表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
輪廻屋敷  作者: 愛車 風斗
2/6

第一章:灯の間


「どうもお世話になりました。ご苦労様」

 撤収する引っ越し業者のトラックに背を向け、思いっ切り伸びをした。

「さぁて。これからが本番だぞ。覚悟は出来てるかぁ?」

 牧浦家主人、牧浦(まきうら)義久(よしひさ)はにんまりした。

「まだ続けんのかよ。もう疲れたって、少し休もうぜ」

 高校二年になる長男・陽平(ようへい)は廊下に置かれたソファに崩れ込み、風化してガサガサした天井を仰いだ。連日バイト漬け、おまけに昨日のデート疲れもあってもう立ち上がれないと、問わず語りの弁解。

「大変だな。って、何言ってるんだお前は。男だろ。しっかりしろよほらぁ」

「いっでっ」

 肩を小突かれて、からくり人形の如く見事に立ち上がった。

「何だデート疲れって。そんな日本語は無い、痛痒に耐えられない奴は社会で通用しない!」

「うるせぇなぁ。分かったよ、手伝えばいいんでしょ」

 再び軍手に指を通したその時。部屋の戸口辺りがバタバタ鳴った。

 二人同時に振り返る。

 ――誰も居ない。

 すると、また背後を横切る。

 ――影も無い。

 黙って顔を見合わせる。

「今の何?」

「さあ。ユメじゃない?」

 縁側から覗いた座敷は(うろ)のように薄暗く、何かが部屋の四つ角から這い出してきそうな雰囲気だ。二人は意を決し、入り口にいっとう近い山積みの段ボール箱に手を掛けた。

「ウワァ!!」「うおッ!!」

 二人同時に飛び退く。陽平はバランスを崩して後ろにひっくり返ってしまった。

「キャハハハハ! お()しゃんもお(にい)も怖がりや~!」

 満面の笑みを湛えた次女・夢佳(ゆめか)はお気に入りのぬいぐるみを一杯にした段ボールから這い出た。男二人を転がす事が出来て、ご満悦だ。

「こらユメ~、びっくりさせるんじゃない~! この悪い子!」

 義久は娘を抱き上げようとしたが、彼女はその手をかわし、台所の方へ駆けて行った。

 バタバタと騒々しい音を立てて二階へ上がっていく様子が伝わってくる。

「ありゃ、ホントにお転婆娘になるぞ」

 陽平は、ふと何かに気をとられた。脳味噌が吊り上げられるような違和感の元を辿る。

 夢佳が隠れていたダンボールの傍らに、大きなコケシが一体転がっていた。

 そのつぶらな瞳がこちらをじっと見詰めている。

「……なにこれ……」

 拾い上げてみると、酷く擦り切れて年季が入っている。額の右側から口元にかけて何かが強く擦れたような跡があり、裏を見ると、これまた消えかけた文字で「ユメ」とだけ書かれていた。

 首を(かし)げた息子を横目に、父は首に掛けたタオルでひとしきり汗を拭った。

「子供っていうのはいいもんだ。なあ陽平……おい。お前なにボーッとしてんの」

 息子はこちらに背を向けたまま、背を丸めて突っ立っている。

「おい」

「……」

「おい陽平」

 肩を叩くと、ようやく反応した。何かを背後に隠し、ちらちらと視線を走らせる。

「変なやつだなぁお前。どうしたんだよ」

 泳いでいた視線が、ある一点で引っ掛かったように止まる。

「親父、アレ」「ん?」

 指差された方を見る。

 庭。

「庭が、どうかした」

「ほらぁ、よく見てよ、あそこ!」

 陽平の指の先で、素足にビーチサンダルを履いた夢佳が楽しそうに花を摘んでいる。

「ユメって、さっき二階へ行ったよな?」

 黙って頷く。

「一緒に、見たな」

 二人は顔を見合わせると、すぐさま陽平は庭へ、義久は二階へと向かった。

 おかしい。どう考えてもおかしい。二階から庭へ出る方法なんて無い。短時間であそこまで行く事など出来はしない。

「はぁ、はぁ……ユメぇ?」

 二階の窓から顔を出すと、庭先に二人が佇んでいるのが見えた。広い庭の端には、ひどく傷んだトヨタの古いセダンが放置されている。

「なぁ~にぃ~?」

 元気に手を振る末の娘と、頸を傾げる息子。夢佳はまだ五歳だが、不思議と大人びており、小学三、四年生とよく間違えられる。普段は何とも思わずとも、こうして遠目に見ると確かにませて(・・・)見えた。

「なんだぁ、驚いて損した」

 何もないじゃないか。途端に馬鹿らしくなり、のらりくらりと部屋を出掛かる。


   ――お父しゃん――


( !? )

 振り返っても開け放たれた窓があるだけで、もちろん夢佳などそこに居る筈もない。

 しきりに頭を振りながら、足早に階段を降りた。


 昭和三十年代に屋根を葺かれたまま幾千の風雪に耐え忍んだ古民家というのは、一つの業に生涯を賭した職人のような威厳と、確たる風格を兼ね備えている。

 そこが世界から見た日本人のイメージと重なるらしく、海外からも人気があり、古民家専門の雑誌なども英語圏では出回っているという。

 また、日本のアニメは国民の日常生活を密接に描き出しており、多数のアニメ作品から影響を受けた外国人が自国の土地に日本家屋や日本庭園を築くという行為が流行って久しい。中にはなんと日本の宮型霊柩車に趣を感じ、シボレーやフォードのフルサイズピックの荷台にお宮を乗せて走る『Zen-Rider』という酔狂な人間もいる。クールジャパンは、必ずしも日本人側から見てもクールとは限らない。


 朝露を載せて燦然と苔むす屋根の上で、一匹の三毛猫が瓦と同じ色の体毛を丁寧に舐めている。物件訪問をした時から、この家にはどういう訳か猫が寄り付きやすいという旨は再三聞かされている。しかし立地条件から考えてそれは仕方ない、という牧浦家の柔弱且つ良い意味で杜撰な態度もあり、不動産屋も特に干渉しなかった。

 当の不動産会社はといえば、なかなか買い手が付かない上に管理費ばかり掛かる大食らいの当物件を持て余していたので、牧浦家の登場は渡りに船、まさに一家は救世主も同然だった。

「なんせここ、元は旅館だった建物に改修工事を繰り返した老物件ですから」

 前住人は七年前からここに住み、つい先日、夜逃げ同然に姿を消したらしい。 

 いわゆる〝曰く付き物件〟の類に入るのだが、人死には直接は聞いていない。

「四五五坪あって、建坪当たりの値段を一万六千円に落としても売れなくて。スペイン人を相手にセールスしたり、地元の特産品を一年分プレゼントするって特典を付けても売れなくて。もう、何をどうしても売れなくて、同業者に破格の値段で託そうかと諦めかけていたら、牧浦さんの登場です」

 もとより、ある意味で双方がそれぞれカモであり一切騙しっこ無しのwin―winが実に滑らかに出来上がった商談だった。

 

 猫が胸郭を膨らませてニャーと吠え、それが家を囲む密林に木霊した。

 まるで可愛い気のない、どっしりと重い貫録を湛えている。

 陽平が屋根を仰いだ時には、そこに影も形も無かった。


 団地やアパート住まいの人間なら考えられないであろう十六帖もある台所では、義久の妻・幸代(さちよ)が食器類の段ボール箱を解き、包装の新聞紙を剥がしていた。

「ふう~、疲れちゃったよ。少し休んだ方がよさそう」

 会社の作業着姿で入って来た夫。飯場に転がり込む土建工のような達者さがある。

 一方で証券会社の厳格なOLであった幸代は質の良い黒髪を一纏めにしており、気丈な印象を与える女性だ。

「ちょっと。子供たち、さっきから随分騒がしいわね。鼠か何か居たの? まぁ前の家と違ってお隣さんがいないから、いくら騒いでも気にしなくていいけど」

 どことなく浮かれ気味に手回しをしながら、上目遣いに夫を窺う。

 義久は心ここに在らず、という風に腰に手を当てがった。

「いや、別に何でもないと思うよ。そういえば美鈴はどこへ行ったの」

 幸代は夫婦の思い出のRIEDELペアグラスからこちらを透かし見た。

「二階に居なかった? ほら、突き当たりの、庭に面した窓の部屋」

「……いや」

 義久はガクガクと首を振る。

 冗談はやめてもらいたい。その部屋なら、今し方飛び出してきたところだ。

「行ったけど、居なかった」

 幸代はふっと息をついて段ボール箱の奥底から土鍋を引き揚げた。

「んー、じゃ知らないわよォ。トイレじゃないの――あっ、もう嫌ね」

 縁側の方から酷いドラ声が響く。それも結構近い所だ。

「猫か」

「山合いっていうのもあるし、この辺はホント猫が多いわねぇ。前に住んでた人が餌でもあげてたのかしら。イイ迷惑」

 首に手を当ててポキポキと鳴らす。

「あなた、暇なら少し手伝ったらどうなの」

 調理器具の詰まった段ボールをこちらへ寄越した。

「あぁうん、でもちょっと待ってよ」

「別に今すぐとは言ってないけど」

「そう……そうか」

「なによ、その感じ」

「え、いや別に。何ってわけでもないけどさ」

「意味分からないわね、あなたって」

「……おまえな……はあ。もういいよ」

 彼は、ここ暫くは妻とまともな〝会話〟をした記憶が無い事を改めて思い直す。

 すれ違い。もともとは赤の他人だったのだから、人生のどこかでこうしてすれ違うのも必然と思えばそれで済む話じゃないか。

 それなのに、なんたるか、この空虚で憂鬱で焦らされる……もどかしさ。

 熟年。中年。いよいよ自分が、そして妻が、オジサン、オバサンとなっていくのが残酷に目に見えてくる。その事実が心の中を薄ら笑いを浮かべて跳ね回っていた。

 先程から妙な胸騒ぎがする義久は、再度二階へ上がろうと階段室の引き戸を開けかけて、聞き慣れぬ呼び声に動きを止めた。反射的によく通る声で返事をする。

 速足で玄関へ行くと、どてらを着た小柄で猿のような老人が佇んでいた。

「どちらさんですか?」

「あぁ、急にどうもすんませんね。私そこの杉野いうモンです」

「あー、わざわざどうも……はじめまして牧浦です」

「牧浦さんね。あのこれ、もしよかったらまた食べてください。肉とか巻いて煮出すと美味しいですから。甘みが強いんですわ」

 そう言って、段ボール箱一杯のキャベツを差し出した。

「初対面なのに、ありがとうございます。わざわざご足労お掛けしまして申し訳ありません。立派な春キャベツですねえ」

 唯一の御近所さんらしい杉野とありがちな挨拶を交わし、後ろ手を振って帰る姿を見届け、さて二階へ、と思った時にまた来客があった。今度は若い女性である。見たところ長女と同い年くらいだが、服装はあまり普段着らしくなく妙に畏まっている。

「こんにちは、お引越しおめでとうございます」

「ありがとうございます。えっと、どちら様?」

 女性は控えめに微笑み、

「名乗る程の者ではありません。ただ、お伝えするべき事があります。娘さんに……またやり直さなきゃね、とお伝え下さい」

 義久は眉を跳ね上げた。

「はい? やり直す?」

「では、失礼します」

「あの、ちょっとどういう事ですか? 待って下さい」

 慌てて靴を履いて玄関を出ると、既に女性の姿は無かった。


 鼻から唸りを吐きながら、驚くほど急勾配の階段を慎重に上がる。

 この違和感には心当たりがある。仕事でいつも通りの時刻にいつも通りの箱(パネルバンの四tロングトラック)に乗って会社を出る時分、同じ感覚に襲われる事がままある。この前は大事な業務用携帯電話を事務所に置きっ放しで、それが違和感として知らせてくれていた。

 あの時と全く同じ。居ても立っても居られない、鬱陶しい不快感。

「……………………」

 半開きの扉からそっと中を覗くと、そこに幻想のように少女の後ろ姿が揺れていた。

 一瞬、ゾッと背筋が凍る。しかし気付けば、その甘美なバックシルエットにすっかり魅入っていた――アッシュ・ブラウンに染めたセミロングの良質な髪が、細くてもしっかりと曲線美を描く首筋をなぞる。しきりに吹き込む(おろし)が毛先を掬って神秘的に靡かせている。湯上りのように官能的で柔らかい香りが義久の鼻腔に届いた。

 我が娘ながら何とも湛えられぬ艶美な色気に息を呑む。これでもまだ二十歳だ。

「美鈴」

 くるりと振り向いた、小作りで整った顔が印象的である。

「なに、どうしたの」

 微かに首を傾げた仕草がドキリとさせる。

「お前こそどうしたんだ、一人でそんなとこ突っ立って」

 義久は緊張が解け、部屋に踏み入る。

「待って」

 徐に一歩、歩み寄る。

「ん?」

 美鈴は小難しい顔で、こめかみにそっと指を置いた。

「なに、どうした美鈴」

「――ううん、なんでもない――気を付けて。すごく危険だから――」

 危険。

 嫌な予感でもなく。違和感でもなく。はっきりとした危険。

「危険?いったい、な」「何でもない」

 すぐに元の場所へ視線を戻した。

「そ、そうか。ここで何してたの」

「別に。どういうレイアウトにしようかなと思って」

「あぁそう……あの、もし手が空いたら母さんの手伝いしてやってくれるか」

 妙に居心地が悪くなった義久は、なよなよと語尾を濁し、やっとこさ言い終えた。

「イイよ。何なら今からでも」

 立ちんぼする父親をしなやかに躱すと、弾むように階段を駆け下りていった。


 枷木(かせぎ)市南端に位置する郊外の町、(くら)和戸(わど)町。

 数十年前に時が止まったような閑静なベッドタウン。世相を知らぬ反面、時間が緩やかに流れ、多少の不便はあってもストレスはあまり溜まらない。そうした所以で子育てと老後にはもってこいだと担がれている。自然がごく身近にあり、養育環境、地域自給率とも良好。

 ……そんな評判は、なかなか聞こえが良いものだ。

 喘息持ちの末っ子、夢佳の身を案じたのと、それまで住んだ家の外壁が経年劣化でヤレてきたのと二本立ての大義名分で以て、この地へやってきた。

「不動産側としてはさ、時代遅れでニーズも低いあばら家なんて早々に処分したいと思ってる筈だよ。いつまでも居残って管理費を毟り取る古参物件とよーやく手を切れて、さぞかし好都合だろうなあ。さて、俺達で大事にしてやらなきゃなあ」

 義久は引っ越し決定の日、缶ビール片手に今回の〝美談〟に舌鼓を打った。

「また浮かれてる。お父さん、その子供っぽいとこ治らないの?」

 美鈴は眉を寄せた。幸代も腕を組み直す。

「そうよアナタ、この間だってそうじゃない。アタシになんの断りもなく急に自転車買ってきて。それも十五万もする自転車なんて、誰も買わないわよ。自転車に十五万だなんて……考えられない」

 塩水で洗った苺を一粒摘まんだ。義久は憤慨する。

「なんでだよ~、そこら辺の自転車とは格が違うんだぞ。堅牢が売りのドイツ製! 漕ぎ出しがこう、スーッしてとんでもなく軽くてさ、最高で80キロ出せるんだから。空気圧も8K?で雨の日なんかは」「もう分かったってば。お父さん、男のクセにほんと惚れっぽいね」

「ほんとよ、ねぇ」

 家の魅力(美鈴からしたら魔力)に憑かれたのも併せての苦言だった。


 皆がニコニコ笑って迎えるのが引っ越しか?

 夢の新生活が始まるのだから、それが絵面としては好ましい。

 ところが一人だけ笑っていない者がいる。美鈴だ。国立大学心理学部で学ぶ三回生で性格は柔和ながら一本筋が通り、気丈な面もある。見た目の清楚さから人気もある。

 更に交際して九ヶ月を迎えようとするボーイフレンドがおり、何の変哲もなく女子大生をやっている。

 ――問題は彼女の体質にある。

 霊感……並の人間から一歩はみ出たスピリチュアルな能力。

 それは彼女が十一歳の頃、突如として宿った。それ故に今まで助けられた事も、逆に迷惑を被った事も五分五分の御相子状態だ。

 彼女自身、自分は人と少し違っているけれど、自分には何も悪いところは無いと胸を張っているだけ偉かった。そもそもそういった超常現象だの、怪奇現象だのを信用しない両親は、唐突に覚醒した娘を前に気を病んでしまったのではと懊悩した。しかし知人に相談したりして聞き出すと、皆が愛娘に望まずとも宿ってしまった『力』であると口を揃える。

 因みに霊能力者なんていう、鼻に虫でも入ったような人間に相談する気は毛頭無い。

 結局、解決策は見出せず。

 未だ完全に信用してはいないが、どう向き合っていくか悩む自分らとは違い潔い姿を見せた娘を誇りに思っている。女性の覚悟は岩をも通すという。これは正に、その言葉通りだった。

 

「ねぇ、コレ何かな?」

 美鈴は押入れの奥からラーメンどんぶり程度の木箱を引っ張り出した。

「さあ何だろう? かなり汚いね。前の人が置いて行ったやつじゃないかな」

 父は愛車のドイツ製ロードバイクを磨く手を止め、美鈴の横に膝を畳んだ。

「よっこらしょ。どれ、こっちに貸してごらん」

 彼が蓋を開けようとすると、とてつもなく硬い。思い切り引き上げても、まるで溶接でもされているようにさっぱり手応えがない。木製の薄い蓋がこんなに固い筈がない。

「あだっ!!」

 火傷でもしたように放り出した。

「お父さん大丈夫!?」

「いててててて……うわ、見てよほら。棘が刺さっちゃった。いてーなー」

 右手の人差し指に木のささくれが食い込んでいた。すぐさま水道で手を洗いながら「それはもうゴミに出そう。気持ち悪いし、汚いし」と呟くや、そそくさと自分の世界に篭ってしまった。

 投げ捨てられて逆立ちした木箱を拾い上げ、思い付きで蓋を引っ張ってみた。

「え?」

 何の雑作も無く開いた。体格の良い父があれだけ赤くなってもビクともしなかったというのに、美鈴のネイルを施した華奢な指でいとも容易く開いた。

 風化した箱の中には、古い新聞紙に包まれた何かが入っている。

 一瞬躊躇ったが、もう見てしまったのだから……意を決し、手を伸ばす。

 包みの中から現れたのは炭のような、しかし辛うじてそれが何か分かる物体だった。

「リンゴ?」

 脳裏に昨夜視た夢の映像が閃く。毛のびっしり生えた林檎が飛んで来る悪夢。目が覚めた直後こそ恐ろしいと戦慄したが、今になって思い返せばどうしようもなく馬鹿らしい。 

 なに、ただの不安が見せた悪夢に過ぎない。重く考える事も気を煩わす必要もない。

 林檎を元通りに包んで箱に仕舞い、しっかり蓋をして押入れの奥に押し込んだ。

 その晩は引っ越し記念として寿司を食べに行き、慌ただしい一日目が幕を閉じた。

 

          ***


「んん……あれ、何これ……」

 夜中に目が覚めたが、体がやけに固くなっている事に驚いて飛び起きた。

「うがっぐへッ」

 胸に何かぶつかる。これは――車のハンドル。メーターパネルも見える。

 すぐに庭先に放置されているマークⅡグランデの車内に居る事が分かった。

「え?……私どうしてこんなところに居るの……?」

 長らく放置されていたであろう車内はひどく黴臭く、苔のようなものが繁殖してシートの背凭れはヌルヌルとしていた。

「何これ、気持ち悪ッ! やだっ」

 ドアを開けようとレバーを引いたが、中でロッドが死んでいるのか手応えがない。

「開かない、なにこれ、お父さーん!」

 窓を叩いても、音が異様に篭る。空気の濃度が周りより薄いように感じる。

「お父さん、陽平! 出してー!」

 心臓が飛び出しそうになった。

 まるで彼女の悲鳴に応えるかのように、かかる筈のないエンジンが咳き込んでクランキングを始めた。美鈴は瞬間、身を硬直させた。ありえない。

 セルモーターは途中で何度も引っ掛かり、苦しそうにまた回り始める。

 やがて激しい振動を伴い、機関内部に火が入った。真っ黒い煙が濛々と立ち昇り、むっとする焦げた臭い、古くなったガソリンのなんとも言えない刺激臭が車内に充満した。

「何なのこれ!?」

 苔むした窓を叩き、声の限り叫ぶ。車ごと深い水底に沈んでいるようだ。

「聞こえないの……ちょっとみんなぁ!」

 回り始めた機関は喘息患者のように覚束なく吹け上がり、回転数を上げてギアが入り、地面に埋まり込んだタイヤを脱出させてゆっくりと走り始めた。

 車は彼女を乗せて門から細い一本道に出ると速度を上げ、道に降りると、そのまま峠を昇り始めた。アクセルペダルがしきりに浮き沈みを繰り返し、ハンドルは生き物のように自在にくるくると回って舵を執っている。

「止めてよ!! 止まれっ!! このっ」

 美鈴は去年の夏にAT限定免許を取得しており、運転の心得はある。

「止ぉまれぇええ」

 両手でハンドルを掴み、フットブレーキに全体重を掛ける。しかし車はその抵抗をものともせず、頑なに走行を続ける。サイドブレーキを引いても同じだった。車自体に強い意志が取り憑き、まるで聞き入れない。彼女はこめかみに刺すような痛みを感じ、尋常でない悪意をひしひしと感じ始めていた。それは生きている人間の情念ではなく、この世のものでない――三途の川の川底に積もった汚泥――そこから発する負の想念が、一途に車輪を回していた。

 濁った橙色したヘッドライトが切り拓くきついカーブへひたすら切り込む。牧浦家より

上の方、立ち入り禁止になってから道は荒れ放題だ。車輪が道のコブに乗り上げる度、振

動が尾?骨から脊髄を直撃した。

 腐食した車体は今にも分解してしまいそうな、危なっかしい音を立てている。

 不意にハイビームに切り替わり、真っ黒な洞穴を照らし出す。

「イヤだ、ダメ……あそこはイヤ!!」

 渾身の力でハンドルに縋る。

 曲がらない。

「お願いだから!!」


 ヘッドライトの黄色い光が、髪を振り乱した和装の少女を一瞬、鮮烈に照らし出した。


「きゃああああああああああああああああああああああああああああ」


 残響と共に目を覚ますと、まだ夜も明けていなかった。


          ***


『あ~。アレはですねぇその、前に住んでいらした方が乗ってみえて、ここを出る時に置いてそのままなんですよ。ええ。だけれども前にもお話したように、もう夜逃げみたいな形で一晩の内に出て行かれたものですからね。細かい家財道具なんかはウチの社員が一通り片付けましたけど、車だけはどうしても業者の手配の都合がつきませんで、ええ』

「そうですか。分かりました。また何か分かったりしたら、連絡を頂けますか」

『ええ、結構ですよ。はい、では失礼致します』

 通話を終了し、カレンダー式の待ち受けに戻る画面を見届け、

「何でもないって。お母さんの言った通り前の人が捨てていったって」としおらしく告げた。

 それを聞いた美鈴は眉間にありったけの皺を寄せ集める。

「そこじゃない、それが聞きたいんじゃなくて」

「何が知りたいの」

 母はシンクに向かいながら、面倒臭そうに拳で肩を叩いた。

「私はあの車がどんな人に、どういう風に扱われて、どういう経緯であそこに至ったかを知りたいの。例えば事故を起こしていないかとか、人を轢き殺していないかとか、練炭自殺に使われなかったかとか、そういう、いきさつの部分を聞きたいの」

 今までの経験からして、物がこうした夢や幻覚・幻聴でアプローチを仕掛けて来る場合は、その物の持ち主や過去の持ち主の念、残留思念が関係している事が多い。

 稀に物体そのものの感情が現れる場合もあるが、それはかなり特殊なケースだ。

 今回は車がアプローチを仕掛けてきた形だが、それはあくまで表面上の形であり、果たして車そのものの感情なのか、その夜逃げしたというかつての持ち主か、はたまたこの車に轢き殺されたかもしれない誰かなのか、意志の正体がはっきりと分からない。

 母は太く短い溜め息で返す。

「そんなこと、たかが不動産屋が知る訳ないでしょう。だいたい夜逃げみたいに居なくなったって事は、金銭的に苦しくなって借金取りから逃げたとか、殆どそういうものよ。そんな風に人様の事をあれこれ詮索しないことね」

 夕食の皿を洗いながらぶっきらぼうに問答する母は、勘違いが激しい。

 人様の過去を知りたいのではない。車の過去を知りたいのだ。

「詮索とかじゃなくて、把握しておきたいだけ」

 美鈴は視線をずらし、少しばかり開いた換気用の窓から、丸太のように地面に埋まり込んで憮然としている車を見やった。苔むして磨り硝子のようになったウインドウの先に、いつも人間がじっと座っているように感じる。

 こめかみがズキリ、疼く。

「別に近付かなければ済む話じゃないの?」

「庭にある時点でもう十分近いって」

「だったら自分でお金貯めて、レッカー屋さんでも呼んだら済む話。はい、もうこの話はお終いにして。お母さんも忙しいから」

 チタン製のよく砥いだ刺身包丁の水を切り、頭上に設置した刃物差しに差し込んだ。

「……近付かないも何も、真横にあるんだもん。どうしようもないじゃん」

 聞こえないように呟いてから、傍らの椅子を引いてそっと腰掛ける。

「あなた、レポートとかあるんでしょ。さっさと仕上げちゃいなさい」

「あっち~。炭酸ない、炭酸」

 バスタオルで濡れた髪を拭きながら、弟の陽平が現れた。

 すぐに険悪な空気を察知し、引き攣った笑顔を作る。

「何? どうしたの二人とも。なんか殺気感じるね」

「ううん、何でもないのよ。冷蔵庫の中、見てごらんなさい」

 母は煮込みうどんを拵えた土鍋に大量の水を注ぎながら、涼しく返答する。

 しかし姉の表情を見る限り、少なくとも〝何でもない〟事はない。

 陽平は思い出したように軽く指を鳴らした。

「姉ちゃん。またアレ、感じたんだろ」

 美鈴は冷蔵庫へ向かう弟の背中に、氷柱(つらら)のような視線を突き立てた。

「馬鹿にしたように言わないで。大変なんだからね、当事者は」

 瓶サイダーをそのまま呷ってから、やれやれ、といった調子で応える。

「ごめん。だけど姉ちゃんさぁ、体質なのは仕方ないけど、気にし過ぎなんだって。そこは努力の問題だよな? 流石に引っ越し翌日にそんな事言われちゃあ、俺ら家族の方こそどうしようってなるからさ」

「だから、アンタには見えないモノとか聞こえないモノとかが私には分かるの。これのせいですごく神経使うのよ。よく軽々しく扱えるよね」

「はぁ~いはい……この会話、うちの中だけだから通用するけど、他所でやったら姉ちゃんが変人扱いされるぜ。それとも、今日生理だっけ」

「陽平。あなたって子は」母が露骨に嫌な顔をする。

 そう、これこそが持ち得る(・・・・)()が直面する最大の障壁。他者の理解が得られない事だ。

「もうアンタ、ほんとどうしようもないわ。ダメ、幻滅だわ」

 気付けば、吐き捨てるような話し方になっている。陽平は激しく噎せ返る。

「あのさ。じゃあ姉ちゃんが今、一番イヤな感じがするものは一体なんなの? それを教えてくれたらオレも一緒に考えてみる。何かできないか」

「それ。この車」

「え?」

 陽平は換気窓から外を見て、吹き出した。

「このポンコツ? 廃車じゃん。粗大ゴミだよゴミ! 何が怖いの」

「今日、これが夢に出たの。すごくイヤな感じがする。なんというか悪意を感じる」

 今に始まった事じゃないが。下見の時からだが。

「いや、俺は何も感じないけどなぁ。本当にヤバイやつだったら、俺も真っ先に察知しちゃうタチだからさ。うん、たぶん何もないぜ」

「もう、イイ加減にしてちょうだい。気持ち悪い」

 黙っていた母が箸を洗い終え、水を止めた。

 美鈴は飲み物を注ぐためのマグカップを取りに席を立った。

「気持ち悪いのは私の方なんだけど」

 母の返事は無い。

「どっちもどっちだろ。こんなゴミ、親父の知り合いに頼んですぐ――あぶねぇッ!!」「きゃんッ!!」

 陽平はヒラリと身を躱し、美鈴も後ろに倒れ込んだ。

 間一髪だった。二人の正面の床に包丁が三本、垂直に落下してきた。

「あ、あぶなかったァ……!」

 包丁は三本とも卒塔婆のように床に突き立ち、明りを反射して攻撃的に光っている。

「あぁビックリした。二人とも大丈夫だった? ちょっと、どうなってるのよこれ」

 幸代は包丁立てを確認した。二本のビスで留まっているうちの一本が緩んで外れ、重みで振り子のように回転し、立ててあった包丁が勢いよく投げ出されたらしい。

「……冗談じゃない……」

 美鈴はゾッとして、思わず自分の肩を抱いた。

「おーい何してる?」

 ただならぬ様子に義久まで現れた。

「~それは危なかったなぁ。とにかく怪我が無くて良かった。包丁なんて刺さったら、一大事だもんな」

 義久はビスの代わりに釘を打ち込んで応急処置をし、後日ホームセンターで新しい包丁立てを買う事にした。


 どうも納得できない。

 過去に起きた猟奇殺人事件を特集しているテレビ番組に生ぬるい視線を向けながら、緑茶のカップを傾ける。

 包丁は、陽平を狙って落下したように思う。

 陽平が車を嘲笑したから?

 そんな馬鹿な。ありえない。どこにそんな根拠が。

 根拠。

 怪奇現象に、根拠。

 何を。馬鹿げているのは、自分の頭ではないか。


          ***


 起床し、カーテンを開ける。風光明媚で緑豊かな山々が春の麗らかな日差しの中で色濃く描かれ、絵画のように美しい。 

 元々はこの先の盆地に村があったらしい。中腹に位置するここでもこんなに気持ちがいいのだから、高所の盆地ともなれば地上の楽園だったろう。日本らしい景色が大好きな美鈴は、暫し大自然に憩いを求めていた。

「ふぅ」

 階段を降り、リビングもとい台所の引き戸を開ける。

「……あれ」

 いる筈の家族が居ない。サイフォンには熱いコーヒーが沸かされ、よく練られたマーガリンにはバターナイフが刺さったまま。TVではおたまじゃくしの大発生に悩む農家のニュースが流れており、飼っている金魚は自分を認めるなり餌を求めて水面に上がってきた。いつもの風景の中に、異様な静けさだけが立ち込めている。

 音としての静けさではなく、空気が、どうしようもなく硬かった。

「お母さーん。お父さーん」

 返事は無い。妙な蒸し暑さとひりつくような喉の痛みが絶えず襲っている。

「陽平ー。ユメー」

 風呂場、便所、父の部屋、庭。どこにも誰も居ない。

 こめかみがズキリ、疼く。

 まさか寝過ごしたかと思って時計を見るも、ちゃんと午前七時九分を差している。

 美鈴は自分の呼吸の音を意識した事なんて、いつ振りだろうかと真顔になった。

「今日は何も予定は無かった筈……」

 牧浦家は怠け者の集まりだから、そもそも早朝から何処かへ繰り出すなんて大災害でも起きない限り有り得ないことだ。

「そうだ、車」

 スリッパを突っ掛けて駐車場(と言っても、ただの家の陰)へ行ってみた。ある。母のマツダ・デミオと父のヴィクター・レオンは仲良く並んで停まっている。玄関脇には弟の原付もしっかり在宅だ。

 スマートホンを取り出し、母に電話を掛ける。

『お掛けになった電話番号は、現在使われていないか、電波の』「なんで?」

 全員の番号が繋がらなかった。そんな筈はない。いくら山奥とはいえ、電波が届かないという事はない。アンテナもしっかりと立っている。

「どうなってるの」

 美鈴はとうとう家を飛び出し、五十メートル程走ってお隣さん(・・・・)の杉野宅へ駆け込み、インターホンを押した。いつも早くから畑に出ている杉野(すぎの)達也(たつや)氏の在宅は、窮屈なスペースに停められた軽トラックで判断する。

「杉野さーん! 早くにすみませーん、杉野さーん!」

 再三呼び掛けても、返答がない。はっとした。先程から人の気配、人間の発する周波数が全く感じられない。空気が静まり返っている理由はこれではないか。博物館にある精巧に再現された、しかし生活感に欠けたジオラマの中に一人で居るような感覚。

 過去にも経験がある。

 中学生の頃。初恋の男子とのデートで廃業した遊園地に遊びに行った際、用を足すために離れていった男子を待つ間に感じた。本当は華やかで賑やかなはずの場所が怖いと思うほど静まり返っていると、空間がぐるぐると回り出すような錯覚に陥り、その場からぴたりと動けなくなる。その時と全く同じ感覚だ。

 風が吹かない。

 音が鳴らない。

 日が傾かない。

 気が付くと、どこをどう通って来たのか、町内会長の家の門前に立ち尽くしていた。自宅からここまでは車で十五分は掛かるというのに、意識は掻い摘んだように唐突に「今」にアクセスした。恐る恐る戸を叩くが、やはり返答が無い。

 また気が付くと、高校時代の友人のアパートの廊下に立っていた。目の前には、友人の部屋のドアがある。自宅から四十分は掛かる場所だ。もちろん人の気配は皆無。

「みんな、どこへ行ったの」

 思えば、街にも人や車の往来がまるで無い。

 誰も渡る者の居ない交差点、見る者の居ない信号、客の居ないコンビニ、動かない電車、鳴らない踏切警報機、下りない遮断桿。

「おかしい。ありえない」

 半ばパニックになりながら家に帰り着いた。

 つい先程まで清々しい朝だったのに、もう夜が更けていた。

(!?)

 ――敷地の入り口に佇む、黒い塊――

 (わに)のようにずんぐりと構えて身動(みじろ)ぎ一つしないソレは、雲の切れ間から差し込む満月の灯りに朧に照らし出された車だった。こちらに鼻面を向けて蹲るセダン。

「……うそだ」

 マークⅡグランデ。

「どうして、動いてるの」

 月光でぼんやりと浮かび上がった車体は、その問い掛けに応えるかのように静かに近付いてくる。夢の光景が閃く、白昼に視た車内に居座る人の影。タイヤが土を踏む湿っぽい音だけが鮮烈に耳殻を這い回る。

 美鈴は片足を引いた。黙って動向を見守る。

 やがて、炎のような青白い靄が車体を包んだ。

 魅入られたように少しも動く事が出来ない。

 車は敷地から道に出たところで音も無く加速を始め、無音で急接近を仕掛けてきた。

「っ……!!」

 いよいよぶつかると思った矢先、目の前に巨大な猫の顔が現れた。

「うわっ!!」

 ベッドに寝ていた。その顔を一匹の小奇麗な白猫が覗き込んでいる。

「ひい、なにっ!?」

 美鈴が驚いて上体を退くと、向こうはヒラリと身を翻し、開け放たれた窓から外へ出て行った。カーテンが風も無いのにそよそよと、機嫌良さげに揺れていた。

 ひりつくような胸の痛みに、眉間に皺を寄せながら小さく喘ぐ。

「……この家、本当にやばい……」


          ***


「本当にまずいな。それは」

 カップにミルクを注ぎ、表情を曇らせる。

「どういう風に、まずいと思う?」

 口内と同じ苦みが感情からも滔々と湧き出して表情に困る。

「廃車に狙われてる。気を付けろ」

 三船(みふね)(ゆう)。経営学部三回生で美鈴のボーイフレンド。短い黒髪と林業のアルバイトで日焼けした肌が美鈴とは対照的で、凸凹カップルとよく冷やかされる。小中高と水泳で鍛えた体は逞しく、一八○強の身長もあって精悍な印象を与える。

 また、当キャンパスで密かに活動する【護身術研究会】の副会長も務めている。

「狙われてるって? それすっごく嫌な表現だね」

 優は両手の指を絡ませては解しを繰り返している。

「夢のアプローチの仕方からして攻撃的だからな。悪意しか感じられない」

「だから狙ってるって解釈は早とちりというか、誤解というか」

「いやいや。事実何度も夢に出て来て、決まっておまえに嫌がらせしてくるんだろ。その車、おまえに危害を加えようとしてる」

「じゃあそれがどんな内容で、且つどれくらいのレベルで私に干渉しているのかが全くもって見当」「おは~!」

 突然、突き抜けて明るい声の女子が割り込んだ。

「お、おは」

 優はさっと目を逸らした。

「なになにコレは、優君が美鈴の癒えない心の傷を、文字通り優しくケアしてあげてるリア充の図かな?」

 佐藤(さとう)(かえで)。教育学部三回生で去年の研究合宿で知り合った仲だ。名前だけの登山サークルに所属し、この季節はいつもトレーニングという名のハイキング、新規開拓と称する探検ごっこに嬉々狂々と興じている。今日もキャップを逆向きに被って薄手のパーカーにジャージのボトムというラッパーなファッションに身を包んでいる。

「相ッ変わらず喧しいな。この空気読めねえか?」

「暗いよりかよっぽどマシでしょ。あ、アイスコーヒーいいな~あたしも頼む」

 優は半ば呆れながら、隣の椅子にあった鞄を下ろして彼女に席を設けてやった。

「お、優君の隣ゲット! 嫉妬するなよ」

「どこに嫉妬する要素があるのよ」

 楓の登場によって一瞬明るくなった空気も、話が戻った途端、再び陰鬱になった。

 しかし楓は空気に毒されるという事はなく、彼女を混ぜると幾ばくか話が展開し易くなるのだった。その意味では一役買っている。

「ちょっと見てみたいんだけど、そのクルマ」

 仕舞いにはそんな事まで言い出す始末。

「本気で言ってる? もし冗談だとしたら、今のうちに撤回してほしい」

 美鈴は体ごと楓に向かって、文字通り全身全霊で抗議の意を表した。

「冗談で言うワケないじゃん」

「だめだめ! 関わらない方がイイよ。ああいうのは本当に厄介だから」

 美鈴は楓の片足を弾き返そうと、柄でもなく躍起になった。

 というのも楓は性格こそ突き抜けて明るいものの、霊や某かの思念の影響を顕著に受けてしまう、俗に言う憑依体質の持ち主なのだ。これまでに何度か彼女の危機を優と美鈴で救ってきた過去がある。

 そしてそれを知るのも、守れるのも、自分たちしか居ない。その責任感があった。

「そうだぞ。今回は本当によしとけ。悪い事は言わねぇから」

 ゆえに優も折を入れるが、楓の瞳は悪い意味で童心を取り戻していた。

 こうなると、とうに手遅れなのだ。

「うは、盛り上がってきた。じゃあ明日の午後ね。二人とも講義入ってないよね?」

「お前、人の話を聞くって事が出来ねぇか。それにこの前、金曜はロシア語が入ってるとか言ってなかったか?」

 優は背凭れにふん反り返って渋顔を見せた。せっかくバッセン打ちっぱなし5時間に誘ってやったら、ロシア語は予習が命だと抜かしてすっぽかされた恨みが未だに消えない。

「いーのいーの、サボッちゃえあんなの。教授は滑舌悪いし声も小さいから何言ってるか分かんないし。ニ・ヴァルヌィスィア!」

「お前、絶対ロクな男に恵まれない」

「はあ!? そっちこそ美鈴と出逢わなかったら未だにただのムサ苦しい泥マッチョでいたでしょーに!」

「うっせえ。教育学部が売り言葉に買い言葉で喧嘩するな。ガキの喧嘩とめる側だろ」

「喧嘩吹っ掛けたのはそっちでしょーが!」

 美鈴は紙ナプキンで口を拭いながら、血気盛んな二人に聞こえないよう溜息をついた。


          ***


 電車とバスで一時間半を費やし、楓と優が来てしまった。

 結局、来てしまった。

「あたし、こう見えても実はれっきとした霊感少女でね」

「しょうじょお? いや、ちょっと待て。ちょっと、待て。お前しょうじょなのか」

「なんか文句あるの」

「日本語、分かるか。しょうじょってのは」

「それ次言ったら祟り殺すからね」

 道中、ずっとそんな事を囁いては斜めの方向に二人をビビらせる楓だったが、最寄りの鵜集(うつどい)駅を降りた辺りから急に体調不良を訴え始めた。

「あ~、また痛くなってきた」

 庫和戸町に入ってから、ずっと両肩が痛いという。

 そして一歩一歩は待ったなく、牧浦家が近付くにつれ訴えは激しさを増す。

「どうしたの。ちょっと大丈夫?」

 美鈴が心配して肩を抱いてやると、クラッと力が抜けたようになった。

 その様子を見て、全く霊感の無い優でさえ気味悪さを隠し切れなくなっていた。

「ほら見ろ、ロクなことにならねえだろ。佐藤。もう帰った方がいいぞお前」

 彼はコンビニ駐車場などのちょっとした空間を見つける度に楓を引き留めようと努めるが、これが不思議なことに彼女は頑として聞き入れない。

「……いやだ」

「あぁ!?」

「ここまで来たのに、ノコノコ帰る訳にはいかないってば。女の好奇心ナメないでよね」

「下らねぇ事言ってんじゃねえよ。ノコノコ行って何か持ち帰る方がリスクだろうが」

「リスクなんて気にしてたら、何も出来ないって」

「おま、お前なぁ! 自分が人に迷惑かけてるってこと分かってんのか!」

「ちょっと優、落ち着いて。そこまで言わなくてもいいから」

 延々それの繰り返し。銀行の正面で十五分も押し問答したが、それでも帰ろうとはしない。それで結局、二人は彼女の執念に根負けしてしまう形となった。

 楓はバスを降り、細い未舗装の道を歩いている時も頻繁に躓いていた。


「――コレなんだけど」

 美鈴はぎこちなく、草と苔に覆われて自然に還りつつある車を紹介した。

 優もこの家に来るのは初めてで、マークⅡグランデをしげしげと観察する。熟練の材木職人が目利きをするように、いろいろと姿勢を変えて矯めつ眇めつした。

「この車種か。とんでもなく古いやつだ」

 彼は車に対しては怖いという素振りを全く見せず、すぐ無関心になった。

 楓はといえば、ただじっと見つめるのみ。美鈴はすぐさま車から離れ言葉を繋ぐ。

「それはそうとして、大事なこと言うよ。この車は前の家主さんが夜逃げみたいに急に失踪して、置き去りにされた物らしいの。ただここに捨てられてる訳じゃなくて、どうも訳アリらしくて……不動産屋の人も詳しい事は分からないみたい」

 ここで優の表情がぐしゃりと歪む。

「夜逃げ? 初耳だぞそんな事。俺はただ、庭に放置されてるとしか聞いてない」

 彼女に対しては珍しく、声を荒らげた。こういう声を出すこと自体は珍しくはないが。

「ごめん。なかなか外では言い辛くて、それに言うタイミングも掴めなかったし……持ち主の人がある日突然居なくなったって事も、不動産屋の人から聞いた。だから捨てられたというより持ち主に逃げられたっていう方が正しいかもしれない。それで、もしかしたら持ち主を捜したいのかなって思ったり、逆に持ち主がこの車を忘れられなくて、私を介してそれを伝えているのかなって思ったりするんだけど……」

「無理。お手上げだ。こんなの、俺みてえな凡人にどうこう出来る問題じゃない」

 優は明後日の方を見て、片手をふわっと翻した。

 体格や威厳、毅然とした態度で頼りがいのある彼だが、霊感はてんで持ち合わせておらず、身の振り方が分からないのも無理はない。

「言った通りでしょ。とことんロクでもないのよ、コレ」

 優は不意にこちらを振り返り、真顔で詰め寄る。

「だからな美鈴。本当にやめろ、そういうのは。借金か近所トラブルか、とにかくそういう関係は一切やめた方がいい。苦しみの感情が染み付いてるとか言うし」

 聞き覚えのある説教だ。

「それはそりゃ私も、そう思うけどもさ」

 優の言い分は最もだ。しかし両親は頼れるものではないし、弟は馬鹿にしきっている。

 

 大きなかぶ……とてもとても大きなかぶ。

 絵本では、婆さんから孫から動物たちまで力を合わせてくれて、かぶは抜けた。

 ところが、現実はどうだ。

 私は自分一人でこのかぶを抜かなければならない。

 こんなひどい話、古今東西あるのだろうか? あっていいのだろうか?

 何をどこからどう崩していくべきか、それすら分からないというのに。

 一番いいのは車をどこかで処分してもらう事だが、如何せんアテもツテも無い。

「もう下手に干渉せずに不用品回収の業者を呼べよ。これが一番だ」

「親も同じこと言うけども、市役所に届けたりとかしなきゃいけないし、処分に掛かるお金はすごく高いらしい。そもそも、車の書類がどこにあるのかもわからない」

 そんなこんなで御託を並べるうち、あぁ、どうして下見の際にもっとハッキリ嫌だと言わなかったのか、また己の不甲斐なさを嘆いた。自分にも非はあるのだ。

「なんだもう、八方塞がりかよ。それなら俺らとしても掛ける言葉が無えわ」

 夢の引っ越し物語が悪夢の序章に塗り替えられたのは、目次のはるか手前だった、しかもその原因の芽を摘み取らなかったのは他でもない筆者たる自分自身。

「ちょ、コレ何かな」

 車を矯めつ眇めつしていた楓が、徐にルームミラー辺りを指差す。

「ん、何だろう」

 見た瞬間、美鈴は自分の顔が石灰よりも白くなったと思った。全く気付かずにいたが、ルームミラーの支柱に猫と林檎のストラップがぶら下がっている。

 こめかみがズキリ、疼く。

「いいな~コレ。なにげに茶目っ気のある人だったのかな、元オーナーって」

「可愛いとか、そういう問題じゃないだろ」

「えへへへへ……うっ」

 前触れなく、楓がその場に蹲った。膝をつき、車体に凭れ掛かる。

「か、楓!?」「おい急にどうした?」

 胸を押さえたまま、身動ぎもしなくなってしまった。

 度肝を抜かれた二人は大慌てで背中を擦ったり肩を叩いたりする。

「楓! おいどうした、貧血?」

「気持ち悪いの? 眩暈? しっかりして!」

 反応が無い。

「何してるの。あらま、ちょっと大丈夫?」

 騒ぎに気付いた幸代が飛び出してきた。楓は三人に支えられ、牧浦家の客室【天の間】に丁重に横たえられた。


「~い、おーい大丈夫か~い?」

 目を開けると、見知らぬ中年男性が自分を覗き込んでいる。

「あぁっ!? はい大丈夫です!」「おっとっと」

 楓は飛び起きた。

 中年は「そんなにビックリしなくてもさ」と後頭部を掻いた。

(……?)

 視線をずらすと、傍らで「お父さんだよ」と気まずそうに座り込む美鈴と、難しい顔で胡坐を組む優の姿が目に入った。楓は再び目を白黒させる。

「あたし、どうなったの」

「急に倒れちゃったんだってね? あれかな、立ち眩み? 女の子だし貧血かなぁ」

 義久は楓の隣に胡坐をかくと、徐に彼女の額に手を当てた。

「熱は無さそうだねえ」

 楓は気まずいやら恥ずかしいやらで目を合わせられず、しどろもどろになった。

「あ、あの。迷惑掛けて申し訳ありません。もう大丈夫ですから、あたし帰ります」

 そして、ふらりと揺れるように立ち上がった。

 いつもの陽気は影を潜め、酷く憔悴した様子。

「本当に大丈夫なの? やっぱり少し休んだ方がイイわよ。ほら、お茶も淹れたし、休憩していってイイのよ。下の子も今は寝てるから気にしないで」

 幸代が台所から呼び掛けるが、それも断って帰ろうとする。

「本当に……大丈夫ですから……失礼します」

 俯き加減に言葉を落とし、あれよあれよという間に玄関を出ていく。

「な~んか、いまいち掴みどころの無い子だよなぁあの子。魂が抜けてるみたい」

 義久はまた後頭部を掻きながら、口元を歪めた。


 美鈴と優は力無く歩く楓の後を追った。

 いつの間にやら日は落ち、辺りは暗闇に沈みつつある。時折吹く風が硬い木々を揺らし、カサカサと乾いた音を立てた。しかし空気はじっとりと重苦しい。それがまるで樹海に居るかのような錯覚を起こさせる。

 美鈴はえも言われぬ悪寒に襲われ、優の太い腕にそっと縋った。

「怖いか」

 優は十センチ程下にある頭に向かって低い声を降らせる。

「……うん、怖い。それに寒い。なんだろう、上手く説明出来ないけど……何かを持っていかれそうな気がする。すごく嫌な感じ……」

 美鈴は自分自身の言葉でさらに不安を膨らませ、彼の腕を胸一杯に抱き締めた。

 優は最初、面食らったようにしていたが、小さく鼻息を吐いた。

「何言ってんだよ。俺が居るから気を強く持てよ。大船に乗ったつもりでいろ」

 ふらふらと歩く楓の背を睨みながら、優しく諭す。

「うん、ありがとう」

 今一度、熱くざらざらした腕を撫でる。

「……ところで佐藤。お前は大丈夫なのか」

 優が三mほど先を歩く彼女の背に問い掛ける。

 いらえはない。

「おーい佐藤。返事しろ」

 二人、顔を見合わせた。

 優が小走りで駆け寄り、左肩に手を載せる。

「佐と」「ギャッはぁ!!……あれ、どうしたの優君。なに急に、いったい何事?」

 あまりの豹変ぶりに立ち竦んだ。

「えへ……ちょっと何? 二人とも何マジな顔してるの?」

 楓は何事も無かったかのように、きょとんとしている。

 優の視線が僅かな敵意を含んでいた。

「……お前、来ない方がよかったな、本格的に」

 表情によりいっそう皺を刻んだ。


 やがて落ち着きを取り戻した楓は、バスの中で滔々と話し始めた。

「車の中を覗き込んだ時ね、あたしだけ何だか深い水の中に居るみたいに、急に周りの音が遮られて全身に強い圧迫感を感じたの。紙屑を握り潰すみたいな、こう上下左右からお握りみたいに押さえ込まれる感じ。それで、頭をハンマーで殴られたような半端じゃない頭痛がして、思わずしゃがみ込んで……その辺りで気を失ったはず」

 終始目を泳がせながら、彼女自身言葉で説明出来ない事を無理矢理に文章に変換して語ってみせた。優と美鈴は全て察したように顔を見合わせる。

「これは思ったより重症かも」

 さらに楓は、気を失っている間にも奇妙な夢を見たと繋いだ。

「なんだか夢とは思えないくらいハッキリしてたけど……映像がコマ送りで、絵葉書か何かを一枚一枚見ていて、それに音が付いて来るっていう感じ」

 古い無声映画の映像(イメージ)が美鈴の脳裏を駆け巡る。楓は滔々と弁士のように話を進めた。

 ――初めに出てきたカットは、牧浦家。

「失礼な事言っちゃうけど……今と比べると随分綺麗で庭も手入れが行き届いてた」

「まぁ事実、庭は荒れ気味だからね」

 夢の中の楓は猫だそうだ。ポカポカと麗らかな陽気に欠伸をかましながら、石塀の上から家の玄関を眺めている。厳寒の冬からようやく小春日和になったような、妙にウキウキと胸が高鳴り、不思議な心地良さが支配していた。どこからともなく背が高くて恰幅の良い男が現れたかと思うと、引き戸を開けて家の中へ入っていく。どうやらここの主人のようだ。髪型はしっかりとセットされたオールバック、黒色で擦り切れたツナギ服を着用し、その背中には何か文字が書いてある。

「月っていう字は、覚えてるんだ」

 楓は虚ろに言った。

 家に入った男は靴を脱ぐとそのまま自分が寝かされている部屋へと向かってきた。

 その際の彼女の視点はというと、まるで人形セットのミニチュアハウスのように家の内部を断面的に見ており、時折男の後に続くように切り替わったという。

「潜入捜査とか、スパイのゲームみたいだった。FPSだっけ? ああいう感じ」

 客間に入った男は漆箔の装飾を施した座卓の上に盛られた無数の艶やかな林檎を洗いもせずにそのまま齧り始めた。五、六個あった林檎を全て食い尽くしたところで映像は終わり、男の声が聞こえてきた。心底驚いて目を開けると――

「――っていう夢」

「それであんなにビックリした訳ね」

 美鈴は哀しいような、一方で安堵したような複雑な吐息を漏らした。

「うん……ゴメンねなんか。帰ったらお父さんによろしく謝っといて」

「そこは気にしないで。あの人ほんとに何も考えてないから」

 自転車に十五万も出すような人だから、と付け加えても楓は笑ってくれなかった。

「なぁ佐藤。その夢に出てきた男の顔、覚えてるか」

 優が珍しく食い付いた。

「いや、顔は……陰になってたり俯いてたりで全然見えなかった。あ、それともう一つ」

 朦朧とする意識で歩いている途中、直に脳に伝わってきた。

 ――叩き付ける豪雨の道を疾走する新車のように綺麗な白のセダン。郊外の人気の無い山道へ入り、朽ち果てた倉庫の前に停車する。先ほどのオールバックの男が下りて来て倉庫の扉を開け放つと、そこには巨大なトラックが格納されており、それに乗り込んだ男は峠を下りると先ほどの家へと向かった。仲間と思しき男性が三人待っており、それぞれ自分のトラックから降りると威勢の良い挨拶を交わす。そして最後に一人、老人がやってきて――

「ここで、優君があたしの肩を叩いたってわけ」

 優は額に手の甲を載せ、恨めし気に唸った。

「あぁくそ、タイミング悪かったな~。その先こそ気になるところなのに」

 駅舎の自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、静かに語り終えた。楓は自分でも上手く状況を飲み込めておらず、終始一貫して視線を泳がせていた。怯え、戸惑っているのがボディランゲージに表れている。

「結論は、やっぱり来るべきじゃなかったってこと。これに懲りたでしょ」

 美鈴は厳かに咎めの言葉を述べた。優も同感らしく静かに頷く。

「うん……でも、行って得たものもあった」

 足元から雉が立った。

「え、なに?」

 楓は曇り無い顔で美鈴を見返す。

「ひょっとしたら、美鈴が感じている気の正体を突き止められるかもって思ったから。一歩、近付けたような気がしたんだ。ほんとだよ」

 二人とも、心底肝が冷えた。

 構内アナウンスと共にむず痒い空気を打開したのは優だった。

「なぁ美鈴、もうすぐ電車が来る。こいつは俺が送ってくから、おまえはもう帰れ」

「分かった。おやすみ。気を付けてね」

 やがてホームに滑り込んできた列車に二人が乗り込み、がらんどうの鉄の箱は真っ暗な線路を突き進んでいった。美鈴は列車の尾灯を見つめながら、また深い溜息を吐いた。

 激しく混乱している。

 僅かながら霊感のある楓が、ここまではっきりとしたビジョンを見てしまったのだ。しかも説明が具体的であり、所々自分の見た夢と共通点がある。こんな話を聞けば、例え超常現象を信じない者でも気分が悪くなるだろう。しかも彼女は家の中を知らないというのに部屋や間取りの証言が的を射ていた。

 ――決めた。

 隣人の杉野氏ならこの家に以前住んでいた人物について何か知っているに違いない。

 予定を立てながら、見えない糸に操られているような渺獏たる気持ちになった。

 

          ***


「おぉ。えーっ、と……そう、勝浦さんとこの子や」

「いえ、わたし牧浦です」

「あーそうそう秋浦さんな。大きぃなったなぁ。そろそろ就職か」

「……初めまして、ですね」

 股引に鉄工所の名入りどてらという出で立ちの杉野氏は、美鈴を快く家に入れた。

「こんに若い娘さん呼んだなぁ、はたしてぇどんだけ振りかぇの」

 三和土で靴を脱いでいる最中、酔ったように顔を赤らめ、渇いた笑い声をあげる。さすが毎日畑の世話を焼いているだけあって妙に高い上がり框も、間引きしたように幅の大きな階段もすいすいと踏破していた。

 美鈴は初めて見る〝隣人〟の家の内装に目移りした。ハイテク社会の昨今、こんなジブリアニメに出てきそうな純朴な内観の家屋も少ないだろう。本物の日本人の家というものを目の当たりにした気がした。新居に越した今となっては、あながち人の事を言えない状態だが。

「いけんいけん、一人やとつい散らかしてしまうで、かなん(いけない)なぁ」

 靴箱の上に綺麗な女性の写真が飾られている。妻を亡くして随分経つ様子だ。子供も皆都会へ出てしまい、長らくここで一人暮らし、尋ね人と言えば町内会の人間と様子見にやってくるホームヘルパーや市役所(福祉サービスの必要は無さそうだが)くらいのものか。

「えぇもん(いいもの)無いけんど、気ィ遣わんと食べてくらぁ」

 畳と漬物と木の匂いが充満する座敷に通され、番茶、黒飴、そしてなぜかサラミを並べる杉野氏。机の端っこには、驚いた事にひん曲がった運転免許証が放ってあり、生年月日は平成七年十二月二十三日とある。とすると、御年七十二歳だ。一昨年他界した母方の祖父は享年七十六歳だったので、なんとなく親近感を覚える。

 室内に飾られた市松人形や虎の木彫り、歌舞伎のお面等を見回していると、前にもここに来た事があるような、不思議と懐かしい気持ちになった。

「ありがとうございます、戴きます」

「お~おぅ、どおぞ」

 絶妙な苦みと渋みの番茶を一口飲み下し、本題を切り出す。

「あの、どうしてもお聞きしたい事があって、お伺い立てました」

「ん~ふ、何でも聞きな。かみさんと別れてからぁ人とめっきり付き合いが無くなってなぁ。寂しい毎日さ、何でも話してくれや」

 杉野氏は仏様のように目を細め、サラミを齧った。入れ歯なのか自分の歯かわからないが、この歳でサラミを齧るなんて、なんと逞しい人だろうと感じる。

「以前、私の家に住んでいた人について教えて頂きたいんですが」

 仏像のように穏やかだった杉野氏の顔貌が豹変した。サラミを掴んだままカッと見開いた目が美鈴を捉える。肩越しに睨む翁の面と、ものの見事に重なる。

「……ん~むぅ」

 時間にして、三秒に満たない。

 目線を落してサラミを口に放り込み、わなわなと揺れるように低い声を出した。

「あの(うち)に住んどった人ぁなぁ、あんまり、エェ感じのする人と違ったでのぉ」

 早口に言うと、茶碗に注がれた番茶を清酒でも嗜むようにクイッとやった。

「そ、そこをどうにかお聞きしたくて」

 ここが関門だ、身を乗り出して頼み込む。

「……んまぁ、あんまり口外するのんは避けてほしいけどやな」

「秘密は守ります」

 美鈴は思わず上目遣いになった。一瞬、ひょっとこのように破顔しかけた杉野氏は派手に咳払いをして、がらがらと話を繋ぐ。

「ん、ん。あのな、背の高い男の人が一人っきりで住んどったわ。しっかりして、住み始めの挨拶回りの時も、そりゃあ溌剌とした笑顔でな。あぁ~こりゃエェ人が来たなぁって好印象だった訳よな」

「はい」

「仕事はな、確か運送業がどうした、こうしたとかって。トラックに乗ってたんでないかな。どこの勤めかは聞きそびれたけんど、それでいて、いっつも破けた黒いツナギ服でおってな、背中に【灯】……なんとかって」

 美鈴の目が見開く。楓も同じ事を言っていた。

「待って下さい。背中に字が書いてあったんですか?」

「ごほっごほ」

「大丈夫ですか?」

 氏は手首を振り回してひとくさり無事を訴えてから、大変な事を口走ってしまった、と口端を下げた。

「んん、そんだがな、ど~ったかな……【灯】の後がどないしても浮かんでこん……」

 腕を組んで渋紙のように顔中に皺を寄せていたが徐にペンを手に取り、近くあった新聞紙に何かを書き始めた。美鈴は逆さになったそれを黙って見守る。

「おら、こんなだった。【灯】の次に……今思うと、【天】だったんかね。的屋の屋台みたいに崩した字ぃやで定かではないけんど」

「天……」

 思い出した。

 あの家には【灯の間】と【天の間】という二つの部屋がある事を。

「その後は、続きはなんと書いてありましたか?」

 美鈴は更に身を乗り出してかかる。

「……もう思い出せんなぁ……んむ、そういえば白い車に乗っとったような」

 その車こそ、マークⅡグランデの事だろう。

「その車、今はウチに置きっ放しになっています。その男の人の名前、苗字だけでも教えて頂く事は出来ませんか?」

「ん~っとな、苗字、確か……」

 杉野氏は再びむっつりと腕を組んだ。


          ***


「うわー汚い。冗談でしょ」

 襖を開けると、古い布団のような独特の香りが流れ出てきた。広く、こびりつくような闇の立ち込める奥座敷。押入れの方から妙に冷え込んだ空気が漂ってくる。一歩踏み入れば、脳天から爪先まで無数の虫が駆け下りるような、縮み上がるような悪寒に襲われる。

「ヒッ」

 足裏のワシャッとした感触に心臓がひっくり返った。

 よく目を凝らすと、干からびて縮んだ百足(ムカデ)の死骸が転がっていた。

「……こんな部屋があったなんて……」

 下見の際、ここは使われていないと内見が割愛された記憶はあるが、まさかここまでひどいとは思わなかった。改めて見た室内は、まるで独房か座敷牢のような異常な閉塞感が漂っている。


(!?)


 その時、突如として締まる襖。

「何、やめて!!」

 慌てて二枚の襖に飛び付いて取っ手を引くも、ピッタリと固着してビクともしない。元の強度を完全に凌駕していた。屈強な男性が本腰を入れて押し止めているように固い。

「出してよ!! 助けて誰かぁ!!」

 こめかみがズキリ、疼く。

 背後で軽い音が鳴った。

 振り向くと、欄干から差し込む光で見える室内の何かがおかしい。

 そうだ、押入れだ。さっきは開いていなかった押入れが、開いている――

「怖いよぉお父さん!!陽平!!お母さん!!」

 必死で襖を叩きまくる。この際、外してしまってもいいと思った。


 シュカンッ 

       ガタンッ

                      スカッ 

                 スコッ  

                           ガリッ

 

 背後。自分の悲鳴を上回り、恐怖心さえ吹き飛ばす物音の群れ。

 見なければいいのに、背後を顧みてしまう。

 押入れから障子から天袋から、ほんの数秒前まで閉まっていたモノが全部開かれて黒い口を開けている。そして、まるでだるまさんがころんだをするように、数秒の間憮然としていた。何か空気が漏れるような、ヒューヒューという音がする。ちょうど、夢佳が発作を起こした時に器官からこんな音がする。

「なにあれ……」

 待ち構えていたように、肌の粟立つ光景が始まった。

 部屋の奥から畳が二枚ずつ、巨大な拳で突き上げるように宙に投げ出されていく。

 畳は壁や天井にぶつかり、穴を空けたり凹ませたりしながら床下の〝何か〟が確実にこちらにやって来る。まるで鮫の背びれが水を掻き割って迫るように真っ直ぐこちらへ突き進んでくる。

 今しかない。

 襖を開け放ち、死にもの狂いで廊下を走り、台所まで辿り着いた。

「助けてお母さっ」

 仕切りに躓き、床に倒れ込む。

「なに、どうしたのよ?」

 母が迷惑そうな顔でニンジン片手に駆け寄る。

「【灯の間】、行っちゃダメ、絶対ッ」

 動揺し過ぎて単語しか出てこない。

「え? あんた何言ってるの。あの部屋はもう使わないって話だったでしょ? 締め切ってあったのに、まさか入ったの?」

 母は刺々しく詰め寄った。

「あの部屋に、何かあるの……この家おかしい。お母さん、やっぱりこの家、変っ」

 苦虫を噛み潰したように、すぐに背を向ける。

「何を今更。もうこの家の住人になったんだから、そんな煮え切らない事言わないの。やめてちょうだい」

「だから、やめてとかそういう問題じゃない! あの部屋は危ない。近付いたらダメ」

 美鈴は床に座り直し、強い口調で押した。

「はぁ? 私からしたらあんたが一番危ないわよぉ。環境が変わったからって子供みたいな態度ばっかり。成人したんだから、家族を困らせるような事はやめなさい」

 ニンジンに包丁の刃を滑り込ませながら、幼子に接するような態度をとる母。

 もはや、抗議の念すら湧かなかった。


          ***


「嘘だよな?」

「本気で言ってる? 私、帰るよ」

「いや、心底驚いたって意味だから、勘違いしないでくれ」

「あ、そう」

 表情が疲れている。

「でも、本当に何なんだ。目の前で畳が浮き上がるとか。訳が分からん」

 意味もなくおしぼりを揉んだり天板に打ち付けたりした。

「間違いなくあの部屋に憑いた〝何か〟の仕業だよ。私に部屋に入るなって言ってる。きっと私が車の事とか前の住人について知っているから拒んでるんだよ。ねぇ、あの部屋が長い事使われなかった理由ってなんだと思う?」

「そんなこと聞かれてもなあ。虫が出やすいとか部屋自体が傷んできたとか、そういうのが一番現実的だとは思うけど、ひょっとしたら――」

「ひょっとしたら?」

 空気が蜷局を巻く。

「その失踪したっていう前の住人も、部屋の怪奇現象に耐えきれなくなって逃げ出したっていうオチじゃねえのか。夜逃げ同然だったんだろ?」

「……うん。不動産屋の担当者は、そう言ってた」

 しめた、という顔をする。

「一理あるな。とにかくもう近付くな。おまえは普通とは違った体質の持ち主なんだ、そこは自分が一番よく分かってるだろ。それにほら、お前」

「……何?」

「顔も」

「……カオ? 顔がどうしたの?」

「いや、なんていうか」

「なんで赤くなってるの?」

 優は水滴が数滴垂れるくらいおしぼりを強く握った。

「だからお前の顔は、俗に言うあれだ、美人っつーか整ってる方だろ。だからなんか、もしその家に居る化け物が男だったら……って、これは考え過ぎだな。やっぱり今のはナシで」

 早口でそう言うと、カップに口をつけてカフェモカを飲み干した。

「……変なの」

 優はカップを置き、激しく噎せ返った。そして、何とも言えぬ上目で恋人を睨んだ。

「普通の女なら喜ぶとこだぞ、今の」

 噎せたせいで少し涙が滲む目で、割と真面目に怒る。

「そうなの? 何かあたたかい事言ってるなって思ってさ」

 優は妥協をする事には慣れていたが、この時ばかりは流石に水を差したくなった。

「頭があたたかいのはお前の方だろ。何言って――」

 彼の視線は中空を仰いだまま、停止する。

「ハイハイ、今度はどうしたの」

「お前、上」

「上?」

「シッ! 上、見ろ、早く」

 顔を上げると、頭頂から二十センチ程の位置に赤い球体がどんぶらと浮かんでいた。

 間違いない。夢で見た、あの林檎だ。

 その長い黒髪が風も無いのにユラユラと靡き、微妙に上下にホバリングしている。

 美鈴は何度もこの世ならざるモノ達を目にしてきたが、ここまで傍若無人なタイプは始めてといってもよかった。

「何なんだソレ……見えてるんだよなあ?」

「うん、うん、見えてる」

 今すぐ逃げ出したいところだが、他に客も多い昼下がりの喫茶店、うかつに動けない。霊には疎い優にも視えているというのに、他の客には全く見えていないらしく、向こうの男性客が不思議そうな目で天井を仰ぐ二人をチラと見やった。

 やがて、人面林檎はゆっくりと目線を下に――

 即座に目を伏せた。

「あぁ、あぁぁあ……」

 優が見てしまった。

「優、見ないで!」

 懸命に呼び掛けているのに、優は目を離さない。

 いや違う。

 離せないんだ。

 ラジカセのボリュームツマミを絞るように、周囲の音が遠くなっていく。


 腐り  腐られ  腐らされ


「うわあああああああああああ」

「きゃあああああああああああ」

 凍り付く店内。店員が三人、慌てて駆け寄ってきた。

 二人が荒い息を整える頃には、ソレはとっくに消えて無くなっていた。


          ***


 風呂で湯に浸かり、目を閉じる。

 古民家特有の(ひのき)の香りが鼻腔を通り抜けて肺に充満し、胸中の(わだかま)りを綺麗に絡め取って浄化してくれるようだった。

「ふ~」

 日常の中で唯一、頭の中を開放できる空間。風呂場は彼女にとってそういう場所だ。

 あの後はひどかった。店員と非番の警察官だという客から色々と質問を受け、店長から今後このような悪ふざけは営業妨害になるので一切やめてほしいとそれとなく言われ、大恥をかいた。

 まぁ仕方ない。不可抗力だ。

 柔らかく肩を撫でる小波が、戯れを求めるように騒めく。

「八木山さん、か」


「確か……ヤギヤマ……数字の八に木書いて山。下の名前はちょっと憶えてないなぁ。表札なんてぇのも掲げてなかったから、あの人の姓を知ってんのぁ僕と町内会長さんぐれぇのもんじゃなかね」

「ありがとうございます。その人は普段どんな様子で出掛けて行きましたか?」

 杉野氏は空になった器と箸を置くと、胡坐をかいている足を組み替えた。

「どんな様子か? そうだなぁ……その黒いツナギ服を着て白い車で行くんだけども、割りかし乱暴な運転だったのぁよう覚えとる。まあ若いからな。あと仕事仲間だか何だか知らねぇけんど、よう男の人を二~三人あの家に連れてきよったわぁ」

「仕事仲間? 男の人を連れていたんですか?」

 意外だな。イメージしていたのは一匹狼な性格で誰とも関わらなそうな、ぶっきらぼうな人物像だったから。

「おぉ。その白い車に乗せてな。あと時々夜になると外が騒がしくなって、ある時気になって見に行ったら、トラックで皆さん集合してみえてね。こらぁ、みんなで一緒に仕事に行くのかなぁて思ったよ」

「はぁ……」

 仕事仲間を家に連れ込み、八木山氏の家に皆で集合して仕事へ出向く。

 まるで小学校の集団登校みたいだ。美鈴はこの時、ある疑問を抱いた。


「ではそういう事で――そうそう。ココから先は行かないで下さいね。道が腐ってて、危ないですから」

 町内会長の()(なし)氏は独特の高い声で一家を率い、バリケードの先を指差した。牧浦家と杉野家に続く細道に入る為にギリギリまで峠道の舗装は残されているが、そこから先は工事用バリケードで封鎖されており、荒れ果ててしまっていた。

「道が、へぇ~。もう随分長い事このままなんですか?」

 父が先のカーブを覗き込み、穏やかに問うた。小春日和の山間は本当に心地良い。

「えぇ。なんせ五十年くらい昔にこの先の村で、かなり酷い事件が起こってますからね。ココの土地自体が嫌悪されてしまって、村はやむなく廃村に追い込まれた形です。もうそれから村に立ち寄る人は、肝試しや取材に来る人くらいしか居りませんねえ」

 木梨氏はバリケードの支柱を揺らして鉄骨を鳴かせ、父に微笑み掛けた。

「宿命とは、本当に殺生なもんです」

 木梨という人物は、どこか世間離れした独特の風采を纏った初老の男だ。酷く滑舌が悪くその上地方訛りが激しくて、喋っていることは殆どまともに聞き取れない。また極度のバイク好きらしく、自宅の庭先には四台も大型バイクが並べられ、日差しを受けて煌びやかに輝いていた。

「そうだったんですかぁ」

 父は遠い目で道をなぞった。

「ココはまぁ、言ってみればまだ入り口な訳ですから、あまり神経質にならなくてもええですよ。ただお子さんはまだ小さいですから。絶対にこの先には行かせないようにだけ、そこだけ注意しておいて下さい。――本当、危険ですから」

 ほとんど開いていない目で義久を見た。

「分かりました。よく言い聞かせますね」

 引っ越し前日の周辺案内の一コマだ。


 美鈴は細道を出たところで立ち止まり、峠の遥か上を見上げた。

 ――あんな細くうねった峠の上まで、わざわざトラックでやってきたという八木山氏の仕事仲間に強い疑念を抱く。

 いったい、何の思惑があったのか、謎は温泉のように滾々と湧き出し、次々と輪郭を露わにしていき、そうかと思えば砂城の如く瞬く間に溶けて消えてゆく。

 微かに、父の車のエンジン音が坂を上がってきた。


          ***


「~という訳なのよ」

 魚のように無表情な四つの顔がこちらを見ている。

「……で。まさかあんた、わざわざ杉野さんのお宅に上がったの」

 母は包丁のように鋭利な眼差しを向けた。

「そう……だけど」

 言った途端、細い柳眉をハの字に仕立てた。

「もう、何してんのよ。恥ずかしいからこれっきりにしてちょうだい」

 あからさまに嫌な顔をされ、気分が曇る。

「そんな、恥ずかしいってどういう事? 私は本気で困ってるんだよ? どうしてそう、人の苦労を理解しようとしないの?」

 美鈴は茶碗を置いて捲し立てた。心の底からヒドイと思った。理不尽にも程がある。

「思い込みだって言ってるじゃない。小さい子がいるのに、食卓で大声出さないで」

 持たざる者の冷徹さと、持つ者の息苦しさと。彼女の胸中には、どう酌量しようとも晴れる事の無い憤懣が汚?のように鬱積し、恨めしく沸騰していた。

「私は見たの。楓だって倒れてたじゃん、霊障だよ。ここまで聞いてもまだ疑う?」

「うるせぇな。落ち着けよ姉ちゃん」

 陽平は携帯電話に向かってぼやいた。

「落ち着いてたらダメだってこと、アンタも分からない?」

「美鈴、分かったから、もうやめて。夢佳が怖がるわ」

 母は何か脅威を感じるような目を娘に向けた。

「ハ? 夢佳、怖いの?」

 美鈴が問い掛けると、妹はけろっとした表情を左右に揺らした。

「ぜんぜんへいきだよ? お()しゃんの方がこわい」

「え~、ちょっとユメちゃん」

「ほら、私の話を聞かないからよ」

「お姉ちゃんも怒ってばかりで怖いわよね~」

「べつに~」

「「「……」」」

「まぁまぁ、美鈴」

 一拍置いて、ずっと黙っていた父が口を挟んだ。

「お前がそこまで言うのなら、分かった。その怖い気持ちはお父さんちゃんと理解する」

 背筋を伸ばしながら、そう言った。美鈴ははっと表情を明転させる。

「お父さんさすが!」「でも」

 回鍋肉の大皿に箸を伸ばし、声を尖らせる。

「環境の変わり目とか、慣れない事を始めたばかりの時は、こんな事はよくあるよ。誰にでもね。きっとアレだ、美鈴の心が疲れてるんだよ。今はそういう不安定な時期なのかもしれないけど、大丈夫。暫くしたらまた収まるから」

 美鈴は心底落胆した。

 分かってくれたと思ったら、そういう事だったのか。いなされただけか。

「……お父さんも分かってない」

「そんな事はないさ。だけど霊なんて今し聞かないぞ? 本当に。味噌汁おかわり」

「はいはい」

 お椀を受け取って席を立つ母を見送り、美鈴は父に真剣に議論を吹っ掛けてみた。

 本当ならその場から逃げ出して、夜の町へ駆け込むという真似も一度はやってみたいが、柄ではないし、なにしろこんな場所で外へ飛び出したら虫や動物に狩られてしまう。

「あのねお父さん。霊とかそん(・・)なの(・・)じゃなかったとしても、この家には()か(・)が居るの。私にはそれが分か」

 ゆっくり、言葉にしっかりと重みを持たせて。

「ゲフッ……あぁ、そうか。何か、ね。何だろうね。じゃあお祓いでもしようか。分かったよ美鈴、やっぱり女の子はナーバスになり易いん

 この期に及んでまだ娘の話を聞き流す父に、怒りすら感じなかった。

 母が湯気の立つ味噌汁の椀を父の前に置く。

「大丈夫。霊だの妖怪だのっていうのは、まだ電気も無いような時代の人達が作った、お話の世界だから。お前も二十歳だ、女の子と言ってももうそろそろ――うわぁっ!?」

 急に目の前を()ぎった虫に驚き、大皿に伸ばした腕を引いた。

 その肘が味噌汁の椀を弾き飛ばし、父の胸から腹にかけて中身をぶち撒けた。

「うわ熱ッあちちちちっ!!」

 父は魚のように飛び上がった。落とした茶碗から米が飛び散り、床に散らばる。

「あなた大丈夫!?」「親父!!」「お父しゃん!!」

 父は大急ぎで手元のお冷を服の上からかけ、母は布巾と氷嚢を取りにいった。

 一連の現象を茫然自失して見守る美鈴には、どうしようもない胸騒ぎがしていた。

 こめかみがズキリ、疼く。

「あっつ、もう最悪だぁ! ちょっと風呂場で冷やしてくる。くそーっ」

 Tシャツを脱いで真っ赤になった胸を庇いながら風呂場へ急ぐ父と、陽平に布巾を投げ渡して氷嚢を片手に後を追う母。

 その後を追う一匹の猫。

(猫!?)

 瞬きを挟んで、そんなものはとっくに掻き消えていた。

 僅か数秒の出来事の中で、呼吸すら忘れていた。

「バカだよな~親父。……あれ、二人ともどうしたの?」

 陽平が不思議そうに覗き込んでくる。

「……なんでもない」「あのね、ネコちゃんがいたの」

 夢佳が不自然な笑みを湛えて、姉の発言を掻き消すように言った。

「ゆ、夢佳?」

「お姉もお兄も見たでしょ? ぶちぶちのネコちゃん!」


 ――夢佳には、見えている――


「ネコぉ? そんなもん家の中に居るわけないじゃんか、何言ってんの」


 ――陽平には見えていない――


「見えたよ」

 美鈴はぼそりと呟いた。

「はい?」

「猫……私にも見えたよ。汚い茶ぶちの不潔そうな猫……」

「でしょでしょ! ひゃははは、お姉もワタシも見たのに、お兄だけなかまはずれー!」

 夢佳は狂喜して、兄に短い箸を向けた。

「……やめろよ気持ち悪い。さっさと味噌汁食っちゃいな。姉ちゃん、話変わるけど、本当の本当に、この家は何かあるのか?」

 突然、打って変わって深刻な目付きになる陽平。普段はやる気の無さそうな顔色をしているので、これは何だか新鮮な光景だ。

「もちろん。だからこそこうして」

 その時美鈴は、気付いた。弟は不愛想に返事をしてはいたが、別に自分の言い分に真っ向から反対していた訳ではないという事を。

「なるほど。あのな、今二人が居ないから言うけど、実は俺、昨日の夜に変なモン見た」

 残っていたおかずを全て掻き込んで食器を置くと、椅子の上に胡坐をかいた。

 彼なりに本気の意思表示なのだろう。

「……詳しく聞かせて」

 美鈴も思わず前屈みになる。陽平は記憶の筏を曳航してきた。

「昨日バイトが終わって原付で走っている時な、峠を登ってたらバイクのライトが急に切れそうになって」

 電燈を見つめ、滔々と語る。陽平は普通科高校に通う傍ら、バスケットボール部の幽霊をしつつカラオケチェーン店で夜番(17:00~23:00)のアルバイトをしている。なので、帰りが深夜零時を回る事が常だった。因みに交際している彼女は同じ学校、同じバイト先で同じバスケ部のマネージャーだという。

「それで、電装品の故障かと思って、アクセル開けてやったんだ。原付バイクって、エンジンの回転数とライトの明るさとシンクロしてるから」

「うん」

「でも、点滅するのがどうしても治らなくて。だからもう家まで近いし、いいかと思ってそのまま走り続けたら、急にがくんってスピードが落ちた」

「……」

「おかしいって思ってミラー見たらな……作業着っぽい服の襟が、はっきり映ってて」

 陽平は瞳孔を大きく開かせながら話した。

「そ、それで?」「それで~?」

 陽平の腕が粟立っている。思い出しているうち、恐怖が蘇ってきたのだ。

「もうワケが分かんなくて、テンパってその場で急ブレーキかけたんだよ。そしたら、車体が前のめりになるのに合わせて、背中に何か凭れ掛かるんだ。これマジでヤバイ! と思って俺……振り向いちまった」

 部屋の空気が音も無く氷結を始める。

「……」「それでそれで~?」

 そこで、一拍挟んだ。

 夢佳の無邪気な笑顔を見い見い、顰めた顔で続ける。

「本当に何百分の一秒ってくらい一瞬だったから、今でもちょっと細かいところは自信が無いんだ。けど……視えた」

「何が視えたの」

「両目に菜箸が突き刺さった、ヤンキー風の男」

 全身の皮膚が剥けるのではと思う程総毛立った。

 美鈴はかつて経験した事の無い不快感に、思わず肩を抱く。

「ワタシ知ってる、その人!」

 夢佳が突然、嬉しそうに挙手した。

「「ハッ!?」」

 驚愕する二人の前で、ニコニコと嬉しそうだ。

「キムラさんって言ってたよ。ヤギヤマさんといっしょにおさけ飲んでたら、ころされちゃったって言ってた。かわいそうだよね。よっぱらってせっかく楽しい気分だったのに、急にヤギヤマさんがおこりだして、目におはしさされたからなにも見えない、だけどこのいえにはあいつのにおいがのこってるからはなれられないって、おこって言ってた」

「ど、どこで?」「八木山に殺された?」

 二人は火を点けられたように夢佳に詰め寄る。

「あそこだよ」

 夢佳の指差した先には、廊下の脇に【灯の間】が黒々と構えている。

「姉ちゃん」

 陽平は姉の肩に手を載せた。

「……何?」

「俺さ、姉ちゃんの言う事……信じるわ」

 真顔で見詰められる。何も考えられなかった。

「あ、そう……」

 分かればいい、とすら思わなかった。

「ひゃ~、痛かったよ~」

 父と母が戻って来た。

「きゃっ!?」「うおわっ!」

 父の胸には真っ赤で丸い、まるで林檎のような水ぶくれが出来ていた。大人の拳ほどの大きさがある。

「驚いたろ? 参っちゃうなぁ。作業着が着れなくなっちゃったよ、痛くて。シートベルトとか、どうしようなぁ~」

「もう、ほんとに不注意なんだから。次から気を付けてちょうだい」

「は~いはい」

 両親は落ち着きを取り戻して笑っていたが、どこか釈然としない。

 美鈴は弟と目を合わせた。彼も同じ事を考えているらしい。


          ***


 その日、三限目の『健康科学概論』の講義中に優が遅刻してきた。

「おい美鈴、楓が高熱出して学校休んでる」

「ウソ!?」

 最悪のニュースを開口一番にぶつけられ、思わず声を上げてしまった。

 教授がちらりと目で探る。

「お前、本気でそれ言ってるのか」

 優は意味深な顔で言った。

 ハッとした。

「ごめん……ついショックで。それは誰から情報?」

 美鈴は努めて小声で話す。

「宗文の二ツ橋っているだろ。さっきあの人に捕まって聞かされた」

「なんであの人が、そんな事?」

 (ふた)ツ(つ)橋尤(ばしゆ)巫女(みこ)といえば、宗教文化コースの学生だ。優とはあまり交流が無い筈なのに、彼に話しかけて来るのは不自然だ。

「分からん。そもそも、去年の自然体験合宿の時に同じ炊事班になった時以外喋った記憶が無えから、余計に不思議だ」

「尚更おかしいよね」

「それでよ」

「ん?」

 優は美鈴の耳元に顔を近付けた。

「この講義終わりに、バルコニーに呼び出されている」

「……呼び出し!?」

「あぁ。俺もお前も、二人ともだ」

「そっか。じゃあ、行かなきゃね」

 気が気じゃない。ただでさえ混乱している中で、新たな人脈を築こうと言われたら、過労死してしまう。

「正直気味悪いよな。どうして」「はい~、後ろの学生さん」

 突如、教授がこちらに呼び掛けた。二百二十人程の学生から一斉に注目を浴びる。

「は、俺ですか」

 優は眉間に皺を寄せた。

「ええ、あなたですよ。あまり騒がしくするようでしたら退出して頂きますからね。これは警告です。次に同じ事をしたら欠席扱いにしますので、そのつもりで」

「すんません、以後気を付けます」

 教授はまんざらでもない顔を背けると、〈昭和初期に流行した脚気病と現代人の栄養摂取量の偏り〉についての講義を鈍重に再開した。

「とりあえず、そういう事で」

 優はひそひそ声で付け足し、やたらと文字数を稼いだレジュメに視線を落した。


 二~三組のカップルがいるだけの静かなバルコニーの端に彼女は居た。

 細い体の線をなぞる黒いスラックスに純白のワイシャツ、黒いベスト。髪は黒のロングストレート。女子大生とは思えぬくらい端正で、反面堅苦しい出で立ちだ。

「二ツ橋、来たぞ」

 優がその後姿に声を掛ける。

「わざわざどうも」

 すぐに振り返った尤巫女の胸には、ワンカップの焼酎が大切に抱えられていた。

「それ、何だ?」

 初対面で酒を抱えている人間など、初めて見た。

「よく見て」

 尤巫女の目は清廉で澄んでいる。

 一方、目前に翳された瓶の中の酒は白濁し、赤茶色の物体が浮遊していた。

「これ、腐ってるんじゃ……?」

 彼女は目線と口角を上げる。

「そうみたいね。ところでコレ、いつのお酒だと思う?」

 前触れの無い問い掛けだった。

「……酒だから、三年とか」

 鼻で笑われた。

「残念。まぁ、厳密に言うと蒸留酒は腐るという事はないのだけれど、この場合は別ね。このお酒は、さっきコンビニで買ったばかり」

「「さっき!?」」

 二人は怒ったような顔になった。

「そう。三限目が始まる前に買って佐藤の家に寄って部屋に三十分置いただけで、こう」

 猫のように小首を傾げてみせた。

「……って事は、どういう事?」

「佐藤楓に憑いてる。それも、かなり厄介なやつが」

 そら恐ろしい事を、あっけらかんと言ってのけた。

 夕立を告げるような、およそ他人事の声だった。

「じゃあ、あの子が高熱を出した理由っていうのも……?」

「まさにその通り。このお酒が多少……五%くらいかしら、弱めてくれたけれども」

「たったの五パーかよ」

 優は吐き捨てるように言った。

「何て言うか、すごく特別なのが憑いてた。一個の霊体というよりは、とある個体から放出された、タイムリミットのある念のようなモノがこびり付いている」

「何それ?」

 どこかの学者が話す、何かの定理について聞かされているようだ。

「さぁ。なにより私もこんなケース初めてだから、混乱してる。なんて言えばいいかしら……想像してみて。劣化したシールって、なんとかして貼ろうと強く張り付けてみても、端の方から少しずつ捲れ上がって、最後には落ちてしまうでしょ。今回の佐藤楓の場合、その弱った念のシールを貼られた状態なの。こんなの、私だって本当に初めての事よ。驚いた」

「そのシールを貼ったモノの正体は、分かったりする?」

 美鈴は一歩踏み込んだ。

「分かるも何も、シール自体がソレの分身みたいなモノだから、一目瞭然よ。牧浦さん、あなたの家に今も居る」

 美鈴は胸の中に爆弾を放り込まれた気分だった。

「……やっぱり、そうだったんだ」

 尤巫女はニタリとしたまま美鈴の周りを一周し、徐に彼女の項に顔を近づけると、匂いを嗅いだ。

「何してるの?」

 そして、フッと鼻で笑う。

「いい香り。あなたも霊感持ちでしょ? それに〈(コン)()の(ス)気幕(オーラ)〉が出ているから、危険に対する予知能力も高いわ」

「「コンパスオーラ?」」

 聞き慣れない単語だ。

「すごく簡潔に言うと直感が鋭いって事」

「へえ」

「ふふふ、自覚もあるみたいだし、かなり素質がありそう。まぁいいわ。二人とも、今週の日曜日にウチに来て。イイもの見せてあげる」

 尤巫女は切れ長の目を細めた。

「……どうしよ?」

 優を見返ると、彼は一度深く頷いて、言った。

「もちろん行く。この子なら、何か力になってくれるかもしれない」

 優は強い意志の込もった目を向けた。

「……うん。じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」

 こうして、それまで全く交流の無かった尤巫女との奇妙な付き合いが始まった。

 数奇な出会い、展開。引っ越しを終えてから雪崩のように不思議な事が起こるので、美鈴はついていけなかった。

「そうだ、今から楓のお見舞いに行ってあげようよ」

 美鈴が思い出したように言うと「ダメ」尤巫女が直ちに遮った。

「もしかして、やっぱり……」

 彼女の目が光る。

「そう。今あなた達が行ったりなんかしたら、シールが反応して佐藤楓の安全は保障出来なくなる。悪い事は言わない、今日はやめるべき」

 淡々と、事務的な言い回しで言った。

 美鈴はこのとき、無表情ほど冷たい表情は無いと芯から思った。

「分かった」


          ***


 夕方、バス停からとぼとぼと峠を登っていると、後ろからバイクがやってきた。

「姉ちゃん、乗ってく?」

 苦しそうに唸りながら坂を登る原付の後ろで、殺風景な景色をボーッと眺めていた。

 弟は黙って運転に集中している。ヘッドライトが拓く狭い視界に、映っては消える木々、荒れた路面、消えた白線、散らばる小枝。ふと見上げると、満月は美しく、今抱えている悩み事が少し小さく、自分勝手にすら思えた。

「はぁ~あ」

 久し振りに深呼吸をした。膨らんだ胸が陽平の背中に触れ、反射的に身を退く。

「姉ちゃん危ない、動くなって」

「ゴメン当たっちゃった」

 エンジン音がやかましいので、美鈴は顔を近付けて言った。陽平から、柔らかい香りがする。新鮮な気持ちだ。

 会話はそこで途切れたと思いきや、陽平は言葉を繋げた。

「姉ちゃん。今回の事、怖いと思うか?」

「……え?」

「だから、怖いかって」

「……怖いよ。すごく怖い」

 暫しの沈黙。

「だろうな。でも、心配すんなって。いざって時は……」

「ん? 何が言いたいの?」

「あまり心配……っつーか、安心……じゃなくって、ほら」

「ほ~う。一丁前にそんな事言うようになったんだ、アンタも」

「一丁前って、どんだけ子供扱いすんだよ」

「ごめん、そういうのじゃなくって」

 何だか可笑しくて、笑いが込み上げてきた。

「何で笑う? 弟として当然の事だろ、特別とかそーゆーんじゃねぇから」

「ここで言う特別って何を指すんだろーね」

「そんな事知るか」

 気持ちの高揚に任せ、腰に手を回してみた。そのまま上半身を密着させる。陽平の女のように細い腰が、キシッと筋張った。

「な~に~、緊張してるの?」

「してねーよ。ってか俺彼女いる身なのに、やめてくれよな」

 少し意地悪な姉の態度に、語尾がなよなよした。

「そういや最近どうなの、彼女さんと」

「普通だよ別に。遊んだりとか、飯食いにいったりとか、そんなん」

「エッチは?」

「……まぁ、まぁまぁ、かな。いや知らん」

 陽平はそわそわとした口調で言った。

「ふ~ん。そっか。だんだん大人になってくな~、あんたも」

「何を親戚のおばさんみたいな、ってか、どうしたんだよ急に。何か変だぞ」

「何だかね、自分より年下で子供だって思ってた弟が急にオトコを見せたから、可笑しくて。ゴメン私やっぱり疲れてる」

「絶対そうだよ……手、放さないの?」

「もう少し、こうする」

「……姉ちゃん、いくつ?」

「D」

「当たったぜ」

「けしからんな、バカ弟」

「知るか」

 束の間の憩いだった。

 いよいよ中道へ入ると木々が増え始め、闇の濃度が濃くなった。

 甲高いエンジン音が木々に跳ね返ってより一層音量を増し不安を煽る。

 前を向き直った瞬間、道端に佇む姿が見えた。向かって右側の木陰からこちらを覗く、男の影。首を切られて皮一枚で胴から垂れ下がり、夜行鳥のように見開かれた目だけが二人の乗ったバイクを追っている。

 陽平が手を握った。

「気にしないでそのまま走って」

 家に着くまでの数百メートルの間、二人はしっかりと手を繋ぎ合っていた。


 美鈴はノートの見開きのページを机に置き、差し示した。

「この家にまつわる情報を、分かる範囲で纏めてみたの」



一、 この家の前住人は独り暮らしの独身男性。長身で恰幅が良く、髪型は越してきてから失踪するまでオールバックを貫く。姓を「八木山」と名乗る。

二、 庭に放置してある白い車は八木山氏の私物で、時折仕事仲間と見られる二~三人

    の男性を家に連れて来ていた。仕事は運送業、トラック。よく仲間もトラック

    でここへ来ていた。

三、 この家には何者かの強い思念が宿っており、家に来た一定の人間に〝負念のシー          

 ル〟なるものを貼り付け(取り憑き?)、害を及ぼす。

四、 家との直接的な関係は今のところ不明だが、細道から出て上がったすぐのところ

が行き止まりになっているのは、この先に廃村が存在し、その昔(五十年前)

に何か恐ろしい事件が起き、危ないから立ち入り禁止になっている。 


 陽平は、幼さの残る顔を精一杯歪めた。

「これ、仕事仲間をよく家に連れて来てたってあるじゃん。その八木山なんとかが居なくなってから、仲間はどうなったんだろ? もし連絡とかが取れるんなら、そいつらに直撃取材した方が早くないかな」

 その言い分は最もだ。

 が、可能ならすぐにでもやっている。

「そうしたいけど、何せ取り付く島が無くて。もう一回、杉野さんに聞いてみるね」

「あぁ。でも気を付けろよ」

 陽平は眉を顰めた。

「何に?」

「あのジジィ、頭おかしそうだからさ。この前も朝早くにバイクで家の前を通りかかったら、パンツ一丁でタオル持って背中擦ってたんだよ。やばいだろ?」

「ちょ、陽平それ」「だろ? ヤバイだろ? 俺からしたらあの人の方がホラーだよ」

 美鈴は弟の肩に手を置いた。

「あのね。それは乾布摩擦っていう健康法だから。やめてあげて、お年寄りの人を変な目で見るのは」

「……おっと」


 肌寒さに目を覚ました、午前三時。

 微かな明かりが鴨井から差し込む。

「あら、どうして」

 夫婦と夢佳の寝室として使っている二十畳の【滝の間】。その廊下側の庭に面した雨戸が開け放たれ、眩い月明かりが爛々と差し込んでいた。

 縁側からは、薄暗く照らされた庭が朧に輪郭を主張している。

「誰が開けるの、こんな所。寒いのに……」

 幸代は布団から出ると、開いた戸に手を掛けた。

 そして、眠気が一挙に吹き飛んだ。

「うそ、どうして?」

 煌々と浮かび上がった庭先で、夢佳が一人、スキップしている。

「ユメちゃん何してるの!?」

 庭に居る夢佳は母が呼んでいる事に気付くと、満面の笑みで手を振ってみせた。

 雲が流れ、月が身を窶し、輪郭は完全に影となった。

「勝手にお外出ちゃダメでしょ! 早く入ってきなさい!」

 当方は叱責しているつもりが、きゃっきゃと嬉しそうに笑う夢佳。いつもは少しでも叱りつけると悲しげな様相を呈した筈が、この時は事の異常さが勝って異変に気付けなかった。

「えー!? いいの!?」

 嬌声が月と共に満ち欠ける。語尾がチャンネルの狂ったラジオのようにくぐもった。

「風邪引くから早くおいでなさい!!」

「やったやったー!! キャハハ、キャハ!!」

 どこがそんなに可笑しいのか。

 なぜそこまで喜ぶのか。

 スキップで玄関の方へと消えていく夢佳。


「お母しゃん、どうしたの?」


 傍らに夢佳がいた。眠そうに目を擦る愛娘。

 幸代は自分が寝惚けているのかと思った。

 だが、しっかりと愛娘はそこに、自分もここに立っている。冷ややかな初夏の夜風も、ささくれた床板の感触も、口の渇きも、しっかりと肌身に感じている。 

「あ、あれユメちゃん、今起きたの?」

「う~ん……お母しゃんがうるさいから目がさめちゃった……」

「あぁ、そうだったの。ゴメンなさいね」


(!!)


「そんな!!」


 ――この子はまだ、スキップの仕方を知らない――


               ガチャッ  ギギリ       カタカタカタン


 長い廊下の奥で玄関の引き戸が開く。戸が軋み、蝋の切れた木の繊維同士が擦れる硬い音。

 ――自分が呼んだあの子は、誰――

 ――どうしてあんなに嬉しそうだったの――

 今、入って来たのは?


「ユメちゃんちょっと来なさい」

 すぐさま夢佳を布団に詰め込み、隣で熟睡中の夫を起こしにかかった。

「あなた、ちょっと起きて」

「ん~。今日はコーヒーでいいよ……」

「まだ朝じゃないわよぉ、誰か家に入って来たのよ!」

「ん~……えええ!? おい、嘘だろお前」

 義久はまるで電気が通った様に機敏に上半身を起こした。

「シッ……」

「ちょっと待て……何で気付いた? 音か?」 

 声を潜めて息声での会話になる。

「そう、玄関の引き戸の鍵を開けられて、カタカタカタって」

「それ、かなりまずいぞ」

 義久は押入れの中から心張(しんば)り(雨戸等の引き戸に斜めにつっかえ、引き戸としての機能を殺す道具)を掴み出し、足音を忍ばせて廊下に出た。

「ユメ、絶対に部屋から出るなよ」

「うん……」

 不安気な夢佳を寝室に残して障子を閉め、妻と共に玄関へ向かう。

 この時、今更ながらこの家の廊下は本当に長いと思った。どれだけ足元に気を遣っても、老朽化した桧材のフローリングは撓みの音を上げる。

 心臓が早鐘を打つ。

 名前も知らない虫の声が、突然けたたましく鳴り始める。床下で鳴いているらしく、地下から不気味に突き上げてくる。もうすぐ玄関だ。土間の方をそっと覗く。

「誰も居ないぞ」

 口の動きだけで伝え、裸足のまま土間に降りて戸に手を掛けて引いてみる。

 開かない。捻じ込み式の鍵がしっかりと掛かっているからだ。

「……お~いおい、ちゃんと閉まってるじゃないか」

 義久は呆れ反って、首を鳴らした。

「え、そうなの?」

 義久が再び戸をガタンガタンと(こじ)て見せる。

「ほら、ご覧の通り。ただの気のせいだったんじゃない? 変な時間に目を覚ますとロクな事が無いってよく言うよ。早く寝なきゃ。俺、朝早いのに」

 大欠伸をかます夫を見ていると、自分が見聞きしたものを信じられなくなってきた。

「お母しゃん」「ひっ」

 突然、夢佳が腰に纏わり付いた。

「もう、ユメは出ちゃダメだって言ったのも聞いてないし」

 義久は不満たっぷりに寝室に引っ込んでいった。

「……どうしたの、ユメちゃん?」

「オシッコ」

 緊張とも恐怖とも取れぬ感情に呪縛されていた胸から、安堵の吐息が漏れる。

「はいはい。さ、行って」

 顔を上げた幸代の視線の先で、便所の戸がゆっくりと開いた。


          ***


 杉野氏は血管の浮いた腕を幾度も組み替え、首も幾度となく右へ、左へ倒した。

「そこはだなぁ、何処ぞの会社に勤めとるっちゅう情報もからっきし無かったもんでぇ、僕の方も完全にお手上げだわぁ」

「そうですか」

 致し方ない。美鈴は臍を咬んだ。

 午後から講義が入っているので、そろそろ引き上げの頃合いだ。

「すみません、今日は朝からお邪魔しました。そろそろ失礼します」

「おうおう、構わんよ。……ところでレイコさんよ」

「美鈴ですが」

「あんた、くれっぐれも、気ィ付けぇよぉ?」

「……はぁ、何にでしょうか?」

「何に? って、あんたなぁ。見とって分からんかぇ。僕ぁ嫌な予感がしてならんにゃ。くれぐれも慎重にすることやわ。ここで真剣勝負! ズル賢さをしかと身に付けとけな。賢くないと、生きられん」

 そう言って、豪快に笑った。美鈴は杉野氏が何を言っているのか理解出来なかったが、顔を赤らめて笑う姿に気圧された。

「ははは……分かりました、頑張ります」


 ――家までの道中、記憶の骨組みに肉付けすべく、手作りの取材メモを見返した。



 *よく峠を登ってきたトラックというのが、杉野氏の記憶の限りでは、ボンネットタイプというのが二台、キャブオーバータイプというのが一台。彼の描いた絵もしっかり手に入れた。そして、そのどれもがかなり傷んでいた「気がする」。


 携帯電話で二つのトラックのタイプを調べてみた。

 ボンネットタイプというのは、エンジンが車体の前に積まれており、普通乗用車のようにエンジンフード(ボンネット)がついているタイプ、キャブオーバータイプというのは、エンジンが運転(キャ)(ビン)の真下にあり、バスのようにのっぺりとした顔を持つタイプという事が分かった。また、製造しているメーカーも掲載されており、ボンネットタイプは現在日本に流通しているものは【スペクタートラックス】というスイス企業の一社のみしか製造していないらしい。

 また、新たな耳寄り情報も掴んでいる。

「よぅここの峠ではっ(・・)ちゃけた(・・・・)運転をする人を見たわなぁ。車輪をこう、キーキー鳴かせたりなんかして。無茶な事するから、しょっちゅう事故も起こったわ。僕はここへ越して来て五、六年やけども、たまらんかった」

「ここの峠で、車遊び?」

 美鈴の声は上擦った。こんな僻地の山間部にまでわざわざ繰り出してくるとは、よほどの暇人か狂信的な走り屋の二択しかないだろう。

「うん。もううるさぁて堪らん。警察にも言ったけんど、何だかね、この周辺はあんまり警察が立ち寄れんくなったとかで、対応を渋りよって。せめてコレぐらいはって言ってカメラを取り付けてくれたけんども、それさえ支柱ごと無理くり壊されてしもぅてな。ホントに、信じられんけど、ほんとの話よ」

 杉野氏はまた顔一杯に皺を寄せた。

「よほどタチの悪い人達なんですね」

 番茶を口先で啜り、

「んまにさぁ(本当にね)。そりゃぁ腹が立ったけんど、ある時を境にピタッと無くなりよったでな」

 と表情を塗り替えた。

「無くなったというのは、車の音がですか?」

「いんや、車の姿自体がピタッと消えてしもうた。そんでその直後に、あのバリケードがあそこに置かれた。きっかり同じ頃にな」

「あれ? あの柵はもっと前からあったんじゃないんですか?」

 杉野氏は胡坐をかいた両の膝に手を突き、唸った。

「あったと言やぁ、あったわなぁ」

 いまいち平仄が合わなくなってきた。

「どういう事ですか? 柵という物それ自体は、昔からあったんですよね?」

 杉野氏はずっと被っていた釣り具メーカーのキャップを外して、ひっくり返したり回したりしながら語った。

「うん。まぁもっと言やぁ、もう少し奥にあったんだわ、それまではな。そこの道をずーっと登って行くと分かるわ、隣の町に続くスカイラインが、当時の通りそのまんま残っとる。そこへ行くのか、向かって右手にあるトンネルを通って、先の廃村へ行く分岐点がある。あの柵は長らくトンネルの出入り口すぐ前に置かれとって、スカイラインへは誰でも行けたんだわ。しかしぃ、事故が一番多くなった頃を境に、交通量がパタリと途切れた。そんで柵が誰とも知らず前へ出て来とって、峠は僕らの唯一の生活道路として以外さっぱり使われんくなった。だから、微妙なんだな、解釈が」

 そうして、からからと笑った。

「杉野さんは、そのスカイラインへは行かれた事がありますか?」

「あぁ、一度だけな。スカイラインとは言っても狭いし、粗末なモンだがなぁ。まぁこんな場所だし、仕方ない」

 窓の外へ顎をしゃくりながら、口を尖らせた。

「そうそう、その頃に(やっこ)さん(八木山)の仕事仲間も、あの人の姿もすっかり綺麗に消えてしもたな。物事が変わる瞬間ってのは本当にぃ、いっぺんに動くものだぁ。天変地異と言うのかな。そういうおっかねぇ事や信じられん事っていうのは、人の世じゃあ案外、日常茶飯事だわぁ」

 杉野氏はいっそう低い声で、まるで脅しをかけるようだ。

 あまりの不気味さに、美鈴は思わず喉を鳴らした。

「き、きっと何か関係があるのでしょうね。ちなみに仲間の人達の職場とかは、ご存じないですよね……?」


 バスが停まったので一度、回想を終える。

 美鈴はバスを降り、歩きながら考えた。スカイラインが封鎖されて彼らが失踪したという事は、彼らにとってその道路は生命線だったに違いない。それを失ったから、ここを去らざるを得なくなった。最寄りの住人が一人減ったから、行政はスカイラインを閉めたのか?

 原因が結果になったのか。結果が原因になったのか。

 確かに、考えられなくはない。しかし、よくよく突き詰めてみると、峠の先へは行けなくなってしまったが、下の町へ行く分には何も問題が無い。スカイラインを通れば隣町への近道になるとはいえ、それだけで彼がここを去る必要はあったのか?

 陽平が見た男の霊は、実は八木山なにがしとは全く無縁で、この峠で事故死した者の浮かばれない魂なのではないか。はたまた、あの家が呼びこんでしまった()か(・)ではないか。

「よし、決めた」

 全ては尤巫女にかかっている。


 日曜日。

 優と美鈴は私鉄電車を乗継ぎ、大学から一時間離れた亜釘(あくぎ)(うら)という町へやってきた。

 都心から少しハケた土地で商店などは廃れているが、人の往来は意外に多く、通りを行き交う車の中には高級外車も多く見られた。

「一応、別荘地とかっていうのは聞いたことがある」

「どうりで暇そうな爺婆が多い訳」

 和菓子屋に列を成す人々を見い見い、吐き捨てた。

「失礼な言い方――あ、ココじゃない?」

 美鈴は一軒の家の前で立ち止まった。神社のように重厚な杉の門に守られており、風化して苔の生えた御影石の表札には【二ツ橋】の姓が刻まれている。

「あぁ、そうみたいだ」

 二人は互いに目配せし、美鈴がインターホンを押した。

《――はい、どちら様でしょうか》

 低い老婆の声が出た。

「あの、尤巫女さんに呼ばれて来ました、大学の同級生の者です」

 一拍空いた。

《――お待ち下さい》

 三十秒ほどして、巨大な門が開かれた。出迎えたのは尤巫女と同じ服装の上に、純白の足先まであるコートのようなものを羽織った長身の老婆だった。二人を見るなり、上から下までじろりと見て一言、

「まぁ、(つが)いで。珍しい」

 と、微妙に険しい口調で呟いた。

 番いでなんて、言うだろうか? 何か心地良い感じはせず、二人が逡巡していると「さぁ、どうぞお入りになって下さいまし」と右手を掬うように動かした。

「すみません、お邪魔します」「邪魔します」

 一歩踏み入ると、圧倒された。

 そこは豪邸ではなく、格式高い風采の寺社仏閣だった。広い境内に構えた二匹の狛犬、朱色の壁に広い瓦屋根を載せた立派な本殿。燃え盛る松明が並ぶ石畳の先に、同じ格好をした若い女性や正装した使用人らが四十人ほど居並び、旅館の出迎えのように一斉にお辞儀を捧げている。

 その様は、かの有名な伊勢神宮・式年遷宮を彷彿とさせる。

「こんな所が二ツ橋の家かっ……」

 優が小声で叫んだ。

「左様に御座います」

 老婆は気付かない内に二人の背後に立っていた。

「尤巫女様はこの二ツ橋竜神(りゅうしん)()の次期大巫女として丁重にお世話させて頂いております故、何卒、ご無礼の無いよう重々留意の程をお願い致します」

「は、はい」

 次期大巫女、という言葉の詳しい事は分からないが、耳触りが重い事は確かだ。

「あの子、とんでもない家柄の子らしいな」

 優が顰め面で耳打ちする。

「うん……あの。尤巫女さんは今、どちらにいらっしゃいますか」

 美鈴が尋ねると、並んでいた内の最も若そうな巫女が前に出た。

「ついてきてもらえますか」


 二人は本殿の隣に佇む建物に通された。

 和造りの外観にすっかり騙された。中へ入ると、そこはうって変わって派手な洋館の装いだった。天井には薔薇の花を思わせるステンドグラスが鮮やかに填められ、何列にも並んだ長椅子に燭台、その正面の祭壇には大きな蝋燭の火が煌々と揺らいでいた。良質なお香も焚かれているのか、白檀のほんのり甘い香りが充満している。

「……すごい……」

 息を呑む。さらに目を散歩させると、両側の壁に【灯天滝侍】と達筆なのか稚拙なのか分からない筆跡で書かれた巨大タペストリーが鎮座している。その大きさたるや、畳四間分は裕にありそうだ。

「それは当寺社が祀っている存在の名称です。四年に一度、時の大巫女が新年度に筆入れをして書き初めたものをああしてお祀りしています」

 鯉のように口を開けて見上げていると、傍らに立った巫女が簡単な説明を添えた。

「何て読めばいいんですか?」

灯天(どんてん)(ろう)()と、お読み下さい」

「どんてんろうし……」

 不思議な響きだ。美鈴は何度もその名を呟きながら、更に質問を重ねた。

「どんてんろうし……祀られているってことは、神様ですか?」

「いいえ、厳密には神ではありませんが、それと似たようなものです」

 優も口を挟む。

「その神に近い存在とやらは、どこに居るんですか」

「灯天滝侍の所在地は定まっておりません。彼らは我々人間と同じ姿形で、同じように生活をしていますから。一般人からすれば、全く区別がつきません」

 二人は顔を見合わせ、揃って首を傾げた。どこでどんな姿をして居るかもわからないものを祀って、果たして意味はあるのだろうか。

 美鈴の脳裏に、咄嗟に父の面影が過ぎる。一般人と同じ容姿で生活をしているという事は、あんなふざけた灯天滝侍もいるのか。

「簡単に言うと、狸が化けてるようなもんですか」

「いいえ、そうではありません。持って生まれた素質のようなもの、それが灯天滝侍の本質です。つまりれっきとした人間で、そうした低俗な妖怪変化の類には入りません」

 巫女は少し怒った様になった。

「素質……才能ってやつか。だったら、ヒトラーやレーニンなんかもそれに分類できるという事か」

 美鈴は途方も無く高い壁を今一度、見上げてみた。

 天井との境目辺りに同じマークが沢山並んで描かれており、それが一際目を引くデザインだった。よくある人手型の五芒星の中央に見開かれた目があり、上の足と下の二本の足から中心に向かって伸びる太い線があり、その星のバックに大きな円が描かれている。

 いつかテレビの特番で見た秀才の集う秘密結社【フリーメイソン】のシンボルマークを想起した。

「気味が悪いマーっくう!?」

 突如、こめかみに激しい痛みが走った。どこかで見た覚えがある……電流の様にこめかみからもう一方のこめかみへ、額から後頭部へ凶暴な電気が走る。

「~ですから、灯天滝侍に人を誑かすつもりはありません。ですが、自らが灯天滝侍だと気づき、それを隠しているケースも中にはあります」

 優はまだ若巫女を質問責めにしていた。

「という事はつまり、灯天滝侍の大半が、自分がそうだと気付かず生きていくと」

「はい。まさしく」

「なるほど。おい美鈴、聞いたか? 美鈴? あれ、みれ……」

 優が長椅子の間を縫って進むと、美鈴は正面の天使像の前に佇んでいた。

「おい、美鈴」

 優が駆け寄ろうとすると、後ろ手を掴まれた。

 若巫女の、その小さい手に何とも言えぬ、強い力が込められる。

「なんすか」

「待って下さい」

 険しい表情だ。

「おい、ちょっと。大丈夫なのか、俺の彼女は」

「暫しお静かに願います」

 若巫女はうって変わって鋭い目で美鈴を見据えた。そして徐に彼女に近寄っていく。俯いていた美鈴がゆっくり顔を上げると、天使の顔を撫で擦りながら、何か呟き始めた。

「何だ、何やってんだよ」

 少し離れた所でその様子を観察しながら、優は一人で訝しげな声を洩らした。

「……やっぱり」

 そんな優をよそに、若巫女は大粒の鈴が幾つも付いた棒を取り寄せると、小刻みに揺らしながら美鈴に近付けた。

 すると、覿面に彼女の体が前後左右に緩慢に揺れ動き始めた。

 そして突如、若巫女が豹変する。

「主、純潔なる者の御魂(みたま)を穢したる事、如何な不態(ふたい)と心得る。罪無き若人(わこうど)(いき)()に邪を差したる事、この麗々(うるめ)が許すまじ!!」

 鬼気迫る声色でそう唱え、幽霊の様に左右に揺れる美鈴の頭上で鈴を振った。

 涼しげだった鈴の音が次第に重くなり、ガタガタという物々しい音に変わる。

「おい何だありゃ!?」

 目の前の奇怪な現象に、優は思わず後退りした。彼女の背中から彼女と同じ形をした白い半透明の影が膨らむように浮き上がり、ベランと剥がれ落ちたのだ。まるで、貼り付いていた何かがふやけて落ちたような光景。同時に、美鈴もその場に崩れ落ちる。

「美鈴! おまえ大丈夫かッ!」

 慌てて駆け寄り、力無く横たわった彼女を抱き起した。

「おい、大丈夫かよ。なあ」

 彼女の肌と髪は汗でしっとりと濡れている。

「一部は剥がし取る事に成功しました。ですが、まだこの人には残っています。若輩者の私の力では、これ以上は対処しかねます。ご酌量の程を」

 背後で、若巫女の落ち着き払った声がする。

 優は鬼の形相で振り返った。

「おかしいだろ! おいあんた。今のいったい何だ? 何か……色々と変だったぞ」

「始めて目にされた方は皆さん同じように取り乱しておられます」

 若巫女は至極落ち着き払った様子で問答した。さきほどの剣幕が嘘のようだ。

「そりゃ、あんなモノ見せられたら狼狽もするだろう……」

 優が混乱から醒めない内に、社の扉が大きく観音に開かれた。

 扉の軋む音に交って女性の研ぎ澄まされた声が響き、幾重にも残響を呼んだ。

 それはまるで、女神の御託宣のようだった。

「心配要らないわよ。その子に付いたシールの一つが、この社殿を包む聖幕(ベール)に反応しただけ。その子には何の危害も加えてない」

 髪留めを解いた尤巫女が立っていた。西から差し込んだ後光が黒く柔らかな髪を神秘的に照らし出し、白いシャツとの幻想的なコントラストを描き出す。

「二ツ橋、あんたほんとに何者だ」

 刮目する優に一瞥を呉れ、ただ妖艶に微笑んで見せた。端正な顔立ちのせいか少し不気味に映り、半月型に笑った目は刃物を連想させた。

 彼女はそのまま若巫女に向かうと、淫靡に微笑んだ。

「ご苦労様。よく見破ってくれたわね」

 労われ、若巫女は深く頭を垂れる。

「いえ、このお二方が来る以前より、並みならぬ霊気を察知しておりました故、一層の注意を払っただけのことであります」

 ぞっとした。霊気を察知する? そんな胡散臭い言葉、まさかテレビや映画ではなく生身の人間から聞く事になるなんて。

「貴女も大分、位が上がってきたようね。感心、感心」

「光栄です」

 ゆっくりと歩み寄り、そのまま祭壇に上る。白檀の香りに、尤巫女の湯上がりのような淡い香りが絡み、鼻腔内に無数の花を咲かせる。

「貴女はもう行って大丈夫よ。ここからは、私とこの人達だけで楽しむから」

「如意」

 若巫女が社殿から出ると同時に、蝋燭の火が少しばかり大きくなった。

「ふっふふふ。どう。驚いたでしょ」

 腕を組み、誇らしげに祭壇から二人を見下ろす。

「あんた、霊能者か」

 優は美鈴を庇うように抱きすくめ、目を眇めた。

「ベタな質問どうも。私はただこの家に生まれて、単にこの家のルールに従って生きているだけの普通の女の子、とだけ言っとく」

 細長い炎の向こうでサラサラと黒髪を揺らす姿は神秘的で、どこか禍々しい。

「下手に隠すなよ! ウルメって何だ? オオミコって? お前に何か関係してんだろ? 楓がおかしくなったのも、美鈴がこうなったのも全部、知ってるんだろ!」

 優は太い声で怒鳴った。それが幾重にも反射して、自分にそのまま降り注いでくる。

 その時、腕の中で美鈴が目を覚ました。

「優……落ち着いて」

 細く呟く声に、平常心が蘇る。

「美鈴、大丈夫だったか。どこか、おかしいところは?」

「平気」

 尤巫女は落ち着き払った相好を崩す事なく、組んだ腕を解す事もなく、ゆっくりと祭壇を降りた。かつてのエリザベス女王のようにゆっくり、もったいぶった歩調で。

「まぁ彼女さんもお目覚めの事だし、丁度いいから教えてあげるわ。特別よ」

 優は返事をせず、美鈴を長椅子にそっと座らせてやった。

「この家に仕える神官達の事を昔から麗々女と呼ぶの。この二ツ橋家は一応鎌倉時代から続くいわゆる陰陽師の家系でね。見ての通り、周囲の寺からは完全に浮いてしまっているから、独自に進化を遂げてきた。元は普通のそれと同じように祈祷や祓いなんかを主な凌ぎとしてやっていたけれど、時の馬鹿宮司がいつの頃からか、そこに掛けてある灯天滝侍とやらに傾倒し始めたらしくて。一族もノホホンとしていて、自分らの伝統を守り通す事に失敗したとかで孤高の存在になってしまった、という訳。どう? これでイントロダクション終了、質問は?」

 尤巫女は定例放送のように滔々と語りながら、優の隣に柔らかく腰を下ろした。

 シャンプーの香りがする美鈴と違い、尤巫女は上質な香水の香りに包まれている。

「じゃああんたは、寺の娘だから単純に巫女の統領って事か」

「そうよ。二ツ橋家に女が生まれた場合、長女が麗々女達の頭として自動的に大巫女って位に就くから、それが習わし。うちは女が強い家系でね、結婚しても男が新姓を名乗る事になってる」

 尤巫女は足をブラブラと揺らして、口笛でも吹くように語った。

「あの婆さんが言ってたやつだな。くだらねえ。長女に生まれたってだけで、強制的に家業の跡継ぎにさせられるなんて、時代錯誤だな。クソくらえだ」

「随分ご立腹じゃないの。自分の事でもないのに。どうしたの?」

 尤巫女は優にそっと問い掛ける。

「ウチと同じだよ。親が建設会社やってて、跡継ぎは長男の俺に決めてる。俺が何度も消防士になりたいって言っても、代々から続く会社を潰すわけにはいかないってんで、俺をこの大学に入れやがった。バイトまで子会社の林業を押し付けやがって。飼い殺しにされてるんだよ、俺も。あんたもな」

「そうだったのね。それはそれは、私と貴方は仲良くなれそう」

「どっちでもいい。……それはそうと、あんたはここで一番偉いってことだよな」

「そうよ」

「ねぇ、次女や三女がいたら、どうなるの?」

 ようやく落ち着きを取り戻した美鈴は、自分と重ねた質問をした。もし自分がここの娘だとしたら、夢佳はいったいどうなるのか。

「姉妹がいる場合は、普通の麗々女として大巫女の下に就く。例えばさっきの子。あれ、実は私の妹」

「「え?」」

 二人は同時に声を上げた。完全に師弟関係にある仲だと思い込んでいた。

「そうだったんだ」

「全然似てないでしょ? あの子の方が可愛いもんね。あなた達も、羨ましい限りだわ」

「お前も十分に美形だと思うぞ。彼氏なんて、そこらで探せばいいじゃねえか」

「無理よ」

 尤巫女は煌々と燃え盛る松明を見据え、切り捨てた。

「なぜ?」

「大巫女は成人して十年経つまでは、男と付き合う事を禁じられてるから」

 馬鹿にしたような口調でそう言った。

「そんな決まりもあるのかよ。問答無用で厳しいな、こういう世界は」

「くっだらない戒律でしょ。ところで、私がそれを守るとでも思った?」

 優は間抜けな顔になる。

「もしあなた達が、私が由緒正しき家の風習を遵守して家柄に誇りを持っていると信じているのなら……残念」

「という事は」

「決まってるでしょ。付き合ったわよ」

 得意そうに首を擡げた。

「あ、悪い子だ。いけないのに」

 美鈴は柔らかくツッコむ。

「バレなければイイのよ、そんなの。それにルールだの規則だのを何でも守っていたら、それこそおかしくなっちゃうわ。盲導犬じゃあるまいし……誰でも同じでしょ。好きでもない巫女をやってあげているんだもの、それくらいはね」

 なるほど。普通の女の子の言い分として、何ら問題は無いと優は思った。

 そして、随分と彼女の印象がマイルドになった。

「それもそうだよね~」

 美鈴も、素直に同調する。

「なぁ二ツ橋、どうしても聞いておきたい。さっきの美鈴のアレ(・・)、もっと詳しく教えてくれ。シールが反応したっていったい何のことだ」

 美鈴は自分に何があったのか記憶していないらしく、尤巫女と優を交互に見た。

「私、どうなってた?」

「何でもないわよ」

 尤巫女は申し訳無さそうに美鈴の隣に座った。

「この社を守っている私の式神がね、貴女に貼られたシールを嫌がっただけ。それで、ああして拒絶反応が表れた。簡単な事よ。小さい子供が愚図って、何か物を投げたりするのと同じこと。でもそのシール、相当頑固に貼り付いているみたい。正直、予想外だった」

 終始穏やかだったが、最後だけ真顔で言った。

「それって、まずい事なの? 予想外ってどういうこと?」

「大丈夫……とは言い切れない。何せ、この前言ったように前例が無い新手のタイプだから。表面上は今まで経験してきたその辺のザコと大差なかった。だけど、その根っこにある念があまりにも深い。見た事もないくらい。だから、正直言って手ごわい」

 彼女は滔々と述べた。半ば自分に言い聞かせる様に。

 念が深い……それは恨みの念なのか。怒りの念なのか。それとも……

「私、何か悪い事したかなぁ」

 不安そうに俯く美鈴の手をそっと握った。そして、すぐに離す。

「やっぱり熱い。シールを貼られた人間の手は、私達が握るととても熱く感じる」

 尤巫女の瞳の中に、蝋燭の炎が揺らいでいる。

「そんな、怖い事言わないでよ」

 美鈴は眉間に皺を寄せた。優も苦虫を噛み潰した顔貌を浮かべて佇んでいる。

「一つ言っておきたいのは、あなたは何も悪くないって事、それは確かよ。私が出来る事は全てしてあげるから、変に気に病まない事。いい?」

「うん。ありがとう」

 美鈴は何とか頷き、優を見た。

 不安げな双眸が、西日を受けて緩慢に光っていた。

 

「あなた達を出迎えたのは私の祖母で、大巫女を補佐する()見女(んめ)という位に就いている。分かり易く言うと、僧侶で言うところの阿闍(あじゃ)()に匹敵する。大巫女を三十年以上続けて、その間に一切戒律に背かなかった人だけがなれる役職。そのくせ、大巫女より位は低くて執事みたいな扱いなの。不公平でしょ」

 尤巫女と美鈴は夕暮れの並木道を並んで歩いた。美鈴は今風のスレンダーな美人だが、尤巫女はまた一味違い、純和風美人という形容が相応しかった。道行く人々が二人の美人を振り返っていく。三歩ほど後から優も続く。

 黄昏の中、一枚の絵画に迷い込んだような光景だ。

「あの人、すごい人だったのね。怖かったけど、風格というか、貫禄があった」

 尤巫女はふわりと首を巡らせ髪を指で梳いた。

「そうねぇ……それなり。まー私はそんな堅苦しいのは、まっぴらゴメンだけど」

「ははは」

 三人は、近所の森林公園に場所を移した。こちらの方が空気が綺麗で、なんとなく話しやすいと思ったからだ。

「あなたの家にシールを貼る犯人が居る事は、もう何も言われなくても分かる。ただ、所々で見掛けるっていうその男の霊がよく分からない。だから今度あなたの家に下見に行かせてほしいの。個人的にもちょっと、引っ掛かる事があるし」

 美鈴は顔を綻ばせた。

「本当に来てくれるの? ありがとう! なんだか頼もしい」

「私としても気になるのよ。一度に全てを掴むのは無謀だけど、少しずつ頑張っていきましょうね、お互いに」

「うん」

 二人は堅く、そして控えめな握手をした。

 トイレに行くという優を見送り、階段を登って展望台に出た。

「みれい、だっけ」

 尤巫女がこちらを振り返る。

「そうよ。みすずってよく間違えられるけど、みれいなの」

「なるほどね。だけど、まだマシな方よ。私なんか、読み方の見当もつかないって人ばかりだから。この前なんか、中国人扱いされたし」

「誰から?」

「警察官。適当に職務質問していたらしくて、わざわざ免許証まで見せてやったのに、今度は不法入国の疑いは無いかとか、そんな会話まで聞こえてきちゃって。正直、うんざりだった。免許証を見れば分かるでしょうに」

「ははは、難しい名前だもんね。それに真っ黒で長髪だから、中国美人に見られても仕方ないかも」

「ふふ、なかなか盛り上げ上手ね、あなた。さすがあんな偉丈夫に守られてるだけある」

 尤巫女は目を細めた。

「優のこと? 変わってるでしょ、あいつ。出会った時からあんな堅苦しい感じなの」

 美鈴は欠伸交じりに呟いた。

「馴れ初めは?」

 尤巫女は少し意地悪な笑みを浮かべて訊く。美鈴は柵に凭れ掛かり、景色の中に答えを探すようにした。

「え~っとね、一回生の最後、キャンパスのみんなでバーベキュー会やったでしょ」

「ラグビー部員が小火を出したアレね」

「そうそう。その時にたまたま隣のテントに居たのがあいつで、私がフランクフルトを焼いてた時に、お互いのお尻がぶつかったの。狭かったからね」

「お尻から始まった恋、ね」

「そういうこと。それで、ぶつかった拍子にイカを焼いてたあいつがバランス崩してコンロに腕が当たって、火傷したのよ」

 美鈴は面白そうに語っているが、尤巫女は内心でハラハラした。

「えー!」

「私もパニックになっちゃってさ。こんなガタイのいい人に火傷させちゃって、すごくショックだった。だから翌日に共通の友達だった男子に案内してもらって、あいつのやってる護身術研究会の部室にお菓子を持って謝りに行ったの」

「へえ、律儀」

「最低限の事だからね……それで共通の友達が別部員に呼ばれて部屋を出たから私をあいつと二人っきりになっちゃったの。気まずいけど、あいつ、見た目はあんなんだけど意外と小心者というか人見知りで知らない女の子の前ではすっごい無口になるの。私と付き合ってからは、こんなに図々しいくせに」

 幸せそうに語る美鈴の横顔は、尤巫女にとって夕日よりも眩しく見えた。

「まったく想像つかない」

「でしょ? だからね、私が一生懸命に会話をリードしてあげたのよ。まあ元はと言えば私のせいでこうなったんだから当然だけどね。それでどういう風にそうなったのか、お互いが『やいやい軒』のギョーザが好きって話になって、じゃあ今度食べに行こうよって冗談のつもりで言ったら食い付いてきた。あの時は口を滑らしたーって後悔したな」

「それが、運命の一言だったのね」

「そう! こっちは慰め込めた社交辞令だったのに、いつにしますか? どの交通機関で行きますか? とかその日の晩からすっごい絡んでくるの。参ったなー、一回だけ食事してそっけない態度を見せて、それで自然消滅を狙おうって思ってたの。その時は……当時は、本当に興味が無かったから」

 なぜか、そこを強調した。

「へえ」

「ほ、本当だよ。だけど、いざデートになった時ね、なんて言うんだろ」

 美鈴はつと俯いた。

 尤巫女は何かを溜めこんでいるような彼女の姿に、言葉を出せずにいた。

「やっぱりよかった、付き合っちゃえって感じ? 勢い?」

「ううん……まぁそう……だけど何だろ。ゴメン、上手く言葉に出来ない」

 そう言って、前髪を掻き分けた。そこには少し紅潮した頬を惜しげもなく晒す、美しい笑みがあった。目に入った途端に見る者を羨望で圧倒する、幸せな女性特有の笑顔。

「まあ、恋の始まりって分かんないもんよね」

「そう。何であんなのに惹かれたのか自分が一番不思議。ガサツで堅苦しくて乱暴で……改めてキャラ濃いわあ、ほんと」

 思い切り、笑った。

「周りに流されない男って、私はいいと思うな」

 尤巫女は囀るように言った。

「そんじゃ、貸してあげようか? 一週間限定で」

 思わず笑いが込み上げる。

「遠慮しとくわ。貴女の方に戻って行かなくなるといけないでしょ」

「わーお、すごい自信」

 二人、笑い合った。

「新居に引っ越したばかりよね。どう、この町は。綺麗でしょ」

 ひとしきり笑ってから、尤巫女は柵に凭れ掛かって黒猫のように艶のある髪を撫でた。

「うん。すごく良い街。なにより空気が違う」

「私はこの町に生まれて心底良かったと思う。まあ正直なところ陰陽師の家には生まれたくなかったけど、でも自分の事なんかよりこの町の方が大事だから、気にしない」

 尤巫女は見た目とは裏腹に清々しい物言いをするので、自然に人を引き込む力がある。

「……尤巫女さんは、人を助ける素質がありそう」

 美鈴は彼女の隣で同じように柵に肘を載せた。

 ふふふ、と寂し気に笑う。

「尤巫女でいいわ。さん付けで呼ばれるのは慣れっこだけど、そう言われたのは初めて」

 虚ろ気に細めた目で美鈴を振り返った。

「ははは、そうなんだ。結構そんなオーラ感じるけど」

「それはどうも。でも人を助ける素質っていうのはちょっと違うかな。私はどちらかというと人に助けてもらう素質の方があるかもしれない。なんとなくね」

 さらっと言っている横顔に、少し陰があった。

「どういう事?」

「要は面倒臭くて厄介な女って事。分かる?」

「え……っとぉ、ノーコメント」

 万年お人よし病の美鈴には、苦笑いで返すしかレパートリーがなかった。尤巫女はこれまでに出逢った誰よりも、向き合った相手の〝本当の自分〟を引き出す力がある。

 美鈴にはそう感じられた。

「ふふふふ。貴女って本当に可愛いんだから。嫉妬しちゃいそう」

「そんな、そうかな」

「優君だっけ。良い相手を見つけたね」

「うん、ありがとう」

「どう?」

「ん?」

「悩み事とか無いでしょう?」

 途端に美鈴は目を見開いた。


 手を洗いながら、優は鏡に映った自分の顔を見て首を傾げた。


 ――シールを貼られた人間に触れると熱い――


 あの言葉が本当なら、なぜさきほど、彼女は美鈴と握手なんてしたのか。

 そのことが気になって仕方がないのだ。もちろん、面と向かって問い詰める事も考えたが、帰って来る反応はおおよそ予測できるので、そんな答え合せなんてしなくてもいい。

 便所から出てすぐの道路側にコンビニがある。何とも無しに自動ドアを潜った。


「そんな事ないよ。私ってどちらかと言えばネガティブで根暗だよ。今こうして変な現象で困ってる事も、ず~っとクヨクヨ考えてる。起きてる間、ずーっと。弟は同じ経験をしてようやく理解してくれたんだけど、お父さんは能天気で、お母さんは石頭で、分かってくれないし」

 尤巫女は鼻で溜息をついた。

「あらあら、親がふやけた家なのね」

 少し考えさせられる台詞だった。

「ふやけた……って言うのかな。まぁ確かに、ふやけてるかも」

「なら、ふやけてるのよ」

「……うん」

「でも、それも私にとっては羨ましい事だけれども」

「どうして?」

 意外だった。文面からして羨ましい要素なんてあったろうか。

「だって私には親が居ないもん」

 晴々と言った。美鈴はまた気まずさを感じた。

 気まずさというより、あまりにもあっけらかんと言われ過ぎて妙に頭が下がる。

「そうだったんだ」

「あのね、実際は存在しているの。でも……いない。親子の縁を切らされちゃったから。私が生まれた途端に二ツ橋家が取り上げて両親は突き放された」

「どうしてそんな乱暴な事を?」

 尤巫女は覿面に険しい顔つきになった。

「祖母が原因なの」

「え、あのすごい人?」

「そう。元々私の母親も二ツ橋家の大巫女に就いた人だったのだけど、二十一の時に男が出来て、私を身籠った。その男、つまり私の父親が実は二ツ橋家に代々務めていた家柄の嫡男だったの。だから割かし近しい人間だったんだけれど、これがまたとんでもない荒くれ者だったらしくて、祖母は大激怒。なんだか家系自体は優秀だったのに、私の父親だけは劣等遺伝子というか、少し違ったみたい。なんでも、妾の子と相当な不仲で、正室からも愛想を尽かされる程の鬼の子だって執事長が言ってた。祖母は男と、それから身を穢された私の母親までも家から追い出して、親権を迫った父親の上の人間を金で買収し、文字通り力尽くで追い払った。しかもそれはもともと寺の修繕のために先代が積み立てておいた金だから、あの人もあの人でとんでもない事しでかしたものなの」

「うわ、最悪じゃん」

 まるでドラマのような展開だ。

「そう。そんな事があったから、祖母は余計に厳しくなった。どう? 顔も知らない親の失態が子の私に降りかかって、いいとばっちりだと思わない? おかげで鬱陶しい圧力を受けながら日々生活してるわ。可笑しい話。もし私まで脱線したら、きっとあの人、私を殺して寺に火を点ける。うちの家系に水を差したっていう祖母の旦那、つまりあたしの祖父も、この寺から追い出された」

 美鈴は玄関で出迎えた老婆の姿をありありと思い出した。

 無きにしも非ず、と心の中で呟いた。

「考え過ぎだよ」と言ってやりたいが、あの見た目なら……とてもそうは言えない。

「尤巫女、そんな事情背負ってたのね。家は立派だし、役職みたいなのもあるから立派なお嬢様かとばかり思ってた。なんか、ごめん」

 些か不憫に思えてきた。

「ふふふ、気にしないで。こんな家庭もあるのかって、いい勉強になったでしょ」

「うん」

 その時、後ろから駆け足が迫って来た。

「待たせた」

 ようやく優が戻って来た。片手に何やら袋を提げている。

「ほら、俺の奢り。二ツ橋も今日の礼という事で」

 大きな手を突っ込み、ホカホカの肉まんとコーヒーを差し出した。


          ***


「ただいまー」

 三和土(たたき)で靴紐を解いていると、制服姿の陽平が顔を出した。

 彼にしては全く似合わない、どこか焦った顔をしている。

「姉ちゃん、ちょっと」

 小声で姉を【滝の間】へ引き込んだ。

「なに、いきなりどうしたの。熊でも居た?」

 能天気な姉に呆れ返った陽平は、嚆矢のように捲し立てた。

「もっとヤベェ事だって。今日、ついさっき聞いた話だけどな、この家で昔小さい女の子の失踪事件があったの、知ってた?」

 美鈴は顔面の筋肉が一気に色めき立つのを感じた。

「は!? 知るわけないでしょそんな事!」

 陽平は開いていた襖を乱暴に閉めると、畳の上に腰を下ろして膝を立てた。

 無意識に片方の膝を抱き込むようにする。

「そうか、まぁ当然だよな。とりあえず聞いてくれ。これ、とにかくヤバい話なんだ」





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ