おれより先に、3
アパートに到着して、朝陽が鍵を取り出す。焦っているのか中々鍵穴に刺さらず、手を貸してどうにか開けることができた。
中へ入り、扉が閉まるより先にくちびるを塞がれる。壁に背をぶつけながら朝陽の首に手を回すと、キスは深くなった。
「あさ……んう」
「恭兄、恭兄」
キスの合間に何度も名前を呼ばれる。
「あ、朝陽、待って」
「もういっぱい待った」
「そうだけど、ベッド行こ? な?」
こんなところでは、外を通る他の住民に声を聞かれてしまうかもしれない。朝陽のシャツを引いて訴える。朝陽のくちびるがむっと尖る。ぱくりと口を食まれたと思ったら、体を抱えあげられてしまった。
「わっ」
「掴まってて。靴脱がすよ」
靴に指を引っかけられ、恭生も足を振って脱ぎ捨てる。言ってくれれば、自分で脱いだのに。しがみつく首筋は熱い、本当に数秒すらも待てないのだろう。
ベッドにふたりでもつれるように倒れこむ。ベッドヘッドのライトがつけられて、くしゅっと寄った眉間が見えた。切なそうに愛しそうに、恭兄、と呼ばれる。その声が堪らなくて、鼻がツンと痛みだす。
「朝陽、こっち。ぎゅってさせて」
「ん……恭兄」
朝陽の頭を抱きこむようにして、髪を撫でる。抱きしめ返され、朝陽の重みが心地よく圧し掛かってくる。
やっと、やっとだ。待ちわびた瞬間に、お互いの肌へと手を伸ばす――
体を重ねることがこんなにも幸せなことなのだと、恭生は知らなかった。
どうして自分たちは同じ人間じゃないのだろう。同じじゃないから、四六時中一緒にいることは叶わない。だが、別の人間だからこんな風に触れて愛し合うことができる。好きで好きで仕方ないほど愛したら、その分だけ切なさも強くなってしまうようだ。お互いに涙を浮かべる瞬間があった。それすらも幸福な想いとして、恭生の胸に熱く残る。
たっぷりと心を溶かしあった後、初めて一緒に風呂へ入った。狭いアパートの小さな浴室だ、シャワーを浴びてすぐに出た。すると、朝陽の腹がぐうと鳴って空腹を知らせてきた。恥ずかしそうにするかわいい朝陽にちいさく笑って、今はふたりでキッチンに並んでいるところだ。
今夜は外食をするつもりだったから、家にはろくなものがない。それでも即席のラーメンがちょうど二個残っていて、冷蔵庫には卵が三個あった。
「ラーメンに卵入れちゃう?」
「うーん。オレはラーメンとたまごやきがいいな」
「恭兄ほんと好きだね」
「うん、好き」
「はは、じゃあ作ります」
「やった」
鍋にラーメン二食分の湯を沸かしながら、隣のコンロにはちいさなフライパンが置かれる。お椀の中でたまごを溶く朝陽の横で、恭生はミルクと砂糖を用意する。
「恭兄、牛乳と砂糖ここに入れて」
「うん、ストップって言えよ」
卵液の色が牛乳で薄まり、砂糖がきちんと溶けるまでかき混ぜる。カチカチと音を鳴らして火がつけられ、サラダ油をあたためる。フライパンの上に朝陽が手を翳し、あたたまったかを確認する。間もなく、卵液がフライパンに注がれた。
弱火でじっくりと優しく焼き上げる、その手元を見ているだけでちっとも飽きない。菜箸で器用にたまごを巻きはじめた朝陽にもたれながら、恭生は朝陽の入院先からひとり帰った夜を思い出していた。
祖父の言葉を、本当の意味で理解した。朝陽が隣にいてたまごやきを焼いている、小説や映画ならきっと、何気ないシーンとして描かれるだろうこの瞬間にこそ、またひしひしと感じられる。
「朝陽ー」
「んー?」
「じいちゃんの言ってたあれ、あるじゃん」
「うん」
「オレ、多分もっと分かったよ。ニンジンの時より」
「あ、俺も。恭兄と一緒かな」
フライパンの中では、くるくると巻かれた小ぶりのたまごやきが端に寄せられ、朝陽が卵液を少量追加する。
「森下さんから電話もらった時、朝陽にもしものことがあったらって、体が粉々になりそうなくらい怖かった。それで……あー、じいちゃん、ばあちゃんがいなくなる時、こういう気持ちをいっぱい経験して、めちゃめちゃしんどくて、ばあちゃんにさせないで済んでよかったって思ったんだろうなって。自分が引き受けるほうがいい、そういう愛だったんだなって。ふ、だって朝陽、オレのことすげー好きじゃん。あんな恐怖、絶対感じさせたくないって思ったもん」
「……うん、俺も。恭兄、すごく泣いてたから。もうこんな想いさせたくない、絶対に恭兄残して死ねないなって思った」
「うん。オレも朝陽が大好きだからな」
「恭兄~……」
「はは、朝陽涙目」
「恭兄もじゃん」
「だなぁ。あ、朝陽、たまごやき焦げてない?」
「え! うわほんとだ!」
慌ててコンロからフライパンを下ろしたが、少し焦げてしまっていた。いつもは綺麗な黄色だから、そんな色は初めて見た。だがこれも、今日の特別という気がしてとてもいい。焦げた部分をどうにか取り除こうとする朝陽に、それが食べたいと皿を差し出す。不服そうなくちびるで、恭兄がいいならとよそってくれた。
それからラーメンを作って、ふたつのどんぶりに分けて。ローテーブルに運び、ふたり並んで腰を下ろした。いつもは向かい合って食べるところだが、今日は少しも離れたくなかった。
「いただきます」
「いただきます。あー、うま」
空腹の体に、スープのほどよい塩気が沁み渡る。朝陽も次々に麺を啜っていて、それを眺めているだけで顔がにやける。
「でもオレさ」
「んー?」
「じいちゃんのこと、それが深い愛情ってことも理解できたけど……朝陽には、オレより先に死んでください、なんてちっとも思えないわ。自分が先だと朝陽を悲しませるって分かってるのに、勝手かもしれないけど」
ふふ、と自嘲じみた笑みをこぼし、恭生はちょっと焦げたたまごやきをひとつ頬張る。大好きな甘さは幸福の味で、今日だけはちょっぴりほろ苦くて、ついつい目を瞑って浸ってしまう。
「俺もだよ。恭兄に、俺より先に死んでください、なんて絶対思わない。確かに、おじいちゃんの考えに照らし合わせたら、自分かわいさかなって行き着くよね。でも、そんなもんじゃない? 好きな人には長生きして、楽しいこと幸せなこと、たくさん経験してほしいって思うし。愛なんて、言ってしまえばいつだって身勝手だよ」
「おお、なんか名言。でもそっか。そうだよな。好きな人と恋人になりたいとか、一緒にいたいのだって、なんだかんだ自分が嬉しいからだよな」
「うん。でも俺たちはほら、両想い、だから。恭兄が嬉しいと俺も嬉しい、ウィンウィンだよ」
「たしかに。朝陽が喜んでくれるんだし、長生きしなきゃな」
「うん、俺も長生きする。一緒にめいっぱい長生きして、仲良しおじいちゃんになろ」
「うん、最高」
朝陽が自分自身を大事にしてくれたら、そうやってずっとそばにいてくれたら、こんな幸せなことはないと恭生は強く思う。同じように己を大事にすることが、巡り巡って朝陽の幸せになる。うんと長生きして、おじいちゃん同士になって、それでもきっと、恭兄と呼ばれていて。切り離せない切なさと一緒に朝陽への愛を抱きしめて生きていけたら、それがいちばんいい。
「恭兄、たまごやき一個残ってる。口開けて」
「やった。あー……」
「はは、恭兄かわいい」
「いや、かわいくはないだろ」
いつもとは反対の会話がおかしくて、笑いあってキスをする。額をくっつけて浸っていると、不意にまた朝陽が拗ねた顔を見せ始めた。
「そう言えばさ」
「んー?」
「俺、まだ恭兄の店行ったことない」
「え? うん、そうだな」
「……あの人はあるんだ」
橋本のことだとすぐに分かった。先ほどから度々妬かれているのだと思うと、申し訳なさと一緒に湧くくすぐったさが否めない。
「あー……さっきな、言ってたよな。えっと、連絡とってたわけじゃなくて。ちょっと前に本当にたまたま、店に来てさ。オレも橋本も驚いたんだよ」
「へえ……それはそれでなんか、嫌かも」
「そう?」
「そう! なんかこう……いや言わない。俺も今度行っていい?」
「当たり前! 朝陽にも来てほしいなって、ずっと思ってたよ」
約束だからねと、油っぽいくちびるが今度は頬にもキスをしてくる。べたべたするじゃんと笑ったら、恭兄もしてよとねだられて。頬に返して、堪えきれずにまたくちびるにキスをして。甘じょっぱいキスだねと朝陽が言うから、またふたりで笑い合った。




