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春に崩れる3

「恭兄、今日何時終わりだっけ」

「十八時。待ち合わせどうする?」

「十七時にはバイト終わるから、そっちに行く」

「了解。じゃあ駅前にするか」

「うん」


 五月も下旬になり、半袖の服を着る日も増えてきた。

 ゴールデンウィークには、朝陽と旅行に行ってみたかったのだが。あいにく恭生の仕事が忙しく、連休を取ることは叶わなかった。ごめんな、と言うと、謝ることじゃないと朝陽はむくれてみせたけれど。

 自分の夢を、朝陽も大切にしてくれる。もちろんそれを幸せに思う。だがなによりも恭生自身が、朝陽とゆっくり過ごしたかったのだ。


「楽しみだな」

「うん、俺も」


 久しぶりの、外で待ち合わせてのデート。だが今までのそれと、今回は一味違う。明日はふたりとも休日で、今日のうちから出掛けて一泊してみよう、という計画になっている。ゴールデンウィークの代わりに、というわけだ。

 宿泊先は、都内の少しリッチなホテル。遠出する案もあったが、移動は最小限にし、その分のお金はホテル代につぎこむことにした。

 立派なディナーと、朝食は豪華なバイキング。夜には朝陽がシャッターを切りたいほうへと気ままに出掛ける予定で、それも楽しみだ。


「じゃあそろそろ仕事行くわ」

「うん」

「戸締り頼むな」

「任せて」


 玄関まで見送りに来てくれた朝陽から、頬にキス。朝陽の手にあるスマートフォンでは、相変わらずうさぎのキーホルダーが揺れていて。それを指先で愛でてから、恭生も朝陽の頬にキスをする。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 一泊分の着替えが入った小さいボストンバッグを抱え、玄関を開けて手を振る。朝陽がほんの少しだけくちびるを噛むのを見ると、いつも離れがたくなる。

 恭生が小学生になった春の朝も、こんな顔をしていたっけ。頭を過ぎる懐かしい光景に、無性に抱きしめたくなった。でもキリがないな、とぐっと堪え、また後でともう一度手を振る。

 今夜になれば明日までずっと、ふたりで過ごせるのだから。

 


 十八時前、本日ラストの指名客を見送った。今日は残業をすることもなく上がれそうだ。

 店内に戻り、使用していた鏡の前を掃除し、オーナーに声をかける。


「オーナー、そろそろ上がります」

「おう、今日もお疲れ様」

「お疲れ様です」

「あれ、兎野~その荷物なに?」

「あー、これは。今からちょっと旅行」

「旅行? さてはデートだな!?」


 ボストンバッグを指さして、村井がニヤリと笑う。オーナーを交えてのこんな会話が、なんだか懐かしい。

 そう言えば、村井との仲が深まるほど、話題は美容師談義に終始するようになった。恋バナなんてものをしたのは、もうずいぶん前のことだ。


「そう、デート」

「うわー……オーナー、今の兎野の顔見ました?」

「村井と兎野がここに来て四年くらいか? あんなしっかり恋した顔見たの、初めてだな」

「ですよね!」

「あー、はは……」


 ふたりが大きな声を出すものだから、ちょうど客足の引いていた店内から他のスタッフも集まってくる。しっかり恋をしている顔とは、どんな顔だ。店中にある鏡で確認する気にはなれず、皆の視線から逃げるようにスタッフ出入口へと向かう。


「兎野~! 今度ゆっくり聞かせてもらうからなあ!」

「村井と飲みに行くの、しばらくやめようかな」

「え! うそ! うそうそ! 聞かないから飲みは行こ!」

「はは、うん。また行こうな」


 足早に出てきてしまったけれど、赤いだろう顔を見られて恥ずかしかったけれど。職場の雰囲気をこれほど愛しく思ったことはなかった。村井にはああ言ったが、大切な人がいるのだといつか聞いてもらおう。

 


 路地に出て時計を確認すると、十八時を五分ほど過ぎていた。朝陽のことだから、もう待っているだろう。

 駅へと進みかけ、だが足を止める。店の前に立っている人物に見覚えがあったからだ。あちらも恭生に気づいたようで、手を上げて合図してくる。


「兎野」

「橋本。もしかしてカットに来たのか?」

「違うよ。来るなら兎野指名してるし」

「はは、それはどうも」


 相変わらずまっすぐな言葉を口にする男だ。天然タラシとは、橋本のようなヤツのことを言うのだろう。内心苦笑しつつ、橋本の向こうの女性の姿に気づく。


「今日はたまたま通りかかったんだけどさ。えっと、この子は彼女。この店いいよって話してたところなんだ。奈々ちゃん、さっき話してた、ここで働いてる兎野だよ。高校からの友だちなんだ」


 橋本に紹介され、奈々と呼ばれた彼女に会釈をする。柔らかな雰囲気、それでいてまっすぐ伸びた背筋からは、凛とした印象。顔を見合わせ微笑むふたりは幸せそうだ。

 安堵するのは傲慢か。

 酷い別れ方をしたと謝られてしまえば、あの頃の朝陽の真意を知ってしまえば、振り返るのも苦ではなくなった。だからだろうか、一瞬で終わってしまった恋の片割れに、幸福を願ってしまうのは。


「奈々ちゃん、美容室探してるみたいでさ」

「そうなんですか?」

「はい。今通ってるところも悪くはないんですけど、他にも行ってみたくて。そしたら、彼がおすすめの美容室があるよと言うので。近くに来たので、寄ってみました」

「そうだったんですね。ではもし良かったら、いつでもご連絡ください」

「ありがとうございます」


 とは言え、元恋人として気まずい思いも多少はある。彼女は自分たちの関係を知らないとしても、だ。

 名刺を渡しつつ、女性のスタッフもいることを伝える。恋人の友人だから指名しなければなんて、気を遣って欲しくはない。なんの気兼ねもなく、自分の好きなスタイルを見つけて欲しい。

 ここで立ち止まり、かれこれ五分ほど経っただろうか。ふと遠くから救急車のサイレンが聞こえ、話しこんでいたことにはたと気づく。


「ごめん、オレ待ち合わせしてるんだ。そろそろ行くわ」

「そうだったんだ。悪かったな、引き止めて」

「ううん、平気。じゃあまたな」

「おう」


 橋本に手を振り、彼女の奈々に再び会釈をして駅のほうへと駆けだす。だがすぐに、橋本に呼び止められる。


「あ。兎野!」

「ん?」

「これ、お前のか? 犬のぬいぐるみ落ちてる」

「え。うわ……」


 橋本の手にある柴犬にぎょっとする。ゲームセンターで朝陽が獲ってくれたキーホルダーだ。ポケットに入れていた自分のスマートフォンを見ると、確かにそこにあるはずの姿がない。慌てて引き返し、両手でそれを受け取った。


「マジで助かった……ありがとう。失くしたらいつまでも探すところだった」

「そんな大事なものなんだ。気づけてよかった」

「うん、宝物」


 包みこむようにきゅっと握って、深く息を吐きながら額に当てる。橋本のおかげで事なきを得たが、失くしていたかもしれない事実に肝が冷える。胸に残る不安を、すぐ横の道を通り過ぎる救急車の音が煽る。


「兎野? 大丈夫か?」

「ああ、うん。平気……オレ、行くわ」


 やけに心臓が騒がしいままで、まだキーホルダーを握ったままの手を今度は胸に当てる。

 こんな思いは忘れてしまいたい。

 早く、朝陽に会いたい。


 

 駅までの道を急いだが、いつも朝陽が待っている場所にその姿はなかった。バイトは十七時に終わると言っていた。橋本たちと話しこみ遅くなってしまったから、どこかの店で休んでいるのかもしれない。

 スマートフォンを確認しても、連絡は入っていなかった。駅に着いた、とメッセージを送りつつ、近くのコンビニを覗いてみることにする。

 横断歩道を渡ってコンビニへ入店する直前、スマートフォンが鳴り始めた。朝陽からの着信だ。連絡がついてよかった。画面をタップして通話を繋ぎながら、先に見つけてやろうとコンビニの中を覗く。


「もしもし朝陽? 今どこ? オレは近くの……」

『あ、あの……』

「……え?」


 だが、電話の向こうから聞こえてきたのは、朝陽の声ではなかった。見知らぬ女性の、ひどく動揺した声。嫌な胸騒ぎが駆け足で襲ってくる。


『このスマホの、持ち主の方の、お知り合いの方でしょうか』

「……はい、そうですが」

『っ、すみません、さっき、事故が、すみません……っ、それで、救急車で、っ、ごめんなさい……』


 女性は混乱しているようで、ひどく泣きじゃくっている。言葉は支離滅裂で、聞き取ることも難しい。だが、よくない事態に朝陽が巻きこまれたことだけは分かった。


「朝陽……?」


 悪い想像ばかりが頭を巡る。地面がぐにゃりと歪んだみたいに、足から力が抜ける。思わずしゃがみこむと、大丈夫ですかと知らない誰かの声がした。だが、確かに耳に届いているのにとても遠くに聞こえる。声を発することも叶わない。

 心臓が冷えて、くちびるが震える。手に持ったままだった柴犬のぬいぐるみを縋るように握り、浅くなった呼吸を意識する。

 落ち着け、落ち着け。深く息を吸って、吐いて。

 電話の向こうの人も落ち着いてくれるように願いながら、どうにか口を開く。


「あの……オレは、どこに行けばいいですか」

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