おれより先に、2
ようやく迎えた約束の日、恭生も朝陽もそれぞれに仕事と大学の講義があった。朝食のテーブルの上には、バターを塗ったトーストとたまごやき。一般的には洋と和のバランスがおかしくても、これが定番の朝食になっている。朝陽が焼いた甘いたまごやきに、恭生は朝から幸福を噛みしめるのだ。
「なあ朝陽、今日の夕飯だけどさ。待ち合わせして外で食わない?」
「んー、俺は家がいいけど」
「でもさ、それだと多分……夕飯どころじゃなくなる気がする」
恭生の潜めた声に、トーストを齧っていた朝陽の動きが止まる。
この一週間がどれほど長くて、今日をどんな気持ちで待ちわびたか。自分のことも相手のことも、お互い手に取るように分かっている。見透かされていることまで、知っている。
この部屋にまっすぐ帰って来たら、なにもかも放り出したくなるに決まっている。
「大学終わったら恭兄のほうに行く」
「うん。あ、気をつけて来いよ。もう無茶すんのはなしな」
「はは、うん。分かってる」
恭生が働くヘアサロンの、最寄り駅で待ち合わせ。そう決めたら、そこから会話は続かなくなった。朝食を一緒に食べられる時は、いつも話したいことがたくさんで、遅刻しかけて慌てることもしばしばなのに。
あと数時間も経てば、念願の時間がやってくる。その瞬間を焦がれるなんて、はしたないだとかいやらしいだとか。気恥ずかしさで本音を閉じこめるのはやめた。恋人に触れたい、触れられたい。こみ上げてくる感覚は過去を振り返っても初めてのことで、初恋のようにみずみずしい。
自分の気持ちまで大事にしたくなる恋を、朝陽としている。
「じゃあ、いってきます」
「うん」
「あ……朝陽、今日はだめ」
「え、なんで」
先に家を出る恭生を、朝陽が玄関まで見送りにくる。いつもならキスをするところだが、手のひらで朝陽の口元を覆い拒む。むくれて突き出されたのが、手のひらに当たるくちびるのかたちで分かる。
「キスしたらその、反応する自信あるから」
「……俺、今の聞いて反応しそうだけどどうしたらいい?」
「はは、あとちょっと我慢な?」
じゃあなと指同士を絡め、ぎゅっと握ってから外へ出る。壁にもたれかかった朝陽が、恨めしそうにじとりとした目を向けてくる。
でもその奥に、はっきりと熱い灯がともっている。それが爆ぜたら、一体どうなってしまうだろう。今夜知るのだと思うと背が震え、吐いた息が体にまとわりつく。
「朝陽!」
「恭兄。お疲れ様」
「ん、朝陽もお疲れ様」
仕事終わりに駅へと直行したら、朝陽の姿をすぐに見つけることができた。あの事故以来の、この場所での待ち合わせだ。無事に会えたことに奇跡みたいに感動する。
さっそく、夕飯はどうするかを話し合う。だがお互い、なにを食べるかなんて今日は心底どうでもよかった。
ここから一番近いのは、チェーンのファミリーレストランだ。じゃあそこにしようと歩き始めた時。兎野、と呼ぶ声が聞こえ、朝陽と一緒に振り向いた。
「わ、橋本じゃん」
「はは、また会ったな」
「あー、はは、だな」
まさか朝陽と一緒の時に、しかもこんな日に出くわすなんて。朝陽の顔を盗み見るといかにも不機嫌そうで、どうやら橋本だと認識しているようだ。じっとりとした視線が向けられていることに、橋本もすぐに気づく。
「あれ。もしかして、兎野の幼なじみの……」
「……どうも」
気まずい空気に、恭生はついたじろぐ。睨みつけるような朝陽を受けて、橋本も応戦するように目を眇めていて。
恭生は思わず、朝陽を背に守るようにしてふたりの間に割って入った。その直前にとった朝陽の手に、こっそり指を絡める。
「えっと、橋本は仕事終わり?」
「え? ……ああ、うん。営業先がこの近くで、直帰するところだった」
「そっか。オレたちはこれから、ごはん食いに行くとこ」
「へえ。はは、ほんと仲良いんだな」
「うん、そうだな」
「俺、幼なじみっていないから。ちょっと羨ましいわ」
それじゃあ、と言う橋本に、恭生は手を振る。歩き出した橋本は、けれどすぐにまたこちらを振り返った。
「朝陽くん」
「……はい」
「約束、守れなかった。ごめん」
「……あんたにお願いしたことなら、俺が叶えるんで大丈夫です」
「え……?」
ふたりの会話に、恭生は繋いだままの手に思わず力をこめた。
ふたりが顔を合わせるのは、今日で三回目のはずだ。
一回目は、キスを見られてしまった時。二回目は橋本が以前言っていた、キスをしてすぐの頃に、道でばったり会ったという日。
恭兄を大事にしないと許さない、絶対に悲しませないで――朝陽が言ったらしいその言葉を、橋本は約束だと言っているのだろう。
中学生の朝陽と、今の朝陽。橋本に向かって放たれた言葉が混ざり合う。それだけで橋本だって察しただろう、自分たちの関係を。見開かれた瞳に映される。けれど恭生の意識は全て、背後に立っている朝陽にしか向かない。
「あー、マジか。そういうことかあ」
「っす」
「もしかして、朝陽くんは兎野のこと、あの時から?」
「はい」
「そっか……朝陽くんかっこいいな。昔も今も。兎野が惚れるのも納得」
してやられたといった顔、だがどこか清々しくも見える。
「兎野」
「ん?」
「また切ってもらいに行くから、その時はよろしくな。もちろん今度は指名で」
「ああ、うん」
「じゃあな」
今度こそ去っていく橋本をぼんやりと眺める。すると繋いだままだった朝陽の手が、駅のほうへと恭生を引っ張る。
「え、朝陽、ファミレスは?」
「ごめん、今すぐ帰りたい」
「へ……」
「もう一秒も待てない」
「朝陽……」
帰宅ラッシュの時間だ。駅は大勢の人で溢れていて、その間を朝陽とふたり縫うように進む。混んでいる電車の中で身を寄せ合う。
朝陽はひと言も喋らず、少しくちびるを噛んでいる。橋本と会ったことで、嫌な思いをさせてしまったのは明白だった。
電車が揺れ、朝陽の肩口に顔がぶつかった。ああ、これはまずい。朝陽の機嫌をよくしてあげたい、だがそれとは別に、恭生の中にははっきりと灯っている熱がある。
一秒も待てない――朝陽のそのひと言が頭の中でリフレインし続けている。自分の感情に対処するだけでも精いっぱいだった。
人波に押され、今度は朝陽の二の腕に密着してしまう。腹から火照った息が上がってくる。
顔を上げられずにいると、押しつぶされた手を朝陽が探り当て、指を絡められた。朝陽の爪先が、手の甲を掻いてくる。ああ、恭生だってもう待てない。だが電車のスピードが変わるはずもなく、じれったさだけが募ってゆく。もうどうにでもなってしまえと額を擦りつけ、シャツ越しの朝陽の腕にこっそり齧りついた。
「あ、朝陽、手!」
「恭兄ごめん、離したくない」
アパートの最寄り駅に到着すると、朝陽は恭生の手を掴み早足で改札を抜けた。道へと出てその手は離されるどころか、再び指を絡めるように繋がれてしまった。
「誰かに見られるの、困る?」
「……いや、それは大丈夫、だけど」
男同士だからと人目を気にするつもりは、恭生にもなかった。敢えて宣言もしないが、誰かに付き合っているのかと聞かれたら胸を張ってイエスと答えたい。そう思っている。
とは言え、繋がれた手にどうにも戸惑ってしまう。外で手を繋ぐのは初めてのことで、心臓がバクバクとうるさいのだ。
立ち止まっていた朝陽が、一歩身を寄せる。
「恭兄」
「ん?」
駅から家路をいく人たちが数人、横を通り抜けていく。それを横目に、月明りの下で朝陽は真剣な顔をしている。
「あの人とは……」
「え?」
「さっきの、橋本さん、だっけ。とは、こんな風に手繋いで歩いたりした?」
「……ううん、してない」
「ほんとに?」
「うん、ほんとだよ」
「ん。じゃあさ……」
少し口籠った朝陽が、恭生の耳元へ口を近づける。
「あの人としてないこと、もっといっぱいしたい」
「……っ」
誘惑するような仕草なのに、それでいて拗ねたような、懇願するような、甘えるような。その言いっぷりが、甘い熱を持って恭生の腹の奥に落ちてきた。
「あ、朝陽」
「うん」
「はやく、帰ろ」
「……うん」
繋いでいる手を強く握り返す。気が急くままに進んだら、足がもつれそうになる。




