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月狼伯爵は赤毛の羊を逃さない  作者: 小湊セツ
第2章 アーサー編

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15 ラストダンスは雨の中

 雪は結界に阻まれ、冷たい雨となって降り注いでいた。夜会の会場となる館の敷地から一歩外に出れば雨は雪へと変わり、何もかもを白く染めるだろう。燃ゆる炎のような彼女の赤い髪も、また。

 月の見えない今夜なら、月女神(ルーネ)も眼を瞑ってくれるだろうか? 我が月女神と定めた彼女を、泥沼の縁に追い詰めようとする俺の行いを。


 ヒールが折れて脱ぎ捨てられた靴を拾い、彼女の香りを追う。途中で転んだのだろうか、彼女の香りに甘い血の匂いが混じり始めていた。早く見つけなければと気が急くが、彼女の香りは雨が降り続く館の裏庭へと続いている。この雨と寒さの中で香りを追うのは、獣人であってもかなり難しいだろう。しかし、森神でもある月神の加護を受ける俺にとっては瑣末なことだ。地上の動植物は月神の味方。俺を獲物の元へと導いてくれる。


 彼女の居場所を教えてくれた冬薔薇は病に侵され、花が枯れ落ちて寒々しい有様だった。だが、弱っていても薔薇は薔薇。花の女王らしい気位の高さで、エスコートを強請るように奇跡的に残った一番美しい葉を俺に向けてくる。恭しく手に取り、口づけて祝福を与えてやると、薔薇は満足したように道を開けて眠りについた。二、三日も経てばまた大輪の花を咲かせるだろう。彼女もこんな風に俺を求めてくれれば苦労はしないのだが。


 俺が一歩踏み出す度に、鋭い棘を向けて彼女を守っていた荊が道を開く。逃げ込んだ先が荊の檻の中だと知らない彼女は、泣き腫らした顔で空を見上げていた。その無防備な横顔に、ほんの数秒見惚れてしまう。


 雨に烟り遠く聞こえるワルツ曲。涙と雨で溶けた化粧が彼女の目元を黒く汚していたが、弱り果てて気怠げな彼女の姿はどこか淫靡で。濡れた肌は艶かしく、解けて貼り付いた赤毛が細い体をなぞり、白い肌を一層儚く見せる。タイツが破れて血が滲む足を惜しげもなく投げ出す様に、劣情を煽られるのは俺だけではないだろう。

 薔薇が君を匿ってくれて本当に良かった。そうでなければ、今の君を視界に収めた男を全員始末していただろう。


 自分のすぐ前に人の気配があるのを察知しているだろうが、動くのが億劫なのか自棄になっているのか、彼女はベンチに腰掛けたまま瞼を閉じていた。腫れた瞼が痛そうだったし、ここまで来て『化粧が崩れたから直さなきゃ!』と逃げられては困るので、彼女の眼を塞ぐように瞼に触れて治療の魔法をかける。

 触れた感じ、いつもより彼女の体温が高いのが気になったが、先に足の治療をしなければ傷痕が残ってしまう。どのみち俺の治療魔法では病気は治せないので、念の為医者の手配をしておくか……俺がそんなことを考えていると、今まで大人しかったアビゲイルが居心地悪そうに身を捩った。


「アーサー……様、なんでしょう? どうしてここに? 貴方、今夜は不参加のはずでしょう?」


 アビゲイルが俺を避けていたのは知っているが、いざ口に出されると腹が立つ。今彼女の顔を見たら憎らしさに頬を摘んで引っ張ってしまいそうだったので、困惑している彼女の頭からコートを被せた。


「そのまま被ってろ。瞼は治ったけど、酷い顔をしている」

「だ、誰が酷い顔ですっ……んっ、ちょっと!? どこ触ってんのよ!」


 彼女の前に膝を着いて治療をしようと足首を掴んだところだが、慌てたアビゲイルはコートの下でもぞもぞ動いて新種の魔物みたいになっている。なんとも色気の無い間の抜けた姿に思わず笑いが滲んでしまったが、予想以上に傷だらけな彼女の足を見て、すぐに笑いは引っ込んだ。


「なぁ、アビー。ガードナー卿とはどういう関係なんだ?」


 俺が()()なるように仕向けたのだ。二人に債務者と債権者以外の何の関係も無いことは分かりきっていたが、消毒中の痛みから気を逸らすために尋ねてみる。一瞬ぴたりともがくのをやめたアビゲイルは、狙い通り話に乗ってきたのだが……。


「……え? 貴方には関けっ……なっ……ふっ、あはははは! くすぐるの、やめ、てよ!」

「くすぐってないよ。俺は真面目に治療してる」

「や、いや、嘘よ、ひゃっあははははは! もう、や、やめて〜!」

「笑ってないで、質問に答えろ」


 雨の中、俺を跪かせておきながら大爆笑とはいい度胸だ。枝や小石を踏んで流血しているというのに……君は相変わらず自分を顧みることができないらしい。真っ赤な顔でぜえぜえいいながらコートから顔を出したアビゲイルは、俺の顔を見るなり眉を顰めた。俺の怒りが少しは伝わったか?


「あ、足を治してくれたことには感謝してる。ありがとう。……だけどもう、私たちはなんの関係もないでしょう? 我が家の事情は話せないわ」

「君の家の事情? まさか、あいつに金を借りたのか?」

「……だとしても、貴方にどうこう言う権利は無いわ」


 顔を背け俺を拒絶する彼女に、足首を掴む手に力が入った。彼女が逃げる素振りを見せたら、このまま握り潰してしまうかもしれない。――いっそのこと、そうしてしまえばもう逃げられることはない。神話の中で月神(セシェル)に囚われた月女神(ルーネ)のように、毒で弱らせ、翼を毟って、荊の檻に閉じ込めてしまおうか。


「ねぇ、もう放して。こんなところ誰かに見られたら、貴方も酷いことを言われるわ」


 だが、苦々しげに溢れる言葉には、こんな時でも俺への気遣いが滲んでいるから。俺は非情に徹することができないでいる。君がくれる僅かな思いの欠片に縋らずには居られなくなるのだ。


「こんなところって……例えば、こんなところか?」

「や、あっ、なにを」


 足の甲は隷属。(すね)は支配だったか? では、足首はその間だろうか。

 彼女の眼を見つめたまま無防備な足首に口づけを落とすと、みるみるうちに顔を真っ赤にしてコートの中に隠れようとする。君のせいで俺のプライドは粉々なのだが、この初心な悪女にはその自覚が足りない。

 足首を放して彼女の手からコートを奪い、逃げられないようにベンチの背もたれを掴むと、アビゲイルは気まずそうに俯いた。


「君はどうして困難な方へ進みたがる? こうなってもまだ、家族を取るのか? 捨てれば未来が拓けるのに」

「……捨てないわ。愛してるのよ。私を簡単に切り捨てた貴方には理解できないでしょうけど」


 君を簡単に切り捨てられたら、こんな胸が裂けるような思いは一生知らずに済んだだろう。家格の合う適当な女と政略結婚して、何の瑕疵も無い正統なセシル家の総領として静かで平穏で退屈な日常を送っていたはずだ。でも、君を知ってしまったから。もう戻れない。

 額を合わせて覗き込んだ瞳の中に、俺への思いを探す。唇が触れ合いそうな距離を、君から埋めてくれることを期待して。


「捨てられないなら、なぜ『助けて』の一言が言えない? 妹たちのために我が身を犠牲にできるのなら、(すが)ることなんて簡単だろう?」

「誰に縋れって言うのよ。誰も助けてくれなかった。家族のことは家族で解決しなきゃいけないからって、皆見ないふりして嘲笑っていたじゃない」

「少なくとも俺は、最愛を守るために奔走する君を嘲笑ったことなど一度も無い」

「でも貴方は、私との婚約を破棄した。貴方との結婚が、私の唯一の希望だったのに。あんなわけの分からない注文に従え、妹たちを見捨てろと、貴方が台無しにしたんじゃない!」


 声を荒げて強い感情をぶつけてくれるアビゲイルが愛しくて堪らない。全力で拒もうとする彼女を引き寄せて腕の中に閉じ込めれば、互いの熱が混じり合う。


「……そうだ。君は俺のために何も捨てられなかった。俺の最愛は君だけだったのに、君にとって俺はそうではなかった。……君の最愛の妹たちは、俺から見れば憎い恋敵に過ぎない」


 憎くて憎くて仕方がなかった。何をしても何もせずとも、君に愛され守られるあいつらが。あいつらさえ居なければと何度考えただろうか。しかし、消すのは簡単だが、喪失の痛みで君の心がいっぱいになったら元も子もない。だから、恩を売って利用することにした。次女には良いパートナーを紹介した。三女には良い就職先を斡旋する。そして四女には学院卒業までの資金援助をするつもりだ。君が愛してやまない妹たちを、君の庇護の手からひとりずつ奪ってやる。


「幻滅したか?」


 幻滅したところで、君たちが真実を知る頃にはもう首まで沼に浸かっていて、誰も逃げることはできないだろうが。

 濡れた頬を寄せて熱を吹き込むように囁くと、彼女は耳まで真っ赤になって俺の胸に頭を預けた。


「恋敵って。あ、貴方がそんな風に思ってた、だなんて、私……全然気づかなくて。だって、貴方はいつも冷静で、私ばかりが貴方のこと好きみたいで……妹離れしろって言われて、私頭が真っ白になっちゃって、貴方が何を思っていたかなんて考えられなかった。……でも、そんなの理由にならないわね」


 君の望む王子様で在ろうと、冷静に見られるようにした努力が裏目に出るとは。いや、それにしても鈍感過ぎやしないか? 君に近付く全てを排除してきた俺の態度は、俺の弟たちも君の妹たちも、学院で一緒だったオスカーやシファー姉弟、その他大勢にもバレバレだったというのに。

 俺に愛されるはずがないと思い込む君の自己評価の低さは、俺が周りを遠ざけていたから? そう思うと良心らしきものが疼いたが、それよりも俺の影響でそうなったのかと昏い悦びが胸を占めてしまうあたり、救いようがないなと自分でも思う。


「ごめんなさい。……今更言っても手遅れでしょうけど」

「ああ、遅い。手遅れだな。君が頼れるのは、もう俺しか居なくなってしまった」


 聞きたいのはそんな言葉じゃない。

 抱き締めていた腕を解いて距離を取ると、アビゲイルの眼が寂しげに揺れた。


「だから言えよ。『助けて』って。俺に縋れ。――俺が全部解決してやる」


 ああ、美しく咲いた花を手折る瞬間は実に甘美だ。

 アビゲイルはプライドと羞恥に顔を顰めて拒むように何度も首を横に振るが、他に逃げ道が無いことは理解しているのだろう。拒否の言葉を出せずに苦しんでいる。イライザに言った通り、アビゲイルを苦しめるのは本意ではない。いつもならこの辺りで引いてやるのだが、今夜は許さない。アビゲイルから決定的なひと言を受け取るまで逃しはしない。


 ――だから、落ちろよ。君にはもう勝ち目は無い。諦めて落ちて来い。君を救える王子様はどこにも居ない。もう誰にも邪魔はさせない。


 抵抗を続ける彼女の唇をなぞって、欲しい言葉が紡がれるのを待つ。見開かれた星明かり色の瞳には、王子様の皮を捨てて舌なめずりした狼が映っていた。


「……おねがい……たすけて」

「ああ……」


 その言葉をずっと待っていた。君が俺を欲してくれる時を。

 答えの代わりに貪るように唇を重ねる。苦しそうに逃れようとする彼女の舌は蕩けそうに甘く熱い。存分に味わってから放すと、怯えた眼で見られてしまった。


「もう心配いらない」


 彼女に言ったのか、己に言い聞かせたのか。どちらでもいい。

 喜びに浸っていたいが、アビゲイルを家に帰さなくてはならない。酷い熱だし、今までつらい思いをさせた分どろどろに甘やかしたい。治るまで側に居たいが、最早この計画は俺だけのものではない。四つの貴族家を巻き込んだ計画だ。予定通りに進めなければ、どこかで綻びが出るやもしれない。――まぁ、一番の理由は、このまま連れ帰ったら俺が耐えられないというのもあるが。


 横抱きにして馬車まで運びながら彼女の髪に額に口付けたが、熱でぐったりとしたアビゲイルは気付いていないようだった。椅子に座らせ、寒くないようにコートを掛けると、俺は馬車の外に出た。

 雨は雪へと変わり、濡れた身体から容赦無く体温を奪っていく。だが、寒くはない。君が俺の胸に灯した炎が、確かに燃えているから。


「男爵夫人とガードナーに怪しまれないように、逆らわず状況に身を任せるんだ。――俺を信じて待ってろ。君の願いは全て叶う」


 不安そうに表情を曇らせていたアビゲイルにそう告げると、安心したのか彼女は柔らかく笑って「分かったわ」と掠れた吐息で答えた。扉を閉めて御者に目配せすると、御者は帽子を軽く持ち上げて手綱を打つ。御者は俺の護衛兼部下のひとり、(ひぐま)の獣人スヴェンである。無口で愛想の無い男だが腕は確かだ。アビゲイルを無事にオーヴェル家の屋敷まで送り届けてくれるだろう。

 アビゲイルを乗せた馬車が夜闇の向こうへ消えるまで見送ってから、俺は上着の内ポケットを探った。ケースに入れていたので湿気らずに済んだ煙草を咥えてライターの蓋を弾く。


「さて」


 降り頻る雪を縫うように昇る煙を見つめながら、すっかり崩れた前髪を後ろに掻き上げた。

 これから忙しくなるだろう。俺の赤い月女神を手に入れるまで、休まず弛まず走り続けなければならない。


「――準備は整った。狩りを始めよう」


 主人の号令に、背後に控えていた四つの影が散る。


 ――最後まで踊ろう。俺が手ずから組み上げたこの檻の中で、互いだけを見つめたまま、灰になるまで。




第2章アーサー編【完】

妻「月の夫婦神の神話が愛憎ドロドロな件について」

夫「領内では、ヤンデレ神と親しまれているよ」

妻「ヤン……デレ……? 親しまれて……??(カルチャーショック)」



ーーーーー


ここまでお読みいただきありがとうございました!

ご存知の通り、アーサーは一番重要な話をまだアビーにしていないので、お話はもう少し続きます。

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