春に生まれる3
このまま一緒に夕飯でもと誘われたが、ふたりでパスタを食べに行く予定を立てていたので丁重に断った。また来てね、と見送ってくれる朝陽の両親に手を振る。
「じゃあ東京に戻るか」
「え。待ってよ恭兄」
柴田家を出て駅のほうへと足を向けると、朝陽が慌てたように恭生の手を取った。その視線はすぐに、隣にある恭生の実家を振り返る。
「寄っていかないの? 恭兄の家。せっかくここまで来たのに」
「んー、別にいいよ。正月に会ったし」
東京へ出てからも、日帰りではあるが正月には毎年帰省している。今年だってそうだった。それ以外で連絡することは、恭生からも親からも滅多にない。それが兎野家の距離感で、近くに来たからと顔を見せるのはなんだか気恥ずかしい。
昔から自分を知る人に『肩の荷が下りたみたい』と言われるくらい、変わった自分を知っているけれど。生まれてからこっちずっと築いてきたものを、なかなか崩せないのもまた確かだ。
「えー……でもオレ、おばちゃんたちに会いたい」
「マジ?」
「うん。引っ越す前はしょっちゅう喋ってたし」
「んー、分かった。でもこの時間だと、いないかもしれないぞ」
「いるかもしんないよ」
朝陽に乞われてしまったら、恭生は頷くほかない。
朝陽の指がインターホンを押す。出てくれなくてもいいよ、なんて思ってしまったが、すぐに応答があった。驚いた様子が伝わってきて、すぐに玄関の扉が開く。
「恭生、おかえり! どうしたの? 珍しいわね」
「ん。ちょっと用があって朝陽の家に来たんだけど、朝陽がうちにも寄りたいって」
「あら、朝陽くんもおかえりなさい。また大きくなった?」
「はは、もうさすがに大きくならないよ」
「そう? まあ上がって。ちょうどよかったわ」
一体なにがちょうどよかったのだろう。母の言葉に疑問を覚えながら、渋々と靴を脱ぐ。上がらずに済まそうと思ったが、そうはいかなかった。同じように靴を脱ぐ朝陽が、そっと耳打ちしてくる。
「恭兄のおばさん、俺のこと見えてなかったんだね」
「え? あー、たしかに」
インターホンのモニターに朝陽も映っていただろうし、玄関を開けた時だって背の高い朝陽は目立っただろうに。恭生が朝陽の名を出してようやく、朝陽の存在に気づいたようだった。
視力が落ちてしまったのだろうか。心配していると、朝陽はなぜか嬉しそうに、おばさんは昔からそうだよねなんて不思議なことを言う。
「どういう意味だ?」
「それは……」
「ねえねえ恭生、これ見て」
ふたりで話していると、リビングのほうから母が顔を出し手招いた。
「なに?」
父はどうやら仕事でいないようだった。朝陽との会話も中途半端に、母のもとへと寄る。すると、一枚の写真を手渡された。ちいさな頃の恭生と、祖父の姿が写っている。
「昨日ね、兎野のおじいちゃんちの片づけだったの。伯父さんたちが住んでたんだけど、もう古かったから手放すことにしたみたいで。そしたらこれ、おじいちゃんの部屋に飾ってあって。恭生、覚えてる?」
「うーん、覚えてないかも……」
「俺は覚えてるよ」
「え? 朝陽が?」
「だってこの写真が、俺の原点だから」
「……え?」
朝陽の言葉に、恭生はまた写真に視線を戻す。画質は今の写真に比べれば粗く、少しブレている。だが幼い自身の手に、柴犬のぬいぐるみが抱かれていることに気づく。
「あ、これ……」
ああ、そうだ。この写真は、このぬいぐるみを貰った日のものだ。朝陽がうさぎを欲しがったから、自分の手元の柴犬が嬉しくなって。母が携帯電話で朝陽とのツーショットを撮ってくれて、その後に朝陽が自分も撮りたいと言いだした。それで母が朝陽に携帯電話を貸して、祖父との写真を撮ってもらったのだった。
「思い出した……朝陽が撮ってくれたの」
「うん。上手だなって褒めてくれて、かなり嬉しかった」
「そっか。はは、オレめっちゃ笑ってる」
カメラマンを志すきっかけを、恭兄に褒められたからだと朝陽は言っていた。今の今まで思い出せなかったのは、祖父が関係していたからなのかもしれない。
だが朝陽のおかげで祖父のことを理解できた今、鮮やかに蘇る。線のように繋がったそれぞれの想いに、胸がふつふつと熱くなる。
「お母さん、この写真もらっていい?」
「えー、お母さんも飾ろうと思ってたのに……なんてね。もちろんあげる。朝陽くんにとっても大切なものみたいだしね」
「ありがとう」
「それに、なんだか安心した」
「え?」
再び写真を眺めていると、母が安堵の息と共にそう言った。どういう意味だろう。顔を上げると、母が肩を竦めてみせる。
「恭生、おじいちゃんのこと、最後のほう苦手に思ってたでしょ」
「え、なんで知って……」
「そりゃ分かるわよ、息子のことだもん」
「…………」
「でも、吹っ切れてるみたいね。その写真も本当は見せるか迷ったんだけど、渡せてよかった」
「なんだよそれー……」
まさか、祖父への複雑な感情を母に勘づかれているとは思いもしなかった。いつも忙しくて放任主義の母が、そんな風に自分のことを見てくれていただなんて。今の口ぶりだと、きっとずっと、自分の思う以上に見守ってくれていたのかもしれない。
泣きたくなんかないのに、鼻がツンと痛んで恭生は思わず顔を背ける。気づかれる前に、一刻も早くここを去りたい。だが朝陽がそうはさせてはくれなかった。
「ねえ、もしよかったらふたりの写真撮ってもいい?」
「は? おい朝陽」
「え、いいの? 撮って撮って朝陽くん」
「ちょ、お母さんも……」
戸惑う恭生に構わず、朝陽がリュックからカメラを取り出す。
「いいじゃない。欲しいもん、息子とのツーショット」
「えー、マジ?」
「マジマジ。お父さんに自慢しちゃお。絶対羨ましがるよ」
「どうだか……」
じゃあ撮るよ、とレンズが向けられて、母の手が恭生の腕に絡む。寄り添い合うのはいつぶりだろう。衣食住不自由なく、欲しいものも与えてもらってきた。だが子どもの頃まで記憶を巻き戻してもこんな記憶は見当たらず、どんな顔をすればいいのか分からない。その上、この歳で親と仲の良さそうな写真なんて、と小っ恥ずかしくて顔が引きつる。それなのに。恭兄、と呼ばれて視線を上げると、愛おしそうに微笑む朝陽がそこにはいて。
「ふ、はは」
「あ、恭兄いい顔」
シャッターが切られる度に、胸のうちに渦巻くものが薄まっていくのを感じる。
朝陽との日々で変わった自分を知っている。それは今も現在進行形で、秒ごとに変化する。ふと視線を感じて隣を見下ろすと、母が薄らと涙を浮かべてこちらを見ていた。
ああ、愛されているのだ。見える景色が広がった自分に出逢う。朝陽のためだけでなく母のためにも、今日はいない父のためにも。ひたむきに生きていきたいな、なんて思った。
ゆらゆら揺れる視界に陽の光が射して、シャッター音の心地いい音。朝陽がひとつステップを上がった日、恭生にも齎されるのは春の匂いだ。




