知らない鼓動
朝陽には嫌われている、それだけのことを自分はしてしまった。後ろめたくて暗いしこりは、ずいぶんと大きく自分の中に巣食っていたのだと、恭生はつくづく思い知った。
嫌われてなどいなかった、とやっと心から感じられた途端、朝陽の行動の端々に自分への好意が見えるようになったからだ。
待ち合わせをする時は、恭生の仕事終わりに合わせているから、どうしたって待たせる側になってしまう。約束の場所に急いで、立っている朝陽をよくよく観察してみると。いつも辺りを見渡していて、恭生の姿に気づくとその頬を綻ばせる。
アパート前まで送ってもらい、さよならを告げる時。朝陽は大きく息を吸って、やっとの思いでひねり出すかのように、小さくおやすみを言う。
断られると分かっているのに家に上がっていかないかと尋ねたら、上下のくちびるをきゅっとひきこむのにも今まで気づかずにいた。小さい頃によく見た、泣くのを我慢する時の朝陽の癖だ。
かわいい弟が、今も恭兄と呼んでこんなに慕ってくれている。これを幸せと名づけなかったら、罰が当たるに違いない。
「朝陽、好きなの食べろよ。デザートもつけていいからな」
ファミリーレストランで、メニューを眺める朝陽と向かい合う。テーブルの端では、お互いのスマートフォンについた、柴犬とうさぎのキーホルダーが仲良く並んでいる。窓の外は冬に凍えているが、恭生の胸はあたたかい。
「恭兄は? なに食べるかもう決めた?」
「んー? まだ」
「じゃあなんで、メニューじゃなくてこっち見てんの」
「あー、うん。気にしなくて大丈夫」
「ふーん。いいことでもあった?」
「なんで?」
「なんか嬉しそう」
ただ朝陽を見つめるだけの自分が、嬉しそうに見えると言うのなら。あの夏の朝陽に嫌われたわけじゃなかった、と知ることができたからに他ならない。
だが経緯を説明するのなら、橋本の話は避けられない。自分が誤解していたのだとは言え、橋本の名を出すのはどこか憚られた。
「嬉しいよ。朝陽とまた会えてんのが」
「……んだそれ」
端的にそれだけ伝えれば、淡く染まった頬がメニューの向こうに隠れてしまう。見ていたいのにと勿体なく感じるけれど、その仕草すら愛らしいのも事実だ。
「そうだ。恭兄、来月の第二日曜って仕事?」
「来月はまだシフト決まってないけど、どうした?」
ハンバーグを食べていた朝陽が、ふと思い出したように尋ねてきた。
急いで咀嚼したかと思えば、ごくんと飲みこんで。真剣な瞳がまっすぐに注がれて、恭生も思わず姿勢を正した。
「バスケの試合があってさ。他の大学との交流戦で、気楽なやつだけど。サークルの先輩が組んだみたいで。えっと……もしよかったら、見に来ないかなって」
「え……え! いいのか!?」
テーブルに両手をつき、恭生は思わず身を乗り出した。
朝陽に倣って、パスタグラタンを食べるのを中断していてよかった。口に含んでいたら、勢い余って喉に詰まらせていたかもしれない。
朝陽は中学に上がると、バスケットボール部に入部した。その報告と一緒に、試合に出られるようになったら見に来て! と誘ってくれたのをよく覚えている。だが、例の件があってそれは叶わなかった。
高校に上がってもバスケを続けていて、早くからスタメンにも選ばれていると母づてに聞いていたが、同じく応援に行ったことはなかった。
「うん。来てもらえたら、その、嬉しい」
「……っ、絶対に行く! 絶対に休み取る! うわー、すげー楽しみ」
「よかった。俺も楽しみ」
朝陽の止まっていた手が再び動き出し、ハンバーグとライスを口いっぱいに頬張る。それを見た恭生もフォークを手にしたら、勢いよく巻き上げたパスタからソースが跳ねてしまった。
高揚した心がそのまま表れたようで、取り繕う声が上擦る。紙ナプキンをテーブルに滑らせると、同じく拭こうとしてくれた朝陽の手とぶつかった。それだけのことになぜだか妙に浮足立って、ふたりで顔を見合わせて笑った。
「これで完成です。いかがでしょうか。後ろのほうはこんな感じになっています」
「わあ……この髪型、すごく気に入りました!」
「本当ですか? よかった。気に入って頂けて、僕も嬉しいです」
「ここに来るの初めてなので、実は緊張してたんですけど。これからも通います、また兎野さんにお願いしたいです」
「それは光栄です。またお待ちしていますね」
施術に満足してもらえた。自惚れではないと確信できる。そう思えるだけの笑顔や言葉を客から貰い、熱いものがこみ上げる。ここ一ヶ月ほどで、もう五人目になる出来事だ。
お辞儀をした頭を上げ、去っていく背中を見送る。小さくガッツポーズをし、緩んでしまう口元をどうにか引き締め店内へ戻った。
「兎野、最近調子よさそうだな」
「オーナー。はい、ありがとうございます」
切った髪を掃いていると、オーナーから声をかけられた。自分で噛みしめているものを改めて褒めてもらえると、喜びもひとしおだ。
「技術に関してはずっと申し分なかったけど、接しやすさが出てきたよな。一皮むけたというか。なんかきっかけでもあったのか?」
「きっかけ……」
そう尋ねられると、思い当たることはひとつしかない。
「もう長年気がかりなことがあったんですけど、それがようやく解決して。気持ちが軽くなったので、間違いなくそれは関係していると思います。プライベートのことで仕事も上手くいってなかったんだと思うと、情けない話ですけど」
「上手くいってなかった、ってこともないと思うけどな。でも、向上心があるのはいいことだ」
「はい。ありがとうございます」
自分の好きなものを選びなさい、自分の進む道は自分で選びなさい。与えられた自由の本当の意味に、年齢を重ねるごとに気づいていった。選んだものは全て、自分に返ってくるということ。
それでもやはり、高二の夏の出来事は大きかった。家の前なんかでキスをしなければ、朝陽と疎遠にならずに済んだのではないか。隙を作らないことに注力し、人間関係には必要以上に慎重で、必要であれば感情さえも取り繕う。今の恭生が出来上がっていった。
だが、自分の勘違いに気づくことができた。性格を根本から変えることは難しいが、きっと、もっと、心を開いてみてもいいのかもしれない。あの頃の朝陽を知られたことで、そう思えるようになったから。接客時にも肩から力を抜いて話せるようになってきた。
それにしても、だ。朝陽との関係が、仕事にもこれほどいい影響をもたらしている。幼なじみにどれだけ心を明け渡していたのかと、静かに驚く。それでも悪い気がしないのは、ただひたすらに朝陽がかけがえのない存在なのだということだろう。
「なになに、なんの話っすか」
「村井、兎野に抜かされるのもすぐかもな」
「え! マジっすか! まあでも俺としては、兎野はライバルってより、仲間のつもりなんであんまり気にしないかな」
「へえ。じゃあオレは遠慮なく」
「え!? 兎野~仲良くやろうよお!」
「はは、はいはい」
軽口を叩いてみると、村井が泣き真似なんかをしてみせる。笑みを交わして、拳をぶつけ合う。こんなことは、ここで働き始めてから初めてだ。
村井に抱いていた劣等感までも、溶けてなくなったとは言わないが。上手く競争心へと昇華できそうだ。この瞬間にだって、恭生の頭には朝陽の顔が浮かんでいる。