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知らない鼓動3

 体育館のある敷地を出て、街路樹の下でマフラーに口元まで埋める。どこかカフェでも寄って、コーヒーを一杯飲もうか。

 曇った低い空に白い息を溶かしていると、背後から誰かの走る足音が聞こえてきた。ジョギングをする人だろうか。道を空けようと後ろを振り向き、そこに見えた人物に恭生は目を丸くする。


「っ、は? 朝陽!?」

「恭兄! 先に帰んないでよ」

「え?」

「一緒に帰りたい」

「え……でも朝陽、打ち上げあるんだろ?」

「誘われたけど行かない」

「いや行って来いよ。試合に出てたヤツが行かないでどうすんだよ」

「やだ、行かない。恭兄のほうがいいから」

「……なんだそれ」


 膝に手をつき息を整える姿は、ともすれば試合中より必死なように恭生の目には映る。

 そこまでして追いかけて来なくてもいいだろうに。そう思うのに、心臓はなぜか鼓動を速める。

 それを朝陽に悟られるのは、どうにか避けたい。進行方向へと向き直る。


「じゃあ、一緒に帰るか」

「うん」

「ん……てか朝陽、薄着すぎじゃない?」

「え、そうかな。全然平気だけど。むしろ熱いくらい」

「いやいや、今はそうかもだけど。汗も掻いただろうし油断しないほうがいいぞ。ほら、マフラー貸すから」

「いいよ。恭兄寒いでしょ」

「いいから。ほら」

「……ん、ありがとう」


 コートこそ羽織っているが、その下はTシャツのみなことに気づく。見ているだけで寒くて、自分のマフラーを解いて朝陽の首へとかける。すると、なにもそこまで、と不思議になるくらい、朝陽は嬉しそうに笑う。

 だがすぐに、その笑顔は曇ってしまった。くちびるを淡く尖らせどこか拗ねたような表情が、恭生の胸をざわつかせる。


「朝陽? どうした?」

「恭兄、女の子たちと話してたよね」

「え? あー、うん。柴田くんのお兄さんですか、ってすごい勢いで話しかけられてさ。違うって言えないままで、お兄さんって呼ばれてた。まあ、兄だと思ってるからいいんだけど」

「彼氏だけどね」

「……そんなん言えないだろ」

「ふうん。ねえ、かわいかった?」

「かわいい? そうだな、今どきな感じでかわいいし、いい子たちだったな」


 かわいらしい子たちだったと確かにそう思う。髪もきちんと手入れされているのが窺えたし、指先まで意識の通った、洗練された姿だった。初対面の自分に対して臆せず話しかけられるその心も、きっと人好きがすることだろう。


「じゃあ……好きになりそう?」

「は? 好きに、って……恋愛とか、そういう好きって意味?」

「うん」

「…………」


 橋本と別れて以降、ずっと受け身の恋愛をしてきたが。それにしたって、今日出逢った彼女たちに少しだって靡きもしなかった自分に気づく。お兄さんもかっこいいですね、と言われたって、恋だなんて思い至りもしなかった。

 それどころか、だ。朝陽がモテている現実に得体の知れない感情を抱いたし、今だって目の前でなぜか苦しそうな顔をしている朝陽のことでいっぱいだ。


「朝陽はなんでそんな顔してんの?」

「そんな、って?」

「んー、なんかしんどそうな顔?」

「…………」

「さっきの答えだけどさ。あの子たちのこと好きになるとかないよ、絶対ない」

「ほんとに?」

「うん」

「ん……そっか」


 朝陽の気持ちがなによりの気がかりで、ともすれば自分の行動の基準になっている。そう言えば、と恭生は、あの夏とこれまでの恋愛を思い返さずにいられない。

 朝陽に嫌われた、と勘違いしてしまったのは、男とキスをする自分を見られたことがきっかけだ。今思えばそれがきっかけだったのだろう、それ以降の恋愛は自ずと女性だけが対象だった。女性と付き合う自分でいれば、これ以上朝陽に嫌われることはないのではないか。無意識にそう考えていたように思う。

 振られれば人並みに落ちこむけれど、朝陽に連絡がとれる権利を得られたような気分も確かにあった。

 そして現在。恋愛なんてこりごりだと思ったくせに。もう当分誰とも付き合いたくない、と強く感じたその夜に、朝陽からの仮恋人の提案を受け入れてしまった。約束のハグとキスは、いつもくすぐったい気持ちになる。

 いつだって朝陽ばかり。他の誰にも、朝陽以上の興味を持てない。朝陽の想いがどこにあるか、どう思われているか、そればかりが気になる。

 これは執着、なのだろうか。朝陽が知ったら、重いと今度こそ嫌がられてしまうかもしれない。

 自分の根底を見つめ直せば、こぼれるのは苦笑いで。それでもふと視線を上げると、先ほどとは打って変わって穏やかな顔をした朝陽がいる。

 なにが朝陽の気持ちを上向きにさせたのだろうか。理由は分からなくとも、心が晴れたのならじゃあいいか、とやっぱり朝陽ばかりな自分に改めて出逢う。そんな自分が恭生は嫌いではなかった。


「恭兄? なんで笑ってんの?」

「んー、なんかいいなって」

「なにが?」

「朝陽とこうしていられるのが」

 

 

 体育館のある町を離れ、昼食をとった。入店したのは、洒落た店構えのハンバーガーショップ。バンズからはみ出るパティが見るからに美味しそうで、朝陽が嬉々とした様子でかぶりつく。

 それを眺めつつ、バスケをしている姿がかっこよかった、誰よりも輝いていたと褒め続けていると、朝陽は赤い顔をして俯いてしまった。その反応がかわいらしく、だけど口に出したら不貞腐れるだろうと少し堪えはしたが。結局かわいいと口から零れると、やはりムッとした顔をされて、それまで愛らしくて参った。


 その後は水族館へ行くことになった。恭生の誕生日に、朝陽が行く予定を立てていた水族館だ。恭生にとっては子どもの頃以来で、思いの外はしゃいでしまった。

 水槽の中を泳ぐカラフルな魚や、空中を舞うイルカ。なにかを発見すると服を引いて、引かれて。感動を共有する度に、無邪気な子どもの頃に戻ったみたいだった。

 夜、改めて朝陽の健闘を称えたくて、夕飯にはステーキを選んだ。大ぶりの肉を頬張る朝陽に、恭生自身も大満足だった。

 夕飯をとった店から駅まではよく喋ったのに、電車に乗ってアパートの最寄り駅に向かう間、なぜかお互いに口数が減ってしまった。扉付近に立って、窓の向こうを過ぎ去る夜景を見ながら、隣に立つ朝陽の呼吸を感じる。それだけで胸がきゅうと狭くなるような、切ない心地を覚える。

 これって、なんだったっけ。

 朝陽といられる時間は刻一刻と減っていくのに、言葉が出てこない。勿体ないと思うのに、一秒ごとにあたたかいなにかが積もるようでもある。朝陽も喋らないのは、同じような気持ちなのだろうか。

 結局、電車を降りてからの道のりも、ほとんど会話がないままアパートに到着してしまった。階段下で立ち止まり、朝陽のほうをゆっくりと振り返る。

 今日はとても充実していた。だからだろうか、いつも以上に名残惜しい。口を開いたら、まだ帰らないでと零れてきてしまいそうだ。朝陽は首を縦に振らない、困らせると分かっているのに。

 ふう、とひとつ深呼吸をして、恭生は腕を広げる。


「朝陽」

「ん?」

「ハグ。してよ」

「え……」


 すると朝陽はなぜか絶句して、その大きな手を口元に翳した。


「朝陽? どうした?」

「いや、びっくりして」

「びっくり? なにが?」

「だって……恭兄からしてって言われるなんて、思ってなくて」

「……今までなかったっけ」

「……仮恋人になった初日に言われたけど。それ以降はなかった」

「そ、っか」


 些細なことのように思えるが、手の向こうの頬が赤くなっているのが見える。自分相手に、なぜそんな顔をするのだろう。そう思うのに、赤が移ったように恭生の頬も火照ってくる。

 もう何度もしてきたのに、抱きしめられるのを待っている時間が、強烈に恥ずかしくなってきた。


「やっぱ今日はやめとくか」

「……やだ、やめない」

「でも朝陽、そんな顔し……あ」

「恭兄……」


 行き場をなくした腕を彷徨わせ、下げようとした時。それを許さないとでも言うかのように、朝陽に抱きしめられた。いつもの軽いものとは違う。ぎゅうっと縋るようにされ、肩に顔を埋められる。なんだか泣きそうだ。


「朝陽……」

「ねえ、恭兄」

「……ん?」

「今もさ、懐かしい?」

「え?」

「こうしてると、ちいさい時のこと思い出す?」

「…………」


 問われてみて初めて、この抱擁に子どもの頃の自分たちを重ねたり、比べたりしていないことに気づく。

 大人になった、逞しい男の朝陽に抱きしめられている。きちんとそう意識してしまっている。


「ううん、思い出さなかった」

「じゃあ、今はどんな気持ち?」

「それは……言わない」

「なんで?」


 気づいた途端、体が急激に熱くなった。朝陽に触れているところ全部が敏感になったみたいに、居た堪れなくなる。熟れた呼吸が零れそうで、慌てて朝陽を引き剥がす。


「もう、おしまい」

「……やだ」

「朝陽……なあ、言うこと聞いて」

「でもキスしてない」

「キス、は、今日は無理」

「……なんで? 俺のこと、嫌になった?」

「っ、その聞き方はずるいって……」

「嫌だったら、またさっきみたいに突っぱねて」


 朝陽はそう言って、恭生の両腕をそっと掴んだ。背を屈め、首を傾けて。くちびるがゆっくりと近づいてくる。

 さっきはつい離れてしまったが、突っぱねるなんてできるはずもない。朝陽がくれるキスを嫌だなんて思ったことは一度もない。くすぐったくて、甘くて、むしろ好きだった。

 でも今日はなにかが違う。戯れにしてくれないから、このキスに意味を見出したくなってしまう。スローな数秒が永遠みたいで、気が遠くなりそうだ。

 空を彷徨っていた手を、朝陽の腰に添える。びくっとした朝陽に離れてくれるなと示すように、そのままぎゅっと服を掴む。見上げた先で、朝陽の眉間が苦しそうに寄せられる。

 もう早くしてくれ、と先をねだるようにまぶたを閉じると、やっと頬にくちびるが当たった。

 腹の奥から甘ったるい声が出てきそうで、必死に堪える。今まででいちばん熱くて、今までていちばん長いキスだ。思わずまぶたを開いて、すぐにまた閉じる。そろそろと背に腕を回すと、大きく息を吸った朝陽が、キスをしたままきつく抱きしめてきた。

 どうして頬にしかキスしてくれないのだろう。

 ああ、本当の恋人ではないからか。

 初めて寂しく感じてしまい、涙を堪えるために恭生はまた、必死に朝陽の背を抱いた。

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