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一 そのエモさの中

 溜まった水に映った自分の顔は犬だった。それでも僕は、なんてこった! なんて驚きはしなかった。手慣れたものだ。極めて紳士的に、『あぁ、そうか』ってだけ。例え犬の顔になろうとも、何のこれしき。

 だって水瓶に添えた手が犬のそれだったんだから、嫌な予感はしてたんだ。いやコレはワンチャン、ワンちゃんあり得るぞってなもんで。

 水瓶の置いてある小屋の窓を覗くと、十畳ほどの空間に子どもがいた。椅子に座ってエンジ色の分厚い本を読んでいる。眼鏡をかけていて利口そうな七、八歳くらいの男の子で、彼の持つその本も、座っている椅子も彼にはやや大きいようだった。

 パッと見、キッチンも浴室もトイレも見当たらないワンルームで暖炉だけが見えた。この小屋自体が彼の部屋なのかもしれないが、そんなこと別にどうでもいい。そのまま身を引くと僕は自然と窓ガラスに自分を映すことになった。

 そこで映った自分と再び目が合う。

「なんてこった!」

 今度ばかりはそう叫んだ。

 もちろん僕が驚いたのは自分が犬の顔だったからじゃない。

 反射的に逸らした顔を戻して、もう一度、自分『たち』に目を映す。

 犬の顔が三つ並んでいた。

 ……どうやら犬は犬でもケルベロスらしい。これには参った。まさか犬をも上回ってくるとは。

 さっきまで自分の顔の両隣に顔があるなんて気付かなかったので、窓を覗く直前に顔が増えてしまったのかもしれない。

 着色料満載のアメリカのケーキみたいな鮮やかな青みのふわふわの毛で覆われた自分の手を見た時、どこかぬいぐるみのような愛らしさを感じていたのだが、ケルベロスとなると話は別だ。ぬいぐるみであったとしても顔が三つあるのは奇怪だ。

 家の中の少年とさほど変わらない大きさなので、子ケルベロスだろう。……子どものケルベロスのことを子ケルベロスって言うのだろうか。子グマみたいな?

「子ケルベロス」と発音してみる。ちょっと言いにくかった。これは人間の口ではないからだろうか。でも声は自分の声だ。

 することもないから子ケルベロス、子ケルベロスと何度も言っていると早口言葉を作りたくなってどういう言葉が合うのか考えた。子ケルベロス、子ケルベロス……コペルニクス、コ——あともう一つは何が合うだろう。あと一つで早口言葉が完成しそうなのに。コペ、……コッペパン?

 子ケルベロス、子ケルベロス、コペルニクスにコッペパン。

 何度か呟いて、分かったのは子ケルベロスを繰り返すだけの方が言いにくいということだ。

 家の中からガタッと音がしたので、中を覗く。男の子が本を床に落としたか何かで椅子が鳴ったようだった。椅子から降りてこちらを振り向いた表情はとても晴れやかで、即座に彼はこの窓と対面のドアに向かって走っていった。僕のボソボソ早口言葉が聞こえたのかもしれない。

 こっちに来ることが分かったので、僕も急いで家から離れて逃げた。

 薄靄の中、だだっ広い野原を走っていくと、すぐ後ろで「もおっ! 何でぇ!?」と少年のふてくされた声が聞こえて、なんか愉快だった。

 初めは二足で走っていた僕だったが、追っかけられまいと途中で四足で駆けてみた。なるほど手を付いた方が安定して走りやすい。骨格の問題もあるけど頭が三つで重たくて、こっちの方がバランスがとりやすいのだ。

 てっきり少年が追ってきていると思っていたのだが、振り返ってみると彼はまだ家から離れず、なおもその場で「こっちおいでよぉ!」と怒鳴っていて、ちょっと面白かった。僕はその場に座って彼を眺めた。すると彼は僕が待っているとでも思ったのか、こちらに向かおうとしたので即座に立ち上がってまた二、三歩離れる。たちまち「んもうっ!」と片足を地面にダンッと踏み下ろしたから笑ってしまった。何でこんなに面白いんだろう。過剰な一挙手一投足が面白いのかな。彼が怒って小屋に戻ってしまったので、今度は付近の小屋を覗いてみようかと思ったがそこまで行くのが面倒でやめた。

 後ろを振り返る度に、左右にある頭が邪魔だった。振り返る時には身体ごと正面を向かないといけないから大変だけど、真ん中の方が本体みたいだからマシな気がする。これで自分の頭が左だったら、おまけみたいだし。実生活なら真ん中より端っこが好きだけど。

 今の所、両隣の頭は僕の事を気にする素振りはしなかった。

 立ち上がって頭を触ってみた。確かに僕の顔の両隣に顔がある。あまり触り過ぎると噛みつかれそうなのでほどほどにした。

 自分がケルベロスになるなんて。てか誰がこんなの想定する? 何なら、別に嫌じゃないわ。

 夢だと分かっていると、まるで無意識の領域が自分を驚かそうと、けしかけているんじゃないかなんて思えてくる。

 周囲に人はいなかったが、全ての小屋は灯りが点いていて中に人の気配がある。

 あれ?

 さっきまで野原だっはずなのに、夢の中というのは現金なもので、急に周囲が村みたいに小屋が密集して変化していた。

 二メートルほど先に別の崖があり、離れ小島のようになっていて、そちら側にもロッジがある。橋が渡されていて行き来は可能だった。見た目は木板とロープのごく普通の吊り橋なのだが、試しに数歩だけ渡ってみると思ったより揺れは少ない。

 僕は付近の小屋の近くの木陰に身を潜めることにした。目が覚めるまでは大体いつもどこかに隠れている。

 僕は高校生になった頃からストレスなのか何なのか分からないけど、明晰夢をよく見るようになった。明晰夢って夢の中で夢だと気付いた時点でそうなるものだと思っていた。僕の場合は明晰夢が続いてしまったせいか、意識の微睡が少なくて、すぐに夢の世界に移るから、これで夢だと気付かない方がおかしい。だってベッドにいたはずが、別の場所にいるんだから。むしろ気付かない方が難しいくらい。

 腹と顔を地面につけて寝そべった。木の幹の真ん中より下の方から太く短い枝が不自然に伸びていた。

 そういやフロイトは夢診断で何でも性的なものに結びつけるんじゃなかったか。

 例えばこの場合は男根の象徴なのだろうか。だとしたら僕の深層心理はそんなものを僕に示して一体どういうつもりなのだろう。あまりいい気はしない。

 そうして木から目を逸らすと、近くの岩に細い石像が掘られているのが目に入った。目を開いているのか、閉じているのかも分からない荒削りな女神像。

 不思議なことにその像には見覚えがあった。はて、どこでこんなものを見たのだろうか。

 女神像は自分の肩を抱くように胸の前で腕をクロスさせていた。吸い込まれるように石像を見つめ続けていると、どんどん視界がぼやけていくような気がした。いや、その荒削りさ故に視界の解像度が極端に貧相になったんじゃないだろうか。なんだか高熱で寝込んでいる時のことを思い出した。僕は微睡んでいると部屋の暗さを意識的に変化できた。いや、あれは熱の時じゃなく、オーラを見ようと暗闇で練習していた時だったかも。明るくなったり暗くなったり、あの時たぶん瞳孔が変化していたんだと思う。

 いつの間にか石像はなぜかドット絵風になっていた。見ていると変に懐かしい気持ちになるのは何故だろう。

 突然、バンッと突然けたたましく家のドアを開ける音がした。

「男に二言はないぜ?」

「あぁ」

 僕は四足で立ち上がった。何やら緊張を孕んだ子どもの声。木陰から見ると男子が三人、小屋から出てきた。学年でいえば中学生か高学年の小学生くらい。二人はシャツの上からポンチョの様に民族風の織物を羽織っていて、一人だけ肩の辺りが破けたボロボロなロングシャツで頬にも煤のような汚れが付いていた。

「待って、本当に行くなら、僕お父さんに聞かれた時、なんて言ったらいい?」

「誰も俺一人で行くなんて言ってねぇって」

「え?」

「お前らも来るんだよ。当たり前だろ」

「でも村から出たら怒られるよ」

 彼らの会話を聞いていると切なさのようなものが込み上げてきた。さっきから何故こんなノルタルジックな気分になるのかは分からない。別に彼らが小学生の時の友人という訳でもなかった。全く知らない顔で会ったことはないはずだ。なのに僕は彼らのことを知っている。いったいどこで会ったんだろうと彼らの声を聞きながら考えていたが、果たして本当にこんな民族みたいな格好の人たちと会っただろうか。会ったのならもっと覚えていてもいいのに上手く記憶が繋がらない。気持ち悪いな。頭痛の気配がするが、気配だけだった。現実でこういうことがあると、だいたい頭痛がしてくる。

「バーカ、だから誰にも言わないで行くんだ」

 と、ここで「どこか行くの?」と別の小屋の中から中年の女性が出てきた。

 おそらく誰かの母親なのだろう。リーダー的な少年がすぐに答える。

「ちょっと輪廻橋までモリンガを取りに行くんだ」

 ——モリンガ!

 思わず叫びそうになった。

 分かった。彼らが誰なのか

 そしてここがどこなのか。

 このモリンガというのが最近、実際に近所のスーパーに茶葉として売られていて、本当にあったのかと驚いて、手に取ったのだ。それでそのお茶を購入して飲んだ。独特な味に不味いお茶だと思った。コップに注いであるので、勿体ないし二口、三口と飲む内にお茶というよりスープみたいな味だと感じて、そこからそのお茶にハマったのだ。後でネットで調べてみたら滅茶苦茶に健康的な植物らしかったので回復薬というのも頷けた。

 おばさんは何も疑うことなく、「気をつけてね」とだけ言って小屋に戻った。

「ほら、行くぞ。確かに結雪の剣を咥えていたんだろうな?」

「うん、きっと魔物の手に渡る前に」

 小屋の中から「暗くならない内に戻ってくるのよ」と声がした。

 記憶のだいぶ底の方に眠っていた彼らのやり取りに僕は思わず「うわ、懐かし」と、木陰で声を漏らした。

 それは『MOONLESS NIGHT Ⅱ』という僕が小三くらいにプレイしていたロールプレイングゲームの最初の会話シーンだった。元々はパパの持っていたゲームだ。

 ちなみにケルベロスはムンレスⅡには出てこない。僕がたまたまケルベロスの姿なだけだ。

 そして記憶の焦点が合うようにして、石像のことも分かった。再び背後の石像を振り返ると、今度はドットではなく、きちんとした石像に成り代わっている。無骨ながらも微笑んでいるその表情は僕をもて遊んでいるかのようだった。

 オニクたちはこれから希少度の高い剣を探しに行くところだった。

 僕は彼らの尾行を決めた。

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