第四章:侍の間
優の運転する旧式のSUVは迷路のような団地へと進入していった。
入り組んだ路地は大きな車体の通行を阻み、通行に悪戦苦闘した。
「Bの五号棟」
助手席で地図を見ていた美鈴が顔を上げると、案内板にB―5と記されていた。五階建ての古いモルタルアパートで、駐車場には色褪せた赤い軽自動車と、エアロパーツがごてごてと付けられたクーペ、側面が凹んだミニバンが停まっている。
車を下りた優と美鈴は三階三○七号室の扉の前に立った。
互いに見合い、優がインターホンを鳴らす。三十秒ほどして、重苦しい声が出た。
『はい、誰ですか』
「俺。三船」
『あれ、優君……来てくれたの』
震えるような、ヘビースモーカーの飲み屋のママのようなガラガラ声。
「楓、大丈夫? 私も来たよ。そろそろ良くなったかなと思って。お団子買って来たんだよ。銭井商店のおいしい花見団子。一緒に食べようよ」
なんだか寂しくなり、紙袋を持つ手にぎゅっと力が籠もった。
『ありがとう、ゴメンね心配かけて。十日も経ってたんだね、時間って経つの早くて……ゴメン、そういうつもりじゃなかったんだけど』
美鈴は、楓が何を言いたいのか汲み取れなかった。
「いいよそんなこと。一緒に河原にいってお団子食べよ。ほら、早く」
「水臭い事言ってねえで出てこい。駐禁とられたらたまんねえしよ」
『うん、分かった今からいく、ちょっと待ってて』
それから五分ほど待たされ、上下ともジャージ姿の楓が現れた。あれから十日が過ぎ、精気がすっかり抜き取られたように感じられた。
四人は空き地に無断駐車しておいたSUVに乗り込み、三分ほど走って大きな川の堤防に着いた。講義が終わってから大急ぎで団子屋に寄ってここへ来たので、時刻は午後四時半を過ぎてしまった。大きな夕焼けが景色を橙に染め、家路を急ぐ人々に焦燥と追憶を植え付ける。
「で、結局のところ、何だったんだ」
駐車枠にきっちりと車体を収め、エンジンを切ってから後部座席を振り返る。
楓は妙に畏まった雰囲気で首ごと顔を持ち上げた。
「え? 何って、何が?」
若干拍子抜けしつつも、改めて問う。
「だから、お前をおかしくさせた原因は分かったのかって聞いてんの」
最初と質問自体が違うのでは、と心の中でツッコミを入れた美鈴も、好奇心に背中を押された。
「そうよ楓、何か分かったの?」
楓はチラチラと目線を逸らしながら、幼女のように腰を微かに揺すった。
「別に……」
「なんだよ。あれだけリアルな状態になっておきながら〝別に〟って、お前なあ」
「まあまあ、そう言わず」
隣のファミリーカーに家族連れが乗り込んでいる。その中の小さい小学校低学年くらいの次女を見て、激しいフラッシュバックが起きた。
陽平の持ってきた新聞記事。被害者の名前は佐藤楓。同姓同名。
そして、事件の日付は四月二十七日。
「ねえ、優」
「あ?」
濃霧の立ち篭める海馬の中で、鍵の付いているであろう紐を懸命に手繰り寄せる。
「今日って、何日だっけ」
優は携帯電話の待ち受け画面を出した。
「二十七日だけど」
鳥肌が立った。
「今日の日付がどうかした」
美鈴は迷った。が、答えが出ていた。
この事は、口に出すべきでない。どうせ、ただ単に偶然が重なったに過ぎないだろう。
「ううん、何でもない。お団子、外で食べよ」
美鈴は紙袋を掴むと、車から下りた。
* * *
「まぁ、結構前からおるなあ。どうかな、七、八年くらいは経つんとちゃうかな」
「その頃からあんな感じで? 陰気というか、暗いというか」
「ん~、ちょっと失礼やけどなぁ、はっはっは。昔からあの人はあんな(・・・)ん(・)やなぁ」
「よくここへ来てた感じすか?」
「ちょくちょく来とったよ。聞き込みとか、巡回ついでとか何とかって言って。僕もよく白菜や大根をあげとるから、お返しに菓子折なんか持ってきてくれたりしてな」
意外と和やかな場面もあったらしい。
「その顔を出した時って、おかしな様子はありませんでした?」
「はっは、警察を疑うなんて、面白いことを言うもんだなぁ、高校生なのに」
「どうなんだって聞いてんすけど」
「ええ? いや別に、おかしいって……おかしい……そういえば」
顔色が覿面に変わる。
「な、なんすか。早く、教えてください」
「ああ、ああ。あの人、僕と喋ってる時も、帰って行く時も、やけにおたくらの家の方を気にする素振りを見せとったのは、印象に残っとるわ。何かを確実に気にしとる、そんな感じやった。あっちにも行くかと思っても、行かないんよ」
しめた。
「よし、もう大丈夫だ。ありがとう爺さん。また何かあったら邪魔するわ、達者で」
「はいはい。あんた、気ィつけなぁよ」
妙に後ろ髪を引かれる言葉だった。
「え?」
「気ィつけなされよ。いろいろと」
「……はい。あざっす」
引き戸を閉め、原付に跨ってエンジンを始動する。
腕時計を見ると、四時四十分を差している。バイト先まで片道十五分は掛かる。
「ちっ」
急がないと間に合わない。
陽平は無造作にヘルメットを被ると、思い切りスロットルを開けた。
* * *
「あー、分かる! 古田と椎名だったら、絶対に椎名のが上だよね!」
「やっぱり楓も椎名派なんだ! モテるなぁ~椎名」
ご当地のおやつを紹介するウェブサイトにも掲載された和菓子屋『銭井』の花見団子を食べ終え、ご機嫌の楓と美鈴は芸能人の話に花を咲かせていた。
「ねえ優」
「はあ」
「優は椎名と古田だったらどっちが好き?」
一瞬、間が空く。
「……誰だそれ」
カラスが一声鳴いて飛んでゆく。
「なんか、優君って、優君であるが故に優君って感じだね」
「何言ってんだお前はよ」
優は珍しく吹き出した。
「なんか、ダメだ。よく分からねぇ事ばっか続いて俺も自分って人間がどういう基盤を持った奴だったのか思い出せん。駄目だな、やっぱ人生は平和じゃねぇと」
彼にしては妙に含蓄のある言葉だ。
「その点、佐藤は偉いな」
「は?」
楓は目を丸くした。
「こんな状況でもお前はお前らしくいられるだろ。それって大事なことだと思うんだ。俺みたいに右も左も分からなくなってカッカするよか、いつも通りの柔らかさがある方が信頼され易いだろ」
楓は予想外のベタ褒めに頬の紅潮を隠せなかった。
「いや、優君こそいつも通りの硬派な感じで、別にイイと思うけど」
それを見ていた美鈴も優の弁を指示した。
「そうだよ楓。すごいよ! 普通じゃこんな事耐えられないよ」
「そんな……そんなに褒められたら私、困っちゃう」
爽やかな笑い声が響き渡る。不思議に心が晴れるひとときだった。
近くの鉄橋を列車が通り、烏がわっと飛び立っていく。
「とにかく、楓が無事でよかった。私はそれだけで満足だよ」
「美鈴。あんたもう、大好き」
「ありがと。さあ、そろそろ帰ろうか」
美鈴はそっと手を差し出した。
手と手が触れあった途端に、さっと腕を引いた。
(――!?)
楓が戸惑ったような顔をする。
「どうした」
異変に気付いた優が背中から声をかける。
「別に、なんでもない……なんでも」
美鈴は自分の右手を擦りながら、さっさと車に乗ってしまった。
言えない。
楓の手が氷のように冷たく、泥に塗れていたなんて言えない。
それだけならまだいい。一瞬だけ見えたその手は腐って崩れ、指の所々から真っ白な骨が覗いていた……ように見えた。
まさか、そんな馬鹿な。
美鈴の中で、ありありと想像が膨らんでゆく。
(――楓は、もうこの世の者ではない――)
自分の知っている楓は、もう居ない。
今、優とこちらに向かって歩いて来るアレ(・・)は、私の知っている、あの楽しい佐藤楓なんかじゃない。どうしても認めたくなかった。だから遠ざけようと、頭の中から追い払おうとした。それなのに、決定的な確信を抱かせるなんて、サディスティック過ぎる。
「置いてかないでよ、美鈴」
「急に不機嫌になるんだから、手に負えねぇな」
二人が乗ってきた。
(嫌だ、優、お願い。その人はもう楓じゃない)
「おい美鈴、返事しろよ……ちっ。奇天烈な女だこったね」
エンジンがかかり、車が動き出す。そのちょっとした刺激すら美鈴の心をハラハラと締め付ける。こめかみが痛くて堪らない。錐を押し付けられているようだ。
これからこの車は楓のアパートへ向かう。なんとかして、あそこを避けたい。近付きたくない。一刻も早くこの楓モドキ(・・・)から離れたい。
(お願い、助けて優……今はあなたしか頼りにならない……)
車は路上に出た。
「ふ~。お団子食べたらなんだか珈琲が欲しくなっちゃうよね。優君、どうかな?」
なんと。楓は喫茶店へ行きたがっている。
「珈琲。いいかもな」
冗談じゃない!何を言っている、肝心な時にどうして頼りにならないんだこの男は!
「さすが優君、ノリいい~! どこ行こう? この近くだったら『きゃらめるすふれ』が一番近いよ。あ、でも『ア・ラカルト』も同じくらいの距離」
優はここで一拍置いてから「後者の方で」と答えた。
「お、洋風で攻めるなんて、さすが色男!bへい彼女、あんたはどうするのさ」
「じゃあ、私も後者で」
優はコンビニの駐車場を使ってUターンをきめ、喫茶店『ア・ラカルト』へと向けて走り出した。二つ目の信号を越えた辺りから徐々に正気を取り戻した美鈴は、ある事に気付く。
黙ってハンドルを捌く優の様子が、どこかおかしい。
チラチラとしきりにルームミラーを窺い、普段の乱暴運転は息を潜めて法定速度以下で走っている。表情こそ普段通りポーカーフェイスだが、額に噴き出した汗は彼が平常心ではない事を如実に物語っていた。
「そういえば優君ってさ、美鈴のどういうところに惚れたの?」
楓は能天気な質問をした。後席と前席の間に見えない壁が築かれる。
「いや別に、普通に可愛げがあって、でもちょっと大人っぽいところに惹かれてみた」
返答は上の空といった感じだ。美鈴は話に合わせる事にした。
「うっそ、そんなキザったらしいこと考えてたの」
「キザったらしいってなんだ、彼氏が全力で褒めてるんだぞ、もっと喜べ」
ところどころ舌足らずになってしまっているが、内容が内容なので照れていると勘違いしてもらえるだろう。内心ヒヤヒヤものだ。
「いいなー。私も彼氏ほしかったぁ~、ぐやじいよ~」
「楓はまだ……ま、まだ処女だっけ?」
美鈴は心臓が止まりそうになった。何を言ってるんだ自分は。
楓はまだこれからだよね、なんてこのタイミングで口に出したらチョンボ(・・・・)だ。なぜなら生きていない彼女にはその(・・)時は永遠に訪れない。女子らしからぬ変な話題を起立させてしまったがこの際だ、悪ノリしているフリを通すしかない。
「えええ、そんな事ここで言わなきゃなんないの? 美鈴、あんたなかなかにアレね」
「ううん、そういうアレとかソレとか、そういうつもりのアレじゃなくて」
「じゃあどういうつもりなの?」
「え、いやあその」
「突然処女かどうかなんて、男が居る前で聞くかなふつう?」
「いやほら、優はお互いによく知り合った仲だし、こういう冗談もたまにはいいかなぁって思うじゃん……でしょ?」
駄目だ、自分でも腹が立つくらい頭が回らない。どうすればいい。
「ふ~ん。やっぱり変わってるね。あれ、そこ左だよ優君。なんで右に曲がったの?」
楓は俊敏に反応した。
一瞬、優の肩がビクリとしたように見えた。
「ガソリンが減ってきたから、先に入れておきたい。何でも後回しにするのは嫌いだ」
なるほど、その手があったか。
「あ、そう。それなら別にいいけど」
車は道なりに二分ほど走り、大きなセルフ給油のGSに入った。
いっとう奥のスペースについた時、優が目配せをした。美鈴も目顔で返す。
「ちょっと飲み物買ってくる」
言い終わらないうちに下車していった優を追い「私もトイレ、車の中に居てね」と楓を一人にした。
給油中のダンプトラックの影に隠れると、ようやく息苦しさから解放された。
「おい美鈴。佐藤が変だ」
「楓もおかしくなっちゃった。でも、どうして分かったの」
「お前が車に乗っている時、こめかみを押さえてただろ。お前の能力が働いている時は決まってこめかみが痛くなるって言ってたじゃねぇか。それと佐藤と手が触れた時のお前の反応、ありゃ尋常じゃなかった。ちょっとやそっとの事じゃ――それこそ静電気やそこらではあんな反応はしねぇよ」
嫌悪感を滾らせた目できっぱりと言った。
「良かった……やっぱりちゃんと気付いてくれてたんだね」
美鈴はなんだか嬉しくなった。
「バカか。今はそんな悠長な事抜かしてる場合じゃねえだろ。どうすんだよあの佐藤だか何だか分からねえヤツよぉ。家から引きずり出してみたらとんでもない仕上がりになっちまって」
「これ以上関わると……ましてや、あのアパートまで戻った時に、どんな言いがかりをつけて引き留められるかわかったもんじゃない」
「行くと、まずいのか。アイツの家」
親指で家の方向を指し示した。
「うん。場所はアパートだけれども、座標がずれた場所に上手く誘い出されるって事が、悪霊には出来る。よく狐に化かされたとか言ったりするけど、そういう事って現実にしばしば起こる事なんだよ。実在する施設や家屋なんかに見せかけた全く違う場所に身を放り込まれて、厄介な事を仕込まれたり」
「何だよそれタチわりぃな。俺の車は大丈夫なのか。気に入ってんだぞあれでも」
「車は恐らく大丈……ごめん、言いきれない。何かされるかもしれない。エンジンがかからなくなるとか、バッテリーが切れるとか」
「おいおいおい、勘弁してくれ先週車検通したばっかだぞ」
「今は車なんかどうでもいいから、どうしたら無事に二人が家に帰れるかが先でしょ」
「家に帰る為の車だろうが!」
一瞬、間が空いた。
「もういい、やめよ。こんなとこで喧嘩してても何も進まないし気力の無駄。とにかく、ここへ車を向けたって事は、行き先は決まってるんでしょ」
優は一点を睨んだ。
「あぁ。走って五分程度だろ。この幹線道路を北上して高架が見えたら右の道へ入ればいい。そうすればアイツんとこだ」
「分かった。とりあえず行こう。気付かれないように」
言うが早いか、二人はボーリング場の送迎バスが入って来たのを確認すると、それに隠れて店から出た。大きな看板のお蔭で二人の姿は車からは確認できない。
「店の人間に怪しまれるだろうな。楓がなんて対応するか……そもそも対応するのかどうか」
「最悪、警察を通して引き取りにくるよう注意されるだけでしょ。あまり重く考えても仕方ないよ、どこかで負い目は負わなきゃいけない状況なんだから。背に腹はなんとやら」
薄暗闇の幹線道路。家路を急ぐ車が行き交い、烏が啼く妖しげな空間。
二人は走った。何かに追われるように、何かから逃れるように走った。頭上を烏が飛び去ってゆく。自分たちの居場所を、仕える主人に知らせているのかもしれない。
逃げなければ。
離れなければ。
「美鈴!」
優が腕を掴んだ。
「なに?」
振り返った先に優の顔、その後ろに黒塗りの高級セダンの後部窓から顔を出す尤巫女の姿があった。車が信号で止まり、二人も立ち止る。
「ちょっと、どうしたの貴女たち? こんな所で」
呆気にとられる尤巫女になんと言葉を返すか迷っているうち、優が運転席に近付いて運転手に声を掛けた。
「すみませんが、お嬢さんと話したい事があります。お宅まで乗せてもらえませんか。顔見知りの同級生です」
運転していた中年の燕尾服の男は目を白黒させていたが、優の放つ気迫に押されに二つ返事で了承した。車は二ツ橋竜神寺の正門を潜って本殿の前に停まり、運転手がドアを開けてくれた。
「話したい事って?」
尤巫女は本殿の鍵をあけつつ、振り向かずに問うた。
なぜ不機嫌なのか。もしや、何事かを既に察知しているのやもしれない。
「お前、楓のこと黙ってたろ」
優は開口一番、責めるような口調で問うた。
「……」
いらえはない。
堅牢な南京錠を解こうとした華奢な腕を、太い腕が掴む。
「きゃっ!」
「美鈴、開けろ」
優は顎で取っ手を示し、美鈴が開けると尤巫女を中に引き込んだ。
すぐさま扉が閉ざされる。
「おいコラ、正直に言えや。俺を騙し通せると思うなよ」
白檀の芳香が鼻腔から脳内に侵入して蔓延し、理性感覚を薙ぎ倒してゆく。
「尤巫女、お願い。正直に話してほしいの」
美鈴は彼女に顔を寄せ、あえて小さく囁いた。
「な、何なの、どういうこと? 二人ともいったいどうしたの?」
「とぼけんじゃねえよ! お前、俺らよりも先にあいつの見舞いに行ってたんだろうが。それであいつの状態を知っていながら、なぜ警告しなかった。なぜ俺達を正常じゃない佐藤に近付けたんだ、やられる可能性を想定できる状況でありながら、何で何も言わなかった。言え! 佐藤だか何だか分からない化け物、俺ら二人をどうかしようとしてるんだ、美鈴がそう感じたって言ってんだよ! ああ?」
「落ち着いて! 早とちりもいいところだわ、早く放しなさい! ここの最高権力者の私に逆らうと」
ここまで言って、急に拘束が弱まった。
「な……何が……」
美鈴が後退りした先で、優が大木のように崩れ落ちた。
俯いたままの尤巫女は薄情な溜息と共に腕を擦った。
「もう、ほんと気が早い人。せっかく彼女思いで頼りがいもある男なのに、権力ある女性の扱い方を知らないなんて、哀れだわ」
「何をしたの。優に何をしたの!」
美鈴は尤巫女に飛び付いた。肩を掴んで顔を覗き込む。
「っ!?」
何と例えようか、地獄の執成者のような眼つきをした尤巫女の顔がそこにあった。
信頼に足る、まともな人間のものではなかった。
「尤巫女! あなた何を考えてるの!」
以前、彼女は式神がどうしたと言っていた。まさか、ここが彼女の本拠地であるのを良い事に、おかしな魔力にモノをいわせて悪戯を施したのか。
「貴女、どうしようもなく愚かよ」
口を押さえた手から笑いを堪えたような、籠った声が漏れた。
「何が?」
「まだ気付かないなんて、本当に……愚か……ふふふふふふ」
「ちゃんと説明して! 人が恋人と両想いだからって嫉妬に狂ってるんじゃないわよ!」
美鈴は、自分の発言に自分で驚愕しながらも、牽制をやめなかった。
「嫉妬? そんな事するわけないじゃない……する必要すらない……いいこと、貴女はとっくに私達の術中にはまったカモ(・・)なワケよ。それを嗅ぎ付ける事ができずに、致命的な症状が出るまで放っておいた自分を恥じることね。それが如何に恐ろしい事か、思い知ったでしょ」
「何を言ってるのか分からない。そんな寝言を聞きたいんじゃなくて優を元に戻しなさいって言ってるの!」
尤巫女を突き飛ばし、優に駆け寄る。
「優、何されたの? どこか痛い?」
「無駄だって言ってるでしょ」「おまえは黙ってろ」
その時、優が微かな呻きを上げた。
「優、大丈夫!?」
口から血が流れている。
「優に何した! 正直に言いなさい!」
遂に美鈴は怒りを解き放った。尤巫女の正面に立ちはだかり、狐のように吊り上がった目で射殺す。対する尤巫女はひょっと(・・・・)こ(・)のように蕩けた目を向け、へらへらと憑かれたような笑みを浮かべている。
「うふ……私は何も? 私の式神に聞いてちょうだいな」
不敵に笑う尤巫女の背後に、何やら得体の知れない人影が現れた。尤巫女の身体から滲み出たように具現化したそれは、無数の虫が寄り集まって出来ており、屈強な男の形を形成した。手には長く研ぎ澄まされた日本刀を握り、今にも斬り掛かりそうな構えをした。
「この女、まともじゃない……優、立って! ここから逃げるよ!」
美鈴は渾身の力で優を抱き起し、肩を組むと本殿から抜け出した。不敵な面を浮かべる尤巫女を閉じ込めるように扉を強く閉ざし、脇に落ちていた南京錠をしっかりと掛けた。
「逃げなきゃ、ここから……逃げなきゃ……」
だが、どうする。車はGSに置いてきたし、あそこには楓に化けた何かが居る。唯一の頼みの綱だった尤巫女さえおかしな本性を現し始めたではないか。トラブルのドミノ倒しだ。美鈴は優の巨体を支えながら、必死で考えた。
ここから亜釘浦駅までは片道十分程ある。そこまで優を抱えて歩ける訳がない。
「優、大丈夫? 立てる?」
「うぅ……ぅぅう」
あまり猶予も無いだろう。一刻も早く病院へ――病院はどこにあるのだ。
その時、本殿前に停められた高級車が目に入った。
美鈴の心の中に、かつてない感情が芽生えた。
(あの車を、使えばいいじゃない)
もちろん禁断の策だ。こんな事が明るみに出たら、否、両親に知れただけでも途轍もない大失態だ。自分に対する全信頼を失墜するだろう。
だけど、そこまでしても、家族を裏切ったとしても、優を護りたい――優を助けたい、その一心だった。尤巫女が式神に守られているのなら、自分は優に守ってもらっていたのだ。今はそれが逆転しただけじゃないか。なんだ、これぐらい。若くても、女でも、恋人を想う気持ちと少々の度胸さえあれば、おかしな悪霊になんか負けない。
「う、うぐっごほっ」
「大丈夫? すぐ病院に連れて行くからね」
だんだんずり落ちてきていた優を今一度支え直すと、車に向かって一歩、歩み出した。
一歩、一歩、もう少し――
「忘れ物でもされましたか? お連れさん、どうされました?」
背後からの声に飛び上がった。振り向くと、運転手の中年が佇んでいる。ハンカチで手を拭いているところを見ると、今しがたトイレで用を足し終えたのだろう。
「い、いえあの……あ、リップクリームを座席に落としたかなって……ツレはあの、こう見えて甘えてるんです、愛情表現なんです、これ」
相当苦しい弁明、諸刃の剣だった。
「それはそれは仲がよろしいようで。ところでお探しのリップクリームですが、そんなものはありませんでしたよ。貴女がたが下りられてから座席の下も目を通してみましたが、落し物があったらすぐ分かる筈です。執事歴三十三年の私の目を甘くみられちゃ、困ります。はははははは」
どうすればいい……視線を落したその時だ。優が突然自分の足で身体を支えると、間抜けそうに見上げた執事の首根っこに手刀を振り翳した。
「こぁっ」という音を洩らして、執事は前のめりに倒れ込んだ。
「優、復活したの!?」
優は口元の血を拭いながら、振り返った。
「大したこっちゃねぇ、ちょっと気を失ってただけだ」
「口から血が!」
「腹から倒れ込んだんで、口の中を切っただけだ。これぐらい慣れっこだよ」
「そうだったの。私、心配したんだからね」
美鈴が頬を膨らませた時、背後を見遣る優の目が光った。
「こら、何をしてる!」
しまった、使用人に見つかってしまった。
「美鈴、車に乗れ」
優は彼女の背中を突き飛ばした。
「執事長になんてことっ」
優は掴み掛かってきた若い使用人の喉仏の下を親指で一突きした。激しく咳き込んで吐瀉物をぶち撒けた使用人の腕を背中側から前方に回転させ、力技で脱臼させた。
広い敷地内一杯に警報音が鳴り響いた。
「なんだ、要塞かここは!?」
しかし、警報はすぐ近くの車が発しているようだ。
「優、スマートキー! 盗難警報器が!」
舌打ち。悶絶する使用人を投げ捨てると、気絶したままの執事長の衣服を調べた。ベルトループにカラビナで吊り下げられたそれを?ぎ取り、開錠すると音は鳴り止んだ。
「優、後ろ!」
「なにっ」
首にベルトがかけられ、締められた。バックルに通されたベルトは引き絞られて首輪のようになり、優は強制的に地面に屈みこまされた。
「ガッ、ギギ」
膝で押さえ込まれながらも相手の両足を認めた優は、左足を軸に地面を蹴り、体を回転させつつ右脚で思い切り二本の足を刈り払った。米俵のように男が倒れ込む。自由になった優はベルトを外すと、そのままの形で男の両足に通し、締め上げて股間に強烈な踵落としをきめた。世にも悲痛な悲鳴を上げてダンゴ虫のように丸くなった男の向こうから、更に数人の使用人が向かって来る。
「すぐ車を出せ!」
優はスマートキーを放り投げた。
「ありがと!」
美鈴は急いで運転席に座ると、どうやって始動すればいいのか四苦八苦した。ドイツ製の高級車なんて運転はおろか乗った事すらない。エンジンのかけ方なんて知る由もない。
よく見ると【Inject key into here】という表示がある。スマートキーを差し込むと、ハンドルがダッシュボードの中から現れ、更に床と一体化していたペダルが持ち上がって来た。さすが欧州製の高級セダンだ。フットブレーキを踏み、イグニションスイッチを押すとエンジンが始動した。
一方の優は、同時に飛び掛かってきた三人の使用人と三つ巴の闘いに興じていた。
これがなかなか強敵で、中には優に負けるとも劣らぬ屈強な体躯をしている者も居る。
「貴様、ここでやった事、必ず公にしてやるから覚悟せえよ! 大学も去らざるを得なくしてやるぞ」
三人の中では一番立場が上らしい中年が汚い恫喝をする。
「やれるもんならやってみろ。そんな下らん脅しに屈する奴の気がしれねぇ。俺は大学なんて出なくても親父の会社を継ぎゃ生きていけんだよ。安っぽいんだよ、てめえら」
優の咆哮は、まるで獣の様な貫録があった。三人は怯んだものの、退く事はない。
「い、言ったな。知らないぞ、どうなっても! この由緒正しき二ツ橋」
「だからくだらねえって言ってんのが聞こえねぇのか!」
大股に前方に飛び、地面を蹴って男の腹に膝頭を食い込ませる。腹を押さえて倒れ込んだ男の傍らにいた小柄な使用人は無視し、長身の男の膝関節を正面から思い切り蹴る。重心を一瞬で狂わされた男は前のめりに簡単に崩れ、背中に降った強烈な肘鉄で反吐を吐いた。小柄な男は怖気づいて何も出来ないらしい。
「こりゃあ、やっぱりあんたらかね!」
蔵のような建物の方から駆けて来るのは、陰見女こと世話係のババアだ。後ろに薙刀や竹刀を持った若巫女を数人引き連れ、鬼の形相で追って来る。
「ちくしょう、徒党を組むなんて喧嘩の仕方もしらねえのか近頃の年寄りは!」
優が身の振り方を思案した時、前方に黒く光沢を放つ塊が滑り込んだ。
「優、早く乗って!」
運転席で美鈴が叫ぶ。
「おう、さすがだ」
優は開いた窓に両足を突っ込んで箱乗りになると、思い切り上体を後方に倒した。
「ぐわえッ!」
すぐ後ろに迫っていた高齢の使用人のどてっ腹に後頭部が命中する。
「よし、いいぞ。車出せ」
優は強靭な腹筋を駆使して体勢を立て直すと、車に縋り付いてきた小柄な使用人の顔面をしこたま蹴りつけた。大量の鼻血と前歯を散らして土嚢のように地面を転がった。
「優、どうやったら外に出られるの?」
運転席で美鈴が叫ぶ。
「えっと……」
頑丈な正門は硬く閉ざされている。一人では開ける事が出来そうにもないし、どうやら堅牢な鍵がかけられている。さすがは由緒ある寺、臆病風にも筋金が入っている。
「待てよ、どこかに抜け道はある筈だ」
敷地内をグルグル走り回っているので、すぐそこで巫女らが騒いでいるのが丸見えだ。
ここで、ある事に気付く。
車が通る為に石畳が敷かれている細い通路の先に、木製の小さな通用口が見える。
あそこはもしかすると、車や荷物を出し入れするための裏口なのかもしれない。
「美鈴、見えたぞ。あの向こうの白木の門、見えるか」
優はルーフをバンバンと叩いて叫んだ。
「うん、見える!」
「あそこを突き破れば、外に出られる可能性が高い。行けるか?」
「うそ、車で突っ込めっていうの!?」
「それしか方法が無いんだ、頼む」
「うそうそ、そんな事出来るわけないでしょ!」
「馬鹿言ってんじゃねぇ! 後ろにババアと巫女がいるんだ、背水の陣を敷いて腹決めろ!」
「アタマ悪いこと言わないで! そんな事したら車が潰れちゃうでしょ!」
「欧州車は馬鹿みたいに頑丈なんだよ、俺と同じだ。俺と車を信じてアクセル踏め!」
「もう、信じられない! ばぁぁぁぁああか!!」
美鈴は半ばヤケクソになり、アクセルを踏み込んだ。
低く湧き上がるような音と共に、急加速する。
門が迫る、五十メートル……四十……三十……。
!!
「きゃあああああああああ!!」
「うああああああああああ!!」
目の前に荷物を満載した軽トラックが割り込んだ。美鈴は急ブレーキをかけ、その弾みで優が前方に投げ出されて地面を滑り、回転しながら軽トラックの車体に激突した。
「優!!」
軽トラックの運転席から、最初に優が手に掛けた中年男が降り立った。
「小賢しい若僧の番いが、いらん事をしてからに! おのれはその車が一体いくらすると思ってるんだ! おのれら庶民じゃ一生かかっても買えない代物だぞ! それを小娘が偉そうに転がして、まして助手席に男を箱乗りさせるなんぞどこの極道の真似だ! 恥を知りんさいな恥を!」
贅肉の多い頬から禿げ上がった頭までを真っ赤に染めて怒鳴った。しかし、美鈴は冷静さを失わなかった。ルームミラーに写る二台の車。これと同じ車種で、片方の助手席にはあの老婆が乗っている。
「この男もあんたも警察行きは免れんな。エエ歳して人生を棒に振ったのう」
美鈴は前方に向けていた視線を再びミラーに向けた。二台はゆっくりと加速しながらこちらへ向かって来る。
再び前方を向く。
美鈴は、徐にシフトセレクタをNに入れ、アクセルを煽った。
「おま、こら小娘! この期に及んでまだ悪足掻きか! 冗談じゃないね!」
ミラーを見る。
「いいから早く降りろ! おのれが触ったら、勿体ない勿体ない! ほら早く」
前方を見る。
「きっ。分からん奴やのう。アバズレ」
背後でクラクションが鳴る。
執事長が振り向いた途端、ゆっくりと迫った軽トラックに押し倒された。
「な、何じゃあ!?」
必死で後退ろうとする執事長の右脚を、トラックの右前輪が捉えた。
「ぐわああああ痛い痛い!! やめてくれ!! どけろ、やめろ!!」
車輪は止まらず、這い上がるように脛、膝、腿を圧し潰していく。その度、悲鳴と共に骨が拉げる硬い音が車内まで響いた。
「ぎゃあああああああああああああああ!!」
遂に車輪は骨盤を砕き、執事長を手放した。
途端に加速をかけ、迫りくる二台。美鈴は再度前方を見た。
軽トラックの車内から、優が合図を出す。
美鈴は思い切りアクセルを踏み込み、シフトセレクトをRに入れた。身体が強力な力でハンドルに押し付けられたと思うと、優がどんどん遠ざかっていく。車が猛スピードで後退しているのだ。驚いた後方の二台は慌てたせいでハンドル操作が正確を欠き、一台は傍らの杉に、一台は軽トラックの脇をすり抜け、見事に門を突き破って飛び出して行った。
「うおおおおおおお!」
優は思い切りハンドルを切ってアクセルを踏み、杉の木に激突した車の横っ腹に車体をぶつけた。運転席から降りようとしていた使用人と、後席から降り掛かっていた使用人もろともドアが潰れた。
優はすぐに車を降りると、美鈴の元へ駆け寄った。
「大丈夫か。横へずれろ、替わる」
「うえぇん、怖かった!」
美鈴は半泣きの顔で腕に縋り付いた。
「おう。ごめんな、無茶させちまって。でもよくここまで綺麗に動いてくれたな。ちゃんと意図が伝わってるか心配だったんだ」
「そこは私達だもん、以心伝心してるに決まってるでしょ」
美鈴の得意気な表情は、最高に美しかった。
「そうだな」
優は満足感をひしひしと感じながらシートベルトを締め、ハンドルを握った。
「さて、ひとまずお前の家まででいいか」
「うん。ひとまず、ね」
車は勢いよく門を飛び出した。
暫く走ると、数台のパトカーがサイレンを鳴らしながら反対車線を疾走していった。
「あっぶねえ、もう少しでパクられるところだぞ」
優は他人事のように言った。
「たとえ捕まっても、二ツ橋の方だって後めたい事がある筈。あの野蛮なやり方じゃあ、どっちが悪者か分からないね」
「俺達も相当だったけどな。まあ、正当防衛で通る事を願って今を生きようぜ」
「でも、車を盗んだのは流石にまずくない?」
「向こうがそうせざるをえない状況を作ったんだから、向こうが悪い」
「車を壊した事と、執事長さんに重傷を負わせ事はどうやって弁解しよう?」
「……事故だ」
一瞬きょとんとした美鈴は、次の瞬間、思い切り笑った。
「な、なんだ? 駄目か? これじゃ通らないか?」
「ちがう、そうじゃなくて。なんだか可笑しくて。私達がこんな漫画みたいな事するなんて、信じられなくってさ……あはははははは!」
とても愉快そうに笑う美鈴を見て、少しドギマギした。こんな高級車、しかも人様から奪ったものの助手席に恋人を乗せて逃避行をしている自分が、確かに映画のヒーローのように思えて来たのだ。
すると、不思議な力と興奮がムクムクと湧き上がって来た。
「はっはっはっは! 俺ら、お尋ね者になっちまった!」
「そうそう、ありえない! あははははは」
クリミナル・ハイ。滅茶苦茶の亢進状態だった。
車は薄暗い夜道を疾走していく。暫く二人の間に会話はなかった。
やがて、車は庫和戸町へ入った。見慣れた街並みが広がる。
いつも買い物にくるスーパーの手前の交差点を左折すると、峠に注ぐ。
しかし、優は舌打ちをしてそこを直進した。
「何で曲がらないの?」
彼はルームミラーを覗き込みながら、不気味に小さい声で「来てる」と。
シート越しに振り返ると、稲妻型のライトが自車にピッタリと貼り付いていた。
「まさか」
「ババア達だ」
接近してきた車のフロントは傷や凹みだらけで、確かに門を突き破ったあの車に間違いなかった。
「どうするの!?」
「巻くしかねぇだろ。あいつらくっつけたままお前の家に行くわけにゃいかねぇだろ」
「そ、そうだね……でも、出来るの?」
心臓が締め付けられる。無事に巻く事が出来るだろうか。
「美鈴、しっかり掴まってろ。少し暴れる。予告したからな」
「え、え!? ちょっと何する気!?」
「心配すんな、この車にそろそろ慣れてきたぜ。それにな、俺はいつもバイトに行くために山道を走ってる。ドラテクにはある程度自身がある。こいつも四駆みたいだし、なにより性能が最高だ」
優の表情には、隠し切れない興奮が滲んでいた。彼のこういった表情をあまり拝んだことのない美鈴は少し背筋が寒くなると同時に、そこに縋りたいという気持ちさえ心のどこかに芽生え始めていた。事実、こんなに興奮したのはどれだけ振りだかわからない。
「む、無茶しないでよね」
――それが彼女に口に出来る、精一杯のGOサインだった。
「任せときな」
言うが早いか、急ブレーキと共に脇の悪路に舵を切った。
キレのいい滑り出しだが、追い縋る後続車もしっかりと追いついてくる。
「おう、来やがった来やがった」
フルスピードで坂道を登ったので、頂上で二・五トンもある車体が高く跳ねた。
「きゃああ!!」
どこかの畑へ繋がる道へ出た。農道は果てしなく続く直線路、ここぞとばかりにアクセルを煽る。
……と思うのが大多数の追跡者の読みだろうが、そうはいかない。優は再び車体がなんとか通り抜け出来る程度の獣道へ車体をねじ込み、元いた道の方へ、道なき道をひた走った。
「ちょおっとぉ、無茶しないって言ったじゃんっ!」
「これぐらい俺には普通の範囲だ」
尋常じゃない揺れと跳ねで車内に置かれた物が激しく散乱する。車輪が宙で空回りする感覚が座席から伝わってくる。
「こ、壊れるぅぅうう!」
「おい、まだ来てるか見ろ」
美鈴はシートの陰からそっと背後を見た。
「ううん、今のところは見えないよ」
「よし、この調子だ」
やがて大きな斜面を滑るように下り、舗装された道にぶち当たる。
悠々と道にのって速度を上げようとした、その時だ。
「あ、あぁアレ!」
前方に居た。ヘッドライトを消し、闇に紛れていたそれが徐にブレーキをかけた。
「前前前!!」
一瞬で迫ったテールにしこたま追突した。
「ぐああっ!!」「きゃんっ!!」
シートベルトが胸に食い込み、肺の中の空気が強制的に抜かれて意識が遠のく。
車は流れるように右側に着いた。
「止まれ!」「きゃあ!」
運転していた若い使用人がヌンチャクのようなもので窓を割った。助手席には、あの陰見女の老婆の姿も見える。
「おのれ、この悪党めが! ええ加減に降参せんかねえ!」
鬼の形相で吠える老婆には目も呉れず、優はいきなりの体当たりを見舞った。
思いの外、ダメージは大きかった。双方とも大きく体制を崩し、優の車の後輪は少し横滑りを起こした。
「何してんの!?」
「くっそ、映画のようにはいかねぇもんだなっ」
「当たり前でしょ、映画はプロのスタントマンがやってるんだから! 素人に真似出来るなんて思う方が馬鹿だよ!」
「説教は今は……御呼びじゃねぇわ!」
再度、先ほどより勢いをつけて車体をぶつけた。二ツ橋側の車はガードレールに車体を擦りつけ、夜闇に鮮やかな火花を灯す。
「こりゃあ、いい加減にせいこのタワケ! 車を止めんか!」
老婆は獅子舞のような顔で怒鳴り続ける。
「その程度でのお叱りで止まるほど、俺は真面目じゃねぇんだよ老害が」
再び車をぶつける。何度も、何度も。ジャブを入れるようにして、少しづつ向こうの体力と体勢を削っていく。
「怯むでないよ。こやつの家はかの八木山の住んでいた家じゃ、あのろくでなしの家に住まった者はやはりろくな事をせんのじゃわ!」
陰見女はかつて見た荘厳な雰囲気とはうってかわり、こちらに指を突き立てて下品に罵倒を繰り返す。いつかドキュメンタリーで観た重度の痴呆症患者に、どこか似ていた。
「ちょっと、なんであの人、八木山の事を知ってるの?」
美鈴は悲痛な声で叫ぶ。
「あれだろ、尤巫女がお前の家に行ったあと、あのババアに報告でもしたんだろ。きっとあいつの能力なら名前くらいは分かっても不思議はねぇ。気色悪い奴だ」
優が唸るように言った直後、陰見女が怒鳴り返した。この騒音の中、よく聞き取れたものだと恐怖する。
「馬鹿、何を言うかねあんたは! 八木山は尤巫女様の実の父親で、どうしようもない荒くれ者だよ馬鹿! 二ツ橋家の大事な嫡子に手を出しておきながら、到底この寺に似つかわしくないケダモノさね。何も知らんくせに勝手な軽口並べんじゃないよ、この蛮人!」
「なに!?」
二人は驚愕した。
「おいババア、なんつった。八木山は尤巫女の父親っつったか」
「そうだよ馬鹿。若いくせに聞こえが悪いのかい」
「うそ……一体どういう事……?」
美鈴は激しく混乱した。
尤巫女の父親が八木山?
かつて彼女が聞かせてくれた話が海馬を駆け巡る。
――元々私の母親も二ツ橋家の大巫女に就いた人だったのだけど、二十一の時に男が出来て――
――その男、つまり私の父親が実は二ツ橋家に代々務めていた家柄の嫡男だった――
――とんでもない荒くれ者だったらしくて、祖母は大激怒。母親を家から追い出し、親権を迫った父親の上の人間を金で買収し、文字通り力尽くで追い払った――
――なんだか、家系自体は優秀だったのに、私の父親だけは劣等遺伝子というか、少し違ったみたい。なんでも、妾の子と相当な不仲で、正室からも愛想を尽かされる程の鬼の子だって執事長が言ってた――
――祖母は男と、それから身を穢された私の母親までも家から追い出した――
まさか。
八木山は、尤巫女の実の父親だったなんて……。
要するに尤巫女の母が八木山の前妻だった、という事だ。
「今さら知ったところで遅いわ。暢気なもんでええのう凡人は。あの家に関わった馬鹿な凡人がこうして家柄を穢しにくることが、あたしは一番気に食わんのだよ!」
陰見女こと尤巫女の祖母は、走行する車の中で悪態をつき続ける。
「うっせえババア! てめぇさっきから聞いてみれば都合の悪いことは全部俺たちの責任にしやがって。そこまで嫌だったんなら、もっと徹底的にブロックすべきだったんだよ! 自業自得じゃ!」
優が抗弁する。口調こそ感情的で荒々しいが、的確に盲点を突いていた。
「じゃかましわ! だいたいあそこに固まっとる連中、二ツ橋から零落していった滓ばかりじゃ。あの杉野某とかいうボンクラも同じじゃ。あの土地に住まう者にろくな者は居りゃせんのじゃわ!」
「杉野!? 杉野さんもなの!?」
美鈴が叫んだ時、景色が激しくブレた。長い農道がカーブに差し掛かり、その出口でライトも灯さずに走って来たトラクターと二ツ橋側の車が正面衝突したのだ。今まで隣にいた二人の姿が一瞬で消え去り、打ち上げられたようになった車体が落下した直後に炎上を始めた。
「だっ!!」
全てが、燻ったまま取り上げられてしまった。車がゆっくり停車する。
「うそだ……二ツ橋の家系と、杉野さんと八木山が繋がっていたなんて信じられない」
美鈴は譫言のように呟いた。混乱激しい。何から先に処理すべきか見当もつかない。
「おい、しっかりしろよ。今はそれどころじゃねぇだろ」
優が激を飛ばした時、美鈴の携帯電話が激しく鳴り始めた。
画面を見ると、陽平からだ。夢中で通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『姉ちゃん……よく聞けよ』
酷い雑音が混じる。電波が不安定な所にいるのか。
「すごい聞こえ辛い、今どこ?」
『それはいいから……あのな、下北ってサツがいただろ。あいつ、間違いなく八木山の娘に手を出してる……八木山が行方不明になった事についても、あいつは何かを知ってる、秘密を握ってる。それと、杉野のジジイ、俺が前に言ったけど、あいつの家に八木山の仲間の霊が憑いているって事は』
陽平の声は終始震えていた。まるで、何か苦痛に耐えるかのように戦慄いている。
「って事は……?」
『あのジジイは……八木山の上の人間で、八木山に指示をして三人を殺させた可能性が高い……それに、八木山の娘が下北に殺された事も、あの家の床下から白骨死体が出て来た事についても、裏で噛んでやがる……姉ちゃん、黒幕は間違いなくあのジジイだ』
そこまで言うと、通話が途切れた。
「陽平? もしもし? どうなってるの」
「おい、弟はなんて言ってた」
優は車を切り返しながら問うた。ちょうど、周辺の民家の灯が点き始めていたのでここを離れなければならない。救急に通報するのが人情というものかもしれないが、あそこまで元気なババアならちょっとやそっとのことでは死ぬまい。それに、今時の高級車には、車体が潰れるほどの衝撃を感知すると、自動で消防に通報が入るコンピュータシステムが搭載されているので〝人情味〟はそのコンピュータに一任することにする。
「黒幕はうちの近所に住んでるお爺さんだとか、下北巡査は八木山の娘に手を出してるとかって要領を得ないこと言ってる」
彼女は困惑した時の癖で手をこめかみにやった。
「前にも少し言ってた事だな。いきなり電話してくるなんて、何か革新でも掴めたのか」
「分からない。でも、私も気になってる事があるから、一旦家に向かってほしい」
「あぁ、分かった」
「救急車、呼ばなきゃ」
「その必要はない」
「なんで?」
「たぶんあのババア、死ぬ事だけはないだろうから」
二人は家に着くや否や、真っ先に美鈴の部屋【侍の間】へ駆け込んだ。まだ家族は誰一人として家に帰っていないようだった。
机の上に置いてあったノートを開く。
「これ、私が自分で調べた事とか、気付いた事を纏めたノート」
「こんなたいそうなもの作ってたのか」
「まあね。これを書いていて、おかしいなと思ったのが、どうして警察も杉野さんも八木山の務めていた運送会社が分からないかってところなの」
「ん?」
「下北巡査は陽平と喋った時に八木山が会社に所属しているかどうか分からないような発言をしたらしい。それに、杉野さんも八木山の職場を知らなかった。ということは」
「……実態が無い」
「そう。運送業は仮の姿で、本当は別の事をしていた可能性が高い」
「なんだ、その別の事って。じゃあこれはどうなる、ボンネット型のトラックだの、数台のトラックだの」
優はノートを指差した。
「それは……」
「一応の運送業はやってたんじゃないのか」
「もしそうだとしたら、自分達でやっていた事になる。会社に所属せず、自分達で仕事を請け負ってやる、個人事業的な仕事」
「それなら、わざわざ身元を隠す必要はあんのか?」
「身元を隠したって訳でもないと思うけど……ただ、仲間が三人も惨殺されているっていう背景からすると、裏社会的な仕事だったかもしれない。それに、この家の床下から女の子の遺体が発見された事件、あったでしょ」
「あぁ」
「その頃には、この家にはもう八木山は住んでいたの。それで、行方不明になった時期から換算しても、事件に八木山が絡んでるとしか思えない」
「じゃあ、どうして警察は動かない」
「証拠が無いからよ。いくら疑わしかろうが、霊感がそう訴えていようが、証拠が挙げられなかったら法的には逮捕が出来ない。疑わしきは罰せず。だから下北巡査は悔しそうに陽平に話したんだと思うけど、その下北巡査こそ間違いなく八木山の娘を殺している殺人犯、それもこの部屋で。私視たの……白昼夢、あの人はそれを必死で隠そうとしている」
「待てよ、ちょっと待て。もし本当にそうだとしたらだ、下北って警官こそ八木山の仲間じゃねぇのか?」
「どうしてそう思うの? 八木山に娘を殺された人だよ? それでもって、仕返しに八木山の娘を殺し返した。一体どこが仲間?」
美鈴は真顔で詰め寄る。
「おいおい、よく聞けよ。まず第一に、八木山の家に入っていく時点でおかしんだよ。巡査なんて警察のいっとう下っ端じゃねぇか。会社でいったら新入、ヤクザでいったらチンピラかそれ以下の単車小僧だ。そんな奴が私怨を燃やしたんだか何だか知らねぇが、捜査対象の家に私服で接近するなんて事、よっぽどじゃない限りありえねぇだろ。いや、確実に個人的な用で近付いたとしか思えない」
「それは……確か。刑事とかなら分かるけど、普通のお巡りさんがそこまでするっていうのは確かに考えられない……」
「それに、だ。どうして八木山と下北の娘に接点がある?」
目から鱗が落ちるようだった。
「……分からない……もしかして」
「おう。言ってみろ」
「下北と八木山は、元は親しい間柄で、子供同士でも交流があった、とか」
「そういう事になるな。さすが良い勘をしてる。俺が言いたい事はもう一つあるんだが、下北って奴、どうみても三十代半ばなんだろ?」
「うん。青年と中年の間みたいな」
「そんな年齢の奴が、地方の駐在所にずっと巡査としているってのも一つ不思議な話じゃねぇか? 例外はあれど、普通なら巡査部長だの、警部補だのに昇進していく筈だ。その歳なら試験を受けて刑事になっていたっておかしくはない」
「そう……なの?」
「そうなんだよ! 同級生が警官やってるからそういう話も聞く。だから、巡査止まりってのもある意味不審であって、ひょっとしたら裏社会の運送屋を担っていた八木山に警察情報を流したりする斥候的な役目を担っていたんじゃないかと俺は睨んだんだ」
美鈴は言葉の接ぎ穂を失った。
「もうダメ、誰も信じられない!」
頭を抱え込んで崩れた彼女を抱きかかえる。
「おい、ほらしっかりしろ。一歩進んだんだよ。少しずつ進んでるんだから、あまり気に病むな。混乱してるのは俺も一緒だから。手掛かりが見え始めただけマシだ」
「そうよ」
戸口に立った尤巫女は、異様に吊り上がった目で二人を見下ろした。
「お、おおお前、なんでここに居る」
優は皿のように見開いた目で固まった。
なんだ、この状況。
なぜここに、彼女が居る。
いつの間に来たんだ。
「聴かせてもらったわよ。イカした推理トーク」
叫び出したい気持ちを堪えるので精一杯だ。
「よくそこまで考えられたわね。大当たり。この家にかつて住んでいた八木山は、自分がリーダーとして三人の仲間を率いて、個人的に活動する運び屋をやっていた。依頼は裏社会からが主で、金さえ払ってもらえば宝石から死体まで何でも運ぶ、最高に便利な運び屋『月海走界』というチーム名でね。まあ運び屋もやってたけど、その実態はほとんどが交通事故に金をかける違法賭博で稼いでたらしいけども。ある時、元締めの人間から少女の遺体を隠して欲しいと頼まれた。移動する事でアシが付くのを嫌った八木山は、自宅の床下に少女の遺体を埋めた。これを明るみに出したのは私。八木山さんの娘とも、楓ちゃんとも当時はよく一緒に遊んでいたから、楓ちゃんの行方が分からないのはおかしいと思って、お父さんがよく通っていた八木山さんの家に行ってみたの。もちろん、お父さんには内緒でね。そうしたら、ちょうど八木山さんが楓の遺体をビニールに包んでいるところだった。見ちゃったのよ、私は」
こちらの混乱をよそに滔々と話す尤巫女は、現実の光景とは思えなかった。そして途方もない疑問と驚愕に塗れたその内容に、返す言葉さえ掬い取れない。
優は、それでも辛うじて言葉を絞る。
「お前、誰だ」
こやつは二ツ橋尤巫女などではない。
別の、何か(・)だ。
「私?ユミコよ。知ってるでしょ」
「……本名を名乗れ、本名」
「下北」
脳が凍り付いた。
「下北だと……お前」
「何をおかしな事言ってるかしら。私の名前は下北ユミコよ。ほら、見てよここ」
ユミコはそう言って、美鈴のノートをハラハラと捲り、あるページを指差した。
そこには小さい新聞記事がスクラップされている。
『行方不明の女児、遺体で発見――警察官の娘』
この家で、楓の遺体が見つかった数日後。警官の娘が姿を消したという事で、捜索願が出されていたのだ。警官は、それまでも娘が勝手に遊びに行っていたという知人宅を数件調べてみたが、いずれも娘の足取りは掴めず。
そんな折、訪れた家の主人である男が仲間を殺害する場面を見てしまう。
それに刺激された警官は、男が自分の娘を殺害したのだろうと言いがかりをつけた。
当然、男は否定する。前々から関係が崩れ始めていた事も相まって、警官は感情に流され、男の娘を近くにあったコケシで殴ってしまった。
当たり所が悪く、男の娘はすぐに息を引き取る。
自分の過ちに動揺した警官はそこから逃げ出すが、男は追う事はなかった。
その代わり、娘を殺された男は現在も行方不明。
そこから更に数日後。
この家の一室【灯の間】の畳の下から警官の娘、下北祐美子の遺体が発見された。
発見の手掛かりとなったのは、近所の家に郵便配達に訪れた配達員の証言。家の方から激しい腐敗臭が漂い、野生動物が群がっている様子を見て警察に通報。司法解剖の結果、死因は持病の喘息の発作によるもので、長時間空気の悪い畳の下に隠れていた為に発作が起きて死亡したものと断定された。
「祐美子ちゃんは職業柄か親が厳しくて、あまり自由に遊べなかったのよ。こっそり家を抜け出して友達の家に遊びに行ったけれど、父親が探しに来たのを見て、叱られるのを恐れて畳の下に隠れた。ここは八木山の娘がよくかくれんぼに使っていた場所。祐美子ちゃんは喘息だったから、埃が嫌でそこに入るのをいつも遠慮していたのだけれど、あの時ばかりは勝手に八木山さんの家に行ったのが怒られると思って、そっちの方に気がいっちゃったのよね。畳を捲って、下の空間に入った。そうしたら、お父さんと八木山さんは口論を始めて、大親友の夢佳ちゃんを撲殺してしまう」
ずっと俯いていた美鈴の目がカッと見開く。
「夢佳っ……!?」
祐美子は芒洋とした笑顔で首を傾げた。
「あぁそういえば、貴女の妹さんも夢佳ちゃんだったわね。八木山さんの娘と同じ名前。夢佳ちゃん」
「夢佳、うちの夢佳とは関係ないよね!? そうだよね!?」
祐美子はそれには答えず、話を続けた。
「可哀想な夢佳ちゃん。何の罪もないのに殺されちゃって。それに驚いた祐美子ちゃんはショックでそこから動けない。ところが埃と黴まみれの空間に長く居たんじゃ喘息患者にはたまらない。祐美子ちゃんはすぐにアレルギー反応が出て、その場で呼吸不全で間もなく死亡した。そうして異臭騒動で変わり果てた姿となって見つかった、まるで木箱の中で腐った林檎のような――これが、この家が抱えてしまった禍々しい過去よ」
祐美子は一通り語り尽してから、部屋の戸に手を当てがった。
「私の役割はお終い。そろそろね」
彼女が呟いた途端、美鈴の携帯電話が激しく鳴った。
「美鈴、出ろ」
美鈴は放心状態になっており、ポケットから電話を取り出せない。
「くそ……」
優は乱暴に電話を取り出すと【お母さん】の表示を見てから耳に押し当てた。
「もしもし、三船優です」
『あら、優君。美鈴は何してるの?』
彼女の母親の方も切羽詰まった様子だ。
「今、ちょっとトイレに行ってまして、出てくれって頼まれたので」
あまり融通の利かない嘘だが、根拠も理論も必要ない。
『もう、こんな時にあの子は……優君、美鈴が出てきたら、すぐに病院に来るように伝えてほしいんです。お父さんが入院している病院って言ったらあの子知っているから』
「何事ですか」
『あの子の弟が車に跳ねられて運ばれてきたのよ。本当に情けない……急いで来てもらいたいんです。伝えてもらえますか』
「はい、分かりました」
電話が切れた。
「おい美鈴、お前の弟、車に跳ねられたからすぐ親父と同じ病院に来いって言ってるぞ!起きろ美鈴!」
力なく俯いていた美鈴がハッと息を吹き返した。
「陽平が!?」
先程の電話口での様子が脳裏を過ぎる。
あれは、事故現場で苦しみ喘ぎながら、それでも必死にかけられたものだったのか。
そう思うと、居ても経ってもいられなかった。
「優、早く車出して。鵜集厚心病院ってところ、そこにお父さんも入院してる」
二人が立ち上がった先に、尤巫女の姿は無かった。
「冷静になれ。弟はバイトに向かっている途中だったんだろ」
「そうだと思う。時間的に……今日は夜のシフトだったから」
「くそ……こんな時に何を……」
もう、何もかもが異常だった。
再び美鈴の携帯が鳴る。
「もしもし、お母さん!」
『美鈴、あんたもう家出たの?』
「うん、今二人で向かってるところ」
『そうなのね。陽平なんだけど、バイト先に向かう途中の交差点で撥ねられたらしくて、ヘルメットのお蔭で大した事はないんだけど、右脚が動かないんだって』
「そう……でも、意識不明とかじゃなくてよかった」
『不幸中の幸いね。刎ねられた車のナンバーまで覚えているっていうんだから、もう本当に、強かというか馬鹿というか』
途端に、こめかみに激痛が走る。
「どんな車だったのかな? 陽平を撥ねた車」
訊いた瞬間、ハンドルを握る優もこちらを見遣った。
『古い四輪駆動の車で、ナンバーは確か《は 五五―五五》とかって』
「うっ」
せり上がる猛烈な吐き気に、前のめりに屈んだ。
「おい! 何て言ってた!」
顔を顰めながら、携帯電話を握る手に力を込める。喉元まで上がった灼熱の波を何とか押し留める。
「優の……車だった……」
抑えようなく涙が零れた。後から後から、涙が溢れて来る。
こめかみが、痛む。
負の連鎖が止まらない。まるで始めはゆっくりと回っていた観覧車が、途端に出力をあげ、客の乗ったゴンドラを吹き飛ばしながら超高速で回るように、抗えない何かが確実に牙を剥く高波となって目前に迫っている。どうやっても、災いから逃れられない。
「じゃあ、お前の弟を撥ねたのはつまり」
「――楓――」「の中に居るもう一人の楓」
「尤巫女を装っていたのは、尤巫女を装ったもう一人の祐美子」
気が遠くなりながら、身体から理性が剥がれ落ちてしまいそうになりながら、優はハンドルを握り締めた。
「くそ……くそ、くそが!! くそがくそがくそがあぁあ!!」
車は町に出る。赤く点滅する信号を過ぎ、街灯がまばらに灯った道路をひた走る。やがて近付いた大きな交差点。
右側から差し込む強烈な光に視界を閉ざされる。
「美れ――」
衝撃が車体を射抜いた。
眩い光の中に浮かび上がったのはフロントが大破した四輪駆動車と、そのハンドルを握ってこちらへ突進してくる楓の姿だった。
「美鈴」
「姉ちゃん」
誰かが自分を呼んでいる。
もう、何度も聞いた声だ。
だけど、不思議な夢心地でずっと聞こえないフリをしてきた。
それがなぜか、今までよりずっと大きな声で聞こえる。
そろそろ、行かなきゃいけない気がする。
美鈴は目を開けた。
目の前にある三つの顔が、まるで打ち上げ花火のように明るく弾けた。
「美鈴! やっと気が付いたんだな!」
「良かった! 姉ちゃん、マジ心配してたんだぞ!」
家族。
私の家族。
みんな、自分が目を開けた事に喜んでいる、なぜだろう。
そうか、どうやらここは病院らしい。
確か交通事故を起こしたんだ。
なぜだったっけ。
どこでだっけ。
いつだっけ。
今日は何日?
「お父さん……今日、何日……?」
「え? 今日か? 今日は四月の二十七日だよ」
そうか。もうすぐ五月だ。
「よかった……引っ越しの前に気が付いてくれて。このまま私達だけ先に新居に行くなんて、水臭くて出来ないから……あの子もずっと心配して毎日病室に来てくれて、あなたが退院したら一緒に山でバーベキューしようって……」
母が真っ赤に泣き腫らした目で、それでも嬉しそうに笑う。
「本当だよ。良い時に目覚めてくれて、さすが俺の娘だな」
父も頬を赤くして美鈴の頬を優しく撫でた。
そうだ、引っ越しをしようって、そういう話だった。
「姉ちゃんこれ、見てみろよ」
弟が点けっ放しのTVを指差す。
《続きまして、速報です。
今日午後三時二十分ごろ、鵜集町二丁目のコンビニエンスストアにて指名手配中の杉野達也容疑者を県警の捜査員が発見、その場で身柄を確保しました。
杉野容疑者はひき逃げの疑いで指名手配されており、署員の取り調べに対し「車が何かに乗り上げた感覚はあったが、まさか人だとは思わなかった。車を調べても、そんな形跡は無かった」と容疑を否認しているということです。
県警は引き続き、捜査を続ける方針です。
つづいてのニュースです。
厚生労働省と市の教育委員会、および警視庁の協力により実現された次世代の警察学校が本日、ついに開校を迎えました。
記念すべき第一期生は普通科の生徒百九十二名、警察科四十名の計二百三十二名で、始まったばかりの新生活に胸を躍らせている様子です。
ここで国立桜高等学校より中継が入っています。小原さん!
はい小原です! 私は現在、国立桜高等学校正門前に来ています! 今し方、開校式と入学式が執り行われていたようで、真新しい制服に身を包んだ学生たちの姿がとても初々しい眺めです!
ここで新入生にインタビューしてみようと思います。
こんにちは、中央テレビの者ですけど、お名前をお伺いしてもよろしいですか?
はい、流郷尚人です。
流郷君、今のお気持ちをお答えできますか?
えー、すごく、あのー、なんだろ
はい? もう一度お願いします。
えっと、その
ちょっとリポーターさん、ここは俺に任せて。ここだけの話、この子、人見知りで緊張しいなんです。
あなたの名前は?
はいはい、我こそは名立たる名士かっこ候補、大竹月人です。
大竹君、代わりに今のお気持ちをお願いします。
そうすね、やっぱり新しい環境、新しい友達、新しい場所でしょ。そりゃあもうワクワク……あれ、新しい環境と新しい場所って同じか。あ、あの、今の所はカットでお願いします。えーっとそうっすね、とにかく睡眠時間がもっと欲しい、ってところっすかね。
……はい、ありがとうございます。これからの日々にとても期待していらっしゃるという事で、我々も……あ、校長先生がお見えになったみたいです。直撃してみましょう。
どうもこんにちは、中央テレビの小原といいます。お忙しいとは思いますが、お時間よろしいでしょうか?
あぁ、どうもお待ちしてました。校長の八木山です。何でも聞いてくださって結構ですよ。
ありがとうございます。八木山先生、この学校は、いったいどのような校風を目指していかれるのでしょうか?
そうですね。せっかく可能性と未来のある若者が自らの意志でここを選んで来て下さっているという事なので、我々は彼らの希望や可能性の柔らかい芽を、過保護や怠惰で潰してしまわぬよう細心の注意を払いつつ、場合によっては保護者の方々よりも手厚い愛情をかけて、有意義な人材育成に携わりたいと思っております。ただの学校としてではなく、人生修行の場として唯一無二の経験をし、自らを信じて精進していく生徒さん達の姿が見られれば、これ以上の遣り甲斐はありません。
うわー、大変なご厚意ですね!
ええ。実は私自身、一人娘の父親だったんですけど、事故で亡くしまして……親が子を想う気持ちというのは痛いほど分かりますし、何より寂しさを紛らわせ、私の心に空いた穴を埋めてくれる、生徒とは、子供達とは、そういった掛け替えのない存在ですから……彼らは私にとって希望です。私も生徒さん達と同じく、期待に胸を膨らませて過ごしていきたいと思っています。
すごく感動しますね!
スタジオの皆さん、現場からは以上です! 》
母が冷蔵庫から飲み物を出すついでにテレビのスイッチを切った。
「……遂に捕まったのね。美鈴を轢いた犯人」
「人だとは思わなかっただと? よく言えたね。これから弁護士や保険屋とのやりとりが忙しくなるから、覚悟しとかないとな」
そうだ。
私は車に轢かれた。
だから、腿とこめかみに包帯が巻かれている。
そうして、ここに〝入院〟している。
「ねえ、優はどうしてる?」
途端に、三人は妙な顔になった。
「ユウ? って誰のこと?」
「誰って、三船優じゃん、私の彼氏。言わせないでよこんなこと」
「ショウヘイ君でしょ? やだ、まさかあなた二股かけてたの?」
何を――何を言っているんだこの人は。
「ねえ、どうしたの? 陽平、優はどうなったの?」
「……は?」
陽平はきょとんとした顔を突き出す。
「優よ」
「陽平って誰?」
「え」
「俺、龍之介じゃねえか。何言ってんのさ」
「……え……」
「美鈴、お前まさか……記憶障害か?」
「うそでしょ。あなた、自分の名前は分かる?」
「ま、牧浦美鈴……」
「自分の名前は分かるのに、どうして龍之介が分からないんだ? 俺の名前、分かるか?」
「お父さんは、義久」
「母さんは」
「さ、幸代……」
病室内の空気が凍り付く。
「ねえ、どうしたの? 無視しないで、人が混乱してるっていうのに! ちょっと、夢佳はどうしたの?」
「夢佳って誰だ、お前はさっきからいったい誰の話をしてるんだ美鈴!」
父がすごい剣幕で美鈴の肩を掴んだ。
「あなたやめて!」
「夢佳じゃんか! 私の妹で五歳で、喘息持ちで空気が悪いから引っ越ししようって!」
三人は、もはや家族を見る目ではなかった。
母が両手で顔を覆い、泣き崩れる。
父は大声で「医者、先生を呼べ、早く!」と叫ぶ。
弟はただ茫然と立ち尽くす。
ここは、この空間は、この場所は、自分の居るべき場所ではないのか。
ここは――――――――――どこだ――――――――――
「美鈴さん、CTの検査させてもらいますね」
誰だこの白衣の人は。CTって何だ。何をされるのだ。これからどうなる。
「やめて……」