第二章:天の間
陽平の目は本気そのものだった。
「ちょっと待って。それはどこからの情報?」
「今日の帰りの事だけど。バリケードの前にパトカーが止まってた。お巡りも居て、そいつからみっちり聞いた」
ここで陽平は大きな胡坐をかいた。
***
巻貝のように渦巻く九十九折を抜けると、前方にあまり好ましくない光景が広がった。
「ポリかよ――なんでこんなとこに」
原付はあれよあれよという間に双方の距離を詰める。
「止まってください。捜査にご協力願います」
身長の高い巡査は無遠慮且つ強引に陽平の前に立ちはだかり、原付を止めた。交通規制や検問に慣れた警官らしく、登坂で勢い付いている車体にも怖気る様子がない。
「牧浦さんですよね」
ひどく事務的な言い回しで、問い掛けるというより咎めるという印象だった。高圧的な態度は、何も疚しい所がなくとも後ろめたさを感じさせる。
「あ、はい。そうっすけど」
細かい咳払いを挟む。
「突然すいません、鵜集交番の者です。少しお話したい事があるんですが、お時間よろしいですかね?」
「あ、はい」
原付を細道の脇に停めると、そのままパトカーの左後部座席に座らされた。
「ドア、閉めますね」
巡査は一言で言い表すと隙の無い男、という印象を与える。それと同時に物腰が堅すぎて威圧する、何と言うか昔の日本兵のような風格を備えていた。
巡査は堅苦しい態度の割に、しっとりとした挙動で運転席に乗り込む。
「改めて確認させてもらいます。牧浦義久さんの長男の牧浦陽平君、でよろしかったですか」
「はい」
巡査は書類にレ点を打った。こちらの顔を真っ直ぐ射抜く。歳の頃は三十代半ばか……髭の剃り跡がくっきりとし、目がぎょろりと大きく、頬骨が出ている。印象としては、あまり健康的ではない。
「あの、越してきたばかりでこんな事を言うのは癪ですけど――陽平君、あなたが住んでみえるあのお宅で、前に女の子の遺体が見つかっているんですよ。床下から、白骨化した状態で」
なかなか軽い口調だった。
「は!? い、遺体!? うちから!?」
恐らく、それまでの人生で一番驚かされたのはこの時だ。
「そうなんですよ。当時十歳の女の子。目立った外傷もない綺麗な白骨体でしてね。歯型から身元を調べたら、何ヵ月か前に行方不明になった女の子のそれと一致してましてね。この件について前の住人の方は何も知らないって言って、証拠不十分で殺人未遂と死体遺棄の容疑はどっちも不起訴になってるんですよ。その後の動向は不詳ですけど、今もどこかで普通に暮らしてるはずですね」
どことなく「前住人は本当は犯人なのに」とでも言いた気だった。
否、目がそう訴えていた。
「……はぁ」
ただ呆気にとられる陽平をよそに、巡査は使い古したファイルを引っ張り出し、挟まれた紙を不作法に捲った。
「結局この事件、未解決ですよ」
判の押されていない書類を指で突いた。
「へぇ、そうなんすか」
居心地の悪さにうんざりした。早くここから出たい。車内の空気に息が詰まる。
「ところで陽平君、同じ頃にこんな事件も起きてるんですけどね」
気安く呼ぶな。
眉を顰める陽平の横で、書類が一枚、捲られる。
「……幼児行方不明事件? これが、その見つかった女の子っすか」
おかっぱのような髪型の女の子の写真が小さく載っていた。顔は印刷が不鮮明で殆ど分からない。
「また別の件ですけど、関係はありますよ。ご自宅の前の住人である八木山さんの娘さんが、同じように行方不明になって同じように殺された事件。八木山さんは運送業という事は分かっているんだけども、どこの会社で働いているかっていうところが不明になってる」
「……連続、殺人」
不穏な回答に、巡査はこっくりと頷いた。
「この人の娘さんは今も行方不明ですよ」
(?)
「いやあの、お巡りさん、たった今この子は殺されたって言いましたよね?」
陽平は毅然として切り込んだ。
巡査はヤモリのようにじろりと眼球をずらした。
「ええ。警察の世界では行方不明扱いです。ところが、どの世界でも答えが同じかと問えば、果たしてどうでしょうか」
意味が分からなかった。
「は、え? いや分かりません、何を言ってるのか分かりません」
巡査は微動だにしない。しかし、目に見えて口元が緩んだ。
「分からなくて当然でしょうね。まぁ私の世界では、常に答えがハッキリと出ています。どんな事であれ――この五歳の女の子は、殺害された後、ある場所に遺棄されています」
「いやいや、行方不明という結果が出てるのに、なぜ殺害されたとか遺棄されてるとか分かるんですか。そこに混乱してるんですよ俺は」
巡査はまた、じろりと眼球をずらす。
「警察の世界では行方不明。ところが、どの世界でも同じかと問えば、どうでしょうか」
再び、験すような口を利いた。
「だから分かりませんってばもう。言ってる意味が分からないんすよ」
陽平は半ば自棄になった。しかし巡査はそのまま、微動だにしない。
「……っかりましたよ。俺の負けです。早く教えてください」
「私の世界では、常に答えがハッキリと出ています。どんなことでも――この五歳の女の子は殺害されて、その後に遺棄されています」
――ダメだ。この警官は狂ってる。
陽平はようやく理解し、いちいち感情をささくれ立てるのを辞めた。
「……どうして、そう言い切れるんですか」
我ながら間抜けな台詞が抜けて出た。
「視えるから。人の死に様、行方不明になった人、身元不明の人、それと、霊魂、そこに宿った彼らの意志……残された心、残留思念、感情、気持ち」
「れいこん」
こんな話を白昼堂々とされたのなんて初めてだ。恐怖感より不快感の方が勝って、鳥肌が激しく悸く。陽平はその時、はっとした。
「あ! お巡りさんてその、いわゆる霊能者ってやつじゃ?」
巡査はかくんと顔を上げた
三十センチ先で、髭の剃り痕が青々とした巡査の口元が引き締まる。
「近い。いや、まぁ殆ど正解かな。霊も見るし、遺留品から持ち主の事を透視する事も、もちろん私には出来る」
陽平はわざとらしく口端を下げてから、嘲笑うように目を細めた。
「そんな霊能お巡りさんが、凡々な高校生に一体何の用ですか」
巡査は大きく咳払いをした。
「単刀直入に言いますけど。あなた、視えてるでしょ」
一瞬、身構えた。だが的を射られて肩の力を抜く。
「……い、いえす。よく分かりますね」
巡査は手帳に素早くペンを走らせ始めた。
「仕事ですから。ところで貴方は何を視ますか、陽平さん」
一気に事務的な空気を漂わせる巡査に、陽平は滔々と言葉を浴びせた。
なんというか、こちらまで事務的に振る舞うよう強制されているような、微細な洗脳をかけられているような気分だった。これが警官としての、国家権力たる職務の持つ威光というものなのだろうか。いや、そんな馬鹿な。自分が日頃、散々バカにしている社会のバイアスに真っ先に染まってどうする。
「目に菜箸か何かが突き刺さった若い男、頭が首の皮一枚で繋がるオッサンとか、そういうのっすね」
「……ほうほう。いやぁ、おそろしい」
巡査は窓の外へ目をやった。丁度、杉野氏のおんぼろ軽トラックが峠を登り終え、パトカーの横を通って細道へ入って行くところだ。その刹那、怪訝そうな杉野氏と目線がかち合う。
「――さてと。今日なぜ私がここへ来たのか、そろそろお話しましょうかね」
巡査はそう言って、居住まいを正した。
「つい一週間ほど前からね」
ここで換気もかねて、キーを差し込んで窓を下げた。
「陽平君が今教えてくれたような霊達が頻繁に交番の周りに現れるようになってね。何らかのサインだという事は、すぐに分かった。一つピンときた事があって、今日ここへ来たんです」
「……ピンときた事」
なんだか、巡査は人格が変わったような気がして陽平は眉を寄せた。そして、このオモチャの兵隊のように堅苦しい巡査の口から、その幼稚な形容が飛び出すのが何とも言えずシュールに感じた。
「この家に前住んでいた八木山氏と交流があった男が、市警察の資料上で三人ばか浮上しているんだけど、その三人、はっきり言っていずれも死亡しててね」
「資料の中では、まだ生きて(・・・)いる(・・)んすか?」
陽平は言ってしまった直後、自分の言葉に嫌悪感を覚えた。
「ええ……って言うのが正しいのか、微妙ですね。行方不明、生死不詳となってるから、ざっくばらんに〝生きているか死んでいるのか分からない〟という解釈だね」
「はぁ」
巡査はだんだんと物腰を崩し始めて、言葉も柔らかくなっていった。
視線を上げると、杉野氏が白菜だかキャベツだかのコンテナを抱えてこちらを見ていた。陽平の視線に気付くと、すぐに縁側の方へ引っ込んで行く。
「ちょっと見てほしいんだけど、一人目は運送業をやっていた二十三歳の人で、木村良臣といって」
作業着に身を包んだ若者の写真を取り出した。キムラという響きに心当たりがある。
「これって――」
見覚えもある。茶髪で吊り目、黒いツナギを着用――
「両の目に箸を刺され、それが前頭葉を掠める形で大脳を直撃し、恐らくは脳浮腫か頭蓋内圧亢進によって死亡したと考えられます……似たような事件が過去にありましてね。犯人は資料上では分からず終いだけど」
細々と呟いて、別のファイルを取り出した。
「二人目はこの人。城島イチズさん」
筋肉質の肉体に髭面、漁師のような風采の大男だ。
「ご存知の通り、首を刃物でザックリと切られて死亡。失血死です」
ここで陽平はのっそりと顔を上げた。
「どうして、俺が知っているって……」
巡査はゆっくりと頷く。
「あなたから、そういう匂いがするから」
息を呑んだ。
巡査はフロントガラスの外を見やり、少し考えてから言葉を繋いだ。
恐らくは、今、何かを言い渋った。
「いずれは分かると思いますよ。三人目はこの人。西條善達。殺害時点で既に損傷が激しくて、彼の痕跡はもう何一つ残っていないでしょう」
ここでふと、巡査の行動に楔を打ち込みたくなった。
「やっぱりこういう事って、そうそう人には言えない事ですよね?」
巡査の口元が揺れる。
「まあ、そうだね。海外ではプロファイリングや霊視、あと透視捜査なんかは実際に行われているけど、日本ではまだ、こういう事は毛嫌いされがちだからね。……余計な事は、言わないに越した事ない。それが日本の風土にとって然るべき態度だよ」
「まぁ、それもそうっすけど」
そんな特別な情報を共有していると思うと、なんだか胸が高揚した。
巡査はメモ帳に走り書きをして、それを乱雑に破って手渡した。
――下北充輝。紙に凹凸を浮かせる程の尖った字体でそう書きなぐられていた。
「私個人の番号。何かあったらこれに。用心棒になれるだけの力は、あるはず」
真顔でそう言う下北巡査は頼もしくもあり、どこか押し退けたい存在でもあった。
「……どもっす」
息苦しいパトカーから解放され、深呼吸をした。その瞬間、家の窓ガラスに貼り付いてこちらを窺っていた杉野氏と目が合い、背筋が凍った。
***
「……要するにその警官はうちについて色々知ってたんだね?」
「そうだな。俺達が思っている以上に詳しかった」
ひとしきり聴き終えた美鈴は、ふと考え込んだ。
尤巫女、下北巡査、楓――これだけの人間がこの家に直接・間接問わず関わりを持ち、さらに各々がこの不気味な現象に気付いている――
それは考えようによっては頼もしくもある。自分たち家族の孤立を防げるからだ。
美鈴は呼吸を整えた。
「まず認めなきゃいけないのは、この家で過去に死体が見つかっている、そういう事ね」
事務的な口調で纏めた。
「そういう事らしい」
とにかくこの事実をなんとかして嚥下しなくてはならない。気力を削ぐ作業だ。
納得なんて出来ないが、するしかない。のぼせたように顔が熱くなった。
***
『やっぱりその警察官と個人的に接触した方がいい。隣人ともひとくさり話したんだろ? だったらいけるだろ。いけるいける』
優は電話越しに煽った。
だが、美鈴の気持ちは対照的に膠着していった。
「私で大丈夫かな? 楓みたいにおかしくなったりしたら困るし……いろんな意味でこれ以上家族に迷惑はかけられないし」
根拠も何も見当たらないが、とりあえず『何か』起こるのが目に見える。
受話口から大仰な溜息がかかる。
『あのなあお前。そんな悠長な事言ってる場合か。問題が発生したんなら感情よりも状況を優先しないと深みにはまるぞ。早く何かしらの行動を起こさないと、どんどん沈んでくだけだ。風邪や虫歯と一緒で、拡張したり進行したりする前に対策を練らないと取り返しつかねえ。俺はもちろんお前一番で言ってるけど、このままだと楓もますます悪化する可能性があるし、それこそお前の家族にも悪影響が出るかもしれん』
優は次第に鬼気迫る声色になっていった。
「それは分かってる。優にまで現象が起きたのも……私のせいだって……私が上手く考えを巡らせられなかったばかりに、みんなに迷惑かけちゃったんだよね」
電話口で優がたじろぐのが伝わった。立って話していたのか、勢いよくベッドに腰を下ろす気配も伝わってくる。
『ちょい待て。俺はお前を責めるつもりでわざわざ電話を掛けたんじゃなくて、むしろお前の事を心配して』「言わないで」
美鈴は固く目を閉じた。無意識に、片手を突き出していた。
『……美鈴』
「そんな事、分かってるから」
『だ』「分かってるってば!……お願いだから、もう言わないで」
十秒ほど、間があった。
『――なぁ。なぁ美鈴、何を怒ってるんだ。何か変な事言ったか』
しまった。自分を心配してくれた優に怒りをぶつけるなんて、自分は本当に何をしているんだ。
「そういうんじゃないけど……ごめん、もう切るね。おやすみ」
『あぁ。……なぁ美鈴』
「ん?」
無念そうな声だった。
『俺は、どんだけ自分が怖い思いをしようと、お前を助けたいって、本気でそう思ってるからな。それだけは覚えておいてほしい。じゃ、おやすみ』
ッツー……ツー……ツー……ツー……ツー……ツー……ツー……ツー……ツー……ツー
「……分かったよ。分かった」
美鈴は携帯を置くと、スローモーションのような速度でベッドに腰掛けた。
何も出来ない。何も考えられない。
呆けたように壁の模様を凝視したまま、回想に引き込まれていった。
――通話は慌ただしく始まった。
「はーい。もしもーし」
『美鈴!』
「うわ、なに?」
『やっと出たか。六回も掛けたのに、何ですぐに出ない!』
やけに様子が変だったので、急に真顔になった。
「何でも何も、ご飯食べてたからだけど」
『はっゲホッゴホッゴホ』
これは何か、ただ事ではないぞ。
電話から発せられる優の電波が、第六感に訴え掛けた。
「もしもし? ねえちょっと大丈夫?」
『うえぇ。すまん、噎せただけだ。っていうか聞いてくれ』
優はまるで有名人を見つけた子供のように、興奮気味に今日あった出来事を話した。
彼が自室(ワンルームマンションで独り暮らし)へ帰る途中で事件は起きた。
『エレベーターから降りて、フロアに出た時だ。廊下を見て手前から三○一、三○二って部屋が並んで、俺の三○六号室が端にあるんだけど』
壁に整列したドアの中で、自分の部屋のドアだけがどうも白く霞んで見えた。まるで薄手のレースカーテンを被せたような、もどかしいぼやけ方をしている。
「ドアが霞む?」
『あぁ。見るからになんかおかしかったけど、ずっと突っ立ってる訳にもいかないだろ。腹も減ってたから思い切ってドアに近付いたんだ。そしたら急にバタン!!』
電話を耳から離した。
「わっ……ちょっと!」
『これぐらい驚いた』
隣の三○五号室のドアが勢いよく開いて、少し柄の悪い男が飛び出してきた。
「よう! 悪いけど、今は遊んでらんね」
同じマンションに住む四回生の先輩。優とは高校の水泳部からの付き合いだ。
警戒していた優は、肩の力を抜いた。
「ああ、先輩ですか。どうしたんです」
相手は面食らったように「はあ?」と眉を下げる。
「どうしたも何もお前、レポート出しに行くんだよ病理学の! あのうるさいババァ。ちゃんと感想書いてやったのに、不可つけてきやがった」
鍵の束をジャラジャラ鳴らして何かを捜している彼を見ながら、優は何でもないのか、と内心ガッカリした。あそこまで驚いておいて何だが、どこかで面白い事があるのかもという期待をしていたのは罪深い秘密。
「そうなんですか。ご苦労様です」
「んぁ。そんじゃ俺、急ぐわ。じゃあな」
「お疲れです」
彼はエレベーターを待つのももどかしいといった風に大慌ててで階段を駆け下りていった。時刻は六時を十分ほど回ったところ。あと一時間もしない内に最後の講義が終わってしまう。
『それで……信じられんかもしれないけど』
優は低く前置きをしてから、言葉を繋いだ。
先輩を見送り、宙ぶらりんの気持ちのまま自室のドアを開けようとして凍り付いた。
『先輩、四○五号室なんだよ』
ドアの表札を見ると、そこは四○六号室とある。
『確かに三階で降りた筈なんだ。三階にしかないカップ麺の自販機も見たし、自分が住んでるマンションで迷子になる訳がない。でも……俺が居たのは四階だった』
美鈴は鳥肌が立った。左手で電話を握っている右腕を擦る。
「テレポート現象……」
『それかもな。で、ここからが本題』
彼が呆気にとられていると、突然大きな物音がした。
正面の道路からだ。急いでテラスから覗いてみる。
『先輩の原付と、宅配のトラックがぶつかってた』
正面衝突で即死だったそうだ。
「そのテレポートを起こした霊が、先輩を殺したって事……」
美鈴は眉間に皺を寄せた。そのせいか、キリキリと頭痛がする。
『恐らくそうだ。美鈴、お前はこの件についてどう思う』
「この家の……せい……?」
自信無くそう答えたが、優は五秒ほど唸って、その唸りに言葉をくっつけた。
『やっぱそう思うよなぁ。そうだよな』
向こうの話題が頓挫したとみえて、助け舟を出す。
優はもともと順を追って話したり、計画を立てたりするのが苦手なタチなので、外出先で人に道を聞いたり、アトラクションの説明を受けたり、日帰り旅行の日程を組んだりするのはもっぱら美鈴の役割だった。
「因みに。優はその後ちゃんと部屋に帰れたの?」
『あぁ。今、その俺の部屋から電話してる』
「そっか。大丈夫?」
『あ?』
間抜けな返事だった。心配してもらえる事を毛ほども予想していなかったのだろう。
美鈴は少しムッとしたが、持ち前の姉御肌を活かし大人の対応に努める。
「また近いうちに、そっちに泊りにいくね……うん、そういう事で」
なぜか、笑ってしまう。照れ隠し、なのかもしれない。不完全で不器用な気遣いに、自分自身で笑ってしまう。優も落ち着きを取り戻し、少し笑った。
『それはよした方が……まぁ、いいか』
「ははは」
『なぁ美鈴』
急に、声が固くなった。
「どうしたの?」
『お前が…………したら、一緒に…………って、…………しような』
(――まただ)
もう何度目かの同じセリフが、同じ所で曇る。
この時は疲れていたこともあり、適当に受け流してしまった。
「そうだね。そうしよ。すごく楽しみにしてる――」
結構な長電話だった。美鈴はふっと太く、短く息を吐いた。
「んー、何だかなぁ」
喉を反らせて天井を仰ぎ、カクンと首を戻す。
目の前に夢佳が居た。
「ぎゃあああああ!?」
首を傾げながら緩い微笑みを湛えていた口元を吊り上げ、ニイッと笑う。
「お姉お姉、ちょっときてー」「ひっ」
そのまま、手首を掴まれる。異様に冷たい。
「なにちょっと、いつの間に? 何でここに? ちょ、待って!」
強引に部屋から連れ出され、急な階段を踏み抜くのではというくらい乱暴に下りた。
「ちょっと、何なのユメ?」
「いーからはやくはやく!」
真っ暗な廊下を渡った先の部屋から、仄かな明かりが漏れ出している。
【灯の間】
その障子を開けて、中へ入る夢佳。
こめかみがズキリ、疼く。
――ダメ、あそこは。
――入っちゃいけない。
――夢佳、戻って。
――部屋に――
「お姉!」
「分かった、今から行く」
――どうして、ダメだってば!
――どうして、抗えない――
障子に手を掛ける。ゆっくりと横へ。
「きゃはははは、きゃは」
古い桐の匂いがムッとくる。室内で楽しそうに走り回る夢佳。
「何してる……の?」
美鈴はその時、後悔した。
陽平の言っていた――目に菜箸の刺さった男。
こちらに背中を向けている。首だけぐるりと振り向き、口を尖らせた。薄暗い電燈の下で、それは古い特撮に出て来る奇怪な容姿の怪獣に見えた。
「す――す」
聞き取りづらいが、次第に声が大きくなっていく。
「――す――」
耳元で、聞こえた。
美鈴は足が猛烈に痺れ、その場に座り込んだ。背筋にも力が入らず、ヘナヘナと他愛無く床に手を突く。どうしても抗えない。
夢佳が側へ駆け寄る。
「お姉、キムラさんとわたしと遊ぶの、はやく!」
そう言って、人形のようになった自分を部屋へ引きずり込もうとする。
「い、嫌!! ダメ、早くお母さんの所へ行きなさい!! やめて夢佳!!」
美鈴は必死で張り叫んだ。どうして、妹はあんな化け物と遊んでいるのか。
なんとも思わないのだろうか。それとも、夢佳には普通の人間に見えているのか。だとしたら……いやいや、問題はそこではない。
美鈴はありったけの力を振り絞り、腰を浮かせた。
「え~? 何で、楽しいよ。ねー、キムラさん!」
「す――ぎ――」
化け物が、こちらに上半身を倒した。手を伸ばし、今にも夢佳を――
「夢佳!! ダメェ!!」
車の中に居た。
心臓が早鐘を打ち、脳に必死に血液を回している。
高熱を出したような酸欠と眩暈が替わりばんこに襲う。
「あなた、ちょっとそこのスーパーに寄って。明日のおかず買うから」
「あぁ、りょ~かい」
前席で両親が話しており、隣を見ると陽平と夢佳が穏やかな寝息を立てていた。
(……夢か……)
ホッとした。
そうだ、家族でデパートへ行った帰り道だ。
美鈴は安堵感から、再び目を閉じた。車が駐車場に入り、エンジンが停止する。
「じゃ、私行ってくるから」
母が降りる。
「あ、そうだ。オレも後輩の出世祝いの酒、買ってかなきゃいけないんだ」
父も用を思い出したらしく、後を追うように降りた。
「川口さんでしょ? デパートで見た方が良いのがあったんじゃないの」
「忘れてたよ。仕方ない」
「スーパーで買ったお酒なんて、失礼でしょう」
「気にしない気にしない。あいつ、いろんな意味で豪傑だから」
ドアが閉まりロックが掛かる。二人の声が遠ざかっていく。
「……」
インパネに埋め込まれたアナログ時計は午後八時十五分を指している。
「姉ちゃん」
突然、寝ているとばかり思っていた陽平が呼び掛けた。
「なに?」
「大丈夫か。息苦しそうだったけど」
店内から漏れる明りで、かろうじて弟の輪郭が確認できる。
「平気。ちょっと怖い夢を見ていただけだから」
少し気丈に振る舞ってみせた。
「どんな夢だった?」
美鈴は舌先で唇を湿らせ、内容を克明に語った。
「やっぱりな」
陽平はドスンと背凭れに身をぶつけ、苛ついた唸り声を上げた。
「俺も全く同じシチュエーションの夢を観た。姉ちゃんの夢に出て来たのは木村?」
「う、うん」
「俺のは西條だった。体の右半分がグチャグチャに潰れちまって、何が何だか分からない事になってたけど、ツナギの右ポケットに名札が付いてた。まあそれ以前に、夢のなかで夢佳が教えてくれたんだけどな」
美鈴は両瞼が捲れ返るほど、大きく目を見開いた。
「――まさか」
「そう、まさか」
陽平も、美鈴も、二人の間で眠りこけている妹を黙って見下ろした。
小さい頭がゆらゆらと舟を漕いでいる。
「……嫌だ、私そんな事、信じたくない」
思わず首を振る。
「そりゃそうだ。だけどこうなった以上、そう考えるなっていう方がおかしい!」
陽平の剣幕に、夢佳が小さく声を上げた。幸い、目覚めてはいないようだ。
そのまましばらく会話が無かった。二十分は経った頃、キーレスで車が開錠された。二人はそれにすら驚き、肩を弾ませた。
「おっ待た~せ~」
大きな瓶を二本もぶら下げた父と、買い物袋を三つ提げた母が戻ってきた。エンジンがかかり、車が走り始める。
「どうしたの二人とも? 黙り込んじゃって」
「疲れたんだろ。放っといてやりなよ」
「若いくせにお買い物くらいで疲れててどうするのよ」
両親の会話は全て筒抜けとなり、二人はただ時々お互いの顔を見合うだけで言葉は無い。峠に差し掛かると、ずっと喋っていた両親がピタリと口を閉ざした。
無言の車内にエンジンの唸りだけが響く。順調に家路を消化していた車は突然、見慣れない小道へ逸れた。アスファルトを踏み外し、未舗装の荒れた小道を突き進む。車のボンネットを裕に超える長身の草を薙ぎ倒し、それでも速度を落とさない。
「ちょっとお父さん!?」「何やってんだよ親父!! 頭イカレちまったのかよ!?」
父も母も、ただ前方を黙って見据えたまま、揺れに身を任せて憮然としている。
「陽平、見て」
姉は父の手元を指差した。恐る々る覗き込むと、父の両手は確かに前方に真っ直ぐ伸ばされているのだが、手首から先はダラリと垂れ下がり、何も掴んでいなかった。
「何だよ……何だよ何なんだよこれ!!」
パニックを起こした陽平が泣き叫ぶ。美鈴は後部座席から身を乗り出してハンドブレーキを力の限り引き上げた。だが、凄まじい力で下に引き込まれた。ウツボが岩の隙間に頭を隠すように、一瞬だった。
「きゃあっ」
車が大きく跳ねて、陽平の膝に額をぶつける。陽平が姉を支えようとした時、車がまた飛び上がった。それと同時に、鈍い衝撃と鉄板を叩き付けるような音が伝わった。
「今、何か撥ねたぞ!」
叫んだ途端、フロントガラスに何か黒い物が覆い被さった。しかし急ブレーキのせいで運転席の背凭れに頭を強打して間もなく気を失った。
「い……ってててぇ……うあ」
歯を食い縛って身体を起こし、シートに這い上がる。節々が砂を噛んだように軋む。
「あれ、姉ちゃん……みんな……」
気を失ってどれだけの時間が過ぎたのか定かではないが、車内はもぬけの空だった。
車のエンジンは停止している。
ドスンという音が鼓膜を突いた。
「うおっ」
すぐ右横の窓に姉の背中が貼り付いていた。
「おい、おい! 姉ちゃん!」
陽平は内側から窓を叩き、姉に自分の所在を知らせた。
姉は素早く車内を振り返った。その顔は恐怖に歪み、今にも叫びだしそうな様子だ。
なにやら必死に背後を指し示している。
その先に佇んでいる人影は、まさしく彼が夢で見た西條の姿だった。
「うわあっ! 出た!」
信じられなかった。
西條の霊は関節とは逆側に反り返った足を持ち上げ、こちらに一歩踏み出した。
美鈴は笑ったようにガクガクと他愛無い身体をどうする事も出来ず、ただただそれを眺めていた。声と言う声が全く出せず、口の中がみるみる干上がっていく。
三メートルくらいまで互いの距離が縮まり、相手の人相が残る左半分だけで判別出来るようになった。丸顔だ。髪はごく短く、肉に食い込んでいて分かり辛いが十字架のネックレスをしている。上半身は脱ぎ、袖を腰の辺りに結び付けたツナギに『西條』の名札がある。全体的に太い、筋肉質のずんぐりとした男だ。
それが更に一歩近づき、砕けた顎を動かして何かを呟こうとしている。
「……え……」
最初こそ聞き取れなかった声が、やがては言葉として聞き取れた。
――カ ザ シ ミ ム ラ
「かざしみむら……?」
どこかで聞いたことのある名前。低い男性の声が残響する。
峠を越えた先にある廃村の名が、それだったような気がする。
「姉ちゃん!!」
いきなり腰を掴まれ、車内に引き込まれた。
「陽平!?」
腹這いになった美鈴の下敷きとなった陽平は、仰向けのまま器用に足だけでドアを閉めると呼吸も整わぬまま姉と向き合った。
「あ、ありがとう陽平」
美鈴は鬢の髪を耳に掛けながら、どまついて言った。
「あぁ……間に合って良かった……」
呆気にとられた顔をしながら、不意に上体を起こした。
「あいつ、どこ行った?」
見渡す限り、どこにも居ない。今までそこにいたのに。
「隠れたのかも」
美鈴も弟に跨ったまま首を巡らせた。しかしあの状態では、そう機敏に動き回る事は困難だろう。
「姉ちゃん。そろそろどこうぜ」
弟の控えめな要求に、顔が火照る。
「ごめん」
二人、正面を向いて着座し一呼吸ついた。
辺りは不穏に静まり返っている。
「母さんと、親父と、夢佳、どこに行っちまったんだろう。電話も繋がらねーよ」
画面を乱暴にスワイプしながら毒づいた。
「私、ちょっと探しに行く」
「馬鹿なのかよ! またあの化け物がちょっかい出してきたらどうする。女子だから危ねえだろ、頼むからしっかりしてくれ」
「わ、分かってるってば。ちょっと言ってみただけよ」
ふと思いついた。この車で移動すれば、万が一あの西条と再び出くわしても直接的な害は受けないはずだ。美鈴は後席から運転席へ軽やかに身を滑り込ませると、差しっ放しのキーを一息に捻った。スタータが元気良く回り始める。
「そうか、なるほど! 車に居りゃ安全ってわけか」
陽平は自らを納得させるように独りごちた。
「そう、だけど……かかってくれない」
ヴィクター・レオンの3?エンジンは、何度回しても一向に火が入らない。
半ばヤケになり、セルを五秒間も回し続けると突如として外の風景が変わった。
二人を乗せた車は、元居たスーパーの駐車場に停まっているのだった。
「今、瞬間移動したぞ……」
力なく呟く陽平の声に、美鈴もはっと意識を繋ぐ。
周囲には沢山の車が駐車され、行き交う買い物客らの姿が散見される。
「――違う」
ハッキリと否定した。陽平は姉の視線の先を追う。
店舗の窓から微かに覗く掛け時計は、午後八時十五分を粛然と指し示していた。
「うそだろ……タイムリープ」
タイムリープ。またの名をタイムトラベル。当人の記憶や意識等はそのままに、過去や未来へ身体が飛んでしまう超常現象。SFやファンタジーの題材としてはありふれているが、現在の科学力では理論物理学、相対性理論・タイムラグを除き、実現には難があるとされる。しかし経験者を名乗る者は世界中に散見され、なぜかこうした超常現象の体験者は女性、特に思春期の若い女性に多い。
「……ワケ分からねぇ事起こりすぎだろ……うわっ」「きゃっ」
いつの間にか夢佳が、後部座席で心地良さげに寝息を立てていた。
「やっぱり戻ってきたんだ、八時十五分に」
美鈴は襲いくる酸欠に喘ぎながら、かろうじて絞り出した。
車のロックが解除された音に、また二人同時に飛び上がる。
「おっ待た~せ~。何してるんだお前は」
酒瓶を二本ぶら下げた父がドアを開け放ち、小さくなっている娘を見下ろした。
「あ、えっと」
父の後ろから彼より遥かに重そうな荷物を抱えた幸代がやってきた。
「あなた、早く乗ってちょうだいよ。重いんだから、もう」
「あぁ、ごめん。じゃあ美鈴、せっかくだから運転していってよ。よろしくね」
「え、あの、ちょっと!」
父はドアを閉め、のしのしと車の前を横切って助手席に回り込んだ。
そして仄かな寝息を立てる夢佳の隣に母が座る。
「安全運転でね、美鈴」
父は景気よく言うと瓶の袋の中から缶チューハイを取り出し、美味そうに飲み始めた。美鈴が車を運転するのは久々だが「たまにはこうして運転しないと、忘れちゃうものね。ペーパードライバーは駄目よ。あたし、若い頃からそう思ってる」と母も意外な事を言い出したので、仕方なく運転手となった。
レオンは長く大きいEセグメントタイプのステーションワゴンだ。彼女が運転するのは実質二度目である。一度目は免許を取得した折に免許センターの帰り道に乗って帰った。
それは去年の夏の盛りの頃で、八か月もブランクがある。
「何か変な音しない?」
走行中、窓を開けながら父が後ろを振り返った。
「何も聞こえないけど」
「あ、そう。お父さんだけかなぁ、聞こえるの」
父は缶を呷った。しかし、美鈴はその言葉を決し聞き流す事が出来ず、汗みずくになってハンドルを捌いていた。
――聞こえる。
――何かを、擦り付けるような。
――何かを、削り取るような。
――何かを、引きずるような音。
峠の中ほどに差し掛かった時だ。
先程のタイムリープの際に見た小道への入り口が見えた。
一息に通り過ぎようとしたが、首が勝手にそちらを向いてしまった。
車が一台、木々に隠れるようにして停まっている。
見覚えの無い車種。
(何か居る)
美鈴はもうそれ以上は何も考えず、ひたすら無事に家に辿り着く事だけを願ってアクセルを踏み込んだ。
* * *
父の騒ぐ声で目が覚めた。
額の奥がやけに痛む、蒸し暑い朝。
開け放った窓から庭を見下ろすと、車庫の方で騒いでいるらしい。
「見てよこれ。どう思う?」
興奮気味の父は、レオンの前に屈んでフロントバンパーをしきりに撫でさすっている。
「朝からどうしたの?」
「あ、美鈴。ほら見てごらんなさい」
腕組みをして見下ろしていた母が、憮然と彼女を出迎える。
よくよく見ると、レオンのバンパーやフェンダー部分に酷い破損・汚損がある。
「昨日、峠で変な音が聞こえてたんだ。たぶん動物か何か……撥ねたりしたんじゃない」
父は地べたに這いつくばって車の下を覗き込んだり、グリルに詰まった枝や葉を取り出したりしてぶつくさ言った。
美鈴は憤慨した。
「そんな事ないよ。私ぶつかってなんかいないし、何かに当たったらもっと衝撃とかで分かるでしょ。それに昨日は言えなかったけど、走り出した直後から音はずっとしてた。だから私のせいじゃない」
言い終えた頃、寝間着姿のままやって来た陽平と視線をかち合わせた。
口には出さずとも、互いの目は同じことを言っていた。
――タイムリープは、実在する――
その証拠は今、目の前でありありと具現化されているではないか。
「あーあ、もう。気に入ってたのになぁこの車。ショックだなぁ。これからは暫く、美鈴には運転はお休みしててもらわなきゃなぁ」
父は不平を口にしながら家に入っていった。
「私がやったんじゃない!」……とは、どうにも言う気になれなかった。
* * *
「いよいよまずいな。この調子じゃおまえ、いつ居なくなっても不思議じゃない」
さすがの優も困惑した。
「自分でも驚いたよ。何の前触れも無く突然起こった事だもん。今この瞬間も夢なんじゃないかって思ってるくらい」
優が真顔で見ている事に気付き、思わず吹き出した。
「いや、冗談だよ。ただ少し動揺が残ってるだけで」
まだジッとこちらを見ている。彼の鋭い両目は瞬かない。
「……優、どうしたの」
いらえはない。
「……ねぇって」
「いや、何でもない」
さらりと視線を外し、カツサンドの最後の一切れを豪快に口に放り込んだ。
いつもの喫茶店。
いつもの風景。
しかし、いささか冗談では済まされないような名状し難い不安感。
運ばれてきたたまごサンドを両手で持ち上げて、具がこぼれ落ちないように齧る。
「そういえば私のリップ見てない? 無くしちゃった」
「さぁ。バッグの中は?」
「無かった。化粧ポーチの中も」
「じゃあ尚更しらん。俺が使うものでもないし――あのすんません、シーザーサラダとホットドッグと、あとエスプレもう一杯」
「あ、私は結構です」
注文を複唱してから店員が去り、暫しの沈黙。
「――そういえばおまえと弟が西條なんとかと会っていた時に、親さんと妹はその場に居なかったんだろ」
「うん」
「どこで、どうなっていたんだろうな」
「……え?」
間抜けな声が出た。優は逆三角形の目をした。
「お前らがしっかり記憶している事と、親父さんの車が壊れている事でタイムなんとかが事実だって事は分かった。ただ、その西條に脅されている間、三人はどこでどうなっていたんだろうって事が気になる」
「それは……」
確かに気になる。
「二人が気付いた時には既に居なくなってたって事から考えると、まずい事になってた可能性の方が高いと俺は思う。それと、今回の事でお前の家族と車、完全にカモだって事を奴らに知らしめちまったんじゃないか」
運ばれてきたサラダを口につつきながら、名探偵のように言い切ってみせた。
「そんな殺生なこと言われても」
美鈴が目を覚ました時、車内には陽平しか居なかった。気を失い動かない陽平に驚き、両親を呼ぼうとして車外に出たと同時に怨霊化した西條との邂逅を果たした。
なるほど確かに、自分だけでなく、家族全員を狙っているとしか思えない。
「それと」
優はマグカップを置いた。
「お前と弟だけじゃなくて、車ごとタイムスリップしている、ってところだ」
「う、うん」
「科学的に、ありえない。どう考えても。だから、ひょっとすると」
「ひょっとすると……?」
彼の表情が、さっと色を無くす。
徐に指を差した。
「お前自身が、その人ならざる何か(・)である、とも考えられるワケだよ」
美鈴は言葉が出せず、たまごサンドを持ったまま棒杭のように固まった。
「いや、あくまで霊感ゼロの俺の意見だから、真に受ける事ぁないぞ。ただ、どうもおかしいと思っただけだ」
以上の弁明は、彼女の鼓膜まで届く事はなく掻き消えた。
* * *
バスを降り、きつい坂道を登る。三百メートル程だが勾配がきついので良い運動になるし、おかげで足が少し引き締まってきたようだ。生ぬるい風が九十九折を下りて来て、緩慢に身体をすり抜けていく。その際、重い液体が纏わりつくような不快感を伴った。
木々がさあさあと軽い音を立てて騒ぎ、数える位の葉が頭上に降り注ぐ。
種類もわからぬ鳥の声が、絶えることなく四方で響き合う。
蜜蜂が一匹、悠々と彼女を追い越して天高く舞い上がって行った。
不思議に、穏やかだ。
「気持ちいい日」
自然が身近にあり、その呼吸を肌で感じられる。それがこの街の謳い文句であるが、なるほど確かに、と今はじめて実感した。
美鈴は前の住居を思い出した。
安い賃貸の一戸建てで方角はここと対になる位置にあり、現在より大学に近かった。住宅街のいっとう端の築十年物件で、古臭さは無くむしろデザインが良くて値段の割に得をしたような気さえした。彼女が九歳の頃にアパートから移り住み、約十年間世話になり、夢佳の持病の喘息悪化を機にここへ越してきた。
ずっと心に蟠りがあったが、周囲が住宅や商店で固められたかつての家に比べたら、自然を存分に楽しめるというのは美味いポイントだ。しかも、ほぼ独占状態という特典付きである。
心が澄み渡ったところで、次は別の雲が新たに彼女の心を覆った。
人は全く希望が無いという状態より、小さく消えてしまいそうな希望を見つけ、それが離れていってしまう方が何倍も辛いのである。元々が暗闇なら、自分が居る場所の暗さなど一生涯知らずに終えることが出来ようものを、下手に小さな灯りに目を眩まされたがばかりに自分の〝当たり前〟が如何に苦行であるかをマザマザと見せつけられるのだ。
こんな皮肉な話はない。
「あ~あ。なんだかなぁ」
自らの足音を一拍一拍、噛み締めるように聴きながら大きなカーヴを曲がり終えた。
小道へと続く入り口を塞ぐように停められた、旧式のパトカーがあった。
「けいさつ……」
陽平の話が脳裏をよぎる。
下北巡査。その警官が来ているのか。パトカーに近付くと鳥肌が立った。父の車を運転中に見た車が、まさにこのパトカーだ。暗くてパトカーだという事までは分からなかったが、ライトの形に見覚えがある。
車は草や土が多量に付着しており、その後ろに伸びる小道は、やはり草が無かった。
逡巡した。だが、小道へ一歩踏み込んだ。
「駄目ですよ」
振り返ると、長身の警官が佇んでいる。
「どうしてですか」
小道の先を警戒するように凝視してから、右手をそっと差し出した。
「これ、貴女のですよね」
筋張った掌に桜色のリップクリームがちょこんと載っている。
「あ、私のリップ……どうして……?」
警官はリップを手渡しながら、目で小道の奥を示した。
「この先に落ちてたよ。随分とまた気味の悪いモノと出逢っちゃいましたね。怪我とかはないですか?」
警官は徐に一歩踏み出したが、美鈴の身体は無意識に一歩下がった。なぜかは、自分でも説明がつかなかった。美鈴は警官よりも驚いたほどだ。なぜ、警官に敵意を感じているのか。
「気味の悪いモノ?」
警官は頷いた。
「そう。あまり口にしたくないけど、体の右半分がこう、潰れたような感じの男に何かしらのちょっかいを出されたと思うけど、どうだろう」
心当たりは、一つしかない。
「西條という男になら、少し遊ばれた気はします」
少し気丈を装って応えてみた。
すると警官は、じろりと視線を流した。これは、癖なのだろうか。
「やっぱりね。その時に何か喋っていたと思うけど、何を言っていたか覚えてないかな」
喋りながら、汚い手帳を取り出した。美鈴は一呼吸置いてから
「カザシミムラ。確かそう言っていました」と一息に言い切った。
警官は素早くペンを走らせると、再び彼女へ向き直る。
「やっぱりね。この先に昔実在していた村の名前が、それ。今は国土交通省から登録が抹消されて村じゃなくなっちゃったけど、逆に誰の土地という訳でもないんだよ。因みにその西條の遺体、村の公会堂の下に今も眠ってる」
この警官には全てお見通しらしい。
「なるほど」
あまりにも落ち着き払っていたので、美鈴の方も不思議なくらい取り乱す事はなかった。そして、それに他でもない自分自身が一番驚いた。
「えっと。怪我とかはなかったんだっけ?」
警官は再度問うた。長身の彼の視線は、美鈴のスカートから覗く生足を捉えている。
「あれ、いつの間に……」
刃物で斬り付けたような細い傷が一筋、左の脹脛に走っていた。
流血も痛みも無い。
「草で切れたのかな。すみません、これぐらい平気ですので」
傷口を軽く叩いて誤魔化そうとする彼女を上から下まで吟味するようにして、一人小さく頷いた警官は
「ちょっと、お話があるんだけど」と、意外と上品に助手席のドアを開けた。
* * *
カーラジオで四国地方を襲撃中の台風情報を聞き流しながらお得意先を出立し、広い幹線道路に乗る。
この道は慣れっこだ。右車線に堂々と乗り出し、アクセルを踏み込む。
「も~、何回同じこと聞かせるんだよ~」
義久は内容の移ろわないニュースに苛立ち、カーステレオのチャンネルを捻った。
彼はゲームセンターの筐体やボーリング場の機械などに使用される精密部品を運ぶトラックドライバーをしており、物流一筋二十三年の猛者だ。物流界は経験や腕を評価されるチャンスが豊富にあり、仕事では謹厳実直な義久は会社にとっても大黒柱だった。
彼の屈強な肉体を見る限り、精密部品というと何とも説得力が無いが、ICチップや基盤を保護する蓋板を取り付けた一纏まりの部品をアッセンブリと呼び、これがなかなか嵩も質量もある。それを手積みで整理する為、嫌が応でもこのようなガテン体型にならざるを得ない。
「♪潮騒の宵に
僕の青春 忘れてきた
思い出たち 入道雲に叫んだ
台詞はまだ 空を舞っているよ」
カーステレオから流れる流行歌を小気味よく口ずさみ、いっそう速度をかける。
積荷も下ろしきった車体は、会社を目指して軽快に疾走した。
この辺りは直線の多い二車線道路が続き、オービスに注意しなければ容易く違反切符と反則金を徴収されるハメになる。しかもトラックの高いキャビンからはそこら中に潜んでいる交通警察隊員らの姿がはっきり見えるので、いつ、どこを走っていても何かに監視されているような気持ち悪さが付き纏っていた。また、知り合いのトラック同士ですれ違いざまにハンド・サインを送り、ねずみ捕りの場所を知らせてやるのは日常茶飯事だ。
「♪振り向くな
君が私の耳元で囁いた それは」
――ふりむくな
義久は肩を弾ませた。今、耳元でドスの利いた男の声がした。
吐息の感触、温度までしっかりと感じられた。
「な、何だ、何、ええええ?」
大慌てもいいところだ。彼は腰ごと振り返ってみた。窓は開いていないし、すぐ横に並ぶ車も無い。後ろのベッドスペースにも、もちろん誰もいない。寒い冬の日など、どこぞのドライブインでエンジンをかけたまま一服していた隙に、温かい車内に惹かれて乗り込んでいた浮浪者の話が脳裏を過ぎったが、それでもない。
そもそも隣に併走する車が居たところで、吐息が掛かるほどの距離で話せるわけがないではないか。
「気色わるいね~。もう」
結局、ラジオが何か変な電波を拾ったのだという事で自分を納得させた。大きいカーヴを抜けたところでアクセルを抜き、ギアを落としながら排気を詰めて減速体勢に入った。
「ほらやっぱり渋滞。ツイてないなぁ。この後は事務作業もたっぷりだってのにさ」
無理もない。帰宅ラッシュ、帰社ラッシュだ。粒々と連なった列の最後尾に耳障りなエア抜き音と共に相棒を停車させた。何気なくサイドミラーを覗くと、自車のアルミコンテナのすぐ後ろに白いセダン車が停まっている。
何の変哲もない、ただの後続車の筈が、何かおかしい。
(人が乗ってない?)
いや、そんな馬鹿な事があるか。
当の車はクリープ現象でノロノロと車間を詰めてくるのだから。誰も乗っていない訳がないじゃないか。まださっきの事を引きずっているのか。
いや、ひょっとしたらすごく背の低いお年寄りが乗っているのかもしれない。
「……いやいやいや。なんであんなのが走ってるんだよ……」
近付いてきたそれは車体にビッシリと苔を生やし、窓は白濁し、車内などとうてい見える状態ではなかった。
ではなぜ、自分は車内に誰も乗っていないと分かったのだ……?
――ふりむくな
窓から身を乗り出しそうになっていた彼は、辛うじて踏みとどまる。
(まさか)
前方にだけ意識を集中させ、前の車にギリギリまで詰めた。すると前車は嫌がって左へ車線を変更したので、その前の観光バスにも同じようにべったりと貼り付けた。
ただただ、後ろの車と距離をとりたい、その一心だ。後ろから照射される灼熱の悪意に焦らされる。
「タチが悪いぞ」
焦れど逸れど、車列は鈍重に進んでは止まり、進んではまた止まりを繰り返すばかりで追いかけっこは一向に埒が明かない。
横目で覗いたミラーの奥で、セダンが得意気にパッシングした。
とうとう彼の怒りに火を点けた。
「ほう。ここまでするかね」
随分と好戦的な人間もいるものだ。義久は牛歩行進を続ける車列の僅かな隙間を縫って大きく左へハンドルを切った。隣の車線にいた車から壮大なクラクションを浴びながら、熟練の手腕を奮って寸手の所で車体を捻じ込み脇の市道へ下りる。
二、三、四速とテンポ良くギアを上げ、トルクフルな八?ディーゼルエンジンに速度をかける。くねくねと妙な軌道を描く農道を越え、大動脈に面した遊戯施設群から工場地帯へ一気に駆け抜けた。勝手知ったる秘密の裏通り。
得意になってミラーを一瞥する。
「うそだろ」
苔むした車体をぎくしゃくと揺らし、しっかりと追い縋るセダンがそこに写っていた。
あらん限りの猛追を仕掛けて一息に車間を詰めると、再びパッシング、そして大音量のクラクションを浴びせかける。
「くそ、何なんだよ一体!」
彼は車体に相当な無理をさせて狭いヘアピンカーヴを美しい弧を描いて切り抜け、山道へ進入した。荷台が空で良かった。セダンは後輪を滑らせるようにして鋭いヘアピンをクリアし、正気の沙汰とは言えぬ挙動でトラックを追い続ける。中央線も無い古い山道は対向車が来た場合、僅かな待避所へ車を入れてやらねばすれ違う事すら困難となる。
義久はそんな事はいざ知らず、空荷をいいことに文字通り力任せに登って行った。途中で出会う対向車の中には、驚いて側溝に車輪を落としてしまうものもいた。
しかし、それらは完全に義久の意識の埒外だった。この頃になると、セダンからはっきりとした危険を感じていた。もし止まったら、まずい事になる。
「まだ来るのか、あの野郎!」
こちらがどれだけ飛ばそうと、影の如くついて離れない。
いつまでこれが続くのか。
果たして自分は耐えられるのか。
いよいよ坂を登り切り、ダム湖の畔に出る。
殺風景な駐車場に全速力で進入した義久のトラックは大きな円を描いて鼻面を入り口側へと向けて停車した。
待つこと十秒。
セダンが顔を出した。
入り口を入ったところで急ブレーキで止まり、互いに睨み合う。
暫く、湖畔には互いのエンジン音だけが低く立ち込めていた。
義久は腕に力を込め、威嚇のつもりでアクセルを煽った。マフラーが唸り、木々の間から鳥達が飛び立つ。
「……どうした。来るなら来いよ」
義久は頭の中でシミュレーションした。
このままセダンが突っ込んできたら。三速まで上げたギアを二速に落とすと同時に思い切りハンドルを切り、アクセルを限界まで踏み込む。そうすれば後輪が空回りして車体はキャビンを支点に半円を描いてセダンを避ける。セダンはトラックの鼻面を猛スピードで駆け抜け、桟橋から湖へ転落するだろう。
「……いつでも来い」
エンジンがいっとう強く吹き上がった時だった。今の今まで何も動きを見せなかったセダンが急発進したかと思うと、ありえない速度で距離を詰めてきた。
反射的に義久もトラックを発射させる。ところが相手はスーパーカーの加速どころではなく悪魔かドラゴンが向かってくるような異様な加速度でもって向かってきた。
「うおあああああ!!」
腕が震え、滑ってしまった。ぐらりと傾いだ車体、前方にセダンの屋根が見えた。
(ぶつかる!)
本当の恐怖を目の当たりにした人間は、目を瞑る事が出来ない。義久は何万分の一秒という鈍化した時間の中、ゆっくりと自車へ吸い込まれていくセダンを見下ろしていた。衝撃も、振動も、物音ひとつも立たない。
やがて時間の流れが元に戻ると同時に回復した意識が、新たな脅威を捉える。
「あああああああああああああああああああああああああああああ」
二速のまま加速し続けていたトラックは木製の柵を突き破り、砂利に覆われた岸辺を横切って壮大な水しぶきと共に湖面に突っ込んだ。アトラクションさながらに波を立てながら惰性で湖の中ほどまで進んだところでキャビンが完全に水没し、コンテナだけ水面に出して情けなく浮かんだ。それは沈没寸前のタイタニック号を彷彿とさせた。
セダンは湖面に向けていたヘッドランプを煌々と光らせた。
駐車場を一杯に使って向きを変えると、風を切って山道を下っていった。