなたは強い娘だ」


 クラリスは微笑み、最後の“片づけ”を置いた。


 「ただ一つ、お願いがあります。王妃殿下の名において、辺境への補助金の経路を“見える”形にしていただきたい。黒板でも帳簿でも構いません。誰にでも見える鏡を、王宮は持つべきです」


 王妃は頷いた。「鏡は、時に恐ろしい。だが、必要だ。――よいだろう。会計局へ命じる」


 イーストン伯は青ざめ、宰相は沈黙し、王太子は目を閉じた。リリアンの扇は、ぱたり、と音を立てて膝に落ちた。彼女の美しい顔がわずかに歪む。憐れむ気持ちが、クラリスの胸のどこかで小さく芽生え、すぐに風にさらわれた。


      ◇


 王宮を出ると、冬の光が階段に斜めの影を落としていた。レオンハルトが馬を引いて待っている。彼の頬に冷たい風が当たり、髪がわずかに揺れた。彼は王都の空が嫌いだと言ったが、この日の空は辺境の空に少し似ていた。


 「終わったのか」とレオンハルト。

 「終わったわ。――あとは、片づけの継続ね」


 階段の下で、若い文官がぎこちなく頭を下げた。ノエルだ。彼はクラリスの前まで駆け寄り、息を整え、懐から一枚の紙を差し出す。紙は新しい。けれど字は変わらない。誠実な字だ。


 「これは?」

 「王妃殿下の御印です。会計の鏡を設置する勅。……クラリス様。僕は、数字が正しく並ぶのを見るのが好きでした。今日、初めて、数字が人を守るのを見ました」


 クラリスは受け取った紙の角を撫で、ノエルの肩にそっと手を置いた。「あなたの手が、守ったのよ。ありがとう」


 ノエルは真っ赤になり、慌てて頭を下げて走り去った。レオンハルトが小さく笑う。


 「いい男だな。王都にも、ああいう骨の通った人間はいるのか」

 「どこにでも、いるわ。片づけた部屋なら、なおさら目に入るの」


 クラリスは馬に乗り、手綱を軽く引いた。帰ろう。彼女の居場所へ。彼女を待つ黒板と、蜂箱と、歌と、夜の巡回と、子どもたちと、片づけを覚え始めた人々のもとへ。


      ◇


 帰途は、行きより短く感じられた。道の曲がり角、橋の軋み、宿場のスープの味。どれも、クラリスの中の秩序にきちんと収まっていく。領の丘が見えたとき、彼女の胸のどこかで、家に帰る音がした。領主館の前で、マリーが泣き笑いの顔で抱きつき、オスカーが咳払いで隠しきれない笑みをこぼし、修女セラが「湯を沸かしてあります」と言った。湯の湯気は、王都の香ではなく、蜂蜜とハーブの匂いがした。


 夜。レオンハルトが広間にやってきた。鎧は外し、粗い手のまま。炉の火が彼の頬に橙を置く。


 「祝いの酒がある」と彼。

 「蜂蜜酒?」

「もちろん。アルデンの誇りだ」


 盃が触れ、澄んだ音がした。レオンハルトはしばらく黙って火を見ていたが、やがて口を開いた。


 「俺は、王都で君が“ざまぁ”と言うのだと思っていた」

 「言えたかもしれない。言わない方が、よく片づく時もあるの」


 彼はうなずき、少し照れくさそうに笑った。「……そうだな」


 沈黙が心地よい沈黙に変わっていく。クラリスは盃を置き、膝の上で指を組む。言葉が喉元まで来て、戻っていく。彼女は戦士ではない。けれど今日、言葉で戦った。戦って、選んだ。選んで、残った。残ったものを、今度は大切に整える番だ。


 「レオンハルト、今後のことだけれど」

 「何でも言え」

 「私は領を、王都の都合に揺られない場所にしたい。黒板を増やし、各村に鏡を置く。誰でも見られる帳簿を作る。女たちの工房は二つに。蜂箱はもう十。夜警は若い子に笛を教えて、二ヶ月で三重の輪を描くの。――それから」


 彼は笑っている。眼差しが、真っ直ぐこちらを見る。彼の笑みは、片づいた部屋の窓から入る朝の光に似ている。


 「“それから”?」

 「……たまには、私自身も、窓辺で昼寝したいわ」


 レオンハルトは声を立てて笑った。「それは難題だ。だが、やる」


 彼の笑い声が、広間の梁の間を気持ちよく走った。クラリスは思う。愛とは、きっと大事件ではなく、片づいた机の上に置かれた湯飲みのようなものだ。そこにあることが当たり前で、あるから仕事が進み、仕事が終われば湯気がまだ温かい。そういうものだと。


      ◇


 数ヶ月後。黒板は各村に掛かり、帳簿は誰の目にも開かれた。王都からは新しい鏡――会計の公開板――が送られ、会計局の若者たちが交替で巡回して来るようになった。ノエルは一度だけアルデンを訪れ、蜂蜜酒を一口飲んで顔を真っ赤にし、「数字より強い」と言って転びそうになった。彼は相変わらず誠実な字を書き、誠実に頭を下げ、誠実に笑った。


 イーストン伯は失脚し、宰相は辞任した。王太子は、王妃の厳しい眼差しのもとで政務の基礎からやり直していると聞く。リリアンは、しばらく公の場から姿を消した。いずれ戻るかもしれない。戻ればいい。人には自分の部屋を片づける時間が必要だ。片づいた部屋で、彼女が本当に美しいと思えるものを見つければいい。


 アルデンの夜空は、相変わらず広い。蜂は覚えた道を行き、子どもは覚えた歌を歌い、女たちの工房は新しい柄の布を織り出した。レオンハルトは夜警の輪を三重にし、笛の音は夜風に乗って村から村へ渡る。クラリスは黒板の前に立ち、今日の数字を並べる。数字は踊らない。数字は暮らしの重さを正直に載せる。彼女の胸は、穏やかに満ちる。


 窓辺の椅子に、陽が落ちる。クラリスはその椅子に腰を下ろし、湯飲みを手に取った。湯気は蜂蜜とハーブの匂いがした。目を閉じる。遠くで、笑い声。近くで、紙を捲る音。足元で、犬が寝返りを打つ。


 ――捨てられて、自由を得た。


 あの日、舞踏会で殿下が切った言葉は、彼女に呪いではなく道をくれた。クラリスはその道を歩いた。歩いて、片づけた。片づけて、居場所を作った。居場所があると、涙は本当に欲しい時にだけ使える。今はまだ、いらない。


 クラリスは薄く目を開け、窓の外の丘を見る。蜂箱の列が陽を受けて白く光る。遠くでレオンハルトが手を上げた。彼女も手を上げる。窓辺の空気が、さらりと彼女の頬を撫でていく。


 第二の人生は、静かな音で続いていく。


(了)

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