恋人カッコカリ
もう恋愛なんてこりごりだ。当分誰とも付き合わない。そう心に決めたばかりだったのに。
恋人に振られ、ヤケ酒までした夜。兎野恭生は、自宅のアパートでキスをしていた。その相手はまさかの、嫌われてしまったとばかり思っていた幼なじみで。
なんでこんなことになったんだっけ。
ゆったりとまぶたを閉じながら、恭生は一日を思い返す――
兎野恭生。神奈川のごく一般的な家庭に生まれた、ひとりっ子。
両親は共にワーカホリックで、家にはいないことのほうが圧倒的に多かった。今思えば忙しさあっての後づけな気もするが、子どもの自主性を尊重するのだと事あるごとに明言する両親は、言葉の通りに放任主義だった。
その恩恵を受け、好きなように生きてきた。ゲームを欲しがればお小言のひとつなく買ってもらえたし、成績が下がっても叱られることはなかった。
自由はそのまま自信となり、子どもの頃は天真爛漫な性格だったと自分で思う。高校二年生の夏頃、とあることがきっかけでそんな性分は鳴りを潜めてしまったけれど。
恭生が選んだ職業は、美容師だった。髪型やヘアカラーを変えるのは好きだったし、東京の専門学校へ通うためにひとり暮らしを始められるのも魅力的だった。順調に卒業し、現在は都内のヘアサロンにスタイリストとして所属している。
今日も今日とて、朝から仕事に勤しんだ。アシスタントからスタイリストになり、約一年。理想の美容師にはまだまだだというのが自己評価で、技術を磨き続けたいと奮闘する日々だ。
とは言え、ひとまず夢は叶っているし、彼女もいる。順風満帆と呼ぶのはさすがに気が引けても、それなりに上々の人生と言っていい。二十四歳の誕生日を翌月に控える初秋、そう噛みしめたところだったのに。
仕事が終わり、彼女からのメッセージを開くと、“大事な話がある”とたったひと言だけ届いていた。嫌な予感が、経験を伴って恭生に押し寄せる。
ああ、やっぱりな。
待ち合わせに指定された駅前で、別れを切り出す彼女を目の前にただただそう思った。分かった、と了承すれば「そう言うと思った」と苦笑いされる。これもいつものことだ。
――あなたは優しすぎる。隙がない。ねえ、本当に私のこと好きだった?
振られる時の決まり文句も、例に漏れず飛んできた。
恋愛はもうずっと受け身だ。好きだと告白されれば、フリーなら断ることなく受け入れて。それでも自分なりに、大切にしているつもりなのだけれど。
なぜ誰もがそう言って離れていってしまうのか、未だによく分かっていない。そんなところが問題なのだろうとも思うし、でも、と歯噛みする自分もいる。
優しくしてなにが悪いのか。好意ならゆっくりと育っていたと思う。隙なんて、見せないほうがいいだろう。
自分でした選択は、よくも悪くも自分に返ってくる。気に召さないことをしでかしたなら、ろくでもない男だと烙印を押すのだろうに。
恭生なりに相手のことを考えて、かつ自分のためでもある行動を取ってきた。それが不満だと愛想を尽かされるのなら、恋愛は向いていないのかもしれない。
重たいため息をアスファルトに吐いて、ひとり暮らしをしているアパートとは反対方向の電車に乗りこむ。混み合う車内で押しつぶされながら、メッセージアプリの履歴をぐんぐんと下へスクロールする。やっとのことで探し出した相手は、ただひとりの幼なじみだ。
<今さっき振られました。大学近くの食堂に行きます>
以前のやり取りからすでに一年が経とうとしていて、けれど前回とほぼ同じメッセージを送信する。そうしてすぐに、スマートフォンをパンツのポケットに仕舞う。どうせ返事は返ってこない。
やるせなさに、車窓にゴツンと額をぶつける。センターパートの前髪が崩れるのも気にせず、右手でくしゃりと握りこんだ。
「生ビールひとつお願いします。あとはー……たまごやき」
店内のいちばん奥の席に座り、すぐに出てきたジョッキを呷る。炭酸が喉と胃に染み渡り、傷心が紛れるような心地を覚える。いや、苦い刺激を借りて、自分は今悲しいのだと言い聞かせているのかもしれない。
高二の冬に少しだけ付き合った後輩。高三の半ばで告白してきた同級生。専門学校時代の後輩。それから、美容師になったばかりの頃、客として出逢ったひとつ年上の人。
どの女の子たちとも、恭生なりに真剣に付き合っていた。今すぐとはいかずとも、このまま結婚するだろうかと想像したことだってある。それでもまたこうなる予感があったのも確かで、その日を迎えただけのような気もしているのだ。
こんな男は別れて正解だ。次は最高の男と出逢って、どうか幸せになってほしい。去っていった元カノに、心の中で激励の言葉を送る。
運ばれてきたたまごやきを頬張るとしょっぱくて、眉根を寄せてため息をつく。砂糖とミルクのたっぷり入った、甘いたまごやきがよかった。
メッセージを送った相手は今頃どうしただろうか。テーブルに置いたスマートフォンを操作し、アプリを開く。返事は来ないと分かっているが、読んでくれたかどうかの確認はできるわけで。しかしそこに、既読の報せはまだない。
「早く気づけよなー……」
人がせっかく、大学近くの定食屋を選んでわざわざやって来たというのに。
こんな日にしか、会ってくれないくせに。
早く来いよ、と口の中で悪態を転がし、ビールをもう一杯注文した。
『なあ恭生、俺はなあ、ばあさんが先に死んでよかったと思ってるよ』
祖母を天国へと見送った朝だ。祖父の手が、ちいさな恭生の頭を撫でる。泣きじゃくりながらも、その声はよく聞こえて耳に残った。
なんで、ねえなんで。幼心に抱えきれなかった疑問が、恭生の胸の奥でぐるぐると渦巻く。
「――兄、恭兄。起きろって」
「んん……あー、朝陽だあ。はは、来ないかと思った」
「バイトだったんだよ。ったく。酔っぱらい。店で寝たら迷惑だろ」
いつの間に眠ってしまったのだろうか。肩を叩かれる感覚で、恭生はハッと目を覚ました。なにか嫌な夢をみていた気がするが、朝陽の顔を見たらすっかり飛んでいってしまった。
目の前には空のジョッキが3つ。最後の一杯を空けた記憶は、残念ながらない。
「朝陽ー、久しぶりだけどあんま変わんないな。ふは、かわいいー」
目の前に立っている大きな男の腕を引けば、大人しく屈んでくれた。ちいさい頃から変わらない、少しくせっ毛な短い黒髪を撫でると、精悍な顔が不服そうにむくれる。
大切な幼なじみ。だが残念ながらもうずいぶんと、不機嫌な顔しか見られていない。
――4つ年下、大学二年生の柴田朝陽。実家が隣で親同士も仲が良く、ちいさい頃からたくさんの時間を共に過ごした、弟同然の存在。表情豊かで懐っこくて、まっすぐに恭生を慕ってくれていた。
だが、とあることがきっかけで嫌われてしまった。それ以来、もう何年も避けられている。
それでも恭生にとっては、かわいい弟に変わりないけれど。
「かわいくはないだろ」
「うん、そうだな。かわいい」
「はあ……恭兄はパーマかかってるし、また髪色変えた? 銀色?」
つんけんとしているけれど、落ち着いた口調の心地いいリズムが懐かしい。それでいて、声変わりした低いトーンは未だ聞き慣れなくて、心臓がぎこちない音を立てる。
「これはー、グレージュっていうの」
「ふうん。で? また振られたんだ」
「はは、そーう。もうさすがに恋愛は懲りたわ」
「……どうだか。ほら、帰るよ。歩ける?」
「当たり前……おっと」
「ああもう。しっかりしろって」
立ち上がろうとしたらふらついてしまった。だがすかさず、朝陽が支えてくれた。
変わんないな、なんて言ったけれど、再会する度に朝陽はたくましくなっている気がする。恭生だって身長なら178センチあるのだが、朝陽は優に185センチは超えていそうだ。そのうえ体まで鍛えられては、もうなにをしても勝てる気がしない。4つも年上なのにと情けなくなる。