閑話 君の隣で色づく世界
――初めて煙草の味を知った日を覚えている。
床も壁も天井も白い殺風景な部屋を白い魔光の明かりが煌々と照らす。部屋の中央にある台座の上には解体したばかりの獲物が鎮座していた。俺は眩暈がするほどの鉄錆の臭いを放つ灰色の泥の中から、どくどくと脈打つ肉塊を拾い上げる。
大きさは握り拳ひとつ分。重さは林檎一個と同じぐらいだろうか。脈動する度に灰色の泥を撒き散らすそれを興味深く眺めていると、視界の端からハリスが煙草を一本差し出してきた。
「どうぞ。……番の居ない獣人に、この臭いは耐え難いでしょう」
右手には解体に使ったナイフを、左手には肉塊を持って両手が塞がっていたので、少しだけ顔を傾ける。ハリスは薄く開いた俺の唇に煙草の吸い口を差し込むと、今度は懐からライターを取り出して火を差し出した。
――火。
あの娘の髪と同じ、真っ赤に燃える火。
今この手にある肉塊も赤いはずだが、俺の眼にはどちらも灰色にしか映らない。
強く吸い過ぎたのか、何せそれが初めての経験なのだから仕方ない。煙に咽せた俺を満足げに見つめてハリスは部屋を出て行った。
俺はナイフを置いて、酸欠に震える指で煙草を摘む。苦い咳に混じって吐き出された煙はぐにゃぐにゃと歪んで眼に沁みた。どろりとした灰色の液体が指の間から腕を伝い、肘から滴る。
――冷たい。
手に取った時は熱かったのに、今は指先が悴むほどに冷たい。あの娘の赤は、あんなにも温かくて、柔らかくて、良い匂いがしたのに。
乾いた咳を溢しながら、ぎゅっと瞼を閉じる。押し出された涙が一筋、冷えた頬をなぞって落ちた。
◇◇◇
寮に戻ったのは夜明け前のこと。シャワーを浴びて血の臭いを落とし、一睡もせずに午前の授業に出席した。授業が終わるとすぐに教室を飛び出し、魔石工芸科教室の前で待ち構える。授業が終わってぞろぞろ出てくる学生たちに好奇の目で見られたが、『見せものじゃねえぞ』と俺が視線を向けると誰も何も言わず、そそくさと去って行った。
壁に背中を預け、明るい陽射しが降り注ぐ窓の外に眼を向ける。暖かい良い陽気だが、寝不足の眼には何もかもが眩しい。明る過ぎて世界に灰が降ったかのように白けて見える。
――どのくらい待ったのか、うとうとしていたので定かではない。アビゲイルが出てきたのは一番最後だった。教官に質問をしていたようだ。
「あら? どうしたのアーサー?」
手を振ると、気づいたアビゲイルが嬉しそうに手を振り返す。こちらに駆け寄る彼女の肩の上でふわふわした髪が跳ねて、眩い光を散らすその瞬間、俺の世界はゆっくりと色づき始める。青と黄色に赤が加わって、待ち望んだ花が開くかのように世界に血が通うのだ。
――ああ、そうだ。赤はこういう色だった。
「……昼食、一緒にどうかなと思って」
「ええ! 一緒に食べましょ!」
差し出した手に、アビゲイルが手を添える。火神の愛し子たる彼女は常人より体温が高いようで、触れられた場所から温もりが伝う。
――温かい。
冷え切った身体の芯まで熱を帯びるようだ。もっと欲しくて、彼女の手に手を重ねようとしてやめる。綺麗に洗い流したのに、まだあの灰色の泥が指先に染み付いているようで――アビゲイルの白い手を汚してしまう気がしたのだ。
未練がましく見つめる俺を見上げて、アビゲイルは屈託なく笑う。ほんの数時間前、俺がしてきたことを知ってもそんな風に笑っていられるのだろうか? 穢らわしいと、もう二度と触れてはくれないかもしれない。もし、そんなことになったら……。
「今日は天気が良いから外で食べましょうか?」
「ああ、いいね」
そう答えながら、掌を擦り付けるように手を繋いで、恋人のように指を絡める。アビゲイルは驚いたようだが、俺の手を離さず優しく握り返してきた。
もし、君がこの手を拒むなら――君の手も汚してしまえばいい。
頬を赤らめて笑う彼女に、俺も笑みを返す。君はいつまで何も知らないままでいられるのかな?
食堂で軽食を買って、校舎の外に出た。図書館の傍を通って森に入り、学院裏の湖が見渡せる草原まで歩く。周囲に人の気配は無く、鳥の囀りの他には風が草木を撫でる音しか聞こえない。ここまで来れば、誰にも邪魔されずに二人で過ごせるだろう。
日焼けを気にする彼女は、柔らかな木漏れ日が落ちる木陰にピクニックシートを敷いて、靴を脱いでくつろいでいる。彼女の隣に座り、授業のことや弟妹のことなど他愛無い話をしながらのんびりと食事を摂る。
二人だけの静かな時間が愛おしい。数時間前の出来事が、悪い夢だったかのように現実感が無い。真昼の陽光に湖は煌めいて、ぬるい初夏の風が彼女の赤い髪を揺らす。甘く香るのは彼女が食べているビスケットとミルクティーのせいか? 咀嚼するたびに、頬の丸みがふくふく動いて柔らかそうだ。舐めて齧って、確かめたくなる。
なんとか触れる口実は無いだろうか? 考え込んで、黙る。君はどこまでなら許してくれるだろう? 手を繋げたのだから、頬に触れるぐらいは許してくれそうだが、それで済ませる自信が俺には無い……。きっと、もっと欲しくなる。
ふと顔を上げると、アビゲイルが心配そうに俺を見つめていた。
「……どうした?」
アビゲイルが俺の頬に手を伸ばす。彼女の温かな掌に頬を寄せると、指先が優しく目元をなぞった。乾いた大地に水が染み渡っていくように、胸が満たされていくのを感じる。
「大丈夫? 疲れてない? 眼の下にクマができてるわ」
「ああ、眠いだけだよ。父に呼ばれて、今朝まで出かけていたんだ。今日で十七歳になったから、ちょっとしたお祝い行事みたいなものがあって……」
お祝いと呼ぶには血生臭いが、そうとしか言いようが無い。セシル家の裏家業を継ぐ者の通過儀礼は、この秘密を守るところまで含まれている。今はまだ、アビゲイルに知られるわけにはいかない。突っ込まれても良いように、いくつか答えを用意していたのだが、アビゲイルの疑問は俺の想定外のところに飛んできた。
「ねぇ! 貴方、今日が誕生日ってこと!? もう! もっと早く教えて欲しかったわ! ……えーと、今から調理室予約して……今の時期、購買部に果物売っているかしら? 貴方、ショコラは苦手だったよね? 生クリームよりもチーズケーキの方がいいかしら? ああ、それとも……」
青くなってぶつぶつと自問自答するアビゲイルに苦笑する。シュセイルでは家族以外の誕生日を祝うというのは一般的ではないが、俺も家族と思われているってことで良いのだろうか? もちろん兄弟扱いなんかじゃないよな?
「ケーキも嬉しいけど、君に頼みがあるんだ」
「いいわよ! 私にできることなら何でも言って!」
顎に手を当て思案したままこちらを見もせずに答えるアビゲイルに、俺の胸の内に、『よしっ!』と拳を握りしめる俺と、『内容を聞く前に了承するんじゃない!』と頭を抱える俺が居る。俺には下心や悪意など無いと思っているのだろうが、飢えた狼の前で可愛い羊が腹を見せて転がっていたら、食いつかずにいられようか?
「何でも……いいのか?」
言ったよな? 『何でも』って。
俺は今、ちゃんと笑えているだろうか?
不穏な圧を感じたのか、アビゲイルが慌て始める。
「あ、えーと……うちは貧乏なので……お金がかかることは無理かなぁ」
「金は掛からないし、君に負担を掛けるようなことでもない」
「そうなの? だったら大丈夫よ!」
いや、だから、内容を聞く前に了承するなって。
満面の笑みで請け負うアビゲイルに、顔が引き攣りそうになる。
「……っ……そうか。それなら頼むよ」
頭の中から不埒な企みを追い出して、これ以上アビゲイルが墓穴を掘る前に話を進めることにした俺は甘いと思う。アビゲイルは俺の理性に感謝してほしい。
余計な気を揉んだせいで、言いにくくなってしまったが、せっかく『何でも』って言ってくれたのだからこの機を逃すわけにはいかない。俺は彼女の両肩を掴み、深刻な顔で告げた。
「俺を………………甘やかしてくれないか?」
脳が理解を拒んだのか、アビゲイルは笑顔のまましばらく固まった後、「あ」とか「お」とか「う」とか呻いて真っ赤になった顔を両手で覆う。そのまま、すぅー、はぁーと大きく深呼吸して何らかの衝動を抑え込んだようで……。突然、小動物が威嚇するように両腕を大きく開いた。
「ま、まかせて! 甘やかすのは得意よ! お姉ちゃんだもの!! お姉ちゃんの胸で存分に泣くといいわ!」
「では遠慮なく」
俺はやや食い気味で答えて、彼女の膝に頭を乗せて寝転がった。アビゲイルは『えっ?』って顔をしてるが、流石に胸に飛び込むわけにはいかないだろう? そっちの方がいいなら、俺は大歓迎だけど。
「……ねーぇ?」
「……なーんだ?」
拗ねたように語尾を上げて問いかける彼女に、俺も同様にして問いを返す。膝の上から彼女を見上げれば、案の定少ししょんぼりした顔をしていた。
「本当にこんなことでいいのー? 貴方は何でもできて何でも持っている人だから、私があげられるもので貴方が欲しいものなんて無いだろうけど……気を使わなくて良いのよ? お誕生日ぐらい我儘言っても」
何を言っているんだ? 下からの眺めといい、感触といい……
「最っっっ高! だから安心してくれ」
妙に思いが篭った俺の答えに、アビゲイルは若干引いた様子で「そうなんだ……」と呟いた。
満腹に疲労、心地良い陽気に、自然と瞼が閉じて。最初は遠慮がちに俺の髪を撫でていた彼女だったが、俺が何も言わないのを良いことに頬を突いたり鼻歌を歌ったり楽しそうだ。終いには、子供を寝かしつけるみたいに胸を優しくとんとん叩き始めたので、その手を捕まえて胸に抱いた。
「お兄ちゃんだって、甘えたい時があるわよね」
囁くように呟いた彼女の言葉に胸が軋む。ひび割れて、熱いものが滲む。きっとそれは、赤い血に似ているのだろう。君の言葉ひとつで簡単に翻弄されて、この心はじくじくと赤い血を流す。痛くて苦しいのに嫌じゃない。君の手が離れることの方が、よっぽどつらい。
――ああ、好きだ。この女が欲しい。この手が欲しい。どうしたら俺のものになる? どうしたら俺を欲しがってくれる?
最初は弄ぶつもりで近づいた。金と未来の伯爵夫人の地位をちらつかせれば、簡単に落とせるだろうと思ってた。適当に楽しんだら捨ててやろう。俺の世界を乱した罰を受ければいい! そう思っていたのに。
悪いのは君だ。妹たちに向ける燃えるような愛を俺にはくれない君が悪い。極悪非道の悪女には悪い男がお似合いだ。
「……手が止まってるぞお姉ちゃん。もっとしっかり甘やかしてくれ」
「もー! アーティくんはわがままねー!」
「っはは、俺をそんな風に呼ぶのはうちの末っ子ぐらいなもんだ」
初めて煙草の味を知った日を覚えている。それは、初めてこの手で命を屠った日。――そして、君への想いを再確認した日だ。
目撃してしまった弟たち
三男「あんなイチャついててなんで付き合ってないんだよ……」
次男「ヘタレめ」
付き合い始めるのはアーサー編1話の(18歳の夏)頃なので、ここから更に一年拗らせるのでした……。
※最新話に追いついてしまったので、不定期更新になります。いつも応援ありがとうございます。




