1.気分はお皿の上の羊
眼を覚ました時、私は馬車の座席で横になっていた。
病み上がりの私のために彼が座席が平らなベッドに変形する長旅用の馬車を手配してくれたことは大変ありがたいのだけれど……頭の横に丸めて置かれた白いレースのヴェールがどうしても視界に入ってしまって、なんとか見なかったことにできないか眼をぎゅっと瞑ってみる。
繊細に編まれたレースに宝石が散りばめられたヴェールは見るからに高そうだった。もしかしたら高名な作家さんの作品かもしれない。あんな風に無造作に放っていいものじゃないはず。恐る恐る眼を開いても、眼前の光景は少しも変わっていなかった。
高そうと言えば、私が今着ているウェディングドレスもそうだ。
上品な光沢のある布地に銀糸で薔薇の刺繍が入ったドレスは見た目の美しさもさることながら、着心地が良くて一度しか着ないなんてもったいないぐらい。もし希望があれば、妹たちに譲ってもいいかもーなんて考えていたのに。心配や緊張が一気に解消したせいか知恵熱が出たみたいで、私はあっさりと眠気に降伏してしまったのだった。
皺になってないと良いけど……。
ウェデイングドレスがコルセットを締めるタイプじゃなかったのは、こうなることを見越してだったのかしら?
用意が良過ぎない?
いつの間にサイズを測られてたの?
もしかして、私の心読まれてる?
ふと、考えて夫の用意周到さに身震いする。また熱が上がってきたのかもしれない。私は小さくあくびをして毛布代わりの灰色の毛皮を肩まで引き上げた。
――それにしても、どこに向かっているのかしら?
雪と氷に覆われた道からしっかりと除雪された道に出たからか、馬車は石畳の路面の凹凸に揺れる。舗装された街道に出たということは、街道沿いの大きな街に向かっているのでしょうけど。眠りに落ちる前に聞いておけば良かった。
現在地を確認しようと窓に手を伸ばしてカーテンを捲ってみると外は真っ暗だった。これでは現在地どころか時間さえわからない。真冬のこの時期、北の王国シュセイルの夜は長い。結婚式から数時間経っているらしいことしかわからない。
――……結婚式。そう、私、結婚したのよね? アビゲイル・シア・フルーリア……それが今日からの私の名前。
気にしないようにしていたけれど、背中に自分のものではない温もりを感じる。首筋を撫でる吐息がくすぐったい。お腹に回された腕を解きたくてもびくともせず、私を捕らえて離さない。
そっと振り返って、顔を確かめる。
――ああ! 夢じゃなかった!
寝姿さえも綺麗な彼に、緩む頬を揉んで元に戻そうとしてもすぐに口角が上がってしまう。
目元に流れるさらさらとした白金の髪。長いまつげが縁取る瞼の下には金色が混じったエメラルドの瞳が隠されているはず。通った鼻筋も形の良い唇から紡がれる低くて蠱惑的な声も。意地悪で皮肉屋で狡猾で、ちょっと愛が重くて歪んでいる……何もかもが完璧な私の夫がすぐ隣で眠っている。
彼を起こさないようにそっと元通り背を向ける。ばくばくと跳ねる心臓の音が彼に聞こえたらどうしよう? 意地悪な彼は絶対からかってくるに違いない。そんなの恥ずかし過ぎる! 何か別のことを考えて気を紛らわせなきゃ。
そうそう、時間を調べようとしてたのよね。
私は気を取り直してウェディングドレスのスカートのポケットに手を突っ込むと、人肌に温まった鎖を指に巻き付けて一気に引き抜いた。チリリと鎖を鳴らしながら出てきたのは、月と狼の紋章が浅浮彫りされた金の懐中時計。指でそっと狼の頬を撫でて蓋を開ける。蓋の浅浮彫も素敵だけど、宝石が嵌め込まれた文字盤のデザインも素敵なのよねなんて油断してたら……。
「何時だった?」
「ひゃっ!?」
唇が耳を喰み、寝起きの一段と低く掠れた声が身体の奥深くを揺さぶる。頸から肩、二の腕を通って指先へと艶かしく彼の手が這う。指を絡めるように懐中時計ごと私の手を握り込んで、アーサーは不機嫌そうに囁いた。
「夫と共寝しながら時計を確認するなんて、君は酷い女だな」
「と、ともっ……!? ちがっ、そんなつもりはなくて!」
共寝って、隣で寝てただけで特に何も無かったし、時間を確認しようとしただけで酷い言われようなんだけど!?
「どのくらい寝ちゃったのか気になって……」
誤解を解こうと寝返りを打てば、言い訳は彼の唇に奪われた。額を合わせて、鼻先が触れ合う。「熱は下がったな」と呟く声の甘さに震えた。
どうしよう? この人との結婚生活に心臓が保ちそうにない。
「……おかげさま、で……?」
私のお礼なのか恨み言なのかわからない返事に苦笑しながら、アーサーは私に毛皮をかけ直して上半身を起こした。ジャケットを脱いで、タイを外し、シャツのボタンを開けて着崩したアーサーの姿なんて初めて見たから視線のやり場に困ってしまう。もう夫婦なのだから、この程度で恥ずかしがってる場合ではないのだけど。
あちらこちらと視線を彷徨わせながらぐるぐると考え込んでいた私は、懐中時計の鎖が手首を滑り落ちたことでようやくその存在を思い出した。この機に返そうと彼の手に押し付けたのだけど、アーサーは私の手を包むようにして時計を握らせてやんわりと拒んだ。
「いいよ。君が持っていてくれ」
「でも、大事なものでしょう?」
紋章入りの小物を所持することはその家に属し、その家の名を背負える者にのみ許されること。今はフルーリア伯爵を名乗っていても、アーサーがセシル家の者であることを証明する大事なものだ。セシル家に拒まれた私が持っていていいとは思えない。
そんな私の思いを知ってか知らずか、アーサーは私の指に口付けて手首に金の鎖を巻いた。冷えた鎖の感触と金の重みがじっとりと纏わり付く。まるで私の知らない何か重要なものを絡め取られたみたいに。
「大事なものはまとめておいた方が守りやすい。君が俺の側で時間を教えてくれればいい」
「うぅ〜……そんなこと言ってぇ……」
それって『君が大事だ。俺の側を離れるな』ってことだと自惚れちゃうけど、いいの? 本当にそういう意味だとしたら、もっと素直にわかりやすく言ってくれればいいのに。でも、言われたら言われたで行き場の無い興奮にもだもだするしかなくなってしまうのだけど。実家の自室に居たら、クッションに顔を押し付けて叫んだ後に、疲れるまでジタバタしてベッドの端から端までごろんごろん転がったかもしれない。
「……今は十六時を少し過ぎたところよ」
せめてもの抵抗に、毛皮を頭から被って時刻をお報せしてあげる。
「ありがとう。目的地に着くまで、あと二時間ぐらいかかるから、君はもう少し休むといい」
少しも動じてないばかりか笑いを含んだ彼の声が憎らしい。相変わらず、意地悪なんだから! けれど、それが心地良いって思うのは惚れた弱みなのかしら?
アーサーの言った通り、それから二時間経った頃、馬車は大きな街の門を潜った。降りる準備のため、少し前に起こされた私は、すっかり崩れた髪を軽く手櫛で直しながら窓の外に眼を向ける。街灯に照らされた夜の街並みだけでは確信が持てなかったけれど、大きな橋を渡ったところで、ようやくここがどこなのか思い至った。
「ここ……モルヴァナ?」
「ああ。ここで用事を済ませたら列車に乗り換える」
セシル伯爵領オクシタニアの領都モルヴァナはシュセイル王国東部最大の都市で、伯爵領の西境にある。街の中心に大河が流れていて、東岸は住宅地が広がるオクシタニア人らしい排他的な印象の街で、西岸は駅や役所、主たる観光名所や市場があったりと、東西で街の雰囲気ががらりと変わる。私がよく遊びに行っていたのは西岸の方だったので、橋を渡った東岸の方に来たのは今回が初めてだ。
「私、西の方に進んでいると思っていたわ。今夜は馬車の中で泊まるのかと……」
「このままのんびり馬車で帰るのも良いが、馬車だとロシュフォールまでひと月以上かかる。それだと、せっかくの蜜月が終わってしまうからな」
私の隣で、タイを結び直しながらアーサーが答える。
今、蜜月って言ったぁ!? そっか、そうよね。新婚だもんね。蜜月よね。
私は顔に集まる熱を手で煽いで飛ばしながら話を変えようと試みる。
「ロシュフォール……どんなところかしらねぇ? 楽しみだわ!」
「……ああ。楽しみだね。アビー」
そう言って微笑んだ彼の眼が全く笑ってない気がするのは何故かしら? 楽しみって、ロシュフォールでの新生活のこと? それとも蜜月期間のこと? なんて恐ろしくて訊けなかった。




