オープニング
鬱蒼とした森の中に居る。
どこを見ても同じ景色。立ち並ぶ陰樹に気力を吸い取られていく。
「ここ、どこ……」
杉の芳香と重い狭霧が混濁する爛れた空気。
「誰かぁー!?」
振り絞った声で自分が泣いている事に気付き、涙は更に溢れ出てくる。
「助けてぇー!!」
複雑怪奇に折り重なり群生する赤樫が、その絶叫を打ち消した。
躓いた。上げた目線の先に林檎の花が優雅に咲き誇っている。花は白くて美しいが肝心の実はグロテスクな紫色に変色し、醜悪な黒い毛がビッシリと生え、重そうに垂れ下がっている。
「何これ? 気持ち悪い」
見る見るうちに毛が伸び、やがて目、鼻、口が裂けるようにして現れたかと思うと、いくつもぶら下がったそれは人間の――女の子の顔を形成した。
慌てて立ち上がり、逃げ出した。すると人面林檎らは「腐り、腐られ、腐らされ」と声高に叫びながら後を追って来る。真っ赤にぬめった口を開け、今にも咬み付きそうな勢いで宙を飛んでくる。
(怖い! 助けて!)
もうダメだ。その場にしゃがみ込んだ瞬間、彼女は細い塀の上に立っていた。
(助かった……?)
状況が掴めぬまま、何処か飛び移れそうな場所を探す。すぐ下に此方に鼻先を向けて駐車されたトヨタ・マークⅡの苔むしたボンネットがあるので、飛び降りた。
トン、という軽い音。
すぐに自分が猫である事を悟る――明晰夢を見るのは初めてではない。
こめかみがズキリ、疼く。
(まただ。また、これだ)
そもそも、どうして明日から棲み始める新居の夢なのか、考えるまでもなかった。初見から違和感を抱き、それを家族に再三訴えたのにも関わらず聞き入れてもらえなかったからだ。下見に同行した蛭子能収似の不動産屋の営業マンも、何かにつけて脈絡の無い説明を延々繰り返すばかりで、こちらの不安と疑問を看板に大嘘ついて全く解消してはくれなかった。
ところが家族は新たな住まいに恋焦がれていた。
「まぁ新しい住まい探しにはスマイルを心掛けてだな」と狂い言を宣う父を筆頭にこの古ぼけた陋屋を『味わい深い』『昔ながらで風情ある』と評価した。
冗談じゃない。自分としては『不気味過ぎる』『古臭くて黴臭くて時代遅れ』と率直な苦言を呈した。
(言っても始まらないか)
ここまで思考の糸を張り巡らせても、夢はまだ続いていた――こんな事は初めてだ――
猫になった美鈴は地面に降りると、群生する花菖蒲を掻き分け、曇天を背に佇む新・牧浦家を見上げた。
何も無い 何も知らない。
この家について 何も。
なのに 視える。
嬉しそうな笑顔を湛える幼女。
淑やかな微笑みでそれを見守る父親と思しき男性。
そして、大きなコケシ。
気配に振り向くと若い女性が立っている。
不自然さを感じる笑みを湛えたまま、その見知らぬ女性は言う。
「夢と現実の狭間で自分が生きているって思ったこと、ない?」
美鈴は目を覚ました。
黒色した空間の遊ぶ殺風景な寝室で、時計は午前二時四十分を差している。
こめかみがズキリ、疼く。
「……変な夢」
美鈴は再び目を閉じた。