春に崩れる2
「おーい朝陽、そろそろ起きろー。今日一限からって言ってたろ」
「んー……」
味噌汁に乾燥わかめを入れながら、ベッドから出てこない朝陽に声をかける。
朝陽は特別朝に弱いわけではないが、昨夜も遅くまでカメラを構えていたようだ。無理はしてほしくなくても、思う存分夢を追えているのだと輝く瞳を見たら、背中を押す選択しか恭生にはない。
ローテーブルに朝食を並べ終えた後、ベッドに腰かけ朝陽の頬を指先でつつく。
「あーさーひー。朝ごはん食べないの?」
「……んー、食べる」
返事をしながらも、朝陽は恭生の枕を抱きしめてまた眠ろうとしている。
朝陽の新品の布団は結局、開封されることもないまま部屋の隅に立てかけられている。どうしても一緒に寝たいと朝陽が言うのだ。ちいさい頃みたいにねだられるのを、恭生が無下にできるはずもない。
セミダブルのベッドに大の男ふたりで寝るのは、正直狭い。それに恋人同士になったのだから、肌を寄せて眠るのは恭生にしてみれば落ち着かないのだけれど。触れるだけのキス以上のことはしないまま、毎日を過ごしている。
今はただ、ふたりでいられることへの幸福感が恭生を満たしている。離れていた数年が、瞬間瞬間を煌めかせている。弟への愛は恋を帯びたばかりで、朝陽のペースに合わせて、少しずつ育んでいきたい。
だが、いつの日か……と、朝陽ともっと深い恋人になれる日を夢見てもいる。過去の恋人とのスキンシップは、積極的にはなれなかったのに。今や覚えたての恋にはしゃぐ少年のようで、そんな自分に戸惑いもするけれど。
朝陽は自分が初の恋人だ。その時が来たらリードしてやらなければ、と密かに考えている。
「あーあ、先にひとりで食べようかなあ」
「……だめ。起きる、起きた」
「はは、おはよう」
ようやくベッドを出た朝陽と、向かいあって腰を下ろす。眠たげな目が、朝食を見ると少し見開かれて、そして弧を描く。ひとりだった時は適当に済ませた朝食だが、これを見たいがためにちゃんと食べるようになった。
「朝陽、今日はバイトだっけ」
「ううん、休み。恭兄はお店の人と飲みだよね」
「うん。夕飯、ひとりにしてごめんな」
「そんなんで謝らないでよ、ひとりでだって食べられるし。それに、俺ももっと料理できるようになりたいから、作ってみる。まあ、まだ下手だけど」
「そっか」
ひとつの家で暮らしているから、またここで必ず顔を合わせられる。その事実を何度だって噛みしめてしまう。
恋なんてこりごりだ。そう思ったのが嘘みたいに、朝陽への恋心が恭生を充実させている。
「ふ」
「どしたの?」
「いや、なんでもない。なあ朝陽、今度の休み、一緒に料理してみるか」
「あ、それいいね。やりたい、教えて」
「ああ、約束な」
迎えた金曜日。恭生の仕事は休みだが、朝陽は大学の講義があった。とは言えバイトは入っておらず、十五時頃の帰宅。夕飯にはまだ早いが、ふたりしてキッチンに立つ。
献立はカレーと、簡単なサラダだ。
「カレー作れるようになっといて、損はない」
「俺はなにすればいい?」
「じゃあまずは、玉ねぎの皮剥いてもらおうかな」
「了解」
それから、朝陽にはもうひとつ頼みたいものがある。
「あとさ、一個おねだりしてもいい?」
「うん、いいよ」
「はは、即答。あのさ、朝陽にたまごやき作ってほしい」
「たまごやき? うわ懐かしい、俺作ってたね。分かった、作る」
「やった。朝陽のたまごやきが世界一美味しいからな」
「でもカレーにたまごやきって合わなくない?」
「いいんだよ。むしろ朝陽のたまごやきが主役」
朝陽はちいさい頃、母親に習いながらよくたまごやきを作ってくれた。砂糖とミルクがたっぷりの、甘いたまごやきだ。また食べられると思うと、どうにも顔がにやける。
「よし、じゃあやるか」
「うん」
広いとは決して言えないアパートの、ちいさなキッチンだ。男二人で作業するにはどうしたって窮屈で、朝陽にはリビングのほうで野菜の下準備をお願いすることにした。じゃがいもの皮も朝陽に頼んで、そのままその二種はカットまで任せてみようか。
「朝陽ー、それ終わったらじゃがいもな。ピーラー使えそうか?」
「できるよ、手伝いでやったことあるし。恭兄、俺のこと赤ちゃんだと思ってない?」
「おお、そうかも」
「恭兄~……」
「はは。じゃあオレはニンジン切ってようかな」
恨めしそうな声と一緒に、細くした目と尖ったくちびるがこちらに向けられているのだろう。見なくたって分かる。こんなやり取りが楽しくて仕方ない。
くすぐったく思いながらそれを背で受け取め、恭生は包丁を手に取った。ニンジンを左手で押さえ、包丁を当てる。
「あっ! いったー……」
「恭兄!?」
手に力をこめる時、ちゃんと用心したつもりだったのだが。硬いニンジンの上を、どうやら刃が滑ってしまったようだ。左手の人差し指を、少し切ってしまった。
「切っちゃったの!?」
朝陽がキッチンへと飛んでくる。左手首を掴まれ、青ざめた顔で覗きこまれる。
「うん、やっちゃったわ。ニンジンに血がつかなくてよかった」
「ニンジンなんてどうだっていいから。痛いよね。絆創膏ある?」
「こんくらい平気だって。大したことないし」
「なに言ってんの? 恭兄美容師だろ、大事な手じゃん。そうじゃなくたって、恭兄が怪我すんの嫌だよ。こんくらいとかないから」
「朝陽……」
実際のところ、切れてしまったのは本当に少しだけだ。血もすぐに止まりそうな、些細なもの。だが朝陽は真剣で、自身の怪我を軽く扱う恭生に怒ってすらいるようだ。
「ん、そうだよな。怪我なんてちょっとだとしたって、しないほうがいいもんな。気をつける」
「うん。そうしてほしい」
朝陽に大事に想われている。自分のためにはもちろん、朝陽のためにも気をつけなければならないと感じる。
洗うね、と恭生の手を掴んだまま、朝陽が蛇口をひねる。朝陽の手と一緒に水に触れていると、ふと祖父のあの言葉が頭を過ぎった。
『なあ恭生、俺はなあ、ばあさんが先に死んでよかったと思ってるよ』
「あ……」
「恭兄? 痛い?」
朝陽へ動く心に大いに振り回されて、最近は思い出さなかったけれど。朝陽と仮の恋人になったのは、この言葉もきっかけのひとつだった。
俺と付き合えば、じいちゃんの言葉の意味が分かるよ、と。
「あのさ、じいちゃんのあの言葉だけどさ」
「うん」
仮ではなく、本物の恋人になった。朝陽の気持ちも自分の気持ちも、本物。だからこそ感じるものが、確かにちいさく芽吹いている。
「自分になにかあったら、大切な人に悲しい想いさせちゃうわけじゃん。今、朝陽がオレの怪我を心配してくれてるみたいに」
「そうだね」
「じいちゃんになにかあったら、ばあちゃんが悲しんでたから、ってこと?」
「うん。俺はそう思ったよ。例えば親より先に死んだら、ふたりとも凄く悲しむだろうな、先に死ねないよな、って」
「なるほど……」
「俺と付き合って、恭兄に俺がいっぱい愛情表現できたら伝わるかな、って思ってさ。恋人カッコカリ、なんて提案したんだよね」
「そうだったんだな」
「まあ、恥ずかしくて上手くできてなかったし、俺のほうが恭兄に大事にされてるんだけど」
「そんなことねえよ、伝わってる。現に今、じいちゃんのこと自然と思い出したし」
「そっか」
「まあでも、相手が先に死んだほうがいいってとこまでは、さすがに分かんないな」
完全には難しくとも、祖父の言葉の真意に近づけたような気がする。それでもやはり、久しぶりに思い出した言葉に、切なさが否めない。朝陽を想う時に、死がちらつくのは胸が潰れそうになる。
気づけば水は止まっていて、朝陽がタオルで拭いてくれている。絆創膏も巻いてくれて、朝陽の優しさに離れがたくなる。
「これでオーケーかな。恭兄、気をつけてよ」
「うん」
「じゃあ料理再開しよ。ピーラーもらっていい? ついでに持って……」
「朝陽」
「……恭兄?」
「キス、したい」
驚いている朝陽の首に手を回し、そっと力をこめる。丸くしていた目が眇められ、すぐに受け入れてくれたのが分かる。
短いキスをして、今度は朝陽から口づけられて。もっと深くまでほしいと、朝陽のやわらかいくちびるのあわいに、舌先で触れてみる。
「っ、恭兄」
「駄目だった?」
「駄目じゃない、けど」
「じゃあ、嫌?」
「……その聞き方、恭兄がずるいって言ったんじゃん」
「うん、ごめん。どうしてもしたいから、ずるいこと言った」
「恭兄……口開けて」
「あ……」
躊躇っている時は、あどけなくすらあったのに。少し腰を屈めた朝陽が、顎に指をかけてくる。翻弄されるのはすぐに、恭生のほうになる。
遠慮がちに入ってきた舌にそっと舐められる。それに応えると、首の後ろを支えられてぐっと深くなった。口内に、自分の中に朝陽がいる。そう実感すると、頭がくらくらしてくる。
「カレー、作んなきゃな」
「うん。でももうちょっと」
「はは、朝陽がもっとって言ってくれるんだ」
甘えるように吸いついて、甘やかすように抱きしめられて。いつの間にかふたりで床に座りこみ、熱い吐息まで絡ませ合った。




